3-4
委員会は昼休みを挟んで午後まで続いた。
会合が終わった後、下校しようと文化部等を出ると、小宮山を見かけた。「写真部」と記された腕章をつけて、グランドの隅でサッカー部の練習風景に件のエルニカのレンズを向けている。
レンジファインダーのカメラで動きのある被写体を追うのは難しくないだろうか、と詩都香は勝手に心配したが、小宮山は軽快にシャッターを切っているようであった。
熱心なことだ、と思いながら詩都香が通り過ぎようとすると、
「あ、高原さん」
視線を感じ取ったのか、小宮山の方から声をかけてきた。
呼び止められては素知らぬ顔もできない。立ち止まった詩都香のもとへ、小宮山が小走りにやって来る。
「やっと来た。委員会、長くかかるのね」
「ええ、まあ」
いつものよそゆきの低い声。
「高原さん、さっきはありがとう。おかげでうちの部が恥をかかずに済みそう」
意外な言葉に、詩都香の方が面食らった。
「いえ。こちらこそごめんなさい。余計な口を出して」
意外だったのはお礼の言葉ではなく、小宮山が「うちの部」と口にしたことだ。もっと、他とは違うという意識の一匹狼気取りなのかと勝手に思っていたのである。
だが小宮山は重ねて言う。
「ううん、本当に感謝してる。『ミズジョの写真部は距離計の狂ったカメラを貸し出すのか』なんて思われるところだった」
ていうかそう思われないように明日から頑張らないとね、と小宮山は手の中のエルニカに眼差しを注いだ。
そこで詩都香は、気になっていたことをひとつ問いかけてみようとした。
「小宮山さん、わたしの名前……」
写真部の部室では「文実さん」だったはずだ。
「ああ、うん。もちろん知ってた。こう言われるの嫌かもしれないけど、あなた有名だし、目立つもん。入学式で挨拶して、定期考査でも上位一桁の常連でしょう? で、文化祭実行委員として色んなところに顔出してるし」
目立つ? 勘弁してくれ、と詩都香は天を仰いだ。
「うちのクラスでも、『昨日うちの部に高原さんが来た』なんて話題にされてる。ほんとのところね、正直ちょっといけ好かない子なのかな、って思ってた」
「ええっ!?」
自分のあずかり知らぬところで話題にされ、あまつさえ敵まで作ってしまう——詩都香が最も嫌がることである。
「でもね、さっき部長と話してるのを聞いてて、なんだか少し親近感を抱いちゃった。ていうか、『高原さんにうちの部に入ってほしい』なんて言ってるみんなの気持ちが少しわかった、ってとこかな」
「聞いてたの?」
「最後ちょっとだけね。……あなたは不思議。典型的な優等生かと思ってた。色々目立つし、私みたいな一般生徒とは違う存在だ、って。でも、そのくせこっち側にするりとやって来る。あんな風にカメラのこと語るなんて」
そんなに熱く語ったかな、と詩都香は記憶をたぐった。
どう考えてもそんなことはないだろうという結論がすぐに導出されたが、小宮山は敏感に同好の士の匂いを嗅ぎ取ったのかもしれない。
それにしても、勘違いも甚だしい。詩都香はむしろ「こっち側」とやらの人間だ。
「あの、わたしは……」
訂正しようとしたが、言葉が見つからない。わたしは何だと言えばいいのか、詩都香本人にもわからなかった。
詩都香がまごついている内に、小宮山の方が言を継いだ。
「部長から変なこと吹き込まれなかった? 私の姉がプロの写真家だからとかなんとか」
「あ、うん……」
詩都香は戸惑いながら頷いた。変なことだったのだろうか。
「部長がそう言うのもわかるんだけど、私は別に姉さんの影響で写真が好きなわけじゃないの。というか、姉さんも私も、二人とも伯父さんの影響」
「おじさん?」
「そう。父方の伯父さんが西の方でスタジオ併設のカメラ店やっててね。お父さんとは仲のいい兄弟で、私たちも小さい頃から可愛がってもらってた。私たちに撮影のことや、カメラのいじり方を教えてくれたのも伯父さん。その中で撮影に才能を示してその道を選んだのが姉さん。……でも私はむしろ、伯父さんみたいになりたいと思ってる。もちろん撮影の技術はもっと磨かなきゃだけど、人に合った機材を選んだり、撮影のアドバイスしたり、持ち込まれるカメラを修理したり」
なるほどと思った。
小宮山を評する秋葉の言葉に誤りはなかった。だが、その前提がずれていたのだ。
「だからね、別に姉さんを意識してこうしてるわけじゃないの。……って、こんなこと言うと、かえって意識してるみたいだけど」
などと笑う小宮山に合わせて、詩都香も微笑んだ。
「わかる。こう見てほしいって自分で思うようには、他人は見てくれないものだよね」
陳腐な言葉のようだが、詩都香の実感も籠っている。
「ところで小宮山さん、さっきわたしに『やっと来た』って言ってたけど、わたしを待っててくれたの?」
