第閑話 途切れぬ約束
「ちくしょう、万事休すかよ……」
中型迷宮の奥深く、無数の魔物に囲まれた状況。
その状況下でB級冒険者であるヴァイス・ヨルガンクが悔しそうに、だがどこか吹っ切れたように口にする。
金髪に青い目。
不惑手前の歳で美男子も何もあったものではないが、若い頃は相当モテたであろうことを伺わせるほどには整った顔をしている。
鍛え上げられた巨躯に負けない巨大な盾を構え、右手に矛を持っている。
全身鎧で固められた装備は一目で『盾役』である事がわかるものだ。
それなりの魔物がそれなりの数がいたところで、そう簡単にヴァイスに致命傷を与えることはできないだろう。
だが今、ヴァイスは単独である。
防御特化ゆえに時間を稼げはするものの、攻撃役がいなければいずれジリ貧となっていくのは自明の理だ。
右手に構えた片手矛で確実に一匹ずつ仕留めてはいるとはいえ、全てを仕留めるまで体力が持つとも思えないし、増援が間に合うとも思えない。
何より現時点でもかなりの手傷を負い、たとえ戦闘がここで終了したとしても単独で地上まではたどり着けまい。
詰んでいる。
だがこうなることは最初からわかってはいたのだ。
それでも助けに入らずにはいられなかった自分の愚かさに、ヴァイスは思わず笑う。
冒険者歴ももう相当に長く、B級にまでなっているからにはもちろんヴァイスは素人などではない。
そもそも素人が運に恵まれた程度で潜ってこれる階層ではないし、今対峙している魔物の群れも中層であれば一体湧出しただけで大騒ぎになるレベルの相手だ。
ヴァイスだからこそ、まだ持っているといっていい。
本来ヴァイスは二人組みのパーティーで行動するのが常である。
当然今回もこの階層にいたるまではそれに準じて行動していた。
二人組みの『案山子団』は、冒険者ギルドではそれなりに名の売れたパーティーだ。
ヴァイスが魔物の攻撃を引き受け、その間に相棒が強力な魔法で仕留めて行くというシンプルな役割分担は、この迷宮であれば最深部まで充分に通用するスタイルなのだ。
だが今。
長く二人パーティーを組んでいた攻撃役の相棒は、助けた冒険者三人組に付いてもらったのでここにはいない。
疲弊した三人に相棒をつけなければ、この場は助かっても地上まで持たない事は明白だったからそうした。
そうした時点でオチがこうなることは、ヴァイスにも相棒の攻撃役にもわかっていた事だ。
それでもヴァイスはそうしたし、相棒も言いたい事は山ほどあったのだろうがヴァイスの判断に従ってくれた。
迷宮は甘い場所ではない。
精神論で生き延びれるのであれば、ヴァイスも仲間を失う経験などせずに済んだ。
今度は自分の番というわけだ。
どれだけ経験を積んでいようが、準備を万端に整えていようが、迷宮という場所は判断を一つ誤ればあっさりと死に至る。
そんなことは嫌というほど理解している。
それでも自分は迷宮に潜り続けたし、こうなるとわかっていてもさっきの三人組パーティーをどうしても助けたかったのだ。
知り合いというわけではない。
もちろん『案山子団』のパーティーメンバーであるはずもない。
――『案山子団』はあの日からずっと二人組だ。
だがああだこうだ考える前に、助けに入ってしまったのだ。
――男二人と、女一人の若手パーティー。
こんな階層まで潜ってこれるのだから、若い割には実力はあるのだろう。
この数の魔物に囲まれるというのは、運の範疇と言っていい。
――あの時の俺達と同じ状況ってわけだ。
迷宮に理不尽はつきものだ。
どれだけ慎重に進めようが、その時々に正しい判断をしていようが、理屈や経験則などすべて御破算にして終わりが訪れる事もある。
それを覚悟したうえで、迷宮を稼ぎ場所にしているのが『冒険者』という存在だ。
だからこそ迷宮から持ち帰るあらゆるものには、真っ当に働いていてはとても手に入らないほどの値がつくのだから。
