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放課後の魔少女——楽園は次の角に  作者: 結城コウ
第七章「黒髪のラプンツェル」Die schwarzhaarige Rapunzel.
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7-11

『豊橋か……急がないと』

 柿沼の運転する車のエンジン音が聞こえた気がした。速度を上げたのかもしれない。

「お願いします。涼子は手前の二川か新所原で降りるはずです。問題は、涼子が最終的にどこで電車を下りるか、ですが」

『名古屋じゃないの? あ、名古屋駅も危ないと考えるか』

「それだけじゃありません。涼子の立場で考えれば、西の大都市が目的地であることは相手に勘づかれている、という最悪の想定もしているはずです。名古屋はいっそう警戒が厳しいかも、と。名古屋市内の駅は使わない気がするんです」

『そこまで考えるかなぁ』

「考えるからこそ、自転車なんて持ち出したんですよ」

『なるほど、それもそうか』

 柿沼は詩都香(しずか)のひとことに納得したようだった。

『候補になる駅はいくつもあるのか。……じゃあ、高原さん。君なら、どこで降りる?』

「わたしなら?」

『うん。君はずっと涼子の考えを追ってきた。でも、そんなに通じ合う二人なら、逆に考えてもいいんじゃないかな、って』

「わたしなら……」

 涼子としてではなく、詩都香として考える。

 詩都香は今追われている。しかし、箱根を越えて虎口を脱した気分になったのはたしかだ。

 豊橋を越えれば、輪行も最後だ。

 このままうまく行けば、名古屋に逃げ込める。

 うまく行けば……。

 だけど、その期待こそが、破滅に繋がる落とし穴かもしれない。

 それに……。

「――わたしなら、二川です」

『えっ? 豊橋より手前?』

「そろそろ緊張も限界です。次でこそ捕まるかもしれない、と思いながら電車に乗るのは、わたしならもう嫌です。そして残りは七十キロ。箱根でだいぶ脚を使ったとはいえ、わたしなら……たぶん四時間。ちょうどラッシュの時間に名古屋都市圏に入ることになります。あとそれから……」

 詩都香なら。

「名古屋に入ったら、しばらくは身動きとれないでしょう。じっと息を潜めることになる。わたしなら、そうなる前に、最後に思い切り走りたい」

 柿沼は考え込んだようだった。

 が、やがて、

『わかった。その線で探してみる』

「期待はほぼゼロですよ?」

 詩都香はついそう付け加えた。物わかりのいい相手にかえって不安になってしまうのは、いつもの彼女の悪い癖だ。

『期待できるとすれば、どんな道だろう? ――これも高原さんの感覚でいい』

「地元の人しか知らないような裏道を使うってわけにもいかないでしょう。細い道はストップ・アンド・ゴーが多すぎますし、わたしならむしろ大きな国道です。検問が張られたりしてしなければ、ですけど」

『オーケー、高原さんを信じる。奇蹟が起こるさ、きっと』

 奇蹟、か。詩都香が魔法で起こせる“奇蹟”も、今は役に立たないが――

「それなら、わたしも柿沼さんの奇蹟を信じます。わたし、こう見えても奇蹟に強い女なんですよ」

 冗談めかしてそう言うと、存外に真面目な調子で、

『うん、それも信じる』

 と、返ってきたので、詩都香は無邪気に微笑んだ。



(さて、わたしも名古屋に行くべきか)

 電話を切った詩都香は思案した。

 今から新幹線で名古屋に行って、箒で上空から探せば、涼子を見つける確率は上がるかもしれない。

 そう思いながら九郎ヶ岳(くろうがたけ)駅への道を辿ろうとしたとき、だしぬけに違和感が湧き起こってきた。

 より正確には、その事実を思い出した。

(――ドアチェーン!)

 先ほど涼子の部屋を飛び出した際、ドアチェーンを解錠した覚えがない。入ったとき、確かに施錠したはずなのに。

 本来であれば、カメラ店に向かったときのように頭をぶつけていたはずなのだ。

 詩都香は足を止めた。

(なんで? 誰かが、外から? ――涼子!?)

