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放課後の魔少女——楽園は次の角に  作者: 結城コウ
第五章「猫と弟とおともだち」Katze und Bruder und Freundin.
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5-5

 夕食後、詩都香(しずか)は部屋に籠もって今日教授された魔法の準備に入った。

 最初は鏡があった方がいいと言われていた。詩都香の部屋にだって鏡くらいある。

 姿見の前に立つ。

 デジデリウスは言っていた。

「鏡の中の自分に向かいながら、記憶から消したい事柄を反芻するんだ。できるだけ細部に渡って。お前にはつらいことかもしれんが……」

 そんな風に気遣ってくれる彼に悪いと思った。

 実際に教えてくれる前に、彼はいくつか注意事項を申し渡した。

「気が進まない、というのは二つ理由があるんだ。ひとつめは他でもない、お前の異才のせいだ」

「どうして?」

 詩都香は尋ねた。つながりが見えない。

「お前のあの力は、感情のエネルギーを〈炉〉に通すことで発揮される。怒りや憎しみといった負の感情のエネルギーが手っ取り早い。だけどな、詩都香、複雑で人間らしい感情は記憶と結びついている。怒りも憎しみも、愛情も親しみも。お前が記憶を意図的に消せるようになったら、そうした感情ももろともに失われることになる。誰かに対する憎しみを奮い起こすために、その相手と過ごした時間の記憶を消す、なんてことも可能だ。親愛の情というブレーキを振り切って、そのとき感じる憎しみを増幅することができる。そうなれば“アレ”もやりやすくなる。それは私の望むところではない」

 なるほど。そんな使いみちは考えてもみなかった。

「でも今のわたしの場合だったら、痴漢に関する記憶を消せば、男性恐怖症も治る、ということですね」

「……そうとも言えるがな。だから私はこれから教える術式にセキュリティを組み込んでおくことにした。もっと魔法の知識が上がれば、どこにそれが組み込まれているのか読み取ることもできるようになるだろうが、今は無理だろう」

「セキュリティ?」

「そうだ。記憶は脳内のニューロンのネットワークだという。それを断ち切ったり、伝達を阻害したりする魔法もあるが、非常に高度で危険もあり、今のお前には扱えない。だから今回教えるのは、あくまでも記憶を心の中で封じ込めるための魔法だ。しかし封印は封印、破れることもある。忘れていたことを強く思い出そうとすれば、な」

「忘れたいことをわざわざ思い出そうなんてしませんよ」

「そうとも言い切れないのが人間の不思議なところだが、まあいい。というわけで、お前が忘れていたことをわざわざ思い出そうとして封印を破ったとき、この魔法の知識は失われる。それがセキュリティだ」

「まあ、そんなにぽんぽん使うものじゃありませんから、それでいいですよ。でもそうなるまでは何度も使える、ってことですか?」

 デジデリウスは顔をしかめた。

「だから教えたくないんだ。何度も使うことなんて考えるな」

「あ、すみません」

 と、一応謝っておく。

「ま、実際に一度使えば、二度目はそうそう使いたくはならなくなるだろうがな」

「というと?」

「気が進まないふたつめの理由だ。この魔法はつらいんだよ。やってみればわかる。この魔法は便利でもあり、不便でもあるんだ。つまり、何らかの記憶を消したということの記憶は残る。心の中にできた空白を、他の記憶で埋めてうまく整合性を残そうとする。一例を挙げよう、今日お前はここで新しい魔法を習う。それを使って記憶を消す。となると、それに付随する記憶に齟齬が生じる」

「ここに来……ここで今デジデリウスさんと話したことの記憶が、消えてしまった記憶と結びつかなくなる、ってことですね」

 危ういところで言い直した。最初からこれ目当てで訪ねてきたのだと勘づかれ、へそを曲げられては困る。

「そうだ。記憶を消した記憶さえ残らないのだったら、あの会話は何のことだったのだろう、と思い悩むことになる。が、今回の魔法はそういう心配がない。心の方で勝手に辻褄を合わせて、嫌な記憶を封じるための魔法を習ったんだ、ということも覚えている」

「便利じゃないですか」

「だからこそ不便でもある。使えばわかる。私が勧めない理由もな」

 ――そうして習った魔法は、防御障壁の応用だった。あまり難しいものではない。魔力の必要量も多くはなかった。詩都香の〈器〉の容量なら、〈モナドの窓〉を開かなくても使える。

 本来は外部の脅威に対して使用する防御障壁を、特殊なやり方で自分の心の中に張る。そうやって、刺激から隔絶し、記憶が蘇らないようにする。

 詩都香は鏡の中の自分と相対しながら、その記憶を十分に思い起こし、見定め、障壁を張った。

 効果のほどは、最初はわからなかった。

(……ん、いけたのかな。……わたしは何を忘れようとしたんだっけ? ……あ、思い出せない。成功だ)

