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放課後の魔少女——楽園は次の角に  作者: 結城コウ
第七章「黒髪のラプンツェル」Die schwarzhaarige Rapunzel.
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7-3

「本当にすみませんでした。何かあったらいつでも呼び出してください」

 と、何度も頭を下げて水谷は部屋を退出した。彼には彼の仕事があるのだ。

 詩都香(しずか)と柿沼は一度顔を見合わせると、ベランダに向かった。

「ないね」

 ベランダの手すりを確認した柿沼が言う。

 反対側から同じく確認した詩都香も、「ないですね」と肩を落とした。

 考えつく次の可能性は、ベランダにロープを繋いで昇り降りした、というものだった。

 だが、その痕跡も見当たらない。

 考えてみれば当然と言える。ここは十一階だ。涼子が降りるには厳しい高さである。

 誘拐犯が外から昇るのも考えづらい。どうやってこのベランダにロープをくくりつけたのかもわからないし、この部屋にたどり着くまで、十の部屋の窓を通過することになる。犯行が夜中に行われたとしても、リスクが高すぎる。

 詩都香なら、降りることはできるだろう。厳しくはあるが、涼子にもできないことはないかもしれない。

「昨日、涼子は外せない用事で外にいる、と言ってました。ロープを買いに行っていたのかも」

 いちおうそう言うと、柿沼は首を振った。

「降りた後でのロープの回収はどうする?」

「ああ、それはできます。でもやっぱり……」

「うん。ロープの痕がないし、下の住人が今のところ何も見聞きしていないのがネックだ。無音でできることじゃないだろうし。夜中に窓の外でロープで人間が昇り降りする気配があったら目を覚ます人もいるだろう。それに――」

 柿沼は手すりの向こうを指差した。

 少し引っ込んでいるとはいえ、この部屋は通りに面している。十一階の高さを降りる間、誰にも目撃されないなどと楽観視はしないだろう。入居者に気づかれても、外から見られても、警察に通報されるのはまず間違いない。

「だいいち、何のために、という疑問が残る。まあでも、ドアチェーンのことも考えると、可能性は捨てきれないか」

 詩都香はこの遣り取りで、柿沼が落ち着きを取り戻したことを感じた。ベランダで新鮮な風に当たった効果もあったのかもしれない。

 二人は部屋に戻り、また向かい合って座った。

「続きといく?」

「そうですね。わたしの考えもまとまってきました」

 詩都香はテーブルの上に広げられた涼子の私物に目を落とした。

 教科書やノート類、システム手帳、ペンケースの中の筆記用具、化粧道具、それからスマートフォン。

「まだ涼子が自発的にいなくなったと思ってる?」

「ええ。まず、誘拐犯がロープか何かを使って外から侵入したというのは厳しいと思います。根拠はさっき柿沼さんがおっしゃったとおりです」

「そうだね。涼子本人なら、警察に通報されてもなんとかなるかもしれないけど、侵入者がそんなリスクを冒すとは考えづらい。もっとも、リスクを覚悟の上だったのかもしれないけど」

「そこまでして涼子を拉致するんですか?」

「涼子みたいな売れっ子なら、相当な身代金をふんだくれると考えてもおかしくはない。イチかバチかの冒険、とね」

「で、身代金の要求は?」

「ないね、今のところ。でも、アジトに向かっている途中なのかもしれない」

 もしそうなら、こうして議論している時間は致命的だ。

「事務所は払いますか?」

「払う……だろうね。うちはいちおう業界でも準大手だし。前に言ったとおり涼子にだいぶ資金を費やしたから、限度はあるかもしれないけど。でも、身代金を惜しんで涼子を見殺しにしたらそれこそ事務所の致命傷になる。銀行を駆けずり回ってでも集めるだろう」