 まさか涼子が帰ってきていたのか、と踵を返した次の瞬間だった。

 三つの〈モナドの窓〉が、至近距離で一斉に開いた。

「なっ!?」

 立ちすくんだのは一瞬だった。詩都香は脱兎のごとく駆け出した。

 近すぎて相手の居所さえわからない。

 わかるのは、〈モナドの窓〉を通って〈器〉に貯め込まれた魔力が放つ、真っ黒な悪意だけだった。

 ――ここは危険だ。離れなければ。

 手近な“ニデグレット(なか)京舞原(きょうぶはら)”に逃げ込もうとする。

 その敷地にさしかかろうとしたところで、塀の向こうから一人の男性が出てきて進路を遮った。

「おっと、そう急ぐなよ。ちょっと訊きたいことがあるんだ」

 知らない男だ。外国人らしいが、流暢な日本語を話す。

 詩都香は即座に回れ右して今来たばかりの道を駆け戻ろうとした。

 が、脇の路地から伸びてきたものに足を引っかけられ、勢いよく転倒した。

 胸を強打し、歩道を転がる。手から離れた鞄が路上を滑っていった。

 路地から姿を現したのは、これまた一人の外国人男性だった。

 こちらの相手には見覚えがあった。

「あんたは……ヤコムス」

 先月西伊豆で詩都香を襲い、魅咲に撃退された〈リーガ〉所属の魔術師、ヤコムスだった。

 擦りむいて血を流す両膝の痛みすら感じず、詩都香は素早く立ち上がった。

「ラテン語名は捨てた。今の私はジャックだ」

「知るか……!」

 吐き捨てた詩都香は、退路を求めて車道を突っ切ろうとした。

 しかし、路肩に停めてあった車の陰から出てきた女性に、またも道が断たれた。

 なおも身を翻して逃れようとした詩都香の腹に、その女性の拳が突き刺さった。

 詩都香の体は軽々と吹き飛び、マンションを囲む塀に背中を打ちつけた。

 女性とはいえ〈モナドの窓〉を開いて身体能力を強化している。その拳を受け、腹部が破裂したかと思った。

 詩都香は塀に背をあずけた体勢でそれでもわずかの間耐えていたが、すぐに足から力が抜け、うずくまった。

 こみ上げてきた胃液を路面にぶちまける。赤い色が混じっていた。

「おいおいアンジェラ、内臓をやっちまったんじゃないのか? 今死なれちゃ困るんだぞ?」

「そんなに力を入れてませんよ。口の中を切ったんでしょう」

 何か言ってやろうと思ったが、頭の中は痛みで埋め尽くされていた。口も自由にはならない。ぎゅっと閉じたまぶたの隙間から涙がにじみ出てくる。

「それにしてもこの子――」

 かつかつ、と硬い靴底がアスファルトの路面を打つ音が近づいてきたかと思うと、前髪を引っぱられ顔を無理矢理上げさせられた。

 詩都香は呻きながら片目を開け、目の前の相手を睨んだ。

 赤褐色の髪を後頭部で編み上げた妙齢の女性だった。やはり外国人。顔立ちはそこそこ整っているものの、陰気な雰囲気が漂い、男好きはしそうにない。

 その唇の端に、邪悪な笑みが浮かんでいる。

「やっぱり。ああ……、いいです。すごく、私好み。写真で見るよりももっと可愛い。めちゃくちゃにしてあげたいです」

 ぞっとした。残忍な光が宿った両の瞳は、さながら爬虫類のようだった。

「っ……! この……っ」

 まだまともな言葉が紡げない。何を言いたいのか組み立てることもできない。詩都香にできるのは、睨みつけることだけだった。

 それでも、抵抗の意志を示したかった。

 抵抗をやめたが最後、悪意に飲み込まれてしまいそうな予感があった。

 アンジェラと呼ばれた女性魔術師が顔を近づけてくる。赤い唇が割れ、中から伸びた舌が詩都香の頬を舐め上げた。

 体の自由は利かないのに、反射的に全身に鳥肌が立った。

「おい、ここではやめておけ。さっさと車に乗せて帰るぞ」

 と、一人目の男が、アンジェラを制止した。

 アンジェラは不満そうにそちらに顔を向けた。

「だって、私は今までずっとおあずけを食らってきたんですよ? あんなに可愛い子たちがたくさんいたのに、全然遊ばせてもらえませんでした。死体じゃつまらないです」

「ならもう少しだけおあずけだ。その後たっぷり遊ばせてやる。ま、このお嬢ちゃん次第だが」

 男の目が、詩都香に向けられた。

 好色そうな目つきが、アンジェラに引き起こされた詩都香の体を上から下まで行き来した。

 視界の隅では、ヤコムス改めジャックが、興味を失ったように車に乗り込もうとしているところだった。

 アンジェラは昂奮で荒くなった息を整えた。

「……そうですね。私としたことが、冷静さを失っていました」

「何言ってんだ。お前はいつでも危ないだろうが」

 くくっ、と男が笑った。

「では早く帰りましょう。――あ、これは、おまけです」

 恐慌を押さえつけて事態を推し量ろうとしていた詩都香の腹部に、また不意打ちでアンジェラの拳が入った。

「ぐ、はっ……」

 今度は吐き出すものもなかった。

「下手くそが。気絶させるにしてもそれじゃ苦しいだろうが」

「失礼ですね。苦しくなるようにやったんです。この子、本当にいい殴り心地ですよ。柔らかすぎず、固すぎず」

 二人のとぼけた会話が耳に残った。

 それを最後に、詩都香の意識は苦痛の闇に沈んだ。

本章冒頭の予告どおり、次回から主人公の詩都香が少しかわいそうな目に遭います。

痛々しい表現などもありますので、ご注意ください。

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