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放課後の魔少女——楽園は次の角に  作者: 結城コウ
第一章「ネズミ捕り娘はピアノを弾く」Die klavierspielende Rattenfängerin.
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1-4

 鍵盤上で思う存分指を踊らせた詩都香(しずか)が一条邸を辞したのは、中秋の陽も暮れてからだった。

 広々とした庭を抜け、門をくぐってから、その足はバス停へと向かう。

 もう遅いから、とユキが車で送ってくれようとしたが、断ってしまった。

 今日は覗いてみたい店があったのだ。

「まだ開いてるかな」

 西京舞原(きょうぶはら)駅前の古本屋である。先日別ルートで伽那(かな)の家に行く際に見つけて気になっていたのだ。

 バスを降りた時点で七時十五分過ぎ。一般的な古本屋は午後七時に閉店することが多い。それでもダメ元で行ってみよう、と駅とは逆の北に向かって歩き出す。

(お、開いてるのかな)

 駅から二筋ほど北上して細い路地を入った先に所在するお目当の店舗には、灯が点っていた。看板も光を放っている。

 詩都香は看板に記された営業時間を睨んだ。

(あ、七時半までか。どうしようかな)

 閉店までもう十分とない。

 詩都香は店の入り口の手前で立ち止まり、その場から見える範囲で店内の書架を観察した。

 題名を読み取ることができたのは、花道だの茶道だのといった伝統技芸の関連書籍ばかりだった。興味を持っていないわけではないが、今無理して買うような本でもない。部活の合宿やら何やらでだいぶ消費したので、次の小遣い日まであまり余裕がないのである。

 もっと時間に余裕があるのならば、とりあえず入ってじっくりと品定めするところであるが、欲しくなるような本があるかどうかわからないのに閉店間際に駆け込むというのもやりづらい。こうした小ぢんまりした個人経営の古書店をただ数分冷やかして出てくるのは、気の小さい詩都香にとっては居心地の悪いことだった。店の手前の、中にいる店主からは見えないであろう地点で立ち止まったのも同じ理由からである。

(ん、まあ今日はやめとこう。もっと時間のある日にまた入ってみよう)

 逡巡していたのは一分にも満たなかったであろう。詩都香は踵を返し、駅前の通りへ戻ることにした。

 と——

「きゃっ!?」

 振り向きざまに人とぶつかりそうになった。

「す、すみません」

 声を上げた相手に小声で謝り、詩都香は早足になって歩き出した。急に転回した自分に非があるのは明らかだった。

(なーんか、うまく行かないなぁ)

 どこかで歯車がズレてしまっている気がする。詩都香は溜息をひとつ吐いて、駅前の通りに出たのを機に歩調を緩めた。


 うまく行かないどころではなかった。

(なっ……な、なんで……?)

 いつもと違う時間に乗り込んだためひどく混雑していた電車の中で、彼女は惑乱の極みにあった。

 身動きが取れないどころか重心を確保するのもひと苦労の車内。こりゃユキさんに送ってもらった方がよかったかな、などと詩都香が後悔し始めた頃、唐突にそれはやって来た。

 制服のスカート越しに、お尻を撫で回される感触。

 はじめは思い過ごしだろうと考えた。この混み具合だ、意図せずして手や荷物が当たることもあろう。

 だがその感触は、詩都香がなんとか体の位置をずらしても執拗に追ってきた。

 そしてあろうことか——

「ヒッ!」

 詩都香はかすれた声を漏らしかけた。

 誰かの手が太ももの間に侵入してきたのだ。

 頰が瞬時に紅潮する。

 痴漢だ。

 もう思い込みと思い込もうとすることも許されない。

(なんで? どうしてわたしが……)

 知る限りでは一度、伽那が痴漢に遭ったことがある。夏服に衣替えしたばかりの六月に、本人から聞いたのだ。

 ——あんた隙が多そうだしね。狙い目と思われたんじゃないの?

 親友の気安さで詩都香はそう茶化し、傍で同じく相談を受けていた魅咲(みさき)もうんうんと頷いた。

「ひっどぉい! もうっ! ほんっとに怖かったんだから! ——ぎゃっ!?」

 ぷりぷりとむくれる伽那に魅咲が背後から飛びついて、両胸を鷲掴みにした。

「この乳がもう男のものになったってかぁ。あなもったいなや〜」

「ちょっとちょっと魅咲ぃ、そこまでされてないってば……。偶然を装って軽く触られただけだよぉ……」

 突然セクハラ魔と化した魅咲と、ジタバタと抵抗する伽那に、詩都香もけらけらと笑ったものだった。

 そのときは、自分には関係のない話だと思っていたのだ。

 痴漢に遭うのは伽那みたいな子、と。

 ——それなのに。

(なんで……なんでわたしなんか……)

