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インターホンからの応答はすぐにあった。
『こんにちは、詩都香さん』
一条邸の万能メイド、ユキである。
「こんにちは、ユキさん。今日も寄らせてもらっちゃいました」
『今開けますね」
ユキのその言葉とともに、門を閉ざしていた柵が左右に開いた。
詩都香はインターフォンのカメラに向かって軽く頭を下げてから、門を抜けて洋風の前庭へと立ちいる。
邸の玄関の扉を開いて、ユキが姿を現した。
相変わらずのメイド服姿。そら怖しいほどの美貌。
詩都香はだいぶ慣れたが、初めてユキの容姿を目の当たりにした人間は、男女を問わず誰もが息を呑む。
(ユキさんが芸能界に打って出たら面白いかも)
歩きながらそんなことを考えてしまったのは、さっきまでいっしょにいた二人のせいだろう。
「こんにちは」
あらためて腰を折るユキに、詩都香も立ち止まってお辞儀を返す。
「どうしました、詩都香さん? なんだか楽しそうですね」
詩都香の緩んだ口元を見て、ユキが首を傾げた。
「……いえ。伽那はもう帰ってますか?」
「はい、待ちくたびれていましたよ。今はどうせ部屋で昼寝でもしていると思います」
文芸部の作業は進んでいるのだろうか、と詩都香は少し心配になってしまう。今度、担当した委員に尋ねてみなくては。
「珍しいですね。お車で?」
玄関をくぐったところで、扉を閉めたユキが尋ねてきた。
「ええ。見てたんですか?」
「いいえ。でも聞こえました」
さすがの聴力である。
二人は玄関ホールを進んだ。
「そういえばユキさん、河合涼子、って知ってますか? 一応アイドルらしいんですけど」
指をほぐしながら詩都香がそう訊くと、ユキは即座に首肯した。
「存じておりますよ。この街に住んでいるのですよね。たしか中京舞原の辺り。聖マグダレーナに通っているとか」
淀みなく答えるユキだが、その情報が一般に流布しているものなのかどうか、詩都香には判断がつかない。なにしろこの街に関してユキが知らないことはない、と言われているのだ。
「……有名なんですか?」
「だと思いますよ。まだデビューして半年程度ですが、メディアへの露出も多いですし、今月からラジオ番組も持っています。先月リリースしたファーストシングルも売れ行き好調。来月には——」
質問する相手を間違ったかもしれない。
いかにも浮世離れしています、という雰囲気のユキだが、この手の俗事に異様に詳しい。
その上、この街へのユキの愛着は、詩都香の比ではない。ここに住むアイドルの活躍はやはり気になるのだろう。
そこに、上から声が降ってきた。
「詩都香、いらっしゃい!」
この屋敷の主、一条伽那である。吹き抜けの構造になった玄関ホールの上の回廊から顔を出している。
「ユキさんってばもう! 詩都香が来たら教えてって言ったのに」
「いつ言いましたか、そんなこと? それに、今呼びに行くところだったんですよ」
「寝言で言ったはずでしょう」伽那はとんでもないことを言う。「ユキさんなら聞こえてたでしょ?」
「いいえ、今日の伽那の寝言は『ジンとローズ社のライムジュースを半々で』でした。いったいどんな夢を見てたんですか?」
伽那の顔がかぁーっ、と赤くなった。
「ウソだあ!」
次いで、ユキの笑顔が詩都香に向けられた。
「詩都香さん、伽那にお酒を飲ませたりしてませんよね?」
「してません、してません!」
流れ弾をもらう形になった詩都香は、ぶんぶんと両手と首を振った。こんな疑惑を肯定しようものなら、それこそ現世からの“長いお別れ”になってしまいかねない。
「伽那、降りてこないんですか?」
「あ、今行く。ユキさん、よろしく」
ユキに言われた伽那は、手すりを乗り越えてぴょん、と飛び降りた。
一般的な家屋の二階よりも高い場所からの身投げだが、その場にいる誰もが慌てることはなかった。
ユキが片手を挙げると、伽那の体が空中で静止し、そのままそろそろと階下の床に降りてきた。
「ありがと、ユキさん」
軟着陸を果たした伽那が、ユキに向かってぱたぱたと手を振った。
「まったく、こんな不精なことばかり覚えて。私はエレベータの代わりじゃないんですよ? 他の人の目があったら、そのまま落っこちてもらうところですからね」
強力な念動力で伽那を受け止めたユキが、はあ、と溜息を吐いた。
「ごめんなさーい」
言葉ほど悪びれた様子もなく、伽那は詩都香のところへと駆け寄った。
「ようこそ、詩都香」
「どうも」
学校で顔を合わせたばかりなのに、熱い歓迎ぶりである。詩都香はついそっけない態度をとってしまう。
「あれ、走ってきた? 少し汗かいてない?」
