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放課後の魔少女——楽園は次の角に  作者: 結城コウ
第八章「真夜中過ぎのシンデレラ」Aschenputtel nach Mitternacht.
107/114

8-終

※※※

「……違うなぁ、彗星はもっと、ばーって動くもんな……」 

(――ハッ! ちょっとヤバかった)

 闇の底で、詩都香(しずか)は危うく意識をつなぎ留めていた。

 今意識を失えば死ぬ予感があった。

 少なくとも〈モナドの窓〉は確実に閉じてしまう。そうなったら、救助は期待できない。

 おまけに、魔法で身体能力を上げていてさえろくに体が動かないのだ。乱れたスカートの裾を直すことすら、今の詩都香にとっては両肩に須弥山(しゅみせん)峨眉山(がびさん)を載せて歩くに等しい難行である。〈モナドの窓〉が閉じることは、そのまま力尽きて命の灯火が消えることを意味するだろう。

 出血がほとんどないのは、サイコ・ブレードによる受傷の幸いな点だった。止血も満足にできない今、他の手段で受けた傷であれば、間違いなく失血死していたことだろう。もっとも、痛みの方はとてつもないが。

 辺りからは物音ひとつしない。そばに倒れているはずのジャックの息づかいも感じられなかった。

 詩都香の方とて、あとどれくらいもつかわからない。死闘を繰り広げた二人、こうして仲よく朽ち果てていくのだろうか。

 飽和した苦痛がもたらす極限の精神的疲労の中で、断たれた左腕の喪失感すら薄れていく。

 いつしか上下左右の感覚までも失われ、宇宙を独り漂っているかのような錯覚を覚え始めていた。

 なお怖ろしいことに、この錯覚はなかなか心地よいのだった。下手するとまるごと飲み込まれそうなほどに。

 解脱(げだつ)とは、もしかするとこういう感覚なのだろうか、とさえ思った。

「……俺は銀河を見た……銀河はでかかった……」

 おかげでさっきから、意識の波が谷間を迎えるごとに、喉の奥から変なうわごとが漏れる。そのまま越えてしまいそうな一線の手前ぎりぎりのところで、どうにか踏みとどまっているのが現状だった。

 傍から見れば間抜けそのものだが、衰弱死というのは案外こんなものかな、などと思う。遭難して体力を失った人間は幻覚を見ると聞くが、自分の場合それが宇宙もののアニメなだけである。

 片腕を失っては、たとえ生還しても今までどおりの日常を送ることはできまい。一縷の望みをかけているのは、かつての師であるデジデリウスが便利な魔法の義肢でも所有していないか、ということだった。よしんばそういうものがあっても、やはりひどく不自由な日々に耐えなければならないだろう。

(……それでも、やっぱり生きたいよ)

 最後の最後まで、意識を手放さない――詩都香はそう心に決めていた。

「無限に広がる大宇宙……」

(――今のはマジでヤバい。コーラスまで聞こえた。アーアー、ア、ア、ア、アーアァーって)

