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放課後の魔少女——楽園は次の角に  作者: 結城コウ
第二章「偶像と背中の煤けたその相棒」Des Idols rußig rückige Schwester.
15/114

2-5

※※※

(見え透いた嘘を吐きやがって)

 高原琉斗(りゅうと)は無表情に歩を進めながら嘆息した。

 平日の朝は大抵そうだが、今朝もテンションは低めだ。

 朝食を終えてしばしテレビを視てから、学用品を準備し、姉から手渡されたハンカチとティッシュを制服のポケットに突っ込み、これも姉の手料理が詰まった弁当を鞄に入れて、時間を見計らって家を出てきた。

 弁当の中のおかずは、半分は今しがた食べたばかりの朝食と同じだが、もう半分は改めて作ったものだ。

「信じられん」

 と、彼は口の中で呟く。

 昨夜、寝入る前に飲んだお茶のせいか、夜半に尿意を覚えて目を覚ました。用を足してから部屋に戻ろうとして、姉の部屋の扉のわずかな隙間から光が漏れているのに気づいた。

「お姉ちゃん?」

 ノックしながら声をかけると、「ん?」と応えがあった。

 ドアを開けてみれば、姉は机に向かっていた。

「まだ起きてたの?」

 姉が振り返った。

「そりゃこっちの台詞だ。何やってんの? 勉強?」

 琉斗は寝ぼけ眼でそう尋ねてみた。

「ううん、ちょっとね。前に言ったでしょ? 文化祭でバイオリン弾かなきゃいけないって。あ、ちょうどよかった。どっちがいいか聴いてみてくれない?」

 姉は椅子から立ち上がり、机に立てかけていたバイオリンと弓を手にした。

 近づいてみると、机の上に広がっていたのは楽譜だった。

「演奏は二分以内ってことになってるからさ。聴かせどころをアレンジしてみたんだけど、どっちの編曲がいいかな、って」

 ああ、と琉斗は悟った。

 姉がバイオリンに手を触れることもなくただ楽譜を睨んでいたのは、自分を起こさないための気遣いだったのだ。

 高原家の壁はなかなかに厚い。バイオリンを弾いても、彼はたぶん起きなかっただろう。それなのに姉は音を立てるのを慮った。

 姉は一曲演奏し、それから寝ぼけた彼の耳にはほとんど同じに聞こえる曲をもう一度奏でた。

 姉の演奏を聴くと、琉斗は安心する。バイオリンに限らず、ピアノでもギターでもいっしょだった。姉の腕前は極めて優れているとは必ずしも言えないが、幼い頃から慣れ親しんできたそれらは、いわば第二の胎教音楽だった。

 だがそれゆえに、この状況で聴かせられれば瞼が重くもなろうというもの。

「んで、どっちかな?」と尋ねられ、どのように答えたのかはまったく覚えていない。

 ただ、「んじゃ、そっちにしようかな」という姉の反応が、こびりつくように頭の中に残っていた。それから、自分の部屋に戻ってからふと見た時計の、『一時三十四分』という表示も。

 ——そして今朝、六時半に起こされたわけである。

「信じられん」

 彼は再度声を漏らした。

 あの姉——詩都香(しずか)という、珍しいんだかありふれているんだかよくわからない名前を持つあの姉は、どうなっているんだ、と。

 いったいいつ寝ているのだろうか。

 そもそも寝ているんだろうか。

 あれで、県内でも上位の進学校である水鏡(みかがみ)女子大学附属高校でトップ層の成績を維持している。学期末に受け取った通知表を見せても父親は何も言わないが、後で姉と互いの通知表を見せ合うと、その差に愕然とする。

 そのくせ詩都香は自分に自信が持てずにいるらしいのだ。その結果があの人見知りな性格である。

 実際のところ、身内びいきを差し引いても姉は美形だと思う。地味で野暮ったいところはあるが。

 学力面では偏差値七十を超え、家庭科のスキルは大抵身につけており、各種の趣味にも強く、雑学も体力も平均以上。ただし、性格には難あり。

 こんな姉を持った自分は不幸なのではないか、と思うこともある。詩都香も去年は同じ中学に通っていたため、琉斗は何かにつけてこの姉と比べられる。

 これで家事の負担が取り除かれ、何かひとつのことに集中しさえすれば、詩都香はかなりの人物になるのではないか。事実、家事こそやめなかったものの、他のあらゆる趣味を数ヶ月断って臨んだ高校入試の結果、彼女は入学式で新入生代表を務めることになった。すなわちトップの成績で合格したということだ。

