7-9
詩都香は涼子の部屋を飛び出した。持ち物は最低限。財布、鍵、スマートフォン、白封筒、注文伝票だけをポケットに突っ込んだ。
柿沼を送り出す際にチェーンロックしたことを忘れていて、部屋を出る際に勢い余って金属製のドアに額を打ちつけてしまったのは、ご愛敬と言えようか。
“ニデグレット中京舞原”の少し西に所在する店までの道のりを走った。
たどり着いたその店では新品と中古のカメラも扱っていた。涼子がツァイスイコンを見つけたのはここなのかもしれない。スタジオも併設されていて、もはや絶滅が危惧される、力の入った店だ。
詩都香は最初、DPEコーナーではなくカメラ売り場の方に駆け込みそうになった。入口が別になっているのを見落としたのだ。
違う、と思い直して慌てて踵を返す。
と――
「おっと」
「わっ! す、すみません……」
詩都香に続いてカメラ店に入ろうとしていた高齢の男性とぶつかりそうになった。頭を下げてもう一方の入口に向かった。
「河合の代理の高原です。フィルムを引き取りに参りました」
息を整える間もなく、DPEコーナーの店員に告げる。
その勢いに呑まれた様子ながらも、伝票を受け取った店員は奥に引っ込んでフィルムを持ってきた。
「こちらで確認されますか?」
「お願いします」
店員の質問に、身を乗り出すようにして答える。
リバーサルフィルムの現像ができる店には、バックライトとルーペを具えた台が設置されている。
詩都香はライトを点灯させてフィルムを置き、ひとコマひとコマルーペを当てていった。
三十六枚撮りのフィルムだが、三十九コマ現像されていた。危ないことをする、と我がことのようにひやりとした。
自動巻上げのないカメラは、フィルムカウンターを見るか自分で数えるかして、撮影枚数を確認する。フィルムには三枚分ほど余裕があるものだが、最後まで撮りきっているのに無理に巻上げレバーを回した場合、下手をするとカメラの内部でフィルムがちぎれてしまう。そうなったら、店にカメラごと持ち込むか、暗室の中でカメラを開けて回収しない限り、フィルムはおじゃんだ。
(涼子め、フィルムカウンターをちゃんと見てなかったな)
そんな想像をめぐらすと、少しだけ焦慮の念が収まった。
最初の二十コマほどは、人物写真が主だった。一部は大人、一部は同世代、一部は聖マグダレーナ学院の制服を着ている。屋内で撮られたものの中には、光量不足で露出アンダーになっているものもあった。一枚真っ黒になっているのは、レンズキャップをつけっぱなしでシャッターを切ってしまったものと見える。レンジファインダーではありがちなミスだ。
ときに涼子本人が交ざっていることもあるが、柿沼を除いて詩都香の知らない人物ばかりだった。芸能界の知り合いや、学校の同級生を撮ったものらしい。これでは詩都香へのメッセージを込めることはできないだろう。
あるいはこの中に、誰かにとって不都合なものが写った写真があるのだろうか、とも考えてみた。そんな筋立ての小説も、かつてはたくさんあった。デジタル全盛になってとんと見なくなったのは、ネガをめぐる争奪戦が起こりえなくなったからだろう。
(ま、どっちにしろ情報不足でわたしには読み解けないし)
詩都香は先を急いだ。
次の十数コマは、ガラリと印象が変わる。
室内撮りの静物写真だった。
場所は涼子の部屋のリビング。いろいろなものがテーブルに置かれて被写体となっている。最初はりんごだった。部屋で見た覚えはない。撮影した後で涼子が食べてしまったのかもしれない。
(りんご……青森、長野……。ダメだ、こういうんじゃない)
フォークとナイフと、なぜかホッチキス。野球帽と乾電池。デジタル一眼レフを撮ったものもあった。光量不足を補うためにスタンドで光を当て、それでも不安なのか、それぞれ二枚か三枚露出を変えて撮られている。
野球帽は気になったが、何も読み解けなかった。
詩都香のルーペは最後から二番目の被写体のところで止まった。
声をかけて店員を呼び、より高倍率のルーペを持ってきてもらう。
被写体は広げられた日本地図と、その上に置かれたキーホルダーとドルチェビータとメモ帳。やはり露出を変えて三枚。
