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放課後の魔少女——楽園は次の角に  作者: 結城コウ
第五章「猫と弟とおともだち」Katze und Bruder und Freundin.
41/114

5-1

 頭上で扉が開く音がした。

「お前はまた何をやっているんだ」

 降ってきた呆れたような声に、高原詩都香(しずか)は視線だけ上に巡らせた。

 声で相手はわかっている。郷土史研究部の部長、吉村奈緒(なお)だ。

 だが、今の詩都香には答える余裕はない。

「……さんっ!」

 彼女は今、部室の床で腕立て伏せをしているのである。しかも左手は背中に回し、右手一本での片手腕立て伏せだ。

「しっ……しぃ……っ!」

 ダメだった。四回目は体を持ち上げることができずに終わった。詩都香はそのまま腹ばいの姿勢で床に伏した。

「はぁッ……はぁッ……!」

「いや、だから本当に何をやっているんだ?」

「み、見ての通り腕立て伏せです。最近運動不足だったもので」

 詩都香は息を整えながら適当な答えを返した。

 失敗だった。片手腕立て伏せはなんだかんだで全身の筋力を使ってしまう。

「運動不足解消に片手腕立て伏せか? お前のやることはよくわからんな。ていうか、床汚いだろ」

「一応、私も手伝って拭き掃除しました」

 事態の推移に戸惑っている様子の松本由佳里(ゆかり)が片手を挙げた。

 その拭き掃除にもかかわらず、やはり埃っぽくなってしまった手を払いながら、詩都香はのろのろと立ち上がった。

「部長は図書館ですか?」

 奈緒は何冊かの本を小脇に抱えていた。

「まあ、図書館とか、いろいろだ。他の連中は?」

「まだ美術室です」

 上級生は城の模型を製作中だ。手狭で、汚せない資料も多い郷土史研の部室の代わりに、美術室を間借りして作業している。由佳里は留守番だ。今日は文化祭実行委員が来る可能性が高いのである。

 手先を動かすことが好きな詩都香は、早く模型作りに合流したくてうずうずしているのだが、今のところ委員会の仕事が優先されている。

(そろそろコンプレッサーとエアブラシを持ってこないと)

 これまであまり参加できなかった分、塗装は任せてもらうつもりでいる。こんなところでオタク趣味が役に立つとは。

 などと詩都香が考えていると、

「高原は三回半か、私は何回できるかな」

 奈緒はそう言うと本を机の上に置き、詩都香が空けたスペースに膝をついた。

「えっ、部長もやるんですか?」

 由佳里が驚いて声を上げた。

「私も運動不足だからな」

 そうして、詩都香とは逆に右手を背中に回して片手腕立て伏せの体勢に入る。

 と――

「そういえば部長、また生徒会長が来ましたよ」

 由佳里の言葉に、奈緒は始めかけていた腕立て伏せを中断した。

「いつ?」

「十分ちょっとくらい前です」

 詩都香はそのときいなかった。委員会の仕事を終えて先ほど来たばかりなのである。そしてやったことといえば腕立て伏せだ。

 それにしても、「また」というからには生徒会長の(りん)は何度かここに足を運んでいるのだろうか。

「ならまだ大丈夫だろう。――高原、カウントを頼む」

「えっ? あ、はい。いーち……」

 これはキツイな、などと言いながら腕立て伏せを始めた奈緒は、詩都香が見ている前で六回まで数字を伸ばした。

 詩都香は素直に感心した。奈緒は百七十を超える長身で、詩都香とはひと回り体格が違う。体重もそれ相応にあるはずだ。それなのにこの回数をこなせるということは、詩都香よりもだいぶ筋力があるのだろう。

「すごいですね、部長」

「まあな。私は運動もまあまあ得意なんだ。惚れ直したか?」

「ところで」と、無視して話を変える。「さっきの話、また唐渡(からと)会長から逃げ回ってるんですか?」

「困ったものだろう?」

 奈緒は悪びれもせずに両手をはたいて埃を払った。

 この部長は会計を担当する生徒会役員でもある。これまでどれくらい真面目に仕事をしてきたのかは詩都香の関知するところではないが、今はとにかく文化祭を優先させたいらしく、生徒会の仕事からは逃げ回っているのだ。

