3-終
三人が向かったのは、九郎ヶ岳丘陵地帯の最高峰瓜生山の山頂である。
麓からの比高は三百メートル足らず。難所らしい難所はなく、道も舗装されているため、迷おうにも迷えない。子供でも登れる山だ。
途中、ところどころで写真を撮った。皆が皆初めて使うカメラを携えているので、試写も兼ねている。涼子にはもちろん、由佳里にも基本的な撮影の仕方をわかる範囲で教えた。どうせそこまで技術の要る撮影ではないのだが、こういうときにはつい饒舌になってしまうのが詩都香の悪い癖である。
涼子は撮影欲旺盛で、フューゲルの外観やら登り口の風景やら、いたるところにレンズを向けていた。聞けば、柿沼は十本ものフィルムを買ってきたのだそうだが、リバーサルでそんな風に気軽に撮っていいのか、などと詩都香の方が心配になったほどだ。
ISO感度50のフィルム、手ブレ補正のないカメラ、おまけに両側に木々の迫る細い道という条件だが、高度を増していく午前の太陽は光量十分であった。白トビしていなければいいけど、と詩都香は思う。装着レンズのノクトン・クラシックは開放F値1.4。調子に乗って、ボケの利いた写真を撮ろうなどと絞りを開放したら、千分の一秒というCLEの最高シャッタースピードを軽々とオーバーしてしまうはずだ。
そんな風にあちらこちらで立ち止まりながらでも、四十分もあれば山頂に到着する。
「すっごいよね、これ。市のど真ん中に落ちるなんてさ」
と、涼子がファインダーを覗きながら感嘆の声を上げる。
「ああ、うん……」
詩都香は曖昧に頷いた。
山頂広場は、春までとは様変わりしている。
隕石が落ちたということになっているのだ。
「ここに落ちたからよかったものの、ちょっとズレたら街直撃でしょう?」
「あ、うちはこの直線上なので、山の標高が少しでも低かったら危なかったかもしれません」
丘陵地帯の麓に住む由佳里も硬い顔でその痕跡を眺めていた。
山頂広場の中央部に埋め戻された跡があり、そこを起点に北東方向の木々が一直線に消失している。
「隕石の欠片、見つかってないんでしょ? ロクに調査もしないで埋めちゃってよかったのかな?」
と、涼子が無邪気に首を傾げる。
由佳里も同調した。
「燃え尽きてチリになっていたから埋め戻した、って発表には批判もありましたね。でもなんだかもったいないですよね。ねえ、高原さんもロマンを感じますよね、宇宙からの落し物なんて」
自宅がすぐそばだったというのに、今度はロマンと来た。由佳里はやはり見た目よりもタフな性格のようだ。
「まあ、そうね。何か珍しい鉱物とか含まれてたかもしれないし」
詩都香はそう話を合わせるが、実のところこの話題にはあまり乗り気ではない。
なんといっても、彼女は真相を知っているのだ。
と言うより、この隕石騒ぎの当事者なのだ。
夏休み直前に、詩都香たち〈放課後の魔少女〉は伽那を狙う〈リーガ〉の魔術師と決闘を行った。その決着の舞台になったのが、ここ瓜生山の山頂広場なのである。
戦いの前後のことについては詩都香の記憶にも混濁があるのだが、木々が吹き飛んでいるのは、その場にいた誰かの攻性魔法のせいだろう。その誰かは、あるいは詩都香かもしれない。
隕石の落下痕にいたっては完全なフェイクだ。ここにそのような痕跡はなかった。「隕石の落下」という虚言に整合性を持たせるために、穴を掘ってからまた埋めでもしたに違いない。
この工作を行ったのは、〈リーガ〉もしくはその意を受けた“お役所”だ。
かつて広場の入り口付近に建っていた「瓜生山城址」という石碑も吹き飛んでしまったようだ。
もともと地元の人間にもあまり知られていない地味な史跡だったが、もはや山城跡の風情は半分がた無くなっていた。
ここを決戦場に選んだのは詩都香だったが——そのことは覚えている——、これほどの破壊の爪痕が残るとは考えていなかった。一人の歴史好きとして残念に思う。
土層がここまで撹乱されてしまっては、未だ行われていない瓜生山城の本格的な埋蔵文化財調査が将来実現したとしても、発掘の際に支障をきたしそうだった。
それはともかく、なぜ詩都香たちがここに来たのかといえば……。
「部長も面白いこと考えますね」
由佳里があちらこちらにレンズを向ける。基本的な使い方はすっかり覚えたようだ。
詩都香も被写体を探しながら頷いた。
