序-2
※※※
月は膨らみを回復しつつあった。月齢およそ五。もうすぐ上弦。昼過ぎから昇り始め、今は高度を落とし始めている。
夜の山中を照らすには頼りない光源だ。
何らの特別な意味もない十月の晩。
そんな晩にも、高原詩都香は全力を尽くして戦っていた。
「ひゅう、やるようになったじゃない」
手にした得物のひと振りはあっさりとかわされた。相手の口ぶりからも余裕がうかがわれる。完全に先読みされていたようだ。
「余裕ぶんな。ムカつく」
バックステップで稼がれた距離を、空振りから体勢を立て直して詰める。
離れるのは不利だ。相手は詩都香の倍も強力な攻性魔法を連発することができる。
だが、接近すれば有利になるかというと——
「くっ」
振るった刃を受け止められ、詩都香は一歩後退した。鍔競り合いすら危険なのだ。
攻め手を欠く詩都香はそこで足を止めた。
彼我の距離が二メートルほどに開く。とはいえ互いに瞬きの間にひと太刀入れられる間合いだ。
目の前の相手を見据える。
相対しているのは、決して背が高い方ではない詩都香よりもさらに小柄な少女。ショートに切り揃えたプラチナブロンドの髪が、か細い月光に輝いている。
彼女の名はノエシス・フォン・ゼーレンブルン。日本名、泉梓乃。
世界的な魔術師の組織〈悦ばしき知識の求道者連盟〉——通称〈リーガ〉——の中でも上位数パーセントに当たる正魔術師。同じく正魔術師である双子の妹、泉恵真ことノエマとともに、二ヶ月ほど前に日本に赴任してきた。
ゼーレンブルン姉妹が帯びてきた任務は、詩都香の親友である一条伽那を拉致すること。
よって、詩都香と伽那、そしてもう一人の親友相川魅咲と、ゼーレンブルン姉妹とは敵対関係にあるということになる。
なるのだが——
「ちょっと! 何なのその剣!」
ひと跳びで間合いを詰めたノエシスの振るった長剣を、詩都香は辛うじて受けた。だがその場に踏みとどまってさらに打ち合うことは避けて後退する。
両手がヒリヒリする。攻防が始まってまだいくらも経っていないというのに、軽度の火傷を負ったようだ。
「何って、あたしとエマの奥の手だよ」
詩都香に追撃をかけるでもなく、突っ立った姿勢のまま、ノエシスがあっけらかんと言う。
「奥の手って、なんでまた今になって急に……」
「ん、だって詩都香、こないだ自分の奥の手見せてくれちゃったでしょ? それもあたしを助けるためなんかに」
「いや、そのことに感謝してくれるってんなら、その奥の手とやらはずっと隠してくれてれば嬉しいんだけどな……」
詩都香たち三人は、敵であるはずのノエシスを文字通り命がけで救った。つい二週間ほど前のことである。
もともとゼーレンブルン姉妹からはそれほど強い敵意が感じられなかったが、ノエシスを救うためにノエマと共同戦線を張って以来、ますます戦いづらくなってしまっている。
なんと言っても、この姉妹は詩都香たちが初めて相手にする年下の魔術師なのだ。
今ゼーレンブルン姉妹が着ているのだって、詩都香たちがつい半年前まで通っていた中学校の制服である。
「〈魔法剣=フォイアーバハ〉。どう? なかなかのもんでしょ?」
ノエシスが長剣を軽く振る。
その刃に纏いつく魔力が威圧的な赤い像を残した。
詩都香は自分の右手に目を遣った。その手の中の、己が武器を。
“サイコ・ブレード”と彼女が勝手に名づけた魔法道具である。古い銀製の燭台のような見た目の柄が詩都香の魔力を変換し、エネルギーの刃を形成している。
赤色のその刃は超高熱を帯びており、鋼鉄だろうが岩石だろうが、自然界に存在する物質はおよそ何であろうと容易く焼き切れる。
その光刃が、ノエシスの華奢な剣を切断することができないでいる。
それどころか、ノエシスの言う〈魔法剣〉はサイコ・ブレードよりも武器としてはるかに高い性能を有しているようだった。
