4-10
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高原詩都香も机に向かっていた。
帰宅したところ、ダイニングテーブルの上に書き置きがあった。父と弟は外食に出かけたのだという。
父が帰って来るのは今日の夜中と聞いていたから、これは予想外だった。が、ともかく明日の朝食と弁当の下準備を整え、洗濯を済ませてから自室に戻ったところである。
それから今まで、机の上に広げた便箋に万年筆を走らせている。
したためているのは、今朝受け取った恋文もどきへの返信である。こういうのは、機先を制するようにしてさっさと返事をしてしまうに限る。相手の無用の不安をかき立てることもないし、廊下で鉢合わせして互いに気まずくなる度合いも減る。
だが、筆はなかなか進まなかった。
理由はわかっている。今日のひと幕のせいで集中できないでいるのだ。
こんなぐじゃぐじゃした気持ちで返信を書くなんて、不誠実にもほどがある。ようやくのことで五行ほど文字で埋めた便箋を、結局ちぎり取って丸めた。
溜息を吐き、両手で頬を支えるようにして机に頭の重みを預ける。
(この人はわたしの何が気に入ったのかな)
人と人との出会い、誰かに対して懐く感情――散文的分析には向かないものだ。
だけど詩都香には、涼子との約束があろうと、そう簡単に自分のスタイルを捨てられない。
それでつい、手紙の相手との出会いのことを思い返してしまう。
あの日詩都香は、茶道部を訪れていた。文化部棟の一階に部室を構える、歴史もゆかしき部活動である。前身は女子塾時代の必修授業にまで遡るのだそうだ。
ひとりでではない。三年生の委員がいっしょだった。杉谷という男子生徒で、委員会の内でも外でも、あまり評判がよろしくない。
彼と組むのは二度目だった。一度目で彼の悪評の理由を思い知った。
とにもかくにも、態度が横柄なのである。さして強くもない実行委員の権限をかさに着て自分を大きく見せようとする、小物を絵に描いたような男だった。
男子バスケットボール部所属と言うが、たしかに背の高いスポーツマンタイプだ。そして文化部を下に見ているのがひしひしと伝わる。そのくせいっぱしの文化人気取りなのだから、なおのことタチが悪い。
一度目に彼と組んだ際に回ったのは、映画研究部だった。「もっとCGとか使わないと、今どきのお客さんは満足してくれないだろう」などと、今さらどうしようもないことを臆面もなくのたまうものだから、横に立つ詩都香は逃げ出したくてたまらなかった。高校の部活で制作されるようなCGなど、多用されたところで興醒めもいいところだろう。むしろ詩都香の方は、古典映画の撮影法を踏襲した、SFXに頼らない画作りの創意工夫に感心したものだ。
文化祭準備室に戻る道すがら、洋画の講釈をひとしきり垂れた挙句、「高原さんはどんな映画が好きなの?」などと尋ねられた。
「ジブリとかディズニーとか好きです」と答えて彼を鼻白ませてから、スノビッシュなところがあると自覚する詩都香自身も、我が身を顧みて反省した。自分も周囲からこう見られているのだろうか、と。
だから今回も、杉谷と組むのはあまり気が進まなかった。
おまけに、
「詩都香ちゃんは茶道とかわかる?」
「……いいえ。通り一遍のことしか」
「あれ? ちょっと意外だな。詩都香ちゃんっていいとこのお嬢さんっぽいし、茶道とか華道とかたしなんでるのかと思ってた」
馴れなれしい。まだ二度目だというのに、「詩都香ちゃん」呼ばわりだ。詩都香を下の名前で呼ぶ男子は、趣味を同じくするクラスメートの田中だけである。
放っておくと、杉谷からはそのうち呼び捨てにされそうだった。
今日は何事も起こりませんように、と杉谷の一歩後ろを歩きながら、詩都香は祈った。
――祈りは届かなかった。イワシの頭ほどの信心ではダメだったらしい。
火を扱い、畳敷きの床の間を構えるだけあって、茶道部の部室は他とは構造を異にしている。両開きのドアを開けると右手に流し台とコンロがあり、正面は襖で閉ざされていた。このスペースで靴を脱ぐ。
杉谷はノックもせずドアをそろそろと開けた。奇襲を企てているかのようで、詩都香は眉をひそめた。
襖の遮音性は高くない。中で何らかの議論がなされているのが聞こえてきた。
「今から当てなんて探せるんですか?」
「上の大学の茶道部に相談すればなんとかなると思うけど……」
「じゃあ、涼炉は……」
詩都香と杉谷は顔を見合わせた。何かあったのだろうか。
「どうかしたのか?」
杉谷はここではさすがにひと声かけてから襖をガラリと開けた。
