6-2
(どうして……? どうしてこんなことに)
頭の中がぐるぐると渦を巻いている。
ひとと顔を合わせるのが怖かった。みんながあの写真を見ている気がする。
人気アイドルと、まるで恋人のように手を繋いで走る姿……。
俯いたまま廊下を駆け抜け、階段を一段とばしで下り、昇降口を出た。
文化部棟の裏まで小走りでたどり着いてから、携帯電話を取り出した。
電話帳を開き、お気に入りに登録している番号を呼び出す。
相手はすぐに出た。
「もしもし?」
『おはよう、詩都香。……あの写真のことだよね?』
「あっ、うん……」
涼子ももう知っているようだ。
『ごめんね。本当に、本当にごめん。私……どう謝っていいのかわからない』
その声があまりに沈鬱に響くので、詩都香の方が心配になった。
「涼子が悪いんじゃないけど……」
『ううん、私、ちょっと調子に乗ってたのかも。詩都香みたいな友達ができて、嬉しくて、軽率に出歩いてた。……ん、私は平気だよ。こういうことされる立場だってわかってるもん。……なのに、わかってるのに、詩都香を巻き込んじゃった』
「涼子が悪いんじゃないって!」
珍しく大声を出してしまい、ハッとする。文化部棟に生徒がいたら、聞かれてしまったかもしれない。
『……ごめん、ありがと、詩都香。でも、どうしよう? 今柿沼さんといるんだけど、代わってもいい? こういうのってほら、大人のひとの方が……』
それはそうかもしれない。
詩都香はその申し出を受け入れた。
涼子の『ごめん』の声をもう一度残して、通話相手が代わった。
『もしもし、高原さん? ……すまない。とんだことになった』
「あっ、ええ。はい……」
柿沼の声を聞いて少し安心し、力の抜けたような声になった。
だがそれは、かえって向こうを心配させる結果となったようだ。
『大丈夫、高原さん? 今話せる?』
「ええ、大丈夫です」
こころもち声を張って応答する。
『こちらのミスでもある。こういうのをチェックする部署があるんだけど、行き届いていなかったようだ。本当にすまない』
「あ、いえ……」
詩都香の性分では、涼子と柿沼にこうも重ねて謝られると、むしろかえって気後れしてしまい、そこまでのことをされたのだろうか、とまで思ってしまう。
『でも、涼子はともかく、一般人の高原さんの写真を、横顔だけとはいえ本人の許可なしに掲載したのは肖像権の侵害だ。高原さんさえその気なら、訴訟も起こせる。……どうする?』
訴訟――
「あー……」
実のところ、まったく興味がないと言えば嘘になる。普段は小心でありながら、特別な体験に憧れる――詩都香はそんな人間なのだ。
(訴訟……。そういえばカフカの『審判』って、原語に忠実に訳せば「訴訟」なのよね。裁判所かぁ、縁がないと思っていたけど……)
『高原さん?』
考え込んでしまった詩都香を気にかけたようで、柿沼が詩都香を呼んだ。
「――あっ、すみません。涼子にも迷惑がかかるかもしれないので、裁判沙汰はなしで」
それが現実的な判断だろう。
『そうか……。高原さんならそう言うかな、とは思っていたけど。一応出版社にはうちの事務所の名前で抗議しておく。だけど、思うに高原さんとしては――』
「ええ、あまり大ごとになるのは望むところではありません」
そうやってまた注目が集まるのは御免こうむる。
『わかった。他のマスコミに嗅ぎつけられないように気をつける。それとは別に、うちからも何らかのお詫びがしたい。といっても――』
「お金は難しいってことですね。それだと逆に雑誌の掲載料みたいになっちゃう。わたしがどんなに無関係と言い張っても、いちど風評が立ったらなかなか消えないでしょうし。――ええと、つまり、写真はともかく、本文の方は涼子にもわたしにも悪意のあるものではなかった。写真だって、そう、大局的に見れば、アイドルとしての涼子に損はない。それで事務所がわたしにお金を渡したら、迷惑料というより、宣伝に協力したことへの謝礼のように見られかねない」
柿沼の話を聞いている内にいくらか落ち着きを取り戻した。と同時に、急に饒舌になってしまっていた。
それに気づいて、詩都香は口をつぐんだ。まだ平常心とは言えないようだ。
詩都香の勢いに呑まれていたのか、柿沼は小さな間を置いてから応答した。
『ん、まあそういうことなんだけど。しかしどうやって埋め合わせをしたらいいか……』
