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放課後の魔少女——楽園は次の角に  作者: 結城コウ
終章「いばら姫の目覚め」Das Erwachen des Dornröschens
110/114

終-3

※※※

 いったいここはどこだ。

 簑田(みのた)はうろたえながら周囲を見回した。

 自分は何をしていたのだろうか。

 ――そうだ、妻と娘の帰りを待っていたんだ。

 そして、魔術師を名乗る少女に何か反論しなければ。

 これは何だ? この、大きなカプセルのようなものは。

 ああ、買い物に行かなければならないんだった。何を買うんだっけ? これを買ってきたのか?

 資料の準備だ。国際学会が近い。

 それから猊下に報告だ。

 ここはどこだ。なぜ自分は自宅にいないんだ。

 そうしてしばらく頭を回転させ、辺りを行ったり来たりしてから、簑田は呆然とした。

 自分は、記憶を失っている。

 ――違う。それもあるかもしれないが、それだけじゃない。

 エピソード記憶間の、相互の脈絡や前後関係を、まったく把握できない。重要度の等級づけも同様にできなかった。

 ――そうだ、研究所から脱出してきたんだ。そして、妻と娘の帰りを待っている。それから……群馬の山奥の研究施設だと? なぜ自分がそんなところに赴任することになったのだ。

 がくり、と膝を突く。

 何も思い出すことができないのではない。だいたいのことは思い出せるが、思考がこれっぽっちも整序できなかった。

 自分はどうなってしまったのか。

 天を仰ぎかけた彼の視界の隅に、ぼうっと白い影が浮かび上がった。

 誰だ? 妻か? それとも、あの魔術師か?