畳敷きの室内がしんとなった。
「文実です。三年の杉谷。こっちは一年の高原」
と、遅ればせの挨拶と自己紹介をしてから、
「何か問題でも?」
杉谷は肩をそびやかした。問題が起こったら解決策を探すのが実行委員の仕事だろうに、手柄顔で詰問するのだから困ったものである。
「あ、杉谷くん。……ええと、ちょっとね。問題と言うほどでもないんだけど……」
杉谷と同じ三年生と見られる女子生徒が、歯切れ悪く言った。それを合図に、座卓を囲んでいた茶道部員たちが杉谷と詩都香に会釈する。
杉谷の肩越しに覗けば、座卓に広げられているのは一幅の掛軸だった。
「吾心似秋月」――吾が心秋月に似たり。
(「寒山詩」か。茶道の掛物の定番だけど……)
これが何か問題なのだろうか。見たところ、汚損も無いようだ。
「大丈夫ですよ。誰にもわかりませんって」
座の一角からそんな声が上がる。
「ちょっと、何よその言い方。馬鹿にしてんの?」
すかさず反論が出る。
その遣り取りを見ながら、杉谷が首をひねった。
「これ、どういうこと?」
水を向けられた詩都香も理解できずに「さあ……」と応えるに留まった。
「まあいいか。掛軸のことなんてよくわからないし。――さあ、茶道部の皆さん、今日は通しでお点前を振る舞ってもらえるんですよね?」
前に茶道部を視察した委員によれば、そういうことになっているのだという。
矢面に立たされた三年生が俯いた。
「そ、それが……」
「すみません」別のおかっぱの女子生徒が、頭を下げながら口を挟んだ。「準備不足で今日はお見せできません」
「はあ?」杉谷の顔色が変わった。「準備不足ってどういうこと?」
おかっぱの女子が再度頭を垂れた。
「そのままの意味です。本当にすみません」
「おいおいおい、どうなってんの? 遅れは特にないようだ、って聞いてたんだけど」
「……杉谷くん、ごめんなさい。まだ道具が全部揃ってなくて」
三年生女子からもそう謝られたものの、杉谷は目を剥いた。
「何だそれ? 茶道部なのに道具がない?」
「茶道の茶席は、お茶を淹れる道具だけが必要なわけじゃないから。それに今年は……」
詩都香は茶箪笥の方へと目を遣った。今日使うつもりだったのだろう、いくつかの茶道具がその前に準備されていた。
茶道をたしなんだことはないが――
「あれ?」
そこに用意された茶道具を見て驚いた。
茶碗、ボーフラ、錫製と見える銀色の茶托……・
――そういうことか。
「あの、杉谷先パ――」
「だいいち、毎年同じことをやってるくせにどうして準備が遅れるわけ?」
詩都香が声をかけようとした矢先の杉谷の言葉に、室内の空気が凍った。
同じこと――「一期一会」を旨とする茶道においては禁句中の禁句だ。
「……出てけ」
口を開いたのはおかっぱの生徒だった。
「うん?」
「あんたに飲ませるお茶は――」
「あっ、珍しい。今年は煎茶道なんですね!」
白々しくならないように気をつけたつもりの詩都香だったが、慌てていたために声が上ずった。
だが、効果はあったようだ。
杉谷がきょとんとした顔で振り返った。
「煎茶? 抹茶じゃなくて?」
詩都香は頷いた。
「……ええ。煎茶道というのがあるんです。一般にメジャーな茶の湯とは別に」
「わかるの?」
と、今度はおかっぱの女子。胸の赤いリボンで二年生と知れた。
「詳しくはありませんが、まあ道具の違いくらいは。何と言っても、お茶碗を見れば一目瞭然です」
両手で包み込むようにして持つ茶の湯の茶碗に比べれば、煎茶碗は驚くほど小さい。酒器かと思うほどである。色も、淡い煎茶の色を楽しむため、内側が白で統一されている。
「掛物もそれで困ってたんですね」
「そう! そうなのよ! ――ほら見なさい、誰にもわからないなんてことないじゃない」
おかっぱ女子が杉谷を押しのけるようにして詩都香に近づいてきた。後半は、先ほど「誰にもわからない」などと口走っていた部員に向けられた言葉だ。
「掛軸がどうかしたの?」
事情を飲み込めない杉谷が尋ねる。
詩都香は茶道部の面々を見回した。
説明よろしく、とどの顔にも書いてあった。
「ええと、知ったかぶりすみません。間違っていたら訂正してください。――杉谷先輩もご存知かもしれませんが。禅の精神と様式を取り入れて発展してきたお抹茶の茶の湯では、この「寒山詩」のような禅語や禅画を掛物にします。ですが、煎茶道は宋明の文人の文化から発展してきましたので、掛物にするのは老荘の故事や江戸漢学者の詩、絵なら南画と相場が決まっているんです。煎茶文化をもたらした隠元隆琦を祖とする黄檗禅だけは例外ですけど」