 心が軽くなった。翼が生えたかのようだった。

 普段いろいろと溜め込みがちな性格の詩都香にとって、これは福音のような魔法に思われた。

 詩都香は小躍りしながら鏡の前を離れた。

(すごい。これ、もっと使って嫌な記憶をどんどん封じていけば――)

 揺り戻しはすぐにやって来た。

(……っ! 何だこれ)

 ものすごい不安に襲われた。吐き気までする。

(わたし、何を消した? ……何? 何を? わたし、わたし……)

 思い出せない。

 記憶を封じたことは覚えている。

 が、何を封じたのだろう。

 とても大切なことだったのかもしれない。

 もちろん消したいと思ったということは、嫌な記憶なのだろう。

 でも、とても大切なことだったのかもしれない。

(わたし……わたし、いったい、何を? 新しい魔法を覚えてまで記憶から消したかったもの……何? どうして?)

 恐怖。

 とても立っていられず、詩都香はフローリングの床にへたり込んだ。

 人格というものが、記憶と結びついているのだとしたら、

(わたし……わたしの大切な一部。何だ? それさえ思い出せない。消えちゃった。待って、こんなの聞いてない)

 絶望を伴う目眩。

(いや、さんざん言われたんだった。これか、デジデリウスさんの言ってたのは。でも、こんな……)

 体がどろどろと溶けていくかのような錯覚さえ覚えた。

 吐き気に悩まされながら、ベッドに潜り込んだ。

 そのまましばらく不安と戦う。圧倒的に不利な戦いだった。

 おまけに――

(そうだ、怖いからといって思い出そうとしてはダメなんだ)

 あまり強く欠落を取り戻そうとすると、魔法が破れてしまう。

 そう思うとますます苦しくなった。

 詩都香は枕元の携帯電話に手を伸ばした。

 相手はすぐに出た。

『もしもし? なんだよ、家の中で』

 弟の琉斗(りゅうと)である。下でテレビを見ているはずだ。

「もしもし? ごめん、ちょっと具合が悪くって。水持ってきてくれない?」

『は? さっきまでピンピンしてたじゃねえか』

「たぶん、アレが始まったんだと思う」

『え? お姉ちゃんそんなに重い方だっけ? わかった。すぐに行く』

 電話が切れた。

 呻きながら待つこと一分弱で扉がノックされた。

「入るぞ」

「うん」

 琉斗がミネラルウォーターのペットボトルを片手に入ってきた。詩都香の顔を見て、ぎょっとしている。

「泣くほどつらいのかよ」

 知らないうちに涙がこぼれていたようだ。

 詩都香は目の周りを拭い、上体を起こしてボトルを受け取った。喉を鳴らして、三分の一ほどを一気に飲む。

「ありがとう」

「……いや。何か他に欲しいものある?」

「ううん、大丈夫。でも、しばらくここにいてくれない?」

「へ? ……マジで大丈夫かよ」

 琉斗の瞳が心配そうに揺れた。

 こんなに弱ったところを弟に見せたことはない。それでも今は誰かにいっしょにいてほしかった。水を持ってきてほしい、というのも琉斗を呼ぶ口実だ。

「わかった」

 琉斗は椅子に座った。

 詩都香は頭を枕にあずけて目を閉じた。そうしていても、弟の存在を感じられる。

(……そうだ、このわたしが魔法を使ってまで封じようとした記憶だ。きっと不要で有害だと判断したんだ。そのときの自分を信じろ。信じろ、わたし)

 葛藤は五分ほど続いただろうか。

 詩都香は勝った。不安を克服した。

 目を開けた。

 弟は姉の顔を窺っていた。

「琉斗、ありがとう。もう大丈夫だから」

 再度上体を起こし、水を飲んだ。

「本当に? まだ顔色がよくないけど」

「大丈夫。もう行っていいよ」

「でもよ……」

「便利に使って悪いけど、行ってくれないと、ほら……」

 詩都香はクローゼットに視線を向けた。

「……あ」

 その意味に気づいて、琉斗は腰を浮かせた。

「んじゃ、行くわ。何かあったら呼べよ」

「ん。ごめんね。ありがとう」

 琉斗が出ていくのを見送ってから、詩都香はまた目を閉じた。

(ヤバいな、これ。本当にぽんぽん使えるものじゃないんだ。便利かな、と思ったのに)

 ふぅ、とひと息吐く。

(さっきの足元の床が無くなったみたいな感じ……暗琉天破(あんりゅうてんは)喰らったらあんな感じなのかな)

 しぜんとそんな雑感が湧いてきて、詩都香は自分が余裕を取り戻したことを自覚した。

 とにかく目的は達成された。その目的が何だったのかは思い出せないが。

 と、そのとき。

「あれ?」

 詩都香は体を起こした。

 下腹部に違和感。

(げ、まさか)

 嘘からでた真か。たしかに周期は近づいてきていたが、まだ少し早い。さっきの強烈なストレスのせいだろうか。

 詩都香は慌てて掛け布団をはねのけ、クローゼットに駆け寄った。

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