「まったくね。転んでもただでは起きない、と言うか、受領は倒るる所に土を掴め、と言うか」
転んだのも倒れたのも奈緒ではないのだから、いずれにせよ不適切と言えば不適切な表現なのだが。
奈緒は幾人かの上級生たちといっしょに瓜生山城の復元模型を製作するのだという。
幸い、上級生たちが以前とった実測図がある。その図面を元に、想像を交えてできるだけ精巧な模型を作り、展示に回す。
隕石落下は地元では大きなニュースになった。市民にとっては記憶に新しい。
が、実際に瓜生山城址に足を運んだことがある者はそう多くはない。今回の騒ぎで興味を惹かれ、瓜生山に登った市民のほとんどは、かつての山頂広場がどんな様子だったか知らないのだ。山城跡だったことさえ初めて知ったことだろう。
「そこを突く。ホットな話題だ。集客効果はあるだろう」
奈緒はそう語った。
そして詩都香たちが撮った写真もパネルに貼ることで、現在の様子との対比を鮮明にするのだという。
「隕石落下なんてのも“郷土史”の重要な一部だしな」
と、奈緒は嘯いたものである。史跡の毀損という郷土史研究にとっての痛手さえ、この部長はポジティブにとらえてしまうようだ。
「写真はともかくさ、あの欺瞞工作はどうかと思うんだけど」
詩都香は傍らの由佳里に向かって、唇を尖らせる。
「まあ、仕方ないんじゃないですか? バレはしないと思いますし」
「バレないだろうけど、文化祭実行員がバカにされてる気もする」
パネル展示は写真の他、文章と図から構成される。今日撮った写真を貼るだけでは、文化祭実行委員の目には作業が進んでいるようには見えないだろう。
奈緒はそこで、文は部誌の本文からコピーアンドペーストしたものを大きく印刷、図も同じく部誌からの拡大コピーしたものをそのままパネルに貼りつけることにした。できるだけ専門的なところを切り貼りするのだという。
たしかに細かい内容まで実行委員がチェックすることはできない。「あとは模型を完成させるだけです」とでも言っておけば、作業完了間近と思ってもらえることだろう。
「これで次のチェックは誤魔化せる。そうしながら、少しずつ内容を本物の展示に置き換えていけばいい」だそうだ。実にセコい。
「高原さんはさすが委員会の仕事に熱心ですね。自分から委員に立候補しただけあって」
と、由佳里に無邪気な笑顔を向けられ、詩都香は言葉に詰まった。
詩都香が立候補したのはクラス委員の役職を回避するためで、その結果クラス委員になってしまった由佳里は、詩都香の思惑の被害者とも言えるのだ。
「詩都香〜」そこで涼子が詩都香を呼んだ。「めいゆーへるぷみ〜!」
詩都香はその場を由佳里に任せ、涼子のもとに向かった。今のは“May I help you?”の主語と目的語を入れ替えただけなのか、それとも願望を表すmayのつもりなのか、などと考えながら。
「どうかした?」
涼子はハシカグサの花にレンズを向けていた。
「ピントが合わない」
説明するのを忘れていた。
「近すぎ。それ、七十センチまでしか寄れないから」
「七十センチ?」涼子が大きく一歩後退してからファインダーを覗いた。「うわ、遠っ。これじゃ何を狙ったのかわからないや。いろいろ制約があるんだね。ちょっと不便かも」
「その制約が面白いんじゃない。それに、シャッター切れなくてむしろよかったかもよ?」
「ん? なんで?」
涼子はファインダーから離した目を詩都香に向ける。
詩都香は人差し指を上げて、その視線を上空に誘導してやった。
「太陽。今の構図で撮ったら、被写体に自分の影がかかっちゃう」
「あっ」
慌てて横に移動する涼子に、詩都香は追い打ちをかけてやった。
「カメラの性能に文句を言う前に、基本的なところに注意を払いなさい」
「くっ、悔しいけど言い返せない……」
などと苦々しそうな顔を浮かべてカメラをいじっていた涼子だが、
「えいっ」
「あ!」
不意打ちで詩都香を狙ってシャッターを切った。
「なんでわたしを撮る」
「せっかくの遠足だもん、記念にね」
「ていうか、ピント合わせしてないでしょ。露出だって調整してないし。せっかくのリバーサルなんだから……」
「大丈夫。距離はだいたい読んだし、絞りもF5.6まで絞った。シャッタースピードは二百五十分の一秒。空の上の方は白トビしてるかもしれないけど、背景と詩都香の顔がちゃんと撮れてればいいし」
(え……?)
