7-19
※※※
時はわずかに遡る。薬を打たれた詩都香が眠っていた頃である。
河合涼子は、北西に向かって愛車のペダルを回していた。
詩都香の推測は二つの点で外れていた。
涼子は詩都香が考えるよりも速かった。もちろん、これがただの自転車旅行だったら、目的地に着く時間はさほど変わらなかっただろう。しかし、必要に応じて電車を活用しての逃避行である。わずかな時間差が、電車一本分の差に発展することもある。
涼子は詩都香が組み立てた予想よりも早く浜松を突破していた。
が、その直後、こちらは涼子にも予想外だったトラブルに見舞われた。
パンクである。
法令どおり車道の左端を走っていたのだが、少し先で道路の反対側から横断してきた自転車が、あろうことかそのまま涼子と同じ側の車道を逆走してきた。
後方に自動車の接近を感知した涼子は、対向の自転車を避けるため慌てて歩道に上がった。
抜重が間に合わなかった。これまで何度も繰り返してきたため、腕の力が弱まっていたのかもしれない。
段差でたちまち前輪がバーストした。リム打ちだ。
バースト音にびっくりしたような顔をしながらも、何も言わずに走り去る自転車の女子高校生を恨めしげに見送ってから、涼子は替えのチューブとタイヤレバーをサドルバックから取り出した。
チューブ交換を終え、CO2ボンベで膨らませるまで少々の時間をとられた。
チューブ交換は事前に練習していたが、実践は初めてだった。二酸化炭素は空気よりも抜けやすいと聞く。タイヤ圧が下がったら、遠からずまたパンクしてしまう。
そう考えて、大きめのサイクリングショップを見つけるまでがひと苦労だった。スマートフォンを置いてきてしまったことをちょっぴり後悔した。
こうした二つの読み違いのため、涼子は結局詩都香の予想よりもやや遅れて豊橋を越えていた。
――あと四十キロ。
その距離を走り終えたら、この愛車も処分しなければならないだろう。
防犯登録はしてあるので、店に持ち込むことも、目立つ所に乗り捨てることもできない。庄内川にでも投棄することになるだろうか。
(ごめんね……)
涼子は片手でトップチューブを撫でた。
名古屋に着いたら、何週間か身を潜め、様子を見る。
やっと見つけた楽園を追い出され、またインターネットカフェやビジネスホテルを渡り歩く逃亡生活に戻るわけだ。
そしてほとぼりが冷めてから、可能なら京都に移る。
接触の仕方はわからないし、出頭してどうなるかも不明だ。だが、今より悪いことにはならないだろう。
(詩都香)
その名がまたも脳裏に浮かんだ。
「……ごめんね、詩都香」
そう呟けど、許してもらおうとは思わない。
自分は許されないことをしたのだから。
それにしても、この言葉を呟くのはこれで何度目だろう。
二百五十キロ後方の京舞原市。そこに忘れ物をしてきたかのような、後ろ髪を引かれる思いがどうしても抜けない。
無心になって、ペダルを回す。踏むのではなく回す。サイクルコンピュータのケイデンス表示にときおり目を走らせながら、一定の回転を維持する。
だがやがてまた涼子の意識は後ろの方へ、置いてきたものの方へと向かってしまう。
涼子は軽く首を振った。
(ったく、あそこでの生活がそんなに楽しかったっていうの? ……楽しかったんだなぁ、やっぱり)
アイドルとしてのきらびやかな生活も楽しかったが、三週間足らずの、友達との生活も劣らず楽しかった。
自分には不可能だと思っていた生活。夢に見ることさえなかった甘い生活。
この先自分はこの思い出を抱えて生きられるのか、と涼子は自問した。甘い生活の思い出を抱えながら、都会の片隅で、ネズミのように……。
――生きられるだろう。思い出は彼女を柔弱にもしたが、しなやかな強さをも身につけさせた。
どのみち、長い時間ではない。京都に行けば、何もかも終わるはずだ。
(詩都香)
追い抜いていく車のテールランプを見ている内に、また浮かび上がるその名。
どうして彼女にメッセージなんて送ってしまったのだろうか。
探してほしかったのか。
たぶん、そうだ。
そして乱麻を断つように、彼女にすべてを解決してほしかったのかもしれない。
さすがの詩都香でも、最初のメッセージには気づかないだろう。第二のメッセージが届くころには、涼子は潜伏生活だ。見つけられるはずもない。見つけられるわけにはいかない。
記憶力も観察力も抜群の、畏怖すべき友人。そのくせ心優しくて、他人を疑うことを知らぬかのような友人。
――自分が裏切った親友。
最初から詩都香にすがればよかったのだ、と今では思う。きっと詩都香は助けてくれた。
その結果はわからない。とっくに死んでいたかもしれない。それでもおそらく、こんなに苦しい思いはセずに済んだ。
なぜ彼女を見極めようなどと思ったのか――
右後方で警笛が鳴った。
こんなに端を走っているのに、邪魔だというのか。
涼子は抜重のタイミングを計りながら、歩道に逃れようとした。
相手との距離を目測しようと、ちら、と後方に目を走らせ……
(えっ?)
