1-6
涼子の家は、高層マンションの一室だった。
広々とした部屋で、かなり値が張りそうである。しかも、涼子はここに一人暮らしなのだという。
ただ、本人が言っていたほどさきほどのコンビニから近いかは、微妙なところだった。
あるいは、九郎ヶ岳駅の東隣の中京舞原駅の方が近いかもしれない。
「替えの下着、脱衣所に置いたから。前のは洗った方がいい?」
長いことかけてシャワーを浴び、さらに勧められるまま湯船にまで浸かっていた詩都香に、浴室の外から涼子が声をかけてきた。
「……ううん、いい。捨てるから」
少し迷ってから、詩都香は答えた。痴漢に触られた下着をもう一度身につける気には、どうしてもなれなかった。
体の強張りがほぐれると湯船の中でまた少し泣いてしまった。その気配を察したのだろう、涙が止まるまでそっとしておいてくれた涼子には感謝の言葉もない。
のぼせかけるほど湯に浸かってから浴室を出ると、脱衣所に封を切ったばかりの新品の下着が準備されていた。
そこでやっと、あのコンビニで涼子が買ったものはこれだと気づいた。
(お世話になりっぱなしだな)
ドライヤーを借りようとしたタイミングで、脱衣所のドアがノックされた。
「いい?」
「うん」
「ブラシ。私のじゃ気になるかと思って」
ドアを開けて顔をのぞかせた涼子が、これまた新品のヘアブラシを差し出した。
詩都香としては涼子のものでも気にならなかったのだが、向こうは気にするだろうと思い直して受け取る。
なにしろ、あんなものをかけられた髪である。
「……ごめんね、何から何まで」
「いいって。どうせコンビニの安物だから」
ドライヤーを借り、髪にブラシを入れていると、散々洗ったはずなのに先端の方にほんの僅かな違和感が残っていた。ここまで移動する間に糊のように乾いてしまった液体は、なかなか頑固で容易に落ちなかった。
切ろう、と詩都香は決意した。
ある意味ではちょうどいいタイミングだった。そろそろ毛先を整えるべき時期だったし、長さにしても、椅子に着席した際にしばしばお尻の下敷きになってしまい、ストレスを感じていたのだ。
「詩都香、制服はどうしよう?」
制服の夏用上着にもスカートにも少量の液体が付着していたが、さすがに下着のようにぽんぽん捨てるわけにもいかない。
「明日クリーニング屋さんが来るからさ、出しとこうか?」
「……うん。ごめん、お願い」
少し逡巡してから、結局ここでも涼子の厚意に甘えることにした。
引き取りの手間を考えると面倒にはなるが、馴染みの店に持ち込むのも事が事だけに気が進まなかったのだ。
「あと、電話来てたみたい」
涼子が薄めに開けたドアの隙間から伸ばした手には、詩都香の携帯電話が握られていた。
ドライヤーとブラシを洗面台に置いて受け取り、ロックを解除してみると、着信は琉斗からのものだった。
「弟だ」
詩都香は涼子に断ってから、通話ボタンをタップした。
『お姉ちゃん、どうしたんだよ』
もしもしという応答の文句もなく、第一声がそれだった。
「どうって……」
『こんな時間までどこで何やってんだよ』
詩都香はハッとして電話を耳から離し、ディスプレイの時刻表示に目を遣る。
——二十二時十八分。
一応、遅くなるとは断っていた。このところ文化祭の準備と伽那の家でのピアノの練習で、今日に限らず以前よりも帰りが遅くなることが多いが、しかしそれでも八時半には帰宅している。
「ご、ごめん。急いで帰ってご飯作るから」
詩都香と琉斗の姉弟は五年ほど前に母親を亡くしており、それ以来仕事の忙しい父に代わって詩都香が家事全般を担当しているのだ。
『いや、飯なんていいよ。もうラーメン作って食べたし』
「ちょっと伽那の家に長居しちゃって。ごめんね」
とっさに嘘を吐いてしまう。詩都香の流儀には反するが、痴漢に遭って初対面の人の家に厄介になっているなどとは、弟相手にとても言えない。
