8-18
※※※
「何だ、これは」
部屋に入った若い所員は呆然と声を上げた。
地下空間の隔壁に穴が開いたようだ、という報告を受け、その直上に当たる一階の様子を見に来たのである。
厚さ数メートルもの複合材に穴が開いたなど、普段であればセンサーの誤作動を疑うところだが、あいにく今日はそういうわけにはいかない。四階では魔術師同士の戦闘が行われている。攻性魔法の流れ弾でも当たったかと思われたが、それにしても奇妙なのは、監視カメラで見る限り、二階にも三階にも目立った損傷がないということである。
一階の監視カメラは、忌々しいことに高原という魔術師がほとんど壊してしまっていた。
通路の床を点検して異状がないことを確認した後、一階の各部屋を見て回ると、三つ目に当たる会議室でそれを発見した。
彼はスマートフォンを取り出した。
「もしもし、所長。会議室の天井に小さな穴が開いています。直径二センチ程度でしょうか」
合金製の天井パネルに開いた弾痕のような穴。その周囲が黒ずんでいる。
『その穴の下を確認してみろ』
オペレーション・ルームにいる簑田からそう言われ、所員は恐るおそるその小さな穴に近づいた。天井から足下に視線を移した彼はぎょっとした。
「……真下の床にも同じような穴が開いています。周りのカーペットが少し焦げていて、何か高熱の物体が降ってきたような感じです」
『魔法だろうな。穴の深さはわかるか』
小さな穴から今にも何かが飛び出してきそうで気が進まなかったが、簑田の命令には逆らえない。所員はさらに穴の開口部へとにじり寄った。
会議室は薄暗い。天井に穴が開いた際に断線が引き起こされたようで、部屋の電灯は半分しか点かなかった。
こわごわと床の穴を覗き込もうとしたところで、彼はやっとそれに気づいた。
「何だこれ?」
『どうした』
「天井と床の穴を、何か糸のようなものが繋いでいます。ずいぶん細くて、今まで見えませんでした」
『糸? 材質は?』
彼は思わず無警戒にその糸のようなものに手を伸ばしてしまった。
手が触れようとした瞬間、全身を電流のようなショックが駆け巡り、彼は机を巻き添えにしながら壁際まで吹き飛んだ。
※※※
「もしもし。もしもし!」
何度呼びかけても応答がない。簑田は舌打ちして電話を切った。すぐさま別の所員に命じて、様子の確認に向かわせる。
不可思議なことが起きている。そしてそれを起こすことができる者は、たった一人だ。
「ジャックは携帯電話を持っているな?」
「ええ。しかし……」
問われた所員は言いよどんだ。
言いたいことは簑田にもわかる。自分の質問の愚かさも。
簑田はさっきから四階の戦闘をモニターしていた。
ディスプレイの中で繰り広げられる、目にも留まらぬ攻防。電話に出るのは不可能だろう。
無音なのが残念だが、常人ならば達人同士と言ってよい二人の戦いの迫力に、思わず見入っていた。
それは他の所員たちも同様のようで、作業の合間にちらちらと視線を向けているのが簑田にもわかっていた。
――これが魔術師同士の戦い。
束の間また引き込まれていたことに気づき、簑田は考えをまとめようと視線をディスプレイからもぎ離した。
「ジャックが押しているようですね。心配はなさそうです」
彼の思いを知ってか知らずか、手空きの所員の暢気な声が上がった。
「ああ。〈鳥なき島の三羽コウモリ〉の小娘も大したことがないな」