我が目を疑った。その車両に見覚えがあったからだ。
いや、見覚えがあるどころではない。この半年近く、毎日のように体を預けた車だ。
車はいったん涼子を追い抜いてから、ウィンカーを出し、路肩に車体を寄せて停まった。
進路を塞がれる形になった涼子は、半ば呆然とブレーキを握り込んだ。
停まった車の後方三メートルで、ロードバイクはそろそろと静止する。
目の前の車の運転席から、ひとりの青年が飛び出してきた。
「涼子! 涼子だろ!」
二度と会うことはないだろうと思っていた相手だった。
「嘘。柿沼さん……」
涼子はサドルから下りた。
「見つけた! 見つかった! ちくしょう、奇蹟だ!」
柿沼が涼子のところに駆け寄ってきた。こんなに昂奮したマネージャーを、涼子は今まで見たことがない。
その勢いのまま、彼女は抱き締められた。
「ちょっ……」
「放さないぞ、この野郎。よくも、こんな、こんな……っ」
涼子を抱き締める柿沼の肩が震える。嗚咽を噛み殺しているのが伝わってきた。
「柿沼さん、あの、私今汗臭いから……」
何を言っているんだ、と自分でも思った。
「馬鹿、野郎、お前……」
柿沼の言葉は途切れとぎれだった。
涼子はそのまま立ち尽くし、柿沼の肩に眼差しを注いだ。
柿沼は三分ほどで落ち着きを取り戻し、涼子の肩に両腕をかけて身をもぎ離した。
「涼子」
「よく、わかったね……」
まっすぐな柿沼の視線が痛い。
「高原さんだ。彼女が君を見つけたんだ。目的地も、手段も、現在地まで、全部当てた」
まさか、と思った。
あのメッセージを解読したというのか。その上、何もかも見抜いたというのか。この短時間で。
「詩都香……」
やっぱり詩都香はすごい。
目を閉じた彼女の前で、涼子の肩から手を放した柿沼が言った。
「さてと、だ。こんなにみんなに心配かけたんだ。わかっているな?」
涼子は目を開けずにこくん、と頷いた。
ひと呼吸あってから、左の頬をバチンと衝撃が襲った。
「ごめん、なさい……」
涼子は声を上げて泣いた。
物心ついてから初めて人前で泣いた。
「帰ろう、涼子。君が何に巻き込まれたのかは知らない。でも、僕たちみんなで君を守るから」
失われたはずの楽園からの使者は、優しくそう言った。
まだまだ泣きやめそうになかった。
※※※
「彼で間違いないんだな?」
伊吹はもう一度念を押した。
「ええ。クルミのマンションの管理人はたしかにそう言いました。それにあの子とも頻繁に連絡しています。間違いないでしょう」
管理人は、事務所のスタッフを称して訪ねた所員に言ったのだという。マネージャーの柿沼さんがもう来てましたけど、と。
「では手はずどおりに頼むぞ」
「やっぱり俺がやるんですか?」
「昔とった杵柄だろう」
伊吹に促され、船岡は渋々携帯電話をとった。
※※※
泣きやんだ涼子が自転車の車輪を外してトランクに載せ、車の後部座席に乗り込んだタイミングで、ホルダーに固定された柿沼のスマートフォンが鳴った。
「あっと、高原さんだ。なんてタイミングのいい」
「詩都香……?」
詩都香のあの澄んだ声を聞くことももうないだろうと覚悟していた。
なのに、こんなに早く会話することになるなんて。
どう切り出したらいいのだろう、と迷う涼子を他所に、勢い込んで電話に出た柿沼の応答は戸惑いに満ちたものだった。
「もしもし、たかは――え? ええ。はい、柿沼です。……は? なんでそんな。……いや。と、言われましても。……ええ、たしかに知ってます。しかしなぜ……」
相手は詩都香ではないのか。明月を覆う雲のような不安が、涼子の胸に兆した。
「はぁ、わかりました」
そう言って電話を切った柿沼が首を傾げた。
「どうかしたの?」
「……うん、妙な話なんだが、群馬の高崎警察署からだった。いや、番号は高原さんのだったんだけど」
「たかさき……?」