小宮山が自分の名前を知っていたことと同じく、その言葉も引っかかっていた。
「あ、そうそう」小宮山は抱えていたショルダーバッグの中から一台のカメラを取り出した。「この子のこと、気にしてるみたいだったから」
小宮山が取り出したのは、例のCLEだった。しかし、その出で立ちはさきほどまでとは異なっている。
レンズが装着されているのである。
受け取った詩都香は目を丸くした。
「これ……フォクトレンダーだ」
純正レンズフードの奥のキャップに躍る「VOIGTLÄNDER」の文字。
「そう。ノクトン・クラシック40ミリ、マルチコートタイプ」
詩都香がさきほど念頭に置いていたのが、まさにこのレンズである。焦点距離40ミリ、開放F値1.4の大口径VMマウントレンズ“ノクトン・クラシック”は、CLとCLEの愛用者の多くが所持していると言われる。と言うよりコシナも、ファインダー内に40ミリのフレームが切られている両機のユーザーに照準を合わせたのかもしれない。
「どうしたの、これ?」
「私の私物。前にお小遣い貯めて伯父さんのところで買ったの」
詩都香はレンズキャップを外した。吸い込まれそうなほどに透き通ったレンズが青みがかって見えた。
「じゃあ、このカメラ使ってたのはやっぱり小宮山さんだったんだ」
「使ってた? どうしてわかったの?」
小宮山が首を傾げる。
「だって、電池室にボタン電池が入ってたもの。レンズが無いのにそんなことするのは無意味と言うより有害でしょう? 電池が劣化して液漏れするかもしれないし。それで、誰かが使ってるのかな、って」
「すごい観察力ね。でもま、正解。たまに借り出してるの。私もMマウントカメラは持ってなくて。コシナがベッサやツァイスイコン出してたけど、手が届かないでいる内に生産終了になっちゃったし」
伯父さんのお店にはまだ在庫があるみたいだから狙ってるんだけど、と小宮山は付け加えた。
詩都香はファインダーを覗いた。スカッと抜けるようなクリアさである。
「電影クロスゲージ、明度二十」
「え?」
「……ごめんなさい、なんでもない」
テンションが上がって、つい素に戻ってしまった詩都香は赤面する。
「ありがとう。この子が使われてるみたいで安心した」
とカメラを返却しようとする詩都香に対し、小宮山は首を振った。
「ううん。それ、文化祭まで借りてほしいの」
「は?」
予想外の言葉だった。
「さっきの語り方だと、高原さんも写真やるんでしょう? レンジファインダー機に触れるのも初めてじゃなさそうだし」
詩都香はCLEのボディを手にしたまま慌て気味に首を振った。
「わ、わたしはまったくの素人だよ」
が、小宮山は勝手に話を進めた。
「それでね、高原さん、写真撮ってフィルムを私にちょうだい。現像してあげるから」
今度はポケットをゴソゴソと探って、箱入りのフィルムを詩都香に差し出す。
写真部の部室にあったモノクロネガフィルムだった。
「……いいの?」
ムラムラと興味が湧いてくる詩都香だった。少々押しつけがましいが、嫌ではない。
「うん。いい写真があったら、文化祭で展示してあげる」
「それは勘弁……」
部外者の自分が展示に名前を連ねるのは恥ずかしい。
「恥ずかしがらないでよ。私の名前で展示するから。それならいいでしょ?」
「あー……まあ、それなら」
少し迷ったが、Mマウント機を使ってみたいという気持ちの方が勝ってしまった。
「でも、小宮山さんはいいの? まだ撮影するんでしょう?」
「大丈夫」と、またもショルダーバッグを開く小宮山。「文化祭までにあそこのカメラ全部使うつもりだし。それに何より、私にはこの主力機があるから」
小宮山が取り出したのは、巨大な一眼レフだった。
「あ、F5」
F一桁は、ニコンが技術の粋を尽くして世に問うてきたフラッグシップだ。その系譜は、デジタル化した今ではD一桁へと受け継がれている。一九九六年に発売されたF5は、その中でも極端なほどのスペックを詰め込んだことで携帯性や扱いやすさが犠牲になったピーキーな機体である。
「F6はまだ高くて手が出ないしね」
「でもそれ、フィルムの巻き戻しが面倒なのよね」
F5は大きなボディの対角線上にある二つのボタンを操作しなければ自動巻き戻しができない。ニコン銀塩機の伝統らしい。
詩都香の指摘を聞いて、小宮山は苦笑いを浮かべた。
「まったく。なんなの、あなたは。女子高生にしては詳しすぎでしょ」
「それはお互い様でしょ。ええと、じゃあ、この子借りるね、小宮山さん」
詩都香がそう言うと、小宮山はなぜか俯いた。
「小宮山さん?」
CLEに名残惜しいのかと思った。
が、
「下の名前で呼んでくれない?」
小宮山は唐突にそう求めてきた。
「え? 名前で?」
小宮山の名前なんて知らない。
自分から要求してきたくせに、小宮山は顔を下げたまま、少し恥ずかしそうに名乗った。