『なら連絡よこせっての。何かあったのかと心配するだろ』
琉斗は姉と違い、たまにこうした素直な言葉を口にする。傷ついた詩都香の心にその言葉はじんわりと染み込んだ。
「ごめん……ありがと。今から帰るけど、もう少しかかるから先に寝ててもいいよ」
『もう少しって……』
「心配しないで。ユキさんに車で送ってもらうから。——ん、じゃあ」
通話を切った詩都香は、ほっ、と肩を落とした。心配をかけたことに自責の念を覚えつつ、優しい弟に気持ちを落ち着かせてもらった。
(そうよ——)
詩都香は自分に言い聞かせた。
そうだ、高原詩都香。いつもの知的でクールで謎めいたキャラ設定はどこに行った。
その上、お前は魔術師じゃないか。
世界を牛耳る組織を相手に戦っている反逆者じゃないか。
痴漢が何だ。
あのクソッタレな魔術師どもに負けたときのことを想像してみろ。
下着の上から性器を撫で回されるなんてもんじゃない、もっと酷い目に遭わせられるかもしれないんだぞ。
そのくらい覚悟完了して戦いの場に身を投じてきたんじゃないのか。
それが——それがこれくらいのことで。
(——よし)
携帯電話を洗面台に置き、両手で自分の頬をばしっ、と打った。微妙に失敗してしまい、痛いだけであまりいい音は鳴らなかったが、ともかく気持ちは据わった。
ちょうどそこでドアがまたノックされ、「終わった?」と声がかかった。
「うん。それでさ、お世話になりっぱなしで本当に悪いんだけど、ハサミ借りていい? あと、あれば新聞紙とビニール袋か何か」
ドアが開かれ、涼子が顔を出した。
「いいけど、どうするの?」
「髪の先にまだこびりついてる気がして、少し切っちゃおうと思って」
涼子は驚いて目を見開いた。
「ええっ!? もったいないよ、そんなに綺麗な髪なのに!」
涼子のような美人にそんなことを言われるとくすぐったい。
詩都香は首を横に振った。
「ううん、いいの。別にこだわりがあって伸ばしてたわけじゃないし。それに、ほんの十センチかそこらだから。いつの間にかずいぶん伸びてたしちょうどいいかな、って。少し散らかしちゃうかもしれないけど、ごめんね。こんな嫌な感触とは一刻も早くおさらばしたくて」
涼子は一語一語噛みしめるようにしながら詩都香の言葉を聞いていたが、やがて頷いた。
「……わかった。でもひとつだけ。私に切らせてくれない?」
「えっ?」
今度は詩都香が驚く番だった。
「乗りかかった船、って言うとちょっと違うかな。でも自分じゃ切りにくいでしょう? ——それに実は……」
涼子が少し言葉に詰まった。ここまで一度も見せたことのない表情だった。
「実は、詩都香の髪に触ってみたくて。私も最近伸ばしてるんだけど、なかなか詩都香みたいにはならないから……」
恥ずかしそうに瞳を逸らす涼子からそう言われて詩都香の方こそ恥ずかしくなったものの、断れなかった。
「う、うん。えっと……じゃあお願いしていいかな」
それから二人で脱衣所の床に新聞紙を敷き、下着を身につけただけの詩都香は洗面台の前に据えられた椅子に座った。
「本当に十センチも切っちゃっていいの?」
後ろに立った涼子が、手にした毛束に櫛を当てながら少し自信なさげに言う。
「うん。悪いけどお願い。どうせ明日にも美容室に行くから、テキトーでいいし」
そう答えつつも、繊細な手つきで髪を梳ってもらっている内になんだか心が安らいでしまう。
ひと櫛ごとにモヤモヤが晴れていく心地がした。このまま身を委ねてしまいたくなる。
鏡の中の涼子が、意を決したように鋏を手にした。
「じゃあ、行くよ。ごめんね」
何に謝ってかそう断ってから、涼子が詩都香の髪に鋏を入れた。
この子にならどんな髪型にされてもいいや、と詩都香は自分でも妙に思うほど安心しきっていた。