 そのときには銀行も協力するだろう。涼子ほどの有名人だ、貸し渋りでもしたら、銀行のイメージにとっても打撃になりかねない。

 身代金目的の誘拐は、なかなか魅力的なようだ。

「それに……身代金目的じゃなくても――」

 と言いかけて、柿沼は口を閉ざした。

「何です?」

 詩都香に問われて、柿沼はしぶしぶ言葉を継いだ。

「若くて可愛い女の子を誘拐する目的は他にもあるってこと。涼子みたいにアイドルという付加価値があるのならなおさらだ」

 吐き捨てるように言ってから唇を噛む柿沼に、詩都香は同情した。

 おそらく彼は、ずっと前からその可能性を考えていたのだろう。

「……高原さんも気をつけないとね」

 続くひと言はまったくもって余計だったが。

 詩都香はひとまずその可能性をつぶして彼を安心させることにした。

「柿沼さん、わたしは涼子が誘拐された可能性はほとんどないと思います。その点ではどうか安心してください」

「……うん、聞こう。正直言って僕はお手上げだ」

 詩都香はテーブルの上の品々を順繰りに見回した。

「勉強道具は措いておいて、その他の私物も一見揃っています。が、二つだけ、あるべきものがない」

「それは?」

「ひとつは財布です」

「ああ、それは僕もわかってた。でも、誘拐犯が持っていったのかもしれない。アイドルだからお金持ちだと思ったか、それとも、自発的な失踪を装いたかったか」

「そうですね」

 詩都香は素直にその意見を受け容れる。

「もうひとつは?」

「ドルチェビータです」

 柿沼は首をかしげた。

「何だい、それ?」

「ああ、やっぱり柿沼さんも知らなかったんですね。デルタのドルチェビータ。わたしが選んで、涼子が愛用していた万年筆です」

「万年筆?」

 柿沼はスマートフォンを操作し出した。すぐに目的のものが見つかったようだ。

 画像検索の結果を表示するディスプレイを詩都香の方に向けながら、

「これ? 綺麗な万年筆だね。――あ、待って。たしかに見たことがあるかもしれない」

 記憶を探るように視線を宙空にさまよわせる柿沼。

「涼子は自分の持ち物を他人に自慢するような子じゃなかったと思います。涼子があのペンを愛用していたことを知っている人間は限られるでしょう。涼子はドルチェビータを一本差しの革製のペンケースに入れて、他とは別にして鞄の中に入れてました。わたしがそうしているので真似たんです。さっき机も確認しましたが、どこにもありませんでした。あったのは、いっしょに買ったボトルインクだけ」

「それがない……。で、それが?」

「これも誘拐犯が持っていったんでしょうか?」

 柿沼は再度スマートフォンのディスプレイに目を落とした。

「結構な値段するね。その価値がわかって持っていったということも」

「ペン好きでもない限り、ドルチェビータの値段はわからないと思いますけど。一般的にはモンブランほどメジャーじゃありませんし」

 高価だといっても、たかがペンである。涼子という獲物を捕らえて、ついでに持っていくものではないだろう。

「おまけに、涼子が使っていた一本差しのペンケースは、革製でカバー一体型です。紐を解いて開けない限り、中身は見えません。急いで撤収すべき誘拐の現場で、わざわざそんなことするでしょうか。それから、こちら――」

 と、詩都香はペンケースの中身を示した。その中の一本。

「これはカランダッシュのエクリドール。限定品です。値段としてはドルチェビータよりは安いですが、誘拐犯の中に文房具好きがいたら、こっちも持っていく気がします」

 ふむ、と柿沼が思案をめぐらせる。

「もうひとつの可能性、犯人が涼子の自発的な失踪を偽装したというのは?」

「それを思いつく人間が限られているという理由で否定されます。現にマネージャーの柿沼さんでさえ、このペンが涼子のお気に入りであることを知らなかった。涼子はこれを気に入っていた、ならば涼子が自ら姿を消す場合でもわざわざ持っていくはずだ、だから涼子は自分で姿を消したと判断されるだろう――どうです? さっきまでの柿沼さんが思いつきますか?」

 柿沼は両手を小さく上げた。

「思いつかない。たしかにそうだ。そして、もしそれを思いつく人がいたら……」

「その人は考えるでしょうね――涼子がこのペンを気に入っているということを知っている人間は限られている、相当に親しい人間だ、そこに気づかれたら疑惑は自分を含む少数の人間に集中する、ならばこれは残しておこう」

