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放課後の魔少女——楽園は次の角に  作者: 結城コウ
第六章「苦楽を分かつ人々」Sie teilen Lieb und Leid.
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6-8

 遠慮する詩都香(しずか)を、柿沼はちゃんと自宅まで送ってくれた。

 挨拶を交わして別れてから、去りゆく車のテールランプを見送っていると、また申し訳ない気持ちが湧いてくる。

 これから東京の家に帰るとなると、日付が変わるのではないだろうか。いつもそんなもんだから、と本人は笑っていたが。

 だけど、有意義な話は聞けた。美味しいものも食べられたし、これで水に流してやるか、と思った。

 遠慮気味にただいまの声をかけながら玄関の扉を開けると、弟の琉斗(りゅうと)が玄関先に立っていた。腕の中に黒猫のフリッツをかかえている。大柄な琉斗が抱いていると、まだ大人になりきらないフリッツの体は余計に小さく見える。

「あれ? どうしたの?」

 詩都香はひやりとした。ユキから送ってもらう、ということになっていたのである。

「いや、風呂入ろうとしたら車の音が聞こえたからさ。それよりもお姉ちゃん、あれどういうことだよ」

「あれって?」

 韜晦する間に、言い訳を組み立てる。さて、柿沼のことをどう説明すべきか。

「なんでうちに相川先輩がメシ作りに来るんだよ。意味わかんねーよ」

 ああ、そのことか。柿沼といっしょのところを見られたわけではなさそうだ。

 詩都香はほっと胸を撫で下ろしながら靴を脱いだ。

「今日遅くなりそうだったから頼んだの」

 今朝かけられた、「あたしにできることがあったら何でも言って」という申し出に甘えたわけである。

「それは先輩から聞いた。ていうか、なんで相川先輩なんだよ」

「ちょうどいいところにいたから。魅咲(みさき)のご飯、美味しくなかった?」

 琉斗は一瞬、なんとも言いがたい表情を浮かべた。

「……いや、思ったよりよかった。というかちゃんとできることに驚いた。あの相川先輩がいつの間に、って」

「失礼だな、あんた。何作ってもらったの?」

「ハンバーグ」

 琉斗にはちょうどよかろう。

「――でも、まあ、それなりってくらいのレベルかな」

 などと可愛くない寸評を加える琉斗。

「魅咲はほら、帰宅部だから。こういうこと頼めるのって他にいなくてね」

 という詩都香の説明に対して、琉斗はごにょごにょ、と抗議らしき言葉を呟いたが、聞き取れなかった。

 詩都香は自室に向かうために階段に足をかけた。

「あ、フリッツ抱いててね。着替えてくるから」

 制服を着ているときにじゃれつかれて毛がつくと、後が少々面倒である。

 部屋着に着替えた詩都香は、琉斗と向かい合ってリビングのソファに座った。その膝にさっそくフリッツが乗って丸まった。

「遅くなるたびに弁当やカップ麺じゃ可哀想だな、と思う姉の気持ち、あんたにゃわからんのかね」

「そりゃまあいいけどさ、相川先輩相手だと、ちょっと気を遣うんだよね。箸をつけてみるまで、不味かったらどんなリアクションとったらいいか悩んだ」

 正直な弟である。詩都香にもなんとなくその情景が想像できた。

「魅咲のこと、そんなに怖い?」

 からかい半分に訊いてみる。

 中学生の男子というのは、それも琉斗のように体格もよく腕っ節も強い男子というのは、全能感に近い感覚を持っているのではないか、と詩都香は想像している。彼女自身の中学生時代の同級生もそうだった。