「うん、まあ少し走った」
詩都香はポケットからハンカチを取り出して、額と鼻頭に残る汗を拭いた。まだ乾ききっていなかったらしい。
「ユキさん、何か冷たいものでもお願いね」
伽那のリクエストに、ユキは心得た、とばかりに歩き去って行った。
お構いなく、と言う暇すらない。
「ありがとうございます」
ユキの背にひとことかけてから、詩都香と伽那は音楽室へと向かった。
ぽわぽわとしたお人形さんみたいな子だ——それが、一条伽那に初めて会ったときに抱いた詩都香の感想だった。
品がよくて、親しみやすくて、教室における絶対権力者たる教師に特別扱いされながらも、反感を招くこともない。
当時の伽那は体が弱くて、長生きはできそうにないと言われていた、と聞いている。本人もどこか捨て鉢になっていた。そのくせ、諦念のベールを突き抜けて周囲を惹きつけてしまうのだから、大したものである。
その伽那は今、グランドピアノの傍で詩都香の演奏を見守っていた。その瞳が、詩都香の指の動きに合わせて小刻みに動く。
いつものことだが、詩都香はついついその視線が気になり、集中力を取り戻そうといったんは焦り、それから、このくらいのことで心をかき乱されてどうする、本番はもっと大勢に見守られるんだぞ、と自分に言い聞かせて、ようやくのことで本来の集中に入ることができるのだった。
伽那と二人きりの時間と空間。
邪魔をする者は誰ひとりいない。
意識しなくても指は鍵盤の上を滑るように走り、要所でステップを踏む。
伽那が楽譜のページをめくる。
詩都香はキーを叩きながら、目だけを一瞬上げてそれに応える。
何ひとつ妨げるものはない。詩都香の奏でる曲すら、二人にとっては存在感を希釈されてしまう。
伽那の鳶色の瞳が、詩都香の紺鉄色の瞳が、またしても絡まる。
詩都香が頷き、伽那が頷いてページをめくる。
本番もこうだといいのに、と詩都香は思った。
伽那と二人きり。こんな空間で、思い切り打鍵できたらいいのに……。
だが、本番の舞台上に伽那はいない。脚本役の伽那は当日は裏方に回り、楽譜をめくるのは他の女子生徒の役割だ。
「——あ」
邪念が入った。
キーの打ち間違いはなかったが、リズムが乱れて和音がずれた。
詩都香は十指で一斉に鍵盤を叩いてから、大きく息を吐いた。
「途中まで調子よかったのにね」
伽那も緊張が切れたような顔で言う。
「でも、失敗してそれでジャンで終わり、じゃダメじゃないの?」
もっともである。
本番で少々失敗したからといってそこで演奏を打ち切るわけにはいかないのだから、リカバーの練習もしておかなければならない。
「まあね。でも、失敗する気はないよ。筋の進行を中断して演奏するんだから、それなりに聴かせられるものにしないと」
思い出したように重苦しくなった指を軽く揉み合わせながら、詩都香は強がってみせた。
そこで伽那が右手を伸ばして詩都香の左手をとり、微弱な力で揉み始めた。
「あ、気持ちいい」
詩都香は目を細める。
「詩都香の指、固いね」
「そりゃバイオリンもやってるしね」
詩都香は伽那の手に指を委ねた。
一本一本、親指から小指までマッサージした伽那が、今度は右手にとりかかる。
むくんだ指の熱が、ひんやりとした伽那の手に吸い取られていくようだった。
「あんたの指はふにふにね。子供みたい」
「そんなことないよ。文芸部らしくペンダコだってできてるんだから」
子供扱いされたと感じたのか、伽那が小さく頬を膨らませた。
どれ、と左の人差し指を伽那の右手の中指に這わせてみたが、ペンダコとやらは探り当てられなかった。
「どう考えてもわたしの方がペンダコ大きいじゃない」
今度は伽那の人差し指が詩都香の中指をなぞる。
「あ、ほんとだ。詩都香のはゴツゴツしてる」
伽那の手。
花を愛で、詩集を繙くためだけに造形されたかのような、華奢で柔らかな白い手。
だが伽那は、この手で己の生命と運命を掴みとらなければならない。
誰もが羨むであろう家柄に、忌むべき血筋の裔に生まれついた伽那——
守ってあげるからね、と詩都香は意を新たにする。
「ん、終わり」
伽那が手を放した。
詩都香は両手をぷらぷらと振って感覚を確かめた。
——よし、まだ行ける。
「もう一回つき合ってくれる?」
「いいよ、何度でも。わたし、詩都香のピアノ好きだもん」
詩都香はそれを聞いて微笑んだ。
「ありがと。でも今日は次でラスト。そろそろ帰らなきゃいけないし、伽那だって勉強しなきゃいけないでしょ?」
「えーっ?」
伽那が口をへの字に結ぶ。
「それにほら、文芸部の方は進んでいるんですか、文豪の一条先生?」
「詩都香ってば、ここに来てお説教だもんなぁ」
伽那は頭を掻きながらピアノの脇に戻った。