 琉斗とて家事の手伝いを申し出たことがある。全部を代わるのは無理でも、少しでも負担を減らしてやれれば、と思ってのことだ。

 が、うまくいかなかった。掃除にしろ洗濯にしろ、後で結局詩都香がやり直すのである。二度手間もいいところだった。一度など詩都香の手洗い指定の服を洗濯機にかけてしまい、むくれられた。以後、彼に家事は回ってきていない。

 自室の掃除だけは自分でやることにしている。詩都香の方は思春期ゆえのプライバシー意識と思い違いをしているようだが、それで任せてもらえるのであればそんな誤解も都合がいい。

 ふう、とそこで彼は大きく息を吐いた。

「ま、お姉ちゃんはああいう奴なんだよな」

 夏休みに、姉の学友の三鷹誠介(せいすけ)に相談したことがある。姉の負担を減らしてやりたい、と。

「よし、じゃあまず俺たち二人の女子力アップだ」

 そんな訳のわからぬことを言い出した誠介と、一人暮らしの彼の部屋でいっしょに家事に挑戦することになった。

 猛暑の中汗を垂らしながら散らかり放題の部屋を片付け、エアコンのフィルターを洗浄し、風呂やらトイレやらキッチンシンクやらを磨き、取り込んだ洗濯物にアイロンをかけて火傷をこしらえ、最後の仕上げ、と夕食に作った少し苦味のあるカレーを食べながら、琉斗はようやく体良く利用されたことに気がついた。

「ひでぇ……」

 琉斗が肩を落とすと、誠介は焦げたジャガイモを飲み下してから呵々と笑ったものである。

「まあいいだろ、姉ちゃんの大変さを実感できたってことで。しかしダメだな、俺たちは。高原はおろか、これじゃ魅咲(みさき)にも勝てんわ」

「笑いごとじゃないっすよ」

 適度に疲れたと思い込んでいる間、カレーは不出来ながらも旨く感じたが、徒労だったと知った途端に苦味を増したかのようだった。

「ま、お前は弟であいつは姉で母親代わり。それで今は納得しておけよ」

 誠介はわかったようなことを言う。

「でも……」

 琉斗が反論しようとすると、誠介は目つきをわずかに鋭くした。

「もしお前がいなかっとしたら、あいつはどうするかな? 親父さんはあまり帰らない、お袋さんはいない——どうだ?」

「……そりゃあ今と大して変わらないと思いますけど」

「だろうな。何日かに一度帰ってくる親父さんを待ちながら、一人で来る日も来る日も掃除洗濯炊事。そりゃ父子家庭なら珍しくないのかもしれないけどさ。でもあいつが今の生活を全然苦にしてないとしたら、それはきっとお前がいるからだ」

 反応に困った。普段軽いノリの誠介の口からこんな言葉が出るとは思っていなかった。

 誠介が続けた。

「お前の鬱屈もよくわかるぞ? だけどその上で頼みたいんだ。もう少しだけ、高原の好きなように世話を焼かせてやってくれないか?」

「どういうことっすか?」

 詩都香に手間をかけさせる弟など、ひょっとしたら誠介は内心邪魔に思っているのではないかと考えていた。

 誠介は一拍の間瞑った目を開いて答えた。

「今はたぶん、それがあいつのためだ。あいつはそういう奴なんだよ。——しっかしこのカレー不味いな。お前何入れたんだよ」

 さきほどの真剣味を帯びた表情からころっと調子を変えた誠介に、琉斗も何やら憑き物が落ちた心地になった。

「インスタントコーヒーですよ。隠し味にいいって聞いたことあるんで」

「隠し味は隠せよ、このアホ」

「三鷹さんが炒めた野菜もひどいですよ。苦いのはたぶんそっちのせいですってば」

 女に振り回されがちな二人の男子は、そうやって笑い合った。

 ——もちろん誠介の言葉に全的に納得したわけではない。というより、何やらはぐらかされたような気分ではあった。

 が、それでも誠介の言葉通りにしようと思ったのは、あのときの奇妙な目つきのためだ。誠介の、まるで何もかも見通しているかのような不思議な眼差し……。

 誠介と姉がつき合うようになればいいのに、と思う。

 彼ならきっと、姉を変えてくれる。

(……そういや、今日(いずみ)が帰ってくるんだったな)