目に止まったのは、この中でいちばんいい写真だったからだ。旅情を掻き立てられる。
日本地図の長野県の辺りに丸印がつけられていた。だけどこれはおそらくダミーだ。メモ帳の文字は小さくて見えづらかったが、「あずさ」という単語が読み取れた。これもダミーだ。万が一追手が先にこのフィルムにたどり着いた場合、長野に目を向けさせるための。
本当の行き先は――
(……やっぱり名古屋、か)
鹿島灘から東京を踏み越えて富士山を貫くように、一見無造作に置かれたドルチェビータ。その十四金のペン先が、正確に愛知県名古屋市を指していた。
(手の込んだことしてくれちゃって。……いや、そうでもないのか)
涼子が行ったのは、部屋の中で写真を撮ってフィルムをここに持ってきたことだけだ。小一時間で終わる。
詩都香はフィルムをシートにしまい、カウンターに向かって会計を済ませることにした。
それから、ふと思いついた。
この現像済みフィルムはどうするべきか。
焼き捨てるのは忍びない。しかしながら手元に置いておくのも不安だ。いつか追手は詩都香のところにも来るかもしれない。それが警察だったとき、提出を拒めるだろうか。
それに、詩都香にもいい加減腹に据えかねるものがある。
お釣りを受け取ってから、フィルムを差し出して新たな注文を伝えた。
「CD書込みと、プリントをお願いします。全コマ、全紙で、トリあり。アンダーとオーバーも三分の一段刻みで上下一段ずつ。あ、それから、いちばん良さそうなのをパネル加工してください。マットで。判断はお任せします。全然急ぎませんから、手焼きでできるだけ丁寧に。今年中にできればいいので」
「は? 全コマ、全紙でパネル加工?」
店員は目を丸くして、手元のリバーサルフィルムに視線を落とした。そんなにいい写真があっただろうか、という表情だ。
当然の反応である。費用のほどは詩都香にもわかる。真っ黒の一コマを除いても、三十八コマ各七枚ずつの全紙プリントにパネル加工だ。個展を開くようなカメラマンでも、こんな注文はしない。というより、自分でやる。
「見積もりはいいです。仕上がったら連絡はこちらに封書でお願いします。請求書を同封して事務所付河合涼子宛で。本当に急がないので、じっくりやってください」
涼子の事務所の住所を伝えて、店を辞した。
涼子と柿沼と事務所と社長に対して、少し仕返しした気分だった。
(ふん、だ。ったく、わたしをここまで振り回してくれおって)
アイドルの稼ぎのほどは知らないが、ぽんと払える金額ではないだろう。
いずれにせよ、これであのフィルムはしばらくの間眠ることになる。
仕返し気分から切り替えて、また走った。
まずは郵便局で封筒を投函する。念のため速達にしておいた。
それから涼子の部屋へと急ぐ。
またひとつ納得できた点があった。
昨日の晩電話したときに涼子が言っていた外せない用事とやらは、フィルムを現像に出すことだったのか。
合鍵で解錠して室内に入り、後ろ手にドアを閉じてから、ふと思い立ってひとつ実験してみた。
念動力で、ドアチェーンを施錠したのである。
結果は成功だった。
(うん、やっぱりわたしにならできる、か)
マンションの外通路で突っ立ってごそごそやるのは人目が気になるので、部屋の中からの実験となったが、外からでも問題なくできる。
いったん解錠して、もう一度やはり念動力でゆっくりと施錠しながら、同じことを何らかの器具を使ってできるか考えてみる。
(できないこともないけど、ちょっと複雑な器具を作る必要があるかな)
涼子はそれをやったのだろう、と考えることにする。
行き先はわかった。あとは手段だ。
詩都香はスマートフォンを取り出して柿沼に電話をした。
『ただいま車を運転しています』という音声が流れた。
もどかしい思いで、今度は涼子のスマートフォンにかける。
呼び出し音がしばらく続いたあと、応答があった。
「もしもし? どうしてこっちに? ――ああ、そうか。僕のケータイはドライブモードだ。でも、涼子のケータイが鳴れば急いで出るはず、そう考えたんだね」