胸中の暗雲が稲光を迸らせた。
「なんでも、高原さんが落としたケータイを預かってるとか。履歴を辿ったら最後に電話した相手が僕だからっていうんで、電話を寄越したんだって。他の友達にも連絡して、その友達でもいいから受けとりにきてほしいそうだ。変だよな、こんな連絡あるかな」
「たかさき……」
涼子はもう一度呟いた。
「それにおかしいよな。高原さんは必死に涼子の行方を考えていた。涼子は名古屋に向かっているって見抜いたのも高原さんだ。その後群馬になんか行くかな? 涼子、高原さんからあっちに親戚がいるなんて話聞いてる?」
涼子は青い顔で首を振った。日は陰っている。細かい表情までミラーでは窺えないだろう。
「親戚に一大事があって駆けつけた、なんていうならまだわかるんだけどな。まあ、でもしょうがないか」
本当はいのいちばんに高原さんに知らせたかったんだけど、と言いながら、柿沼がスマートフォンを手にとった。
その意図を察して、涼子は慌てた。
「あのね、柿沼さん! 事務所に連絡するの、ちょっとだけ待ってほしいの」
「え?」と柿沼が振り向く。
「うん、ええとさ。私から最初に謝りたい。まだみんないるでしょう? 土下座でも何でもする。私に最初に謝らせて」
「いやいやいや、そういうわけにはいかないだろ。気持ちはわかるけど」
スマートフォンを片手にした柿沼が、ひねった上体を後部座席に乗り出してきた。
涼子は彼に向かって両手を合わせた。
「お願い。最後のわがまま」
二人はそのまましばし視線と視線を絡めた。
「……ダメだ。早くみんなを安心させてやらないと」
柿沼は迷ったようだが、無情にもそう言い、シートに座り直した。
が――
「あれ? なんだこれ?」
電話帳を呼び出そうとしていた柿沼の声が上擦る。
「……どうかした?」
「いや、勝手に再起動してる……えっ? 『SIMカードが挿入されていません』? はあ!?」
柿沼は慌ててスマートフォンの側面のカバーを開いた。
「ないぞ。本当にない。どうなってんだ?」
助けを求めるように振り返った柿沼に、涼子は首を振った。
「だよな……。いや、意味がわからない。あれぇ?」
柿沼は室内灯を点けて足元を探った。
「……ない。ない。――涼子、悪いがケータイを貸してくれ」
涼子は再度首を振りつつ、先ほど返却された自分のスマートフォンのディスプレイを示した。
『SIMカードが挿入されていません』
柿沼が愕然と凍りつく。
「なんでだ? 何が起こってる……? 奇蹟の代償? ……いや、馬鹿な」
「これ、どういうこと? ……柿沼さん、私、なんだか怖いんだけど。早く事務所に帰ろうよ」
声を震わせながら、涼子はそう提案した。
柿沼はもういちど小さく頷いた。あからさまにうろたえている。
「ああ、そうしよう」
車がスタートした。
前方に折よくあった交差点から左折し、さらにもう一度折れて、東に向かう。
(……上手くいった)
涼子は手の中の小さなカードをサイクルジャージのポケットにしまった。
※※※
「あれでよかったんですか?」
船岡が自信なさげに伊吹の顔を振り仰ぐ。
「ああ、上出来だ。本物の警官みたいだったぞ。さすが元演劇部」
ふぅ、と船岡は一度大きく息を吐いて、椅子に座り直した。
「クルミに伝わりますかね?」
「柿沼というのがマネージャーなら、いわば今のクルミにとっては最も親しい相手。彼なら何らかの連絡手段があってもおかしくない。伝わることを祈ろう」
伊吹は部屋に備えつけられたモニターの前まで進んだ。
天井に設けられたカメラを介して、第二医学処置室の様子が無音で流れている。
マイク設備がなくてよかった、と心から思った。
あの少女の血を吐くような叫びを聞かずに済むのだから。
(間に合えよ、クルミ)
残された時間は多くはないだろう。伊吹は柄にもなく祈った。