「……どっちにしても持ち去ったりはしない」

 柿沼も納得したようだった。

「よって、想定される誘拐犯はこの部屋に押し入って涼子を拉致したわけじゃありません」

 詩都香はそう断言した。

「まあ、たしかにそうなのかもしれない。ところで、僕も今の話を聞いて気になることが」

 と、柿沼は腰を上げ、部屋の隅にある帽子スタンドに歩み寄った。

「……やっぱりない」

「何がです?」

 詩都香も傍らに立ってそれを眺めた。

 帽子が何種類か掛けられている。帽子をあまりファッションアイテムとして考えたことのない詩都香には、どういう服装に合わせればいいのかわからないものも多い。

「高原さん、私室のクローゼットに、野球帽なかった?」

「野球帽? ……あっ!」

 前に見たことがある、スワローズの野球帽。

 涼子はあれを大事にしている様子だった。

「なかったと思いますが、確認してきます」

「僕も他の部屋を見てくる」

 二人は再度、各部屋を見て回った。

 野球帽は見つからなかった。

「あれは、涼子が社長と出会ったときにもらったものなんだそうだ。社長がファンでね」

 着席した柿沼が口を開く。

 詩都香も納得した。

「なるほど。なら、涼子はそれも持っていったのかもしれませんね。……社長さんがファンだっていうんなら、柿沼さんの名前、社長さんから気に入られてるんじゃないですか?」

 柿沼の心を和ませようと慣れぬジョークを加えたが、柿沼の方はむっつりと頷いただけだった。

「ペンは高価なものだからまだわからないでもない。でも誘拐犯が野球帽を選んで持っていくのは説明がつかないな。さっき高原さんは『ほとんど』と言ったね。誘拐の可能性は残っている、と?」

「いちおう検証しておきましょう。涼子が拉致されたとすれば、この部屋からじゃなかった。それはさっきの防犯カメラの映像から明らかです」

「防犯カメラには何も映っていないんだよ?」

「このマンションのエントランスから先はオートロックです。どうやって入りますか?」

「宅配業者かなにかを装って……うん、それなら箱に涼子を隠して連れ去ることも……あ、ダメだな」

「ええ。深夜零時過ぎまで映像が残っています。そんな時間にやって来た業者を、誰が招き入れるかという問題が」

「夜でもデリヘルなら……」と言いかけて、柿沼はわずかに顔を赤らめた。「ごめん、それにこれもない。呼んでもいない風俗嬢にインターホンを鳴らされて開ける人間はいない」

「それに、首尾よく内部に侵入できても、涼子が扉を開けたりしないでしょう」

「こういうのはどうかな。風俗嬢を装って、なんとかしてうまく内部に侵入してから、鬼気迫る表情で涼子の部屋のドアを叩く。で、『男に暴力を振るわれてる、匿ってください』」

 いろいろ考えるものだ、と詩都香は感心した。発想が豊かだ。

「まあ、わかりました。そうやって涼子の部屋に入ったその女性はどうしますか?」

「涼子を連れ去りたいわけだから、まず考えられるのは脅迫。刃物とか銃とかで」

「『死にたくなかったらついてきなさい。財布と……お気に入りのアイテムを持って』?」

「ああ、ここでもその問題が。じゃあ、『死にたくなかったら、自発的に姿を消したかのように偽装してからついてきなさい』」

「そんなデスノートみたいな。でも考えてみましょう。バカ正直にお気に入りの品まで持った涼子は、その女性に部屋から連れ出されて――」

「で、外でドアチェーンを……はぁ」

 柿沼は詩都香の言わんとするところを察してふるふるとかぶりを振った。

 ありえない。それではせっかく涼子を脅して施させた偽装工作が台無しだ。

「じゃあ、次。言葉巧みに連れ出す」

「外にはDV男が待ち構えているかもしれないのに?」

「そこは何とか安心させて。そうだ、『警察署に行きたいからついてきて』というのはどうかな。それなら万年筆も、書類を書くために持っていったと考えられる。帽子も変装のため。チェーンは苦しいけど、涼子は普段から外出する際にはそうしているのかもしれない――あ」

「ええ、そうです。柿沼さん、今テーブルの上にあるそれは何ですか?」

 詩都香は再度スマートフォンへの注意を促した。

「そうだよな、電話すればいいんだよな。それに、警察署に行くなんていう非常時に、ケータイを持っていかないのも不自然だ」

 柿沼は腕組みをした。

 その間に、詩都香は時計を見た。十二時三十七分。学校で柿沼の電話をもらってから、まだ一時間半ほどしか経っていないことに驚く。

 ずいぶんいろいろなことを考えて、密度の高い時間を過ごしたせいなのだろう。

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