察しがいい。
「柿沼さん、今どこですか?」
「これから高速に乗るところ」
ずいぶんゆっくりな運転だ。だが、都合がいい。
「正直なところ、事務所に戻るのは気が進まなくてね。いろいろ考えながらゆっくり下道を走っていた」
その心情も理解できる。
「すみません、いったん電話を切って、柿沼さんのスマホからかけ直してくれませんか?」
柿沼は詩都香の言うとおりにしてくれた。
『もしもし?』
「あ、どうも。――涼子の行き先がわかりました。やっぱり名古屋です。そっちに向かってもらえませんか?」
柿沼が息を呑む。
「どうしてわかったの?」
「メッセージを見つけたんです。間違いありません。……すみません、本当はもっともっと早く気づけたはずでした。なのにわたしときたら、益体もない時刻表トリックに夢中になって……」
それ以前の問題だ。柿沼といっしょにいた時点でも気づけたはずなのだ。詩都香はカメラを手にとる前にあの写真の意味を悟るものと、涼子は思っていたにちがいない。
「……わかった。事務所に連絡してそっちに向かう」
柿沼の声は優しかった。自分で思ったよりも、詩都香はしょげた声色になっていたのかもしれない。
『ところで、さっきかけ直させたのは?』
「念のため、です。涼子は昨日電話したとき、意味深なことを言っただけで核心的なことは何一つ口にしませんでした。その上で回りくどいメッセージを残していきました。通信傍受でも警戒していたんでしょう。ちょっと過敏でバカバカしい気もしますが、わたしたちが涼子の警戒を無駄にすることはないかと。だから柿沼さん、今から涼子のスマホの電源は切っておいてください。GPSもありますし」
『了解、そうする。……でも、涼子は見つかるだろうか』
「難しいと思います。涼子がもう名古屋に入っていたら絶望的でしょう。見つからないように身を潜めているはずですので。でも、もしまだなら……」
「うん、こうなったらイチかバチかだ。行ってみる」
柿沼は力強く答えて電話を切った。
いちいち履歴をたどるのも面倒なので、柿沼の番号を登録してお気に入りに設定してから、詩都香は意を新たにしてリビングのソファに座った。
移動手段が特定できれば、涼子の居場所を見つけやすくなるかもしれない。
目を瞑る。また涼子になりきって思考を展開する。
(タクシー、高速バス、路線バス……路線バスは箱根経由で御殿場まで。どれも『わたし』は嫌だ。狭い車内で運転手や他の乗客と長い間同じ空間を共有するのは怖い。忘れるな、『わたし』は有名人で目立つんだ)
有名だけど目立たない、という人もいるだろう。だが涼子はそうではない。アイドルだと言われて即座に納得できる、オーラとでも言うべきものを持っている。
(理想はひっきりなしに乗客が乗り降りする普通列車。でも、それも厳しい――と涼子は考える。……涼子、あんたほんとにこの街を脱出できたんでしょうね?)
悲観的にさえなる。ひょっとすると、涼子はもうとっくに捕まっているのではないか。
涼子とのいくつもの約束が脳裏をよぎった。これらはもう果たされることがないのだろうか。
涼子が文化祭に来ることになっていた。涼子の学校の文化祭に詩都香が行くという約束もあった。「詩都香と違って私は文化祭で何もしないけどね」と涼子は言っていたが。
二人でデコンストリュクシオン・シーに行くことにもなっていた。水をふんだんに使ったこのテーマパークが、これからの季節にはいかに寒々しいか詩都香が語ると、涼子には大ウケで、ぜひ行きたい、ということになったのだ。詩都香もそのノリは嫌いではない。
そういえば、ショッピングの約束すら結局果たされぬままだ。
それから――
詩都香は目の前のテーブルに頭を打ちつけた。さっき扉にも打ったところなので、思ったよりも痛んだ。
(なーにが探偵だ。ほんと、アホめが)
まず確認しなければならない。この部屋で考えるべきこともすべて済んだ。
詩都香は涙目のまま鞄をひっつかみ、部屋から駆け出した。鍵をかけることさえもどかしく感じるほど急いで。
――だから、その異状が意識に上らなかった。