「詩都香、大丈夫? 火傷してない?」
「……してる」
ノエシスと切り結ぶたびに、エネルギー体であるはずのサイコブレードの刀身を介して詩都香の手にまで熱が伝わってくる。同じ高熱の剣ではあるが、触れたもののみを焼くサイコ・ブレードとは特性が違うようだ。
「見てよ、ほら」
詩都香は左の掌をノエシスに向けた。
「ん、どれどれ——」
などと律儀にも顔を近づけて確認しようとしたノエシスめがけて、
「ふっ……!」
詩都香は渾身の念動力を衝撃波に変えてその左手から放った。
「きたなっ!」
本気で油断していたらしく、ノエシスは悲鳴とも罵声ともつかぬ声を残して吹っ飛んだ。
さすがに罪悪感を覚えつつ、詩都香は地を蹴ってその後を追う。
ノエシスは背後に不法投棄されていた廃バスのリアガラスをぶち抜いて中に突っ込んでいった。
詩都香もその開口部を抜けて車内に飛び込む。
「いたたたたた……。詩都香ったらもう……」
ノエシスは座席の一部をなぎ払い、運転席のそばで身を起こしかけていた。
追い打ちの機と見て、詩都香はそこに飛びかかった。
だがそれでもなお、ノエシスは手放していなかった〈魔法剣〉で詩都香の斬撃を受け止めた。
「熱っ! つつッ!」
またもや手を焼かれ、詩都香は後退しつつサイコ・ブレードを振り回して、体勢を立て直したノエシスと打ち合う。
座席も吊革も手すりも、二人の振るう刃の障害とはなりえない。赤熱した断面をさらして、かたっぱしから切り刻まれていく。
「ったく!」
ノエシスの吐いた悪態とともに、二人の剣閃がここにきて初めて絡み合う。
「ていっ!」
さらにノエシスは詩都香のサイコ・ブレードごと〈魔法剣〉を上方に掲げた。
二つの刃が、バスの天井を突く。
ぽんっ、と軽い破裂音とともに、天井が融けて大きな穴が開き、融解した鉄の滴が車内に降り注ぐ。
「うわっちゃっちゃちゃちゃ!」
詩都香は防御障壁を展開しながら、たまらずリアの開口部から外に飛び出した。
ごろごろと地面を転がり、マントに付着した火の玉を払ってから、詩都香はお返しとばかりに左手をバスに向け、ぐっと握りしめた。
その手の動きに応じて、バスに残っていた窓ガラスが一枚残らず内側に向けて弾けた。
車内にはしばらく何の動きも窺えなかった。
(あれ? やっちゃったのかな?)
などと、詩都香が中腰から直立へと姿勢を変えたところで、バスのドアが吹き飛んだ。
「まあったく、詩都香ってばほんとにやることがえげつないんだから」
幾百のガラス片の嵐にさらされたはずのノエシスが、無傷でステップから降り立った。
詩都香は内心少しホッとするとともに、ノエシスの持つ底知れない力に戦慄を覚えた。やはりノエシスは格上の相手だ。
「おー、あっちも盛り上がってるねえ」
そう言って、ノエシスが首を右にめぐらせる。
詩都香もつられて同じ方向に視線を向けた。
詩都香とノエシスから百メートルほど離れた場所で、魅咲と伽那がノエマと戦っていた。
まだやっているのか、と詩都香は眉根を寄せる。
何度となく戦っているうちに、詩都香にはノエシスとノエマの間に存するほんの小さな実力の差と、それよりも大きな気質の違いを見抜いていた。
ノエシスの方が妹のノエマよりもごくわずかに強い。
そして、ノエシスは炎のようにムラがあるものの変幻自在。
一方のノエマは氷のように怜悧だが予想外の展開に脆い。
どちらが与し易いかと言えば、実力差以上に断然ノエマだ。
今回はそのノエマに、主力である魅咲と伽那をぶつけた。
無敵の格闘少女相川魅咲は、魔法で身体能力を強化せずとも馬鹿げて強い。〈モナドの窓〉を開いた今なら、接近戦で魅咲に勝てる魔術師は、日本にはそう多くはないだろう。