「松本さん、そのときには凛ちゃんに何て伝えた?」

「言われたとおり、クラス企画の方で仕事があるので教室に行った、と」

「よし、それでいい。やれやれ、これで二十分くらいは稼げるな」

 着席した奈緒が右手にペンを握る。仕事に支障が出ないように、利き腕は使わなかったらしい。それに気づいた詩都香は感心した。

「二人ともよくできますね。私、腕立て伏せって五回くらいしかできないし、片腕だとどうかな」

 詩都香と奈緒に触発されたのか、由佳里まで席を立った。

「お、松本さんもやってみるか?」

「何回できるかわかりませんけど」

「よし、じゃあ私がカウントしてあげよう」

(なんでみんなで腕立て伏せしてるんだ、この部は……)

 詩都香は発端となったことを棚に上げて、部室の扉の鴨居に当たる部分に右手一本で飛びついた。

「だから何をやってるんだ、お前は」

 奈緒の声が背にかかる。

「いえ、だから運動不足を……」

 片手腕立て伏せが所期の効果を挙げなかったので、今度は片手懸垂だ。

 右腕一本の力で自分の体重を引き上げようとする。右腕がぶるぶると震えるだけで、体は一向に持ち上がらなかった。

 無理なのはわかっていた。片手懸垂を成し遂げることが目的なわけではない。

「なんだかさっきから右腕だけイジメていないか?」

「ぅぐっ……! そっ、そんなことは……」

 どきっとした詩都香は落っこちそうになった。この部長は鋭すぎる。

 ――その一方で、

「いー……あ」

「えぇと……これ、無理じゃないですか?」

 詩都香からは見えないが、どうやら由佳里は奈緒の最初の一カウントも終わらない内に、床につぶれたらしい。

「まあ、ある程度鍛えていないと、男子でも無理だな」

「はー、部長も高原さんもすごいんですねぇ」

「バランスとかも関係するから、コツを掴む必要もあるな。実は腕力だけではなく、全身の筋力を使うんだ。――で、あっちはもっと力技だが、やはりある程度のバランス感覚と全身の筋力が必要になる」