 そんな同級生の男子を、子供だな、と見ていた詩都香だが、今になって少しわかる――それはたぶん、男の子が成長するに当たって必要なものなのだろう。

 その中学生男子たる琉斗だが、しかし魅咲にはまったく敵わないことも自覚している。だから怖いのだろうか、と思った。

「怖……くはないけど、まあ気を遣う。いや、ミサ姉は優しいよ。……でも、あのさ、ミサ姉って、前からああだっけ?」

 琉斗が「ミサ姉」呼びになった。中学に入る頃まで、魅咲のことをそう呼んでいたのだ。

「ああ、っていうのは?」

 琉斗はいったん口をつぐみ、詩都香の膝の上のフリッツを手招きした。

 フリッツは伺いを立てるように、詩都香の顔を仰ぎ見た。

「ほら来いよ、フリッツ」

 重ねて琉斗が言うと、フリッツは床に飛び降り、テーブルを迂回して彼の腕の中に飛び込んだ。

 初めてこの家に来たときに比べれば、琉斗にもだいぶ懐いている。家を空けることが多い父にはまだまだだが。

 近頃は詩都香の帰りが遅くなるので、フリッツに夕食を与えるのはたいてい琉斗の役割だ。そんな折、このぶっきらぼうな弟も、猫相手に愚痴をこぼしたりするのだろうか。

 詩都香はいったん立ち上がり、キッチンからミネラルウォーターのボトルとグラスを二つ持ってきた。

 グラスに水を注いでやると、琉斗は礼も言わずに右手を伸ばした。左手はフリッツをかかえたままだ。

 そうやって抱きかかえる相手がいると、琉斗も素直な言葉を吐けるのかもしれない。

「で、魅咲がなんだって?」

 詩都香は琉斗がグラスを置いてから尋ねる。

「……いや、笑うなよ? ――なんか、綺麗になったな、って」

 予想外の言葉に、詩都香は、ふはっ、と変な声を漏らしてしまった。

「笑うなって言っただろ――あ、悪い」

 琉斗はむくれて、腕に余計な力を入れてしまったらしい。フリッツが抗議の声を上げた。

「笑ったわけじゃないわよ。ちょっと意外だっただけ。ていうか、魅咲は昔から可愛かったでしょ」

 詩都香が言うと、琉斗は「そうなんだけどさ」と目を落とした。

「久しぶりに会ったわけでもあるまいし」

 魅咲は高原家にもよく来るし、つい先日にも二人は顔を合わせているはずだ。

「つっても、そいうときはお姉ちゃんとかといっしょだろ? 二人きりで長時間っての、実際久しぶりだし」

 言われてみればそうかもしれない。

「そんで、魅咲の魅力に気づいた、と?」

「そういうんじゃねえよ。……でも、そうなのかな」

「どっちよ」

 詩都香は少し呆れて、グラスの水を喉に流し込んだ。

「いや、台所に立って料理してるミサ姉とか、俺の反応をハラハラして窺ってるミサ姉とか、やっぱり可愛かったかな、って。なんていうか、女らしいっていうか」

 琉斗は朴訥な方だが、姉と違ってひねくれてはいない。こういう素直な心情も口にする。

 詩都香は先ほど想像した情景に修正を加えた。「おら、食えっ!」と皿を突き出されたわけではないようだ。

 ひょっとしたら詩都香の方が、誰よりも魅咲と親しいと自負している詩都香の方が、魅咲のことをわかっていないのかもしれない。

 しかし、姉に劣らず鈍い琉斗が気づくほど魅咲に変化があったということは、たぶん……。

「ま、恋すりゃ女は変わるってことなんかな」

 と、詩都香の思考を先取りするかのように、琉斗が呟いた。

「かもね」

 詩都香も相槌を打つ。

 魅咲が幼馴染の三鷹誠介に恋心を懐いていることは、いつの頃からか高原姉弟の共通認識となっていた。それが間違いではなかったことは、先月魅咲自身の口から確認がとれている。

「うまくいくといいんだけどね」

 詩都香がふと漏らしたそんな言葉を聞いて、琉斗が目を伏せた。

「……はぁ、まったく」

「何よ」

「なんでもないよ」

 琉斗はフリッツの前脚を掴んで、詩都香に向けてぷらぷらと振らせた。

 されるがままになっているフリッツの黄色い瞳が、詩都香を責め立てているようだった。

 詩都香はミネラルウォーターを飲み干して立ち上がった。

「お風呂入るんでしょ? 洗濯物はかごに入れといてね」

「ああ」

 琉斗もフリッツを床に下ろして立ち上がった。



※※※

 脱衣場で一人になった高原琉斗は、服を脱ぎながら思案していた。

 話を打ち切って立ち上がったときの姉の顔――

(いいのかよ、それで)

 あの姉は、本当になんとも思わないのだろうか。

 それとも、親友のために無理をしているのだろうか。

 困ったことに、実の姉のことなのにまったくその判断がつかなかった。

(つーかこの分だと、お姉ちゃんが遅くなったらまた相川先輩来るかもしれないってわけか)

 それはそれでやりづらい。

 少し考えてみてから、ふるふるとかぶりを振り、浴室の戸を開ける琉斗だった。

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