他方、ゼーレンブルン姉妹の標的である一条伽那は、人間と〈夜の種〉——いわゆる魔族——双方の特質を受け継ぐ〈半魔族〉であり、自由に使える魔力の量は詩都香の比ではない。
二人とも得意分野に偏りはあれど、詩都香よりも戦闘力は上だ。互いの弱点をカバーするタッグとなればなおさらである。
しかし、その二人がノエマ一人を抜けないでいる。ノエマの方は、ノエシスと一緒に生成した〈魔法剣〉をとっくに解消しているにもかかわらず、だ。
「あの二人相手にここまで渡り合えるなんて、エマもやるようになったな。ちょっと吹っ切れたのかも」
〈魔法剣〉をぶらぶらさせながら、ノエシスが他人事のように呟く。そうしながら、その足はゆっくりと左に動いてゆく。
「ねえノエシス、向こうで何かあったの?」
ノエシスの足運びに応じて右に移動しながら、詩都香はそう問いかけてみた。
先週の金曜日から七日間、ゼーレンブルン姉妹は故国ドイツに一時帰国していた。
彼女たち姉妹はもともと日本人の父とドイツ人の母の間に生まれたハーフだ。
そして詩都香の推測するところでは、両親の内のどちらかが、伽那の家系と同じく〈夜の種〉の血を引いていた。そうした血統にはごくわずかの確率で〈半魔族〉が生まれる。
ノエシスとノエマの二人がそうだったようだ。彼女らは生まれつき人間離れした異能を具えていた。
二人はその異能を理由に、両親から虐待を受けていたのだという。
そしてある晩、虐待される姉を見せつけられたノエマは暴走した。両親のもとから文字通りに飛び出し、しがみついてきたノエシスとともにとある森の中で気を失っていたところを、彼女たちが「城主様」と呼ぶ女性魔術師に拾われ、爾来十年間魔法を習ってきた。
ノエマが暴走した際に実の両親に何をしたのかは、二人とも覚えていない。ノエマはそもそもそんなことがあったことすら、つい先日思い出したばかりなのだ。
その出来事を思い出したノエマは、姉とともに学校を休んで一週間足らずの里帰りをしてきた。両親の手がかりを探すためである。日本に戻ったのはつい昨日のことだ。
「別に。結局何も見つからなかったし、城主様も何も教えてくれなかった。ほんとにただの一時帰省になっちゃった。さっきの吹っ切れたってのはあっち。あんたの弟のこと」
ああ、と詩都香は頷いた。
ノエマはあろうことか、詩都香の弟である琉斗に恋心を抱いているのだ。初恋らしい。
ところが——色恋沙汰に鈍い詩都香が魅咲から教えられたところでは——琉斗にはもう何年も片想いをしている相手がいるのだという。今の琉斗はノエマのことを憎からず思っているようにも見受けられるのだが、どうもいまひとつはっきりしない。
「吹っ切れたって、琉斗のことは諦めるってこと?」
詩都香が運足を続けながらそう問うと、ノエシスはちがうちがう、と首を振った。
「逆。まあ、そっちはいいよ。どうせ詩都香はこういう話さっぱりだし」
「あんたもだろ」
ノエシスにだって恋愛経験などないということを、詩都香も承知している。
「それよりもさ、その武器もうやめにしない?」
言われて詩都香は、右手の中のサイコ・ブレードに視線を落とした。
「なんで?」
「だって、詩都香の腕であたしとチャンバラしたって絶対当たらないよ? あたし、こう見えても剣術の基礎訓練くらいは受けてるんだから」
ぐ、と詩都香は言葉に詰まった。〈魔法剣〉を使うノエシスと戦うのは初めてだったが、たしかに詩都香よりも格段に腕が上のようである。
だけど詩都香とて、これまで遊んできたわけではない。
「余裕こくなっつーの!」
じりじりと移動するノエシスが、打ち捨てられたブルドーザーの前に差しかかったところで、詩都香はアプローチをしかけた。
退路の無いノエシスはその場に踏みとどまり、なおかつ詩都香の斬撃をひと振り、ふた振りと最小限の動きでかわしてみせる。