詩都香はしばし絶句した。
コンパクトカメラでスナップ写真を撮る人間なら当たり前に心得ていることではあるものの、今日初めてレンジファインダー機に触れ、道中歩きながら詩都香の説明を受けただけの涼子がここまでモノにしているとは思わなかったのだ。
一度で理解してもらえるよう努力したつもりではあるが、露出の読み方の基本まで覚えるとは、理解力や記憶力というよりも、集中力の高さを感じさせた。「ふんふん」などと調子よく頷きながら聞いていた涼子がどこまで理解しているのか、詩都香は内心危ぶんでいたのである。
(アイドルの集中力って、侮れないのかも)
と、涼子を見直す詩都香だった。
「ね、詩都香、もっとカメラのこと教えてよ」
「ん、いいよ」
詩都香は大きく頷いた。熱心で覚えのいい生徒を持つことは、教師の喜びだ。
それから小一時間ほど写真を撮ってから、三人は揃って下山した。
部活に行く前に家に寄るという由佳里と別れ、詩都香と涼子は並んで駅へ向かう。
「詩都香はバスでしょう?」
涼子が怪訝そうに言う。
確かに、ここからならバスの方が便が良いのだが——
「柿沼さんとはどこで待ち合わせ? そこまでつき合うよ。アイドルの身にもしものことがあったら困るし」
「急に過保護だなあ。でもありがとう。じゃあ、東駅まで。柿沼さん、東の図書館にいるらしいし」
「図書館?」
詩都香は意外に思って聞き返した。社会人が空いた時間を過ごす場所といえば喫茶店、という偏見を抱いていたのである。
「そ。柿沼さんってば、ああ見えて結構読書家で勉強熱心。仕事も真面目だけど、隙間時間には本読んでたりするの」
「へえ〜」
詩都香の印象としても、柿沼は勤勉そうな好青年であったが、実像はそれ以上であったようだ。
「詩都香と話合うかもね。芸能関係はもちろん、映画も美術もその他も何でもござれだよ。今は私のマネージャーだけど、もっと上を狙ってるのかも」
「涼子に振り回されるのはこりごりってことね」
「おいっ!」
涼子が詩都香の肩を突く。
詩都香は上体を傾がせながら笑った。
九郎ヶ岳駅から電車に乗り、東京舞原駅へ。
車中ではさすがに涼子は帽子をかぶり、伊達眼鏡をかけてお手軽な変装をしていた。
「こういうとき何て呼んだらいい?」
詩都香がロングシートの隣にかけた涼子に尋ねると、
「別に涼子でいいよ。珍しい名前でもないし」
という返事。
「そうだね」
と、詩都香も頷いた。
「あっ、そうそう。このカメラ、まだ借りててもいいかな。二本目のフィルム、まだ使い切れてないや」
涼子が慌てたように言う。
「んー……たぶん大丈夫だけど」
使い切っていないリバーサルフィルムを途中で巻き戻すというのも、詩都香の庶民感覚ではもったいないことである。なにより、あの調子では時菜が反対することもあるまい。あとで断っておくことにする。
「でも、早めに返してね。わたしも撮らないと」
「ありがと。詩都香は白黒で撮るんだよね? 私も挑戦してみようかな」
「いいかもね。白黒にはカラーにはない味があるし」
二駅はあっという間だ。
東京舞原駅で下車し、詩都香は切符で、涼子はICカードで改札を抜けた。
北口のモータープールには、見覚えのある車が停まっていた。
電車に乗り込む前に涼子が送信したメールを見て、柿沼はもう待機しているようだ。
「んじゃ詩都香、今日は私のわがままを聞いてくれてありがとう。由佳里にもよろしくね」
さっそく車の方へ向かう涼子。
その背に向かって、詩都香は意を決して声をかけた。
「あのさ、涼子。明日の放課後とか、時間あったりしない?」
涼子は意外そうな表情で振り返った。
「あるよ。七時までなら。でもどうして?」
詩都香は大きめに息を吸い込む。
涼子はもう詩都香のかけがえのない友人だ。
今日は奇妙な成り行きで由佳里に紹介したわけだが、詩都香には他にも——
「紹介したい人がいるの。わたしの友だち。涼子に迷惑がかかるようなことはないと思う。……ダメかな?」
涼子は先ほどの表情のまましばし固まってから——
「もちろんオッケーだよ。楽しみにしてるね」
輝くような笑顔で答えた。
※※※
十月六日、日曜日、晴れのち曇り。
やった。
やった、やった。
詩都香が友だちを紹介してくれるって。
これはつまり、もう私も友だちだってことだよね。
由佳里もいい子だった。明日会うのはどんな子だろう。
今日は楽しかったな。初めての友だちとのお出かけ。初めての遠足。
詩都香から仕入れた写真の知識を披露してやったら、柿沼さん圧倒されてたっけ。
でも、「よかった、しばらくボロを出さずに済みそうだな」って、それはないんじゃない? そんな風に思われてたのか。
——ああ、でも。
詩都香と由佳里とお出かけして。
たくさんお喋りして。
たくさん笑って。
そうしてお仕事を終えて一人になったら。
なんだかあの言葉が蘇ってくる。
「君は友の前で裸でいたいと思うのか?」