つい相槌を打ち、またディスプレイに目を戻してしまった。
どちらが優勢かは、こうしてカメラ越しに見ていてもわかる。高原はジャックの攻撃をしのぐのに精一杯。それをなかなか仕留めきれないのがもどかしくもあるが。
しかし、先ほどの情報を考え合わせれば、高原はこうして目の前の強敵との立ち回りを演じながら、何か別のことを行っている可能性があるのである。
戦いは間もなくジャックの勝利で幕を下ろすはずなのに、不安が拭い去れない。
様子を見に行かせた所員から連絡が入った。確かに天井と床に穴が開いており、先に向かわせた所員が倒れているという。
簑田は念のため穴には近づかないよう言いつけ、昏倒した所員を連れてくるように命じた。
「……ミフユは動かせるか」
スマートフォンをデスクに置いた簑田の言葉に、伊吹の代理としてチーフ・オペレーターを務める崎山が、肥満体の体に見合った鈍重な動きで振り向いた。
「十号を、ですか? 可能ですが、果たして間に合うかどうか。それに、現状で戦力になるかは未知数です」
「かまわん。ミフユを起こしてくれ」
「わかりました」
頷いた崎山の指示に従って、三人の所員がオペレーションルームを出て行く。
やはり自分の部下はいい、と簑田は思った。先代の高嵜から引き継いだ伊吹や峰らと違って、崎山たちは必要以上の口答えをせず、命令通りに淡々と動く。
「追い詰めてますよ」
先ほどの所員が、ディスプレイを指差した。
――淡々としすぎてこういう暢気なのもいるが、まあいい。伊吹たちのように重荷を背負ったような顔で動く連中は、彼の神経を逆撫でする。
彼の差した先で、高原詩都香が壁際に詰め寄られていた。いつ傷めたのか、左肩を右手で押さえている。
「力の差歴然でしたね。武器を拾わせる隙もなかった」
「そうだな――」
力の差歴然、果たしてそうだったのだろうか、と内心訝りつつも、ひとつ安心したそのときだった。
彼の脳裏に閃くものがあった。
「館内放送を繋げ!」
暢気な所員も、命令を下せばすぐ動く。
その間に、簑田は監視カメラを操作した。動きが鈍くて苛立ったが、捉えられる画角の中に、少なくともそれは見当たらなかった。
「所長、放送の準備できました」
その合図を待ちかねていた簑田は、マイクに向かって怒鳴った。
「ジャック! その娘の持っていた剣はどうした!」
いちいち範囲を絞る余裕はなかったので、全てのボタンを押した。そのおかげで、簑田の声はわずかなタイムラグを置いて、スピーカーを通してオペレーションルームの中にも再度響いた。
それと同時に、ディスプレイの中のジャックも虚を突かれたように辺りを見回した。
壁に背を預ける格好だった高原が、あらかじめ位置を把握していたのか、監視カメラに顔を向けた。
その唇が動いた。
決して鮮明とは言えない画像の中で、簑田はなぜかその動きをはっきりと認識していた。
『もう遅い』
ほぼ同時に、警報が鳴り響いた。
センサーを張り巡らせた地下空間の環境が大きく変化したことを、所員らの前に設えられた小型ディスプレイが赤い文字でわめきちらしていた。
四階のモニターを中断した簑田は、正面の大型ディスプレイに目を遣った。
警告メッセージが次々に切り替わる。とても追い切れないが、流れ去る数値の一つが彼の目を惹いた。
コンマの位置の見間違いではないかと思った。摂氏五桁の熱量!?
