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放課後の魔少女——楽園は次の角に  作者: 結城コウ
第六章「苦楽を分かつ人々」Sie teilen Lieb und Leid.
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6-5

 柿沼の運転する車が、横浜の中心街のコインパーキングに入ったのは、午後九時近くになってからだった。

 ほとんど行ったことのないみなとみらいの辺りだろうか、それで夜景の素敵なレストランとか……、などと勝手に期待していた詩都香(しずか)だったが、年に何度か足を運ぶエリアなので、内心少しがっかりした。

 とはいえもうすっかり空腹である。駐車場を探す柿沼が車を右往左往させる間も、お腹が鳴らないかと心配で仕方がなかった。

 ふたり並んで少し歩き、こじんまりとした店の前に着いた。ギリシャ料理のレストランだという。

「これがこのお店の名前ですか?」

 この一角に足を踏み入れたことのない詩都香は、入口の上に掲げられた看板を指差した。ギリシャ文字である。

 ――“Αρχιπέλαγος”。

「うん。英語にも入ってる言葉だね」

「ええ。アーキペラゴウ――“多島海”。こちらの原語のアルキペラゴスはエーゲ海のことですね」

 言ってから後悔した。柿沼はきっと説明してくれるつもりだったのだろう。こういうときに男性を立てないからモテないのだ。

「よく知ってるね。というか読めるんだ。さすが高原さん」

 柿沼はそう言って一歩横にずれた。レディ・ファーストということか。

 詩都香は柿沼に一礼して戸を押した。

 と、斜め後ろの彼が微かな鼻歌をこぼしているのに気づいた。

 ジュディ・オングの有名曲のサビだった。機嫌を損ねたわけではなさそうだ。

 外見に違わず、店内も広くはなかった。テーブルも奥に四脚だけ。あとはカウンター席である。

 また、雑音が少なかった。客たちのマナーのある雑談と店内BGM。流れているのはギリシャ音楽なのかと思って耳を澄ませたが、ケルト音楽だった。

「ギリシャ料理って、食べたことないです」

 予約席に座った詩都香は口を開く。テーブル上のメニュー表は飲み物だけだった。食事の方は既にコースが予約されているようだ。

「前に仕事で来て気に入ったんだけど、プライベートで来る機会がなかなかなくてね」

 と、同じく着席した柿沼。

 店員が飲み物の注文をとりにきた。

 アルコール飲料にはギリシャらしいものがたくさんあったが、ソフトドリンクはそうでもなかった。無論、詩都香もギリシャでどんなソフトドリンクが飲まれているのかは知らない。きっとコカ・コーラ辺りに席巻されているのだろう。

 ウーロン茶もどうかと思い、しばらく迷った末、せめてギリシャっぽい柑橘類を、とオレンジジュースを注文する。

(ギリシャとオレンジ……?)

 店員に注文を伝えてから、詩都香は首をかしげた。

 ムスリムは征服した土地にまずナランハ(オレンジ)を植えていったという。アメリカ原産の種が“バレンシア”を名乗るほどスペインのオレンジは有名だが、元はアル=アンダルスに進出してきた後ウマイヤ朝によって持ち込まれたものだ。ギリシャのオレンジも、本格的に栽培されるのはオスマン朝の侵攻以後だろう。となると、詩都香が読書体験を通して知る古代ギリシャでオレンジは栽培されていなかったわけだが、ゲーテの「ミニヨンの歌」にも歌われているように、地中海世界と言えばレモンやオレンジといった柑橘類、というイメージを抱いているのである。

 ――と、このように、現代ギリシャについては案外知らないものだ、と詩都香は飲み物を選択する間に思い知った。今度図書室でギリシャの観光ガイドでも読んでみるか。

 そうしながら、ジュースひとつを選ぶのに何をぐだぐだと考えているんだ、と自分に呆れる気持ちも湧く。成人したら、ワインだのビールだのの銘柄であれこれ薀蓄を垂れる鬱陶しい女になりそうだ、などと。あるいは今既にそうだろうか。

 初めての店で初めての相手と会食するという慣れない状況は、詩都香をも自省的にさせる。

 柿沼も同じイメージを抱いているのか、オレンジジュースを注文した。彼はこれからまた車を運転しなければならないのだ。

 やって来たジュースで乾杯する。

「すみません、柿沼さん。わたしのせいでお酒飲めなくて」

「いや、いいよ」柿沼はオレンジジュースに口をつけてから言った。「僕も飲まないわけじゃないけど、酒好きってほどでもなくてね。つき合いでたいがい懲りてる」

「あー、この業界ってそういうの大変そうですね」

「相手にもよるけどね。まあ概して言えば、僕みたいな実績に乏しいマネージャーなんていい餌食だよ」

 最先端の流行を追い、あるいは生んでいるはずの芸能界は、旧態依然としたアルハラが横行する世界でもあるらしい。

 正面に座って笑う柿沼を、詩都香はちらちらと観察した。

 柿沼はモテそうだ。独身で今は恋人もいないというが、たぶん、仕事に精を出しすぎているためだろう。

 際立って美形というわけではないものの、顔立ちは悪くない。唇の左下にある小さなほくろもアクセントになる。耳が大きめなのが、好みの分かれるところか。スマートで、どんな格好でも似合いそうである。もちろん芸能界に身を置いているだけあって、服装も趣味がいい。今日のは特にパリッとした着こなしだ――

「着替えたんだよ」

 と、柿沼が茶目っ気を交えて口角を吊り上げた。

 詩都香は赤くなった。不躾な視線はしっかり気取られていたようだ。

「仕事でしわしわになっちゃうからね。それに、学校帰りで制服の女子を連れ回すというと、やっぱりアレだろう? 少しでもいかがわしく見られないように、と気を遣ったんだけど、ひょっとして空回りだったかな」