 最後の最後は、すぐそこまで迫っているのかもしれない。


※※※

「もう手分けして探すしかないね。相川と一条はそれぞれひとりで何とかできるでしょう。河合涼子……さんは、あたしと一緒に来て」

 ノエシスという金髪少女の探知能力も、とうとう限界を迎えた。詩都香の居場所に近づいたのは確かだが、これ以上は距離さえつかめないという。

 だが周囲は瓦礫の山。ときには煙のように上り、ときには水のように下り、隙間を縫うようにして進んできた四人だが、とうとう袋小路に突き当たっていた。

 しかも、である。

「詩都香……! 詩都香……! どこ!」

 伽那(かな)が珍しく焦りも露わに叫ぶ。

 魅咲(みさき)の顔にも焦りの色が窺えた。黙々と瓦礫をどかしていくが、再崩落を引き起こさぬよう慎重にならざるをえないのがもどかしそうだ。

 ――涼子にも感じられた。詩都香の〈モナドの窓〉の反応が、少しずつ弱くなっている。

「大丈夫。私も今はいつもよりかなり強力な念動力(テレキネシス)を使える。別々にやろう」

 涼子の提案に、ノエシスが頷いた。

 散開した四人は、それぞれ異なる方向に掘り進んでいった。

 涼子は何度となく精神感応(テレパシー)波を放射していた。他の三人も同様だ。

 しかし、反応は返ってこなかった。詩都香は〈モナドの窓〉を維持するので精いっぱいなのかもしれない。

「違う、こっちじゃない」

 誰よりも速く掘り進んでいたノエシスが戻ってきて、また別の方向に向かう。

「はぁっ……はぁっ……くそっ」

 扱える魔力の量が少ない魅咲は、息を荒げていた。それでも手を休めない。

 涼子も苦しかった。念動力をこれほど多用したことはなかった。

(諦めないで、詩都香。私も諦めないから。私が生き残って詩都香が死ぬんじゃダメだよ。昨夜の私が何のためにここに来たと思ってるの)

 両手に込めた念動力で、ひと抱えほどもあるコンクリート塊をどかす。だが、その向こうにはさらに大きな瓦礫が折り重なっていた。

「シャイセ! ショーン・ヴィーダ―!」

 ノエシスが外国語で何事か罵りながらまたも戻ってくる。涼子の方はまだいくらも進めていないのに、正魔術師を名乗るこの少女はやはりすごい。

 それから念動力を再作用させようとしたノエシスが、ふと手を止めた。

「河合涼子さん、あなた、詩都香を感じられる?」

 涼子は作業を中断することなく頷いた。

「詩都香の〈モナドの窓〉、感じられるよ」

 それを聞いたノエシスは、軽く目を閉じた。

「悔しいけど、今はたぶん、あなたがいちばん強く詩都香と繋がっているような気がする。手伝わせて」

 そんな自信はまったくなかったが、涼子はこれを受け入れた。確たる根拠はなくとも、そう信じたいと思った。そんなことにすがるしかないほど、八方塞がりなのである。

 二人がかりで掘り進むこと十数分。

 涼子のどかした瓦礫の先に、空間が開けた。


※※※

 上からパラパラと砂礫が降ってきたとき、詩都香の意識は危うく刻印を突破してグラドスに向かいかけていた。

 のろのろと力なく瞳を動かす。

 来るべきときが来たのか、と思った。

 再崩落に抗する術はない。魔力は残っているが、精神力は限界である。防御障壁さえ到底張れない。圧倒的な重量をフリーパスで受け入れるほかないのだ。

 それでも昨夜とは違う。自らの意志で生を手放そうとはしなかった。

 そのことにひと握りの満足を得る詩都香であった。

 だが、続いて聞こえてきたのは、

「詩都香!」

「女の声……!?」

 宇宙の妄想を少しだけ引き継いでしまってから、気づく。

 ――聞き覚えのある、いや、それどころか今いちばん聞きたいと思っていた声だった。

(涼子……)

 幻聴かと思った。再度視線だけを声の方向に動かす。

 空間を鎖す瓦礫の一部を排除して、顔を覗かせた涼子が、必死で呼びかけていた。

 ――幻覚……ではない。涼子のこんな表情を、見たことがない。

 涼子だ。確かに涼子だ。

 別れて丸一日しか経っていないのに、一年ぶりのようにも感じられた。

「詩都香! 詩都香! しっかりしてよ!」

 涼子が叫びながら瓦礫をどかしにかかる。

(いいんだよ、そんなに急がなくても)