彼は席を蹴立てて立ち上がると、〈ブルーメ〉のある空間とオペレーションルームを隔てる分厚いアクリルガラスに飛びついた。
その彼の目の前を――
「あっ!」
全員がその瞬間に声を上げた。
――赤い光が上から下へと過ぎっていった。
「〈ブルーメ〉を狙ったのか」
誰かが驚嘆に安堵の入り交じった声を漏らした。
彼の言うとおりだとしたら、高原の目論見は外れたことになる。赤い光の軌道は〈ブルーメ〉にはかすりもしていない。
だが、そんなわけがない。簑田はそう確信していた。
先ほどの彼女の表情。あの娘が、そんなヘマをやらかすはずがない。
狙われたのは――
次の瞬間、地下空間は闇に包まれた。
※※※
「一条の様子、あたしが見てきてあげようか」
魅咲とミシェルの戦闘が再開するとともにどこかへ姿を消していたノエシスが、ふらりと戻ってきた。
なんでも、見てたら歯がゆくなりそうだったから、だそうである。小憎らしい。
「……うん、お願い。殺されたりはしてないと思うけど、あたしはもう少し動けそうにない――お?」
ちょうどそこへ、林の中から一条伽那が出てきた。不安定な足取りだった。
「伽那、勝ったんだ……ね!?」
魅咲はぎょっとした。伽那がひどい怪我を負っていたからだ。
「魅咲こそ勝ったんだ。でも、それなら助けに来てよぉ」
ふにゃふにゃと笑う伽那であったが――
脚を引きずり、はだけた胸元をなぜか握りっぱなしの右手でかばっている。よく見ればその右手から、そして袖の失われた制服をまとった左手からも、血がしたたり落ちていた。
「ちょっと、すごい怪我じゃん!」
「魅咲こそひどいよ。ボロボロじゃない。目のやり場に困っちゃう」
「あたしはいいの。慣れてるんだから。でも――」
「だったら、わたしも同じ。これくらい……覚悟してた。――とは言えないかな、やっぱ」
伽那のふにゃふにゃとした笑顔は崩れない。だが、無理をしているのが痛いほどわかった。
「……ごめん。あたしも今やっとミシェルをぶっ倒したところ。助けに行ければよかったんだけど」
「それはいいの。だいぶ痛めつけられたけどね。……でも、魅咲も詩都香も、わたしを守るために、しょっちゅう怪我してたんだよね。……その痛みがやっとわかった。それが……」
ぐすっ、と伽那が鼻をすする。
魅咲は慌てた。
「いいんだよ、伽那。そんなの、今さらじゃない。あたしたちはあんたを守るって決めたんだから。――こいつみたいなヤツらから」
落ち込む伽那に、どんな言葉をかけていいのかわからなくなった魅咲は、つい韜晦に逃げる。
「うっ、あたし? この流れで?」
突然指差されたノエシスが、わたわたと浮き足だった。
「あれぇ? 梓乃ちゃんだ。どうしてここに?」
「あんたたちの情けないところを見物しに来たのよ」
さすがノエシス、この雰囲気の中で求められている役割を心得ている。
「それはそれは。本当に情けないところを見せちゃったねぇ。でも、わたし、勝ったよ」
「うん」
魅咲は力強く頷く。伽那が負傷していなければ、抱きしめてやりたいところだった。
だけど魅咲には、ひとつだけ尋ねなければならないことがある。
「ひとりで敵の魔術師を仕留めて、どうだった?」
伽那の体を流れる〈夜の種〉の血。強敵に独力で勝利をおさめたことを、伽那はどう捉えたのか。
「……嬉しかった、と言いたいところだけど、ほっとした、っていうのが正直なところかなぁ。でも……」
伽那はそこで口ごもった。
「でも?」
「その後、嫌な感じがした。まだ、この手に残ってる……あの人を倒したときの感覚が。――あ、でもね、違うの。ふたりは何度もやってきたことでしょ? だから、嫌な感じじゃなくて、ええと、ええと……」
必死に言葉を重ねようとする伽那の声が、次第に涙交じりのものになっていった。
「いいの」
今度こそ伽那を抱きしめてやれないのが悔しくなった
「いいの」だから、しゃくり上げるその肩に、そっと手を置くだけにした。「いいのよ。あたしたちが守りたいのは、そんな伽那なんだから」
「ところでさ」場の湿っぽい空気に耐えられなくなったのだろう、脳天気役を買って出たノエシスが口を開く。「詩都香はどこ?」
魅咲と伽那は、顔を見合わせた。
詩都香は、もうひとりの親友は、上手くやっているのだろうか。
緊迫した表情になりかけたふたりを制するように、ノエシスは続ける。
「あと、もうひとつ。手に感覚が残っているって言ったけど、一条、あんた相手を殴り倒したの?」
それは実のところ、魅咲も気になっていた。伽那のイメージとはほど遠い。
「ちっ、違うよぉ。殴り倒したんじゃないよぉ」
伽那が慌て気味に否定する。だが、どうしたのかを打ち明けるつもりはないようだった。
――何だろう。殴り倒したのじゃなければ、どんな手を使ったのだろう。
魅咲が、伽那の顔に浮かぶ複雑そうな表情を読み解こうとしたそのときだった。
高嵜研究所の建物が、虚空から滲み出るようにその姿を現した。