 肉感に乏しくて胸も尻も小さな貧相な体つき。無愛想な顔立ちと全身から放出されている地味オーラ——そんなわたしの体をいじって何が面白いんだ、と詩都香は叫び出したかった。

 だが現実には、彼女はひと言も発せられないでいた。

 怖かった。

 ただひたすら怖くて、その上恥ずかしかった。

 何も悪いことはしていないのに自分の方が恥ずかしい思いがするという痴漢被害者の心理を、詩都香はこのとき初めて身を以て理解した。

 膝上数センチの位置で太ももの感触を堪能していた手が、じわじわと這い上がっていく。

 意外にも華奢なその指の行き先を悟ったとき、詩都香の血の気は胃の腑の底まで落ち込み、一度は赤く染まった頬が蒼白へと急転した。

 一瞬たりとも我慢できない。

 それなのに、硬直した体はぴくりとも動かない。

(誰か……誰か助けて……)

『九郎ヶ岳ー、九郎ヶ岳ー。お降りの際には——』

 救済の福音とも言うべき車内アナウンスが流れた。

 詩都香は駆け込んだのが各停の普通電車であったことに、そのせいでこんな災難に出くわしたにもかかわらず感謝した。

 アナウンスを合図にしたかのように、痴漢の手の上昇速度が上がった。

 薄い下着越しにその感触を覚えた詩都香は、両目に涙が滲むのを堪えることができなかった。

 列車が速度を落とし、ついに停まる。

 ドアが開くのを待ちかねたように動く乗客の波に、一瞬たりとも遅れずに追従した。

 下着に触れていたのとはまた別の手が、最後とばかりに胸を強く掴んだが、詩都香は身をよじってそれを振り払い、背後を振り返ることなくホームへとまろび出た。

 満員の車内とはうって変わった新鮮な空気で胸腔を満たすいとまもなく、震える脚で出せる限りの速度で、改札口を目指してホームを駆ける。

 少しでもスピードを落としたら、またあの手に捕らえられそうで怖かった。

 ポケットから取り出した乗車券を、それでもどうにか改札機の投入口に一度目で突っ込み、駅舎内にごった返す人の波をすり抜けて屋外に出る。

 それからはもう、脱兎もかくやという勢いだった。

 人通りの少ない晩の住宅街を詩都香はひたすら走った。

 主の意を超えて力を取り戻した両脚は、肺腑が上げる悲鳴を認識するまで止まらなかった。

「ぜっ……ゼッ、ハーッ……はあっ……!」

 詩都香の精神と肉体との折り合いがつき、ようやくのことでその脚が止まったのは、九郎ヶ岳駅から七、八百メートルあまりも離れた一軒のコンビニエンスストアの前のことだった。

 鞄を抱えてフォームもペース配分も考えることなくがむしゃらに回転させた脚は、しばらくの間動かせそうになかった。

 闇の中に浮かび上がる明るい店舗にいくらかの安心を覚えた。

 ここには灯がある。防犯カメラもある。駆け込んで助けを求められる店員もいる。

 安堵のあまり、駐車スペースの片隅にへたり込んでしまった。

(わたし……どうしてわたしが……っ!)

 それでも思考はどうしてもネガティヴな方向へと進んでしまう。

 詩都香のことを好きだと言ってくれる男子もいた。今もいる。

 それでもなお、自分が性的な劣情の対象となるなどと、詩都香はほとんど考えてこなかった。

 コンビニのウィンドウに、自分の顔を映してみる。

 逆光のために薄くしか見えなかったが、酷い顔だった。

 高校に入ってから一度も誕生日を迎えていない詩都香は、まだ十五歳だ。

 ——十五歳。

 身体の発育ときたら、背丈を除いてその年齢の平均を下回るだろう。

 ——子供だ。

 それなのに、そんな自分を性欲の対象と見る男がいるのか……。

 コンビニの店内から、ちらちらと女性店員が視線をよこすのがわかった。

 それはそうだろう。

 必死の形相で走ってきて、ついには店の前にしゃがみ込んでしまった女子高生……。

 きっと心配されている。

 それがわかってなお、詩都香はなかなか立ち上がれなかった。

 そこで、違和感を覚えた。

 腰まで届く長い髪が、秋風に揺らされるたびにごわごわする。敏感な頭皮が、髪の毛に何かが絡みついていると告げる。

 ひょっとして走っている内に毛が絡まってしまったのだろうか、と詩都香は左手を背にやった。

 指先に伝わる、べちゃりとした触感。

 それが意識された途端に、詩都香の双眸から新たな涙がこぼれ落ちた。

 震えるその背に、途切れがちな声が降ってきたのはそのときのことだった。

「ねっ、ねえ……。だっ、大丈夫……?」

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