 それすらもわからず、彼はそちらに顔を向けた。

 立っていたのは、裸身の少女だった。記憶にある魔術師よりもずいぶんと背が低い。

 まだ幼いその少女の顔を見た途端、全ての違和感が吹き飛んだ。

「美冬……」

「ミフユ?」少女の唇が動く。「それが、私の名前?」

「何を言ってるんだ美冬。どうして裸なんだ。ほら、パパのところにおいで」

 少女は頷いて、裸足の足を進める。

 居ても立ってもいられず、簑田は立ち上がって彼女を出迎えた。

「帰ろう、美冬。パパはなんだかおかしいんだ。ここがどこだかわからない。美冬にはわかるかい?」

「パパ?」

「そうだよ。美冬までおかしくなっちゃったのかい? ああ、困ったな。ママが私たちを見つけてくれるといいんだけど。――おっと、ごめんよ、美冬。寒いだろう」

 簑田は着ていたジャケットを脱ぐと、少女の肩にかけてやった。

「ありがとう、パパ。嬉しい」

 花の蕾のほころぶような笑顔を弾けさせ、少女が上目遣いになる。

 その視線を受け止めながらも、数々の記憶が同時に意識の表面に浮かび上がってくる。しかし、もうどうでもいいことだった。

「パパも嬉しい?」

「え? そうだね、嬉しいよ。こうして美冬に会えたんだから」

「そうよね、だって――」

 次の瞬間、彼の胸の中心を、熱い何かが通り過ぎていった。

 激痛が走る。

 息ができなくなった。

「――愛する娘の手にかかって死ねるんだから」

 真っ赤に染まった腕を引き抜き、少女がにたり、と笑う。

 血を噴き出す簑田の口が、ぱくぱくと動いた。

「お前……誰だ。美冬じゃないな……?」

「あら、意外としぶとい」呆れたような声。「何言ってるの? 私はミフユだよ。パパの娘だよ?」

「違う……美冬が私に、こんなことをするはずが……」

 苦痛のあまり胸を押さえながら前屈みになる彼の鼻先に、少女は人差し指を突きつけ、笑った。

「ダメよ、パパ。私の言葉、疑っちゃダメ。そのまま娘に看取られて、幸せに死になさい」

 “娘”の凄絶な笑顔、それが簑田がこの世で見た最後の光景になった。


※※※

 自分はいったい何なのだろう。

 彼女は目覚めた瞬間にそう思った。

 それから彼女は、頭の中の声に導かれるようにして、歩を進めた。

 すぐに男と出会った。自分の父親だという男に。

 それが事実でないことは、彼女自身にもわかった。自分には、父親などいない。

 彼は彼女のことを「ミフユ」と呼んだ。

 そうか、それが自分の名か。

 その男を殺した。呆れるほど簡単だった。

 片手の先から放出した炎でその死体を焼き払ってから、ミフユは視線を上に向け、尋ねた。

 ――次はどうすればいいの?

 しかし、もう頭の中に声は響かなかった。

 自分の存在理由と思しきものの内ひとつが、さっそく片づけられたということなのだろう。

 頭の中の声がささやいていたのは、微かな復讐の念。それをミフユは最も短絡的と言える方法で果たした。他のやり方など、彼女には想像もつかなかった。

 もうひとつの、もっと強く大きな声で願われていたもの。

 ――自由に生きてほしい。

 自由に、というのはよくわからなかった。生きてほしいというのなら、生きるまでだ。

 すぐ下で人の声がする。「所長」と呼びかけるものがあった。

 所長というのは、灰になっていくあの男のことか。

 彼女の傍らでは、正体不明の大きなカプセルのようなものが、絶え間なく信号音を発していた。

 ミフユはそれに一瞥をくれてから首を傾げ、ジャケットを脱ぎ捨てると、手探りで崖を下りた。岩肌が素足を傷つけたが、その方が都合がよさそうだ。

「十号!? 目覚めたのか!」

 下に集まっていた男たちが口々に驚きの声を上げた。

 十号。それも自分の名なのだろうか。

「所長は?」

 ずんぐりとした背格好の男が、ミフユに尋ねる。彼だけ白衣を着ていた。

「パパは死んじゃった。誰かが来て、殺しちゃった」

 深く考えての言葉ではなかったが、男たちは目配せを交わし合った。なぜかそれで納得するところがあったらしい。

 つかの間落ちた沈黙も、長くは続かなかった。

「行こう。どのみちここにはいられない。所長が持ち出そうとしたデータも十号……ミフユも無事だ。」

 その言葉に、周囲の男たちは誰からともなく頷いた。

 場のリーダー格らしい白衣の男は崎山と名乗った。

「初めましてだね、ミフユ」

「……初めまして、崎山さん」

 彼は裸身のミフユに白衣をかけてくれた。

 その裾を引きずりながら、自動車の内の一台に乗り込む。

 後部座席に座り、シートベルトを締めてもらってから、運転席に回った崎山に尋ねた。

「どこへ行くの?」

「新潟。それから、飛行機を乗り継いでイギリスだ」

「イギリス?」

「そうだ。十ご……ミフユは飛行機に乗るの初めてだろう。向こうに着いたら、所長の弔い合戦の準備と行こう」

「……弔い合戦」

「あー、まだ難しい言葉だったかな。仇をとる……でもわからないかな」

 きょとんとしたミフユの顔つきを誤解したのだろう、崎山が発進の準備をしながら言葉を探す。

 ミフユは彼に向かってにっこり笑ってみせた。

 パパのかたきうちをしてくれるんだね、嬉しい――そんな表情で。

 自分の手にかけておいて弔いも何もなかったが、ひとまずやることがあるのは悪くない。

 崎山が車を発進させた。他の車輌が次々に続く。

 ミフユは目をいっぱいに開いて、車窓を睨んだ。

 生まれて初めて見る風景。ヘッドライトに照らされた両側の木々と未舗装の道だけだが、それでもかまわない。彼女にとっては外界の何もかもが刺激的だった。

 イギリス。どんなところなのだろう。

 ここよりも面白いところだといいのだが。

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