6-4
詩都香の携帯電話が振動したのは、あやめといっしょに図書館を出た直後だった。
「もしもし?」
知らない番号だった。相手の心当たりはあれど、誰何する調子になる。
『あ、もしもし?』予想通り、柿沼の声だった。『河合涼子のマネージャーの柿沼だけど、高原さん、だよね?』
「はい、高原です」
『すまない、遅くなった。まだ学校?』
「ええ。今帰るところでしたけど」
『間もなく着く。正門のところに車をつけるけど、大丈夫かな』
「この時間は車通りも少ないので大丈夫だと思います」
『わかった。じゃあ、悪いけどあと五分ほど待ってて』
決行か。この時間からだと、帰りは遅くなりそうだな、と詩都香は少し逡巡した。自分はともかく、仕事帰りで疲れているであろう柿沼に申し訳ない気もする。
そんな風に気を回してから、内心苦笑いした。今朝はそれを十分承知して要求したはずだ。
詩都香が携帯電話をしまうと、あやめが口を開いた。
「お迎え?」
「まあ、そんな感じです。先輩、ひとりで帰れますか?」
「何言ってんの」
後輩に子供扱いされたあやめは力の抜けた笑みを漏らした。
「でも、敬語だったし、親御さんじゃないってこと?」
校門をくぐったところで、あやめはふと気がついたように尋ねる。
「あ、ええと、まあ。し――知り合いの人です」
はじめは「親戚」と説明しようとしたが、底の浅い嘘はすぐにバレる、と思い直す。柿沼との関係を説明する適切な言葉が見つからず、少しばかりまごついた。とはいえ、これ以上ふさわしい言葉もないだろう。
「知り合い?」
「えーと……」
と、ちょうどそのタイミングで、校門の前に車が停まった。
すぐに運転席から柿沼が飛び出す。
「高原さん! ごめん、遅くなった」
「あ、こんばんは。なんだかこちらこそすみません」
と、柿沼に会釈しながら、詩都香は横目であやめの顔を窺った。
当然ながら、怪訝そうな表情である。
言い訳が浮かばず、上体を起こした詩都香は柿沼に視線を戻した。
忙しく駆けずり回ってきたはずの柿沼だが、すっきりとしたスーツに身を包んでいた。それも、普段見るものよりいくぶんグレードが高そうに見える。アイドルのマネージャーというよりも、まるで若手エリート社員のようだ。
「ええと、そちらは」
「ああ、学校の先輩です。図書館でいっしょになったもので」
柿沼に向き直ったあやめが、ひとつお辞儀をしてから口を開いた。
「こんばんは。飛鳥井あやめです。高原さんのひとつ上に当たります。――えと、それでお二人はどのような……」
さっそくの切込みに、詩都香は身構えた。この先輩は見た目の印象を裏切って言いたいことをストレートに言うタイプだ。
「柿沼です。はじめまして。高原さんとは、ええと、しん――」
「知り合いです」
柿沼の言葉の行先を察して、先ほどと同じ説明で遮る。避けたばかりの「親戚」などという嘘を吐かれたら、いかがわしい関係だという誤解を与えかねない。
詩都香の方をちらっと見た柿沼が、あやめにもうひと声かけた。
「そう、ちょっとした知り合い。あ、もう遅いけど、飛鳥井さんも送っていこうか?」
「いえ、結構です」あやめが胸の前で両手を振る。「うち近いんで。……おふたりでごゆっくり」
疑惑は払拭されていないようだ。
柿沼は苦笑いしながら、「じゃ、気をつけて」とあやめに向けて言ってから、車の助手席側に回り、ドアを開いた。
「どうぞ、高原さん」
「あ、ありがとうございます。――飛鳥井先輩もお気をつけて」
「はいはーい」
あやめは詩都香たちに手を振ると、東の方角へ歩き出した。
助手席に詩都香が座るのを見届けてから、柿沼が運転席に乗り込んだ。
「じゃあ、僕らも行こうか。一応横浜のお店を予約してあるんだ」
「あ、お願いします」
柿沼は表情を引き締めて車を発進させた。
車はすぐに歩道上のあやめを追い越す。
すれ違う一瞬、じっと観察されている気がしたが、詩都香は気づかないフリをした。
「……なんか誤解されているようだね」
柿沼が前を向いたまま唇の端を上げた。
「……ですね。困っちゃいますね」
「僕は別に困らないけど、高原さんはちゃんと誤解を解かないとな」
「でも、説明しづらいですね」
そう応じつつ、別に困らないとはどういうことか、と詩都香は深読みしそうになった。詩都香とそういう関係だと思われるのは不本意ではない、ということか。
(いやいや、まさか)
馬鹿馬鹿しい妄想を振り払う。
しかしそうしながらも、狭い車内に年上の男性と二人きり、という状況が嫌でも意識されてきた。
――まずい、何か話さねば。それも、あの雑誌のことではなく……。
「柿沼さんって、彼女さんとかいないんですか?」
バカか。
話題の引き出しの少ない自分に心底呆れた。
(本当にバカか、お前は)
いると言われたらどうする? ――わたしと二人きりで食事なんて、誤解されませんか?