「……ときな。時間の『時』に菜っ葉の『菜』」
小宮山時菜、と詩都香は頭の中で変換した。
「いい名前じゃない」
自身、無理矢理感のある自分の名前を説明するときには気後れすることがある詩都香である。それに比べればよほど普通なのに、何を恥ずかしがっているのやら、と思ったが、
「伯父さんがつけてくれたの。ちなみに姉さんの名前は璃子」
と聞いて、何かの回路が繋がった。
「リコ……トキナ……あっ」
「やっぱりわかっちゃった? 姉さんがプロの写真家になったもんだから、伯父さんったら『ライカって名前にしておけばよかったかな』だって」
「……まあ、しぐまとかたむろんとかって名前じゃなくてよかったんじゃない?」
「何それ、変な慰め」
時菜がくすくすと笑った。
「ん、じゃあ、わたしはそろそろ。……ええと、時菜」
「うん。あなたの撮る写真楽しみにしてる、詩都香」
そうして詩都香は時菜と別れ、バス停に向かった。
「……はあ、それで受け取ったのがこれってわけ?」
テーブルを挟んだ向かいのソファに座る河合涼子が、呆れたように言う。
「そ。CLEとモノクロフィルム」
机の上に並んだその二つに、詩都香はあらためて視線を落とした。
ノクトン・クラシックで撮るモノクロ写真はどんな具合だろう、と楽しみに思う詩都香だが、その前に別の撮影をこなさなければならない。その交渉をするために、こうして中京舞原の涼子の部屋にやって来たのである。
時刻は午後七時半過ぎ。
事前にメールを入れたところ、涼子は夕方まで仕事があるとのことだったので、伽那の家でピアノの練習を済ませてから来たのだ。
それから今日の出来事を語り、今に至る。
「M型ライカみたいな雰囲気はないけど、これだって名機なんだよねえ。このコンパクトさでMマウント。AE機だからお散歩写真にはちょうどいいし。まあ、シャッタースピード優先モードはないけど」
涼子の前だというのに素に戻ってしまう詩都香。
「はあ」
涼子は再度溜息を吐いた。
「……どうしたの?」
「詩都香、前に言ってたよね。同性にモテて困る、って。他の部に顔を出してもその調子? 何なのそれ? 無意識にやってるの?」
「は? 何が?」
詩都香が理解できずに問い返すと、涼子は「まあいいけどね」と首を振った。「話聞いてると、今回の時菜って子は大丈夫そうだし」
よく飲み込めぬまま、詩都香はカメラいじりに戻った。
「こっちのフィルムのISO感度は100か。ま、シャッタースピードが最速千分の一秒だし、ちょうどいいかな。一眼レフみたいな写真が撮りたいわけじゃないし。それに何より、写真はカメラのスペックで撮るものじゃないんだなぁ」
「そう、それ」
と、そこで突然涼子が身を乗り出してくる。
「それって?」
「その呪文みたいなの教えてよ」
「呪文て。別に知らなくてもいいわよ。あのカメラに任せてればいい写真撮れるってば」
涼子の持っているデジタル一眼レフは、時菜のカメラの末裔と言える。時菜の姉である璃子の機体とも、性能面で遜色がない。今の時点でこれ以上のカメラを探そうとしたら、数百万円する中判デジタルの中に求めるほかなくなる。
「やだよ。ていうか、私への当てつけなの? いいカメラ持ってるくせになんにも知らない、って?」
「そっ、そんなつもりはないよ」
と詩都香はCLEから離した手を顔の前で振る。
「だいいち、さっき言ってたじゃん。写真はスペックで撮るもんじゃない、って」
「あ、あれは言葉の綾というか……」
「それにさ、事務所のホームページに載ってる私のプロフィールに『趣味は写真』ってしっかり書かれちゃってるのよね。ウィキペディアでもそうなってるし」
(うへぇ、ウィキペディアに項目が作られてるのか)
あらためて涼子の知名度を思い知らされた。
「今まで全然気にしてなかったけど、詩都香の話を聞いてると、このままじゃまずい気がしてきた。少し突っ込んだこと訊かれたらボロが出ちゃう」
「……まあ、芸能人の趣味なんてそんなもんじゃないの? ボロ出したら、後で編集でカットしてもらえばいいじゃない」
「ひっどい偏見だなあ。——よしわかった。詩都香がそんな意地悪言うのなら、さっきの話に交換条件をつけちゃう」
「えっ?」
“さっきの話”とは、明日の撮影行のために涼子の所有するカメラを借りられないか、というものである。せっかく借り受けたCLEでもいいのだが、銀塩機ではプリントが上がるまで写真の出来がわからないため、不安が残る。今回のような部活の作業ではなく趣味で撮るのであれば、その待ち時間も楽しみと言えるのであるが。
相談を持ちかけた際には、快く「いいよ、貸す貸す」と承知してくれていた涼子なのに——
「まさか……」
嫌な予感を抱きつつ、詩都香は涼子の言葉の続きを待った。




