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高原詩都香の朝は早い。
五時には目覚め、姿見に向かって髪を整え、部屋着に着替えてから一階に下り、コーヒーメーカーを準備する。
リビングの隅に丸まってまどろんでいたフリッツが、その香りにつられたかのように動き出し、さっそく詩都香の足にじゃれつく。
コーヒーができるのを待つ間、詩都香はフリッツを抱き上げてソファに座り、テレビを点ける。朝のニュース番組を見ながら、フリッツとしばらくじゃれ合う。
「今日も平和だ。ねぇ、フリッツ〜」
詩都香は胸に抱いたフリッツに頬を寄せる。
十月三日の朝も、特段の大事件はないようだった。少なくともこの京舞原に関わる事件は。
でき上がったコーヒーをマグカップに注ぎ、またソファに腰かけてテレビ視聴を再開する。
湯気の立つマグカップを手にする詩都香に対しては、フリッツも一転しておとなしい。膝の上に乗って首を巡らせ、詩都香の顔を見上げている。ときおりその背を撫でてやると、甘えるような眠たげなような声を出す。
「フリッツはおりこうさんだね〜」
自然に詩都香の方も文字通りの猫撫で声になる。こんな声、誰にも聞かせられない。
コーヒを飲み終えると、まずはフリッツの朝食だ。餌皿を持って勝手口へ向かう詩都香の後を、フリッツもついてくる。ここにキャットフードが置いてあることを、この黒猫も知っているのだ。
フリッツが食事を開始する。詩都香はしばらく背中の毛並みを撫でてやってから、衣服に付着した抜け毛を粘着ローラーでざっと取り、ハンドソープで手を洗い、エプロンを身につけて朝食の支度にかかった。
とりあえず味噌汁と主菜ができ上がったところで二階に上がり、弟の琉斗を起こしにかかる。
「起ーきーろー! 朝だぞー!」
琉斗は例によって今朝もなかなか目を覚まさない。薄手の掛け布団の中でもぞもぞと体をよじる。
「お姉ちゃんを困らせるなよー! 起きろお!」
「……早えよ。……もっと寝かせろよ……」
体を揺さぶってやると、やっと反応があった。しかし頑なに目を開けようとしない。
「もっとってどれくらい?」
「あと二十分……」
「わかった」
と、詩都香はおとなしく引き下がる。これもいつものことだ。
おかずを作り終え、きっかり二十分経ったところで、再度琉斗の部屋に押し入った。
「二十分経ったぞー。起きなさい」
今度もやはり琉斗は簡単には目覚めない。
業を煮やした詩都香は、布団の上から琉斗の体に馬乗りになった。
「……うぐぐ……重い……」
「失礼なこと言ってないで起きろ」
「あと五分……」
「ベタなこと言うな。——よしわかった。あと五分思う存分惰眠をむさぼるがいい。その代わりその間わたしはここを動かないし、きっかり五分後におはようのキスをしてあげる」
琉斗の体にぐっ、と力が籠る。ようやくその目が開いた。
「……ひでぇ悪夢を見るところだった」
「はい、おはよう」
詩都香がベッドから下りると、琉斗は身を起こして伸びを打った。
「ふあ……おはよう、お姉ちゃん」
その琉斗にもう一度「おはよう」を返してから、詩都香は部屋を退出した。まだ弁当も作らなければならない。
「そういえばさ、泉から今日帰ってくるってメールがあったよ。明日から登校するってよ」
給仕を終え、弁当も詰め終えて食卓についた詩都香に、向かい側から琉斗が口を開いた。さも大したことではなさそうに。
「あら」
箸を手にした詩都香は顔を上げた。そういえば、一時帰国していたゼーレンブルン姉妹が戻ってくる頃だ。
またあの姉妹と戦うのか、あいつら強いから面倒なんだよな、と詩都香はうんざりとする気持ちを味噌汁で胃の腑に流し込んだ。
とはいえ、これまで渡り合ってきた〈リーガ〉所属の他の魔術師に比べると、戦い方が素直で、何が何でもという執念に乏しいのは助かるところだ。強いが、不気味ではない。正面から正攻法で鮮やかに勝利を収めるつもりなのだろう。
あの姉妹がお役御免になって、もっと敵意を抱いた別の魔術師が派遣されてくるのは、詩都香としては勘弁願いたい。
と、椀を置いた拍子に、じっとこちらに向けられた琉斗の視線に気づいた。
「……何?」
「いや、お姉ちゃん、その腕」
琉斗が詩都香の左腕を指す。
詩都香は心の中で舌打ちした。
うかつだった。水仕事を終えた後、まくり上げていた袖を直すのを忘れていた。
詩都香の左前腕には、乙女の柔肌には似つかわしからぬ青々とした痣が刻みつけられていた。打撲傷なのは誰の目にも明らかだ。
「ちょっと昨日の体育でふざけちゃってね」
咄嗟にそう嘘をついてから、効率よくこの場をしのぐストーリーを組み立てるために脳が回転する。琉斗がこれで納得してくれればいいのだが——