――いや、ダメだ。この方向に進んだら、話題を制御する自信がない。
「うん? いや、いないよ」
「あ、そうなんですか」
詩都香は安心してひとつ息を吐いた。
(って、何だ今の。まるで柿沼さんに恋人がいなくてひと安心、みたいじゃないか)
自分の仕草が相手にどう映ったかが気になり、詩都香はどぎまぎした。
別の話題、別の話題、話題、話題……。
「そういえば、柿沼さんの下の名前聞いてませんでした」
無難な話題が見つかった。
「ああ、そういえばそうだね。ともひと、っていうんだけど。字は……高原さんの世代だと知らないかな。それに、興味もないだろうし」
「……?」
詩都香は小首をかしげて続きを促した。
「いや、切れ味鋭いスライダーが武器だったプロ野球のピッチャーがいてね。僕もその世代じゃないんだけど。上の世代の人が相手だと、この自己紹介の仕方がいちばん通りがよくて」
「あ、わかりました。難しい方の『智慧』の『ち』に、『仁義』の『じん』ですね」
「よく知ってるね」
柿沼智仁が横目で意外そうな眼差しを向けてきた。
「ええ、まあ」
詩都香は言葉を濁した。
「高原さんの名前はちょっと珍しい字だけど、何か謂れはあるの? ――あ、変な質問だったらごめん」
「いえ。うちの母は、父が海外に赴任中にわたしを産んだんです。で、よくわからないんですけど、通信が不自由なところだったらしくて、手紙やメールは全部その国の言葉。父は『しずか』って名前に決めたんですけど、アルファベットだったので、母はできるだけ読みづらい字を当ててやろうと思ったのかも。妊娠中に置き去りにされた恨みもあったのかもしれませんね」
努めて軽い調子で語ったが、母のことを想うと胸がうずく。幼く甘美な記憶だけではない。
「おやおや、僕も相手が見つかったら気をつけないとな」
柿沼は苦笑交じりにそう言ってから、「あっ、ごめん」と付け足した。
たしかに今の言い方では、詩都香の名前が夫婦間のトラブルの結果だという説を受け入れたことになるか。
自分は気にしないのに、細かいことに気を配る人だ、と詩都香は感心した。
「でもそうなると、高原さんの名前はご両親の合作ということになるわけだ」
「うまいことまとめますね」
詩都香は小さく笑った。少し緊張がほぐれてきた。
余裕が生まれてから柿沼の横顔を盗み見ると、まだ普段よりも固い表情だった。
「……柿沼さん? 何かありましたか?」
「いや、実は少し緊張している」
「え?」
意外だった。彼の方も緊張しているとは。
それに、意識されているとわかったら、詩都香もまた意識してしまう。
「えっと――」
「助手席に人を乗せることってほとんどないから。間違ってもぶつけられない」
「ああ、そういう……」詩都香は脱力した。「涼子を乗せるときは後ろなんですね」
「アイドルだからね。万が一のことを考えると。――あ、今は別に高原さんを軽んじているわけじゃなくて、後ろだと話しにくいかな、と思って」
「いいですよ、そんなの。わたしもこっちの方が話しやすいですし」
今度は彼の緊張をほぐしてやろう、と詩都香はできるだけ明るい笑顔を向けてやった。




