終-3
※※※
いったいここはどこだ。
簑田はうろたえながら周囲を見回した。
自分は何をしていたのだろうか。
――そうだ、妻と娘の帰りを待っていたんだ。
そして、魔術師を名乗る少女に何か反論しなければ。
これは何だ? この、大きなカプセルのようなものは。
ああ、買い物に行かなければならないんだった。何を買うんだっけ? これを買ってきたのか?
資料の準備だ。国際学会が近い。
それから猊下に報告だ。
ここはどこだ。なぜ自分は自宅にいないんだ。
そうしてしばらく頭を回転させ、辺りを行ったり来たりしてから、簑田は呆然とした。
自分は、記憶を失っている。
――違う。それもあるかもしれないが、それだけじゃない。
エピソード記憶間の、相互の脈絡や前後関係を、まったく把握できない。重要度の等級づけも同様にできなかった。
――そうだ、研究所から脱出してきたんだ。そして、妻と娘の帰りを待っている。それから……群馬の山奥の研究施設だと? なぜ自分がそんなところに赴任することになったのだ。
がくり、と膝を突く。
何も思い出すことができないのではない。だいたいのことは思い出せるが、思考がこれっぽっちも整序できなかった。
自分はどうなってしまったのか。
天を仰ぎかけた彼の視界の隅に、ぼうっと白い影が浮かび上がった。
誰だ? 妻か? それとも、あの魔術師か?
それすらもわからず、彼はそちらに顔を向けた。
立っていたのは、裸身の少女だった。記憶にある魔術師よりもずいぶんと背が低い。
まだ幼いその少女の顔を見た途端、全ての違和感が吹き飛んだ。
「美冬……」
「ミフユ?」少女の唇が動く。「それが、私の名前?」
「何を言ってるんだ美冬。どうして裸なんだ。ほら、パパのところにおいで」
少女は頷いて、裸足の足を進める。
居ても立ってもいられず、簑田は立ち上がって彼女を出迎えた。
「帰ろう、美冬。パパはなんだかおかしいんだ。ここがどこだかわからない。美冬にはわかるかい?」
「パパ?」
「そうだよ。美冬までおかしくなっちゃったのかい? ああ、困ったな。ママが私たちを見つけてくれるといいんだけど。――おっと、ごめんよ、美冬。寒いだろう」
簑田は着ていたジャケットを脱ぐと、少女の肩にかけてやった。
「ありがとう、パパ。嬉しい」
花の蕾のほころぶような笑顔を弾けさせ、少女が上目遣いになる。
その視線を受け止めながらも、数々の記憶が同時に意識の表面に浮かび上がってくる。しかし、もうどうでもいいことだった。
「パパも嬉しい?」
「え? そうだね、嬉しいよ。こうして美冬に会えたんだから」
「そうよね、だって――」
次の瞬間、彼の胸の中心を、熱い何かが通り過ぎていった。
激痛が走る。
息ができなくなった。
「――愛する娘の手にかかって死ねるんだから」
真っ赤に染まった腕を引き抜き、少女がにたり、と笑う。
血を噴き出す簑田の口が、ぱくぱくと動いた。
「お前……誰だ。美冬じゃないな……?」
「あら、意外としぶとい」呆れたような声。「何言ってるの? 私はミフユだよ。パパの娘だよ?」
「違う……美冬が私に、こんなことをするはずが……」
苦痛のあまり胸を押さえながら前屈みになる彼の鼻先に、少女は人差し指を突きつけ、笑った。
「ダメよ、パパ。私の言葉、疑っちゃダメ。そのまま娘に看取られて、幸せに死になさい」
“娘”の凄絶な笑顔、それが簑田がこの世で見た最後の光景になった。
※※※
自分はいったい何なのだろう。
彼女は目覚めた瞬間にそう思った。
それから彼女は、頭の中の声に導かれるようにして、歩を進めた。
すぐに男と出会った。自分の父親だという男に。
それが事実でないことは、彼女自身にもわかった。自分には、父親などいない。
彼は彼女のことを「ミフユ」と呼んだ。
そうか、それが自分の名か。
その男を殺した。呆れるほど簡単だった。
片手の先から放出した炎でその死体を焼き払ってから、ミフユは視線を上に向け、尋ねた。
――次はどうすればいいの?
しかし、もう頭の中に声は響かなかった。
自分の存在理由と思しきものの内ひとつが、さっそく片づけられたということなのだろう。
頭の中の声がささやいていたのは、微かな復讐の念。それをミフユは最も短絡的と言える方法で果たした。他のやり方など、彼女には想像もつかなかった。
もうひとつの、もっと強く大きな声で願われていたもの。
――自由に生きてほしい。
自由に、というのはよくわからなかった。生きてほしいというのなら、生きるまでだ。
すぐ下で人の声がする。「所長」と呼びかけるものがあった。
所長というのは、灰になっていくあの男のことか。
彼女の傍らでは、正体不明の大きなカプセルのようなものが、絶え間なく信号音を発していた。
ミフユはそれに一瞥をくれてから首を傾げ、ジャケットを脱ぎ捨てると、手探りで崖を下りた。岩肌が素足を傷つけたが、その方が都合がよさそうだ。
「十号!? 目覚めたのか!」
下に集まっていた男たちが口々に驚きの声を上げた。
十号。それも自分の名なのだろうか。
「所長は?」
ずんぐりとした背格好の男が、ミフユに尋ねる。彼だけ白衣を着ていた。
「パパは死んじゃった。誰かが来て、殺しちゃった」
深く考えての言葉ではなかったが、男たちは目配せを交わし合った。なぜかそれで納得するところがあったらしい。
つかの間落ちた沈黙も、長くは続かなかった。
「行こう。どのみちここにはいられない。所長が持ち出そうとしたデータも十号……ミフユも無事だ。」
その言葉に、周囲の男たちは誰からともなく頷いた。
場のリーダー格らしい白衣の男は崎山と名乗った。
「初めましてだね、ミフユ」
「……初めまして、崎山さん」
彼は裸身のミフユに白衣をかけてくれた。
その裾を引きずりながら、自動車の内の一台に乗り込む。
後部座席に座り、シートベルトを締めてもらってから、運転席に回った崎山に尋ねた。
「どこへ行くの?」
「新潟。それから、飛行機を乗り継いでイギリスだ」
「イギリス?」
「そうだ。十ご……ミフユは飛行機に乗るの初めてだろう。向こうに着いたら、所長の弔い合戦の準備と行こう」
「……弔い合戦」
「あー、まだ難しい言葉だったかな。仇をとる……でもわからないかな」
きょとんとしたミフユの顔つきを誤解したのだろう、崎山が発進の準備をしながら言葉を探す。
ミフユは彼に向かってにっこり笑ってみせた。
パパのかたきうちをしてくれるんだね、嬉しい――そんな表情で。
自分の手にかけておいて弔いも何もなかったが、ひとまずやることがあるのは悪くない。
崎山が車を発進させた。他の車輌が次々に続く。
ミフユは目をいっぱいに開いて、車窓を睨んだ。
生まれて初めて見る風景。ヘッドライトに照らされた両側の木々と未舗装の道だけだが、それでもかまわない。彼女にとっては外界の何もかもが刺激的だった。
イギリス。どんなところなのだろう。
ここよりも面白いところだといいのだが。