 衰弱した精神の中では、なぜかかえってそんなゆったりとした気持ちになる。詩都香は手を上げて涼子を制止しようとしたが、もちろんその意に反して今度も体は動かなかった。

 涼子が隙間をこじ開けて入ってくるのに、一分とかからなかった。

 駆け寄ってくる彼女を、詩都香は眼差しだけで出迎えた。

「詩都香、その腕!」

 涼子が悲鳴交じりの声を上げる。

 詩都香はいたずらを見咎められたやんちゃ坊主のような笑顔を浮かべた――少なくとも本人は浮かべたつもりだった。

「うん、やっちゃった」

 やっと声が出た。

 涼子の顔がくしゃくしゃに歪んだ。

「やっちゃった、って詩都香……」

「ごめん」

 素直に謝る。

 涼子に対して謝罪するのもおかしいが、無言でぽろぽろと涙をこぼす彼女を見ていると、罪悪感に駆られたのだ。

 詩都香のそばにいったん膝を突いていた涼子だが、やがて片手で涙を拭い、ひとり言を漏らした。

「……そうか。……うん、きっとそうだ。私は、このために、こんな魔力を……」

 詩都香はあまりちゃんと聞いていなかった。この有様をどう言い繕うかの方に意識が向かっていた。

「詩都香、その腕の先、どこかにある?」

 問われた詩都香は意外の念とともに顎を上げ、頭の先の方角を瞳で指した。

「そっちの瓦礫の間に挟まってると思うけど。でも、鋭利な刃物で切ったわけじゃないから、もうくっつかない」

 彼女がそう言うのと同時に、涼子が立ち上がる。

「ちょっとこれ借りるよ」

 その手には床面に落ちていたサイコ・ブレード。

「涼子……?」

 何をしようとしているのか。

「今の私になら使えるはず」

 涼子が目を瞑る。ややあって、微かな起動音とともにその手の中から赤い光が伸びた。

 詩都香はその眩しさに目を細めた。

「待ってて。掘り出してくるから」

 そう言い残した涼子が立てた足音を聞いてから、二、三分も経っただろうか。

 戻ってくる気配を感じ、目を開ける。

 涼子は両手に詩都香の左腕を抱えていた。

 冷静に考えればグロテスクな光景だった。

 黒々と炭化した切断面。予想どおり、手首の先はほとんど原型を留めていなかった。指が全部揃っているのかさえ定かではない。そして、それを大事そうに携えたアイドル――

 思わず目を逸らそうとした詩都香の傍らに、涼子がかがみ込んだ。

 それから、半ばで千切れたようになった詩都香の左前腕に、回収してきたその先をあてがう。

「ちょっと」

「黙ってて。たぶん、相当な集中が必要」

 涼子が右手を伸ばし、切断箇所を繋ぐかのように握った。

 その瞬間痛みが走り、身じろぎしかけた詩都香だが、涼子の手を振りほどく力すらない。

「大丈夫。今の私ならできる。私ならできる。私ならできる……」

 自分に暗示をかけるかのようなひとり言。

 するとその声とともに、痛みしか伝えないはずの左腕に、穏やかなぬくもりを感じた。

(気持ちいい……。でも、これ、どこかで……)

 すぐに思い当たった。

 昨夜、涼子との会話を終えた後だ。

(……ああ、そうか)

 詩都香は理解した。昨夜何が起こったのかを。そして、今涼子が何をしようとしているのかを。

 目を瞑っている間に、どれほどの時が経過しただろうか。光の中に溶け込んでしまったかのような意識の中で、時間は意味を失った。

 数分か、数十分か。

 強い確信とともに、詩都香は目を開けた。

 力が漲っている。

 身を起こす。

 体の痛みは消えていた。

(そっか……)

 傍らの涼子に目を遣る。

 涼子は、汗びっしょりで座り込んでいた。

「昨夜わたしを助けてくれたのは、涼子だったんだ」

 涼子が溜息のついでのように頷いた。

 左手を顔の前に掲げる。

 指の一本一本まで神経が通っている。なにひとつ不自由なく、五指が動いた。

「……はあ。今じゃなかったら、たぶんできなかった。魔力が満タンじゃなかったら、とても無理。あんな実験につき合わされた甲斐があったのかも」

 ともすれば仰向けに倒れそうになる上体を後ろ手に支え、涼子が言う。

 詩都香は体中に感覚を張り巡らせた。

 左肩も、腿も、腹部も、顔も。まったくどこにも痛みが残っていない。

 体力は消耗しているものの、苦痛のために削られていた精神の方はだいぶマシになっている。

 つまり、魔術師としての詩都香は立ち直ったといっても過言ではない。

「治癒の魔法が使えたんだね」

 涼子は両膝の間に顎を差し込むように頭を下げた。

「……うん。姉妹の内、私だけが持ってた特殊な魔法」

 詩都香は涼子に覆いかぶさるようにして、その体を抱きしめた。

「ありがとう、涼子……。わたし、わたし……」

 それ以上言葉が出ない。

「……ううん。私こそ。ごめんね、詩都香、ごめんね……」

 涼子も同様だった。

 もはや、二人の間にこれ以上の言葉は不要だった。

 声もなく、かといって涙すらなく、抱擁し合った。

「あのぉ……終わった?」

 ノエシスと、その後ろに控えた魅咲と伽那が声をかけてくるまで。

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