「柿沼さん、今日の夕方も、涼子を迎えに来るんですよね? そのとき会えませんか?」
それくらいの時間の経過があれば、平常心に立ち戻れるだろう。
『ええと、実は今日はお昼にお迎えなんだ』
柿沼が心苦しそうに言う。
学校は午前で早退するのだそうだ。
「……何時に終わりますか? 涼子を送ってくるのは何時くらい?」
『七時近くになるだろうね』
「ならこうしましょう。柿沼さん、どこかに食事に連れて行ってください。どうせなら東京……だと帰りが大変か。横浜辺りがいいです。高校生では行けないようなお店。それで今回の件は……」
『えっ?』
柿沼が驚いた声を上げた。
詩都香は押し切ることにした。今の彼女は、負い目を抱える柿沼より有利な立場にいる。
「閉門は七時半なので、それまで図書室にでもいます。それより遅くなりそうだったら連絡ください」
『いや、しかし……高原さんはそれでいいのかい?』
「正直ちょっと傷つきましたけど――涼子に迷惑がかからなかったのなら、それでいいです」
殊勝な態度をとっておく。柿沼とて、訴訟沙汰にはしたくないはずだ。
それから二、三言話して柿沼の了承をとりつけ、通話を切った。
(さて、問題は……)
弟の今日の夕食である。
近頃の姉の忙しさの割を食う形になっている弟に、さすがに申し訳ない気持ちが湧いてくる。しかも今回は、詩都香だけお高いお店に連れて行ってもらうつもりなのだ。
携帯電話をポケットに戻し、文化部棟の裏を出て校舎に向かおうとしたところで、
「詩都香、こんなところにいたんだ」
魅咲と鉢合わせになった。
「魅咲」
「探したよ。もう授業始まっちゃった」
「ああ、ごめんね。って、それじゃあんたも遅刻じゃない」
魅咲はそれには答えず、もごもごと口を動かした。
「魅咲?」
「……ん、ごめん。ええと、北山先生が探してたよ」
「それは現に授業をサボっているから?」
「いや、そっちじゃなくて。たぶん、あっち」
その意味するところを理解した詩都香は、深い溜息を吐いた。
学校という場は理不尽だ。なぜ被害者の自分がお説教――お説教であることは確信している――を頂戴しなければならないのだ。
だいたいの事情は推察できる。学校に連絡したのは市内の善意の人なのだろう。ミズジョの生徒がわざわざ雑誌を持ち込んで教師に注進に及ぶとは思えない。
で、職員室ではこの生徒はいったい誰だ、という議論になる。最年少の担任である北山綾乃がおずおずと手を挙げる。「あのぅ……うちのクラスの生徒です」とか何とか。
先輩教師に「北山先生の指導が甘いんじゃないですか」くらいは言われたかもしれない。いや、きっと言われたことだろう。
その鬱憤の矛先が詩都香に回ってくることになる。しかも、説教されるべき点が詩都香にまったくないとは言えない。
市内の人間なら、あの写真が撮られた場所が中心部の繁華街であることは判別できるだろう。
いまどき、盛り場には近づかないように、と言われてそれを守る高校生がいるとは思えない。思えないから、教師もわざわざ言わない。
だけど、「そんなところに行くから」とか、「油断しているから」とかと言われれば、返す言葉もない。勝手に撮られて勝手に載せられたんです、という抗弁も、この叱責の前には意味を成さない。
おまけに、いま現に詩都香は授業をエスケープ中である――
昇降口に向かって歩きながらそんな想像をもやもやと巡らせて、詩都香はまた肩を落とした。
魅咲が心配そうな顔で立ち止まった。また何か言いかけて、言葉を飲み込みんだ。
詩都香には、さっきも今も魅咲が何を言おうとしたのかわかる。
――こんなことになるんじゃないかと心配してた。
そして、性格上魅咲がそれを口に出すことに抵抗を感じていることも。
「あのさ、詩都香。あまり気を落とさないでね。つきなみだけど」
「ううん、ありがとう」
詩都香は、珍しく素直に慰めてくれる魅咲に、なんだかくすぐったさを覚えた。
どうやって“平気アピール”をしてやろうか、と思っていると、
「それでさ、あたしにできることがあったら何でも言って」
渡りに船。詩都香は即座に頭を下げた。
「重ねがさねありがとう」
そのあまりに早いお礼の言葉に、魅咲の方が怪訝そうな様子になった。
「それでさっそくだけど、お言葉に甘えてやってほしいことがあるんだよね」
「……?」
何を言われるのか、という不安の色が魅咲の瞳に兆した。