「なろっ!」
最後の突きも、やはりかわされた。灼熱の刀身はノエシスが背にしたブルドーザーのブレードに易々と突き刺さった。
「ほい、六回目」
ノエシスが空いている方の手で、慌てて退がる詩都香の胴を薙ぐ真似をする。
「……六回目?」
「あたしが詩都香を斬れた回数。致命傷になる部位だけだよ? 手や足なら数え切れないくらい斬れた。もっとも——」
ノエシスが身を翻し、背後のブルドーザーを魔法剣で斬りつけた。
「この剣で斬ったら、どこだろうとおしまいだけどね」
その一撃でブルドーザーの車体は火だるまになり、瞬く間に形を失って、焼けた鉄の塊へと姿を変えた。
燃えさかる残骸が放つ熱を受けながら、詩都香は薄ら寒いものを感じた。
「できればあたしは詩都香を消し炭にはしたくないんだけどなぁ」
「……ならその剣使わなきゃいいじゃない」
「でも、詩都香はあたしが丸腰でもその武器使うでしょ? それだって当たったらタダじゃ済まないもん。一生モノの傷だよ? 詩都香も前より少しは強くなってるしさ、あたしだけ素手ってのもちょっと怖いんだよね」
「……わかった」詩都香はサイコ・ブレードの刀身を収めた。「フェアじゃない、ってわけね。わたしだけ身の丈に合わない危ない武器を振り回してて」
ノエシスも魔法剣を解消する。
「ものわかりがよくて助かるよ。それにしても、エマまだもってるな。……んで、どうすんの、詩都香?」
「どうって?」
手の中に魔法の光を生みながら、詩都香は問い返した。
「ここからの作戦。エマ、もう少しもちそうだよ? 相川と一条がさっさとエマをやっつけて、それからあたしを三対一で袋叩きにしようって考えてたんでしょ? でも今からならたぶんあたしが詩都香を無力化する方が早いよ?」
言われなくてもわかっていた。詩都香が敗れて二対二になったら、魅咲と伽那にも勝ち目がない。
「ふん、やれるもんならやってみなさいよ。——やれるもんなら、ねっ!」
ピストルの形を作った右手から、必殺の攻性魔法を放つ。
ノエシスはしかしこれを、片手に張った防御障壁で軽々と弾いてみせた。
その隙に距離を詰めて一撃を加えようとしたところで、詩都香は危うく踏みとどまった。
隙などこれっぽっちもできていなかった。ノエシスは腹立たしいほどの余裕のポーズを崩していない。
「……策はないってわけ?」
ノエシスの視線に対して、詩都香は無言を貫いた。実際には手詰まりなのだが、何か考えがあると見せかけることで、少しでも時間を稼いでおきたい。
「まあいいや。今日はこれくらいにしといてあげる」
「えっ!?」
詩都香は耳を疑った。
ノエシスの力なら、あと数分で詩都香を倒せるだろう。ノエマがその間に魅咲と伽那を足止めしていられれば二対二。そうなれば、ゼーレンブルン姉妹にとってはミッション達成の恰好の機会ということになる。
それなのに、なぜ——
「ま、あたしたちもこっちに戻ったばかりで生活リズムが崩れてるから、今晩はさっさと寝たいんだよね。今日一条を捕まえたりしたら、それからまた色々面倒になるでしょ? 朝まで眠れなくなりそう」
だったら最初から決闘なんて申し込んでくるな、と詩都香は言いたくなった。
「それに今日の詩都香、なんか本調子じゃなさそうなんだもん。疲れてるの? 文化祭の準備のせい?」
「……それもある」
詩都香は素直に頷いた。
本格的に始まった文化祭の準備のために、実行委員である詩都香はこの二週間ほどは忙しい日々を送っていた。それに様々な事情が重なって、精神的に疲れているのは事実だ。
加えて、詩都香は新しい人間関係のただ中にいた。彼女が本調子でないのだとしたら、原因はこちらなのかもしれない。
場違いにも、そこで詩都香は新しくできた友人のことを想った。
(涼子、今何してるかな——)