「そんなことはないです。……いいと思います」

 詩都香は消え入りそうな声でそう応じる。

 前菜のタコのマリネサラダが運ばれてきた。控えめな照明を受けて、オリーブオイルがてらてらと光っている。

 二人はフォークをとった。

 食事をとりながら、まずは軽い雑談。

 柿沼は映画に詳しいと涼子に聞いていたので、その話題から入ってみた。詳しいどころではなかった。詩都香の得意とする古めの映画にしても、低めに見積もって同等。最近の作品に関しては遥かに上である。なんでも、公開される映画は忙しい日々の隙間を縫ってほとんど観ているのだという。

 詩都香の視聴した作品を、柿沼が未見であることももちろんある。そんな作品の話題になると、柿沼は楽しそうに詩都香の話を聞く。そして、次の機会までに視ておくことを約束するのである。

 聞き上手だな、と詩都香は思った。人見知りのくせに語りたがりな彼女のような人間にはありがたい相手だ。

 イカのフライが来た。ソースにスパイスが効いていて、オレンジジュースよりもビールが合いそうである。

「これは……さすがにビールが欲しくなるね」

 柿沼も同じことを思ったらしい。

「ですよね」

 詩都香がビールの味の想像を交えて相槌を打つと、

「おいおい、高校生」

 と、苦笑交じりにたしなめられた。

 だいぶ場がほぐれてきた。

「……柿沼さん、無理せずビールくらい飲んでもいいですよ。代行とかで帰れるでしょう?」

「それだと高原さんを送っていけない」

「わたしなら大丈夫ですよ。まだまだ電車もありますし」

「ここから代行で帰ったら高いよ」

「そんなこと言って、経費で落とせるんでしょう? わたしのケアは事務所の業務であって、ポケットマネーでやることじゃないはずです」

「バレたか」

 柿沼は小さく両手を挙げた。

「だから――」

「いや、いいよ。僕は酒がそこまで好きじゃないって言ったろ? それに、高原さんをお家までちゃんと送っていくところまでが仕事だ。涼子からも言われてるし」

「涼子から?」

 柿沼は首を傾けて斜め上を見た。

「どうもあいつも勘違いしてるらしい。詩都香のことお願いね、だってさ」

「勘違い」

 と口にしてから、詩都香はあんぐりと口を開けてしまった。

 まさか涼子は、詩都香と柿沼がくっつくとでも思っているのだろうか。

(アホか。柿沼さんみたいな華やかな世界に身を置く大人が、地味で無愛想なわたしとどうこうなるわけないじゃない)

 柿沼はくっくっ、と喉の奥で笑った。

「笑えるよね。高原さんみたいな子が、しがないマネージャーのおっさんと恋に落ちるもんかっての」

 ――ズルい。

 そこでそんな風に自己卑下するのはズルい。大人のやることか。

 詩都香は赤くなった顔を俯かせてグラスに手を伸ばした。中身は色付きの氷水になっていた。思考を切り替えようとおかわりを注文する。

 柿沼もそれに倣った。ただし、今度はジンジャーエールだった。

 二人分の飲み物と牛肉の串焼きが運ばれてきたタイミングで、柿沼の方が先に口を開いた。

「さて、話があるんじゃないかな?」

 詩都香は串に伸ばしかけていた手を止めた。

「……やっぱりわかります?」

「そりゃ、いきなり僕と二人で食事に行きたいなんて言われたらね」

 柿沼自身はまったく勘違いしていなかったようだ。それはそれで悔しくもある。

 が、詩都香は話を切り出すことにした。

「涼子のことです。わたし、涼子のこと全然知りません。それを今回思い知りました。涼子のこと――アイドルとしての涼子のこと、教えてくれませんか?」

「まあ当然涼子のことだよね。何が聞きたい?」

「まず、わたし、涼子と友達づき合いしてていいんでしょうか」

 柿沼は意表を突かれた様子だった。

「どうして、そう思う?」

「前に友達に言われたんです、涼子とわたしじゃ住む世界が違う、って。そのときは否定しましたけど、でも今回みたいなことがあるとやっぱり……」

「涼子といっしょにいるのが嫌になった?」

「違います。何かと注目される涼子といっしょにいれば、今回みたいなことがあるかもしれないってことくらい、わたしにだってわかります。覚悟はしていたなんて口が裂けても言えませんけど。でも、それでも、わたしに迷惑がかかることよりも、そのことで涼子が負い目を感じることの方が……。今朝電話で話したときも、やっぱり涼子がつらそうで」

 柿沼は目を伏せた。

「高原さんは被害者だ。涼子のことまで慮ってやる必要はないよ」

 噛んで含めるような口調で言う。

 詩都香はかぶりを振った。

「それを考えてしまうのが、友達ってものじゃないでしょうか」

「……そうかもしれないね。涼子もまだまだだな」

「と、言うと?」

 詩都香は意外に思って聞き返す。

「涼子はもう高原さんと友達のつもりだよ。いや、それは高原さんもわかっているか。これからも高原さんと友達でいたいと思っている、それは保証する。で、今の高原さんの言葉を聞くと、涼子は今朝の電話で笑い飛ばしてやるべきだったんじゃないかな、って。……あ、怒らないでね。だけど、あんな風に謝罪したら高原さんはかえって落ち込む――友達ならそれをわかるべきだったのかもしれない」

 たしかに、笑い飛ばされたりしたら、詩都香は腹を立てたかもしれない。ひょっとしたらそれで涼子と喧嘩になったかもしれない。

 ――しかし、今よりも気持ちがすっきりしていたかもしれない。

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