 慣れた通学路ゆえの気楽さで、琉斗の思考は急転した。

 もう一週間近く見ていない泉恵真(えま)の顔が思い浮かぶ。相変わらず口数が少なく、表情の変化も小さい恵真だが、それでも転入当初よりは色々な面を引き出せてきたように感じていた。何よりも、はにかんでいるかのような慎ましやかな笑顔がチャーミングだ。

 恵真は明日登校してくるという。

 それが楽しみではあったが、母親の看病のため帰国したわけでもあるし、また前の調子に戻っていたらどうしよう、という一抹の不安もあった。

 と、そこで彼の不安は別のところに移った。再び、姉のことである。

「見え透いた嘘を吐きやがって」

 今度は声に出た。

 いったいあの姉は今度は何に巻き込まれているのだろうか。

 詩都香の腕の痣——やんちゃ盛りの男子中学生だからこそ一目でわかる。卓球台にぶつけたなどというのは大嘘だ。

 野球やソフトボールの球が当たったのかとも思ったが、それならば嘘を吐く必要がない。

 あれは、拳を受けた痕だ。



※※※

 詩都香がその手紙に気づいたのは、ホームルーム後に委員会に行こうとしたときのことであった。

 はじめはいつものラブレターかと思った。トイレの個室に籠って封を切ろうとしたところで、シーリングワックスに刻印された紋章に目が止まった。

 翼を広げた単頭の鷲と、その周りを囲む蛇——ゼーレンブルン家の紋章だ。

 ああ、彼女らが帰ってきたんだな、と実感する。

 書き出しはいつもの「An unsre Feindinnen」——「我らが敵どもへ」。ゼーレンブルン姉妹からの挑戦状だった。

「あれ?」

 続く文面に目を遣って、詩都香はいささか拍子抜けした。

 かの姉妹からの挑戦状はこれまでいつも様々な外国語で書かれていたのに、今回は日本語だったのだ。

 珍しい、という気持ちが起こるとともに、読み進めて笑ってしまった。

「子供っぽい字」

 書き慣れていない日本語に頑張って挑んだのがよくわかる。詩都香の名前が「詞都香」になっているし、画数の多い魅咲の名前は平仮名表記だ。平仮名も少し怪しく、「わ」と「れ」、「む」と「お」の区別が不明瞭である。「な」に引きずられたのか、「た」の右上に点を打っているところもあった。

 場違いにも微笑ましく感じてしまったが、挑戦状は挑戦状である。日時は明日の午後十時半、場所はいつもの通り東山の工業団地跡。相変わらず自分たちの都合を優先しているようだった。

 これまでの例を踏襲して——とはいえ詩都香はいつもまともに読んでいないのだが——書面には悪馬が書き連ねてある。しかし、なにぶんにも語彙が貧困で、この子供っぽい字で「とんちき」とか「あんぽんたん」とか書かれても、失笑しか湧いてこない。特注と見える紋章入りの立派な便箋との落差も、詩都香を愉快にさせた。

 それ以前の手紙は堂々たる書きっぷりで、最初に受け取ったドイツ語のものには手の込んだカリグラフィーが施されており、以前少しだけたしなんだことのある詩都香などお手本として保存しているほどだというのに。

 トイレの個室で笑い声を上げたりして、誰かに聞かれたら恥ずかしい。その先をこの場で読むのは断念する。

 これは是非とも魅咲と伽那(かな)にも見せてやらなければ、と詩都香はまだ遠くには行っていないであろう二人に向けて精神感応(テレパシー)波を放った。

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