「体育? 何やってたんだよ」
琉斗は引き下がらなかった。
詩都香は顔色ひとつ変えずに答えた。
「卓球。伽那と『ピンポンの王子様』ごっこしてたら、バランス崩して台にぶつけちゃった」
名前を出した伽那には悪いが、一学期の体育の授業で同様の出来事があったのは本当だ。そもそもにして伽那のために傷を負ったのは事実と言えないこともないので、大目に見てもらうほかない。
「はあ? ……ったく、高校生にもなって」
琉斗は呆れた表情だ。
「あ、伽那に言ってやろっと。琉斗が伽那のことガキっぽいって言ってた、って」
詩都香は少し口元を歪めて言ってやった。この弟が、昔から可愛がってくれている魅咲と伽那に頭が上がらないことはよく知っている。
「おいっ、なんでそうなる!」
案の定、琉斗は焦りの色もあらわに詰め寄ってきた。
煙に巻くことに成功したと判断し、詩都香は話題を変えた。
「そう言えば、なんで恵真がわざわざあんたに帰国の連絡してくるの? あんたたちってそんなに仲いいんだっけ?」
まだ何か言いたげだった琉斗が、「う」と言葉を飲み込んだ。それから、浮かせかけていた腰をすとんと椅子に下ろす。
「……別に。まあ、席が隣同士だし、そこそこ仲いいかもな」
「ふぅん」
そこで会話が途切れた。
と、詩都香が頬杖を突いて弟の顔を見守っていると、鯖を食べ終えた琉斗が箸を置いて再度口を開いた。
「なあ、姉貴」
「お姉ちゃん、でしょ」
「……なあ、お姉ちゃん」
「ん、なあに、琉斗?」
「その声やめろ。——あのさ、さっきから思ってたんだけどさ……」
詩都香は人差し指で自分の右頬を指した。
「琉斗、ご飯粒ついてる」
「お、ありがと。——じゃなくてさ」
「なあに、琉斗?」
「天丼やめろ。いや、文句じゃなくて、純粋な疑問なんだけどさ……」
「いやにもったいぶるわね。何?」
「なんで朝からそんなに食い終わるの早えの? 俺よりだいぶ遅れて食べ始めたよな?」
「あんたがお喋りして食べるの遅かったんじゃないの?」
「絶対違う」
「それにわたしもまだ食べ終わってないわよ。おかわりするし」
詩都香は茶碗を手に立ち上がった。
「……さいですか」
琉斗は悟りきったような顔でご飯の残りをかき込みにかかった。
「見え透いた嘘を吐いちゃって」
琉斗を送り出してから、詩都香はにやにやと笑ってしまった。
琉斗は泉恵真ことのエマ・フォン・ゼーレンブルンのことを特別に想っている……らしい。伝聞形なのは、琉斗本人から相談を受けた魅咲を介した情報だからだ。
ただ、琉斗には何年も片想いを続けてきた相手がいる。これも魅咲から聞いたことだが。
そして、彼の気持ちは今揺れ動いているらしい。
詩都香はどちらかと言えばノエマを応援している。名前も顔も知らぬ“片想いの君”よりは、人柄に接したことのあるノエマに肩入れしてしまうのだ。
わずか十日ばかり前に、ノエマの姉ノエシスを救うために張った共同戦線で、ノエマから注ぎ込まれた強烈な精神感応波。姉を助けたいという痛切な想い。敵対陣営に身を置いているとはいえ、ノエマはいい子だ。堅物で生意気ではあるが。
(それにしても、わたしに“片想いの君”のことを知られるのはそんなにイヤか?)
琉斗のノエマへの想いをあっさりとバラした魅咲でさえ、この件については口を噤んでいる。
それからもうひとつ。魅咲に相談した時点でノエマとのことが詩都香に伝わることは予測していてしかるべきだ。それなのに、琉斗はあくまでも知らんぷりを決め込んでいる。
(これが肉親同士ゆえの照れってもんなのかね。——痛たた……)
詩都香はそこで顔をしかめた。
毎朝琉斗を送り出すまでは、と我慢しているが、実のところ体中が痛い。
青痣は琉斗に見られた左腕だけでなく、各所に残っていた。
(ったく魅咲め、もっと加減しろっての……)
痛む部位をひとしきりさすってから、さて、もうひと仕事、と詩都香はそれでも腕まくりして髪を束ねた。
家を軽く掃除をしてから登校することに決めたのである。
昨日訪ねた涼子の部屋の綺麗さを見て、何やら対抗心が芽生えたのだ。もっとも、涼子は業者に部屋の清掃を頼んでいるのだから、ズレた対抗心なのは詩都香も承知している。
高原家が格別散らかっているわけではないが、やはりどうしても行き届かないところはあった。普段あまり使われない客間など、詩都香の掃除も手を抜いたものになりがちだ。猫を飼うようになってからは、それまで以上に掃除には力を入れるようになったつもりなのだが。
(今日はとりあえず客間かな)
ホームルームまではもう少し時間がある。
掃除機に箒に雑巾にバケツに洗剤というフル装備で、詩都香は敵陣へと突貫した。