訂正の声は上がらなかった。詩都香はほっと胸を撫で下ろした。
「つまり、その煎茶道にはこの掛軸はふさわしくないってこと?」
杉谷の問いに、その場の全員が頷いた。
「黄檗宗の禅師が書いたものなら、その子が言う通りオーケーなんですけど」
と、おかっぱ女子。
そこで詩都香はもう一つ気になっていたことを尋ねた。
「……あと、さっき涼炉がどうこうって言ってましたけど……もしかして割れちゃいました?」
「お見通しなの? 先週お稽古したんだけど、どうもその後に割れちゃったみたい」
炭を熾しお湯を沸かすための涼炉は、多くは瓦器である。頻度にもよるが、繰り返し使用すると破損することがある。
「じゃあ今日は別の――」
「困りましたね」危ういところで詩都香は杉谷の発言を阻止する。「茶の湯の風炉じゃ煎茶道の手順は踏めなくなるでしょう? どこからか調達……しようにも予算が許さない?」
「ううん。うちの先生に相談すれば借りられるとは思うけれど、今すぐってわけには」
“先生”というのは煎茶道の師範を指すのだろう。詩都香はそれでこの二年生が煎茶道を専門にしていることを知った。
「先輩、ちなみに流派は?」
「小川流」
わかる? と問いかけるように答えた彼女に、詩都香は頷いてみせた。茶の湯の千家と同じく京都を本拠とする煎茶道の名門だ。
「企画申請書には『お点前披露』としか書かれてないけど?」
杉谷が書類をめくりながら口を挟んだ。
その瞬間、一人の部員に視線が集中した。青のリボンの三年生は、それを意識して身を小さくした。
なんとなく事情は察せられた。
「嘘はないでしょう? 煎茶とは書いてないけど」
おかっぱの女子が堂々と答えた。
おそらく、企画申請書を書いた三年生が、煎茶というキーワードを入れ忘れたのだろう。
「というか、今年は煎茶だって聞いてなかったんですか? このあいだ来た委員の人に言ったつもりだったんですけど」
まずい、まずい。詩都香は今度は茶道部員をなだめにかかる。彼女もどうやら激しやすい性質のようだ。
「えっと、昔は煎茶道部もあったんですよね」
「まあね」彼女は一瞬でクールダウンした。「部員不足で、茶道部に統合されちゃったけど」
「この街は近代茶道の中心のひとつですもんね。仕方のないことだったのかもしれません」
後になって奈緒に聞いたところでは、茶道部にまとめられてからは三年に一度だけ文化祭で煎茶道を披露するという取り決めになっているのだそうである。煎茶を専門にする部員にとっては、高校生活でただ一回きりということになる。
「杉谷先輩、いったん出直しませんか? わたしたちの知る茶道とは勝手が違うようですし、前にここに来た委員に話を聞いてみた方が……」
この提案に、杉谷は詩都香が意外に思うほどあっさりと乗った。
「そうだね。道具が割れちゃったんなら仕方ないし」
不機嫌にはなっていないようである。ひょっとすると文化人を気取る彼は、煎茶道というものが存在すること、そしてそれを自分が知らなかったことに衝撃を受けていたのかもしれない。
杉谷が襖を開けて靴を履くのを待っていると、その間を見計らうようにして、さっきの二年生が近づいて耳打ちしてきた。
「さっきはありがとう。文実とケンカしても何もいいことないのに、つい……」
「いえ、こちらこそ情報の共有が不十分でした。それに、行き過ぎた発言もありましたし」
詩都香も小声で返す。
「部長がね、去年の申請書丸写しちゃって。文実との折衝がいろいろ大変よ。……実は、今年は煎茶だっていうのも今初めて伝えたの」
――ああ、やっぱり。
「でも、嘘はないでしょ?」
顔を覗き込んでくる。
「まあ、ないと言えばないですけど」
押し切られてしまう詩都香。
「あなた、一年生よね? もしかして高原さんってあなたのこと?」
「はあ」
どこから詩都香の名前を聞き知ったのだろう。
杉谷が立ち上がり、室内を振り返った。
「行こう、詩都香ちゃん。――次回はその煎茶道のお茶とやらを飲ませてくれよ」
頷いた部員たちの愛想笑いに見送られるようにして、詩都香も靴を履いた。
――詩都香はもう一度溜息を吐いた。
手紙を受け取った後で奈緒に確認したが、送り主は茶道部の二年生で、このとき杉谷に食ってかかった生徒で間違いないらしい。
『文化祭のお茶、楽しみにしています』で結んだ手紙を封入し、クリアファイルに収めてから机に戻る。
そして結局、彼女の思考は今日の出来事に戻った。
(……ダメだ。やっぱりもう無理)
しばしの思案の末そう結論づけた詩都香は、交渉の仕方を考え、本棚から一冊の本を抜き出した。