 片手でぶら下がったままの詩都香は、二人の視線が自分に向けられたのを感じた。

「……松本さんの姿勢だと、パンツ見えないか?」

「ぎりぎりで見えませんね」

「匍匐前進してもう少し前に出たらどうかな?」

「それはさすがに……って、別に見たいわけじゃありませんから」

「おいっ! 二人とも何言ってんの! 由佳里、さっさと立って! 覗いたら酷いからね!」

 脱力してまたもや落ちそうになった。

 それから再び全力を込めて、どうにか少しだけ体を持ち上げかけたところで、

「失礼しまーす――きゃっ!」

「わっ!」

 だしぬけに扉が開いて、詩都香は今度こそ落っこちた。

「たっ、高原さん? 何やってんの……もう」

 着地に失敗して尻もちをついた詩都香を、一人の女子生徒が驚愕に固まったままの表情で見下ろしていた。

 二年生の文化祭実行委員、(やなぎ)美紀(みき)だった。

「おや、誰が来るのかと思えば、美紀だったか」

 そんな奈緒の言葉にも反応せず、柳は胸を押さえた。

「びっくりしたぁ……。首吊りでもしてるのかと思った。高原さん、ほんと何やってんの」

「いや、ほんとすみません」

 詩都香はスカートを払って立ち上がる。酷使した右腕の動きが鈍い。目的は達成されたようだ。

「あれ? 高原さんはなんでここに? ……あれ、合ってる」

 柳はスカートのポケットから取り出したメモを見て首をかしげた。同じ実行委員の詩都香がいたことで、自分が担当を間違えたのかと思ったらしい。

「合ってるぞ、美紀。高原はうちの部員だ。文実(ぶんじつ)としてここに来たわけじゃない」

 柳は、うえ? と妙な声を上げた。

「高原さんって、吉村さんのとこだったんだ。もっと似合いそうな部活いっぱいあるのに」

「失敬な奴だな。……が、高原に似合いそうな部がたくさんあるのは否定しない。その中でうちの部を選んだ。これは大したことじゃないか?」

 奈緒の言うことには、ある意味で一本筋が通っている。以前同じような話をされた。

「はぁ、よくわかんないけど」柳は首を振った。「で、高原さんがぶら下がっていて、もうひとりの……あ、松本さんだ。こちらは床に寝てるわけ? 何やってんの?」

 至極ごもっとも、としか言いようがない。

「運動不足の解消だよ」

 奈緒の声を合図にしたかのように、郷土史研究部の部員三人が一斉に片手をぷらぷらと振った。柳はますます不審の念を深めたようだった。

「それで? 美紀がここの抜き打ち担当ってわけか?」

「あー、そうそう。……ん? っていうかバレてたら抜き打ちになってないじゃん。――文実です。企画の進捗具合を見にきました」

 柳は口上を述べて室内を見回した。

「――進んでんの?」

「遅れているように見えるか?」

「ぶら下がってたり寝てたりじゃよくわかんないや。んじゃ、チェックしていくんで、説明よろしく――と、その前に。吉村さん、会長が探してたわよ」

「いつどこで会った?」

「あたしが会ったのは三十分くらい前かな。三階の廊下」

 二年生の教室が並ぶ階だ。

「なんだ、古い情報だな。たぶんまだ大丈夫だ」

「まーた逃げ回ってるの?」

「困ったものだよ。だけど次は図書室、その次は職員室ということになっている」

「なっている、って……。ていうか、校内を逃げるくらいなら帰っちゃえばいいんじゃないの? 家で作業すればよくない?」

「それはフェアじゃないだろう」奈緒はにやりとした。「生徒会の仕事に時間をとられるのはご免だが、凛ちゃんに追いかけられるのは嫌じゃないんだ。むしろ悦ばしい。私がとっくにいなくなった学校で凛ちゃんを駆けずり回らせるのは心苦しいことだ」

「なんか歪んでない?」

「恋とはたいてい不合理なものだよ」奈緒はうそぶく。「さ、というわけで美紀、それほど時間があるわけではない。ちゃちゃっと終わらせてくれないか?」

「あー、はいは……いっ?」

 柳の目が部室の扉の方に釘づけになった。

「ご心配なく」視線の先には、開けっ放しの扉からするりと滑り込んできたひとりの女子生徒。「もう、ほんっとーに、あなたという人は……」後半は奈緒に向けられた言葉だった。

「意外と早かったな、凛ちゃん」

 奈緒の言うとおり、入ってきたのは生徒会長の唐渡(からと)凛だった。

「おかしいと思ったわよ。教室に行ったら『吉村さんなら図書館に行った』、図書館に行けば『美術室に行った』、美術室に行けば『職員室に行った』、職員室に行けば『部室に行った』……。わたしも馬鹿でした。どうしてこんなに吉村さんの行き先の情報が残っているんだろう、って疑問に思うまでにずいぶんかかっちゃって」

「でも、私の想定より早かった。もう少し逃げ回れるかと思ったんだけどな」

「どうして逃げたりするんですか」

「逃げないと凛ちゃんから追いかけてもらえない」

 凛は深々と溜息を吐いた。

「もういいです。――さ、柳さん」

「あ、はい」

「もうこれで吉村さんに急ぐ理由はなくなりました。じっくりと検分していって」

「わかりました。――さあ覚悟しなさい、吉村さん」

 奈緒のおかげで、文化祭実行委員の柳のみならず生徒会長の臨席で郷土史研究部の進行チェックが行われることになってしまった。

「お手柔らかに」

 当の奈緒は涼しい顔だが。

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