不運に見舞われたのは彼等のせいであり、ヴァイスにはなんの関係も責任もない。
冒険者の鉄則として、救える相手は救うが、どうしようもない状況は見捨てるというものがある。『カルネアデスの板』ではないが、感情から助けに入って被害を拡大させるというのは愚の骨頂なのだ。
各々の覚悟と判断で迷宮に挑む冒険者達は、最低限の作法としてそれを納得している。
――そんなことは、百も承知だ。
それでもあの時、ヴァイスたちは助けが欲しかった。
神様でも悪魔でも、商売敵でも何でもいいから不運に見舞われた『案山子団』の四人組を助けて欲しかった。
もちろんそんな奇跡が起こるわけもなく、『案山子団』は仲間二人の犠牲で、残り二人が生き残ることが出来ただけだ。
そのときの生き残りが、今のヴァイスと相棒の魔法使いである。
好き合っていた先輩冒険者二人が、後輩であるヴァイスと相棒を逃がしてくれたのだ。
今の『案山子団』の残滓みたいな自分達が、当時の自分達に似たような状況に陥っているパーティーを見つけた瞬間に、ヴァイスは助けることを即断した。
自分でもくだらないと思う自己満足に付き合わせた相棒には、悪いことをした。
長寿族の魔法使いである相棒は、あれから他にすることもないからとばかりに迷宮にもぐるヴァイスに、文句も言わずにずっと付き合ってくれていた。
「助ける」と言い放ったときも、「そいつ等についてやってくれ」と頼んだときも、常は落ち着いて無表情なその顔に、曰くいい難い表情が浮かんでいたのは知っている。
それでも自分の我が儘に付き合ってくれたことに感謝している。
長寿族といえば見た目から実際の年齢を推し量れないことで有名だ。
十代の若者にしか見えないのに、齢百を越えていることなどざらである。
だがヴァイスの相棒は、見た目どおり『案山子団』の中で本当に最年少だった。
まだ『案山子団』が四人組だった頃、その事実が判明したときには大いに笑ったものだ。
強力な魔法使いであり、今やA級のパーティーからも誘いがかかる彼がずっとヴァイスに付き合ってくれていたのは、あの時の負い目があるからだろうとヴァイスは思っている。
『案山子団』では最後まで嫌な思いをさせてしまったが、これからは実力に相応しいパーティーで名を上げていくだろうとヴァイスは思う。
長寿族の長い人生に苦い記憶を刻んでしまったことは申し訳なく思いはするが、彼であれば歴史に名を刻む冒険者になれるだろうとも思う。
――お互い、やっと開放されるな……
「――すまねえな、エレナ嬢。……どうやらもう、逢いにいけそうにねえわ」
長年冒険者として、この迷宮の下層部を稼ぎ場としてきた自分の経験と感覚が「そろそろもたねえぞ」と告げている。
自分が最後の時を覚って最初に浮かんだのがエレナ嬢との約束だったことに、ヴァイスは我が事ながら意外を感じた。
確かにここしばらく、己の稼ぎからは少々分不相応な『胡蝶の夢』の『三枚花弁』であるエレナ嬢にハマっていたという自覚はある。
運よく希少種魔物を狩れた時の稼ぎで、噂に聞こえたトップ娼館の『花弁つき』がどんなものか試してみて、見事にハマったのだ。
自分達では数年に一度しかないような幸運に恵まれての稼ぎであっても『三枚花弁』までしか手が出なかったことにも驚いたが、そのときに選んだ『エレナ嬢』にあっさりハマった自分に何より驚いた。
小柄だが美しいラインを描く体と、整った顔。
男の子のような言動なのに毀れ出る女としての魅力と、打ち抜かれるような色気。
そんな存在が、己の無骨な腕の中でころころと微笑う。
幼さすら残るその容姿に似合わぬベッドの上での技術に、顔に似合わずそっち方面が得手ではないヴァイスは翻弄された。
不惑手前の歳で、二周り近く歳の離れた少女に惑う自分が面白かったのも事実だ。
だが一晩買いなどと分不相応な遊び方をしたくせに一刻も持たずに戦闘不能状態にされた自分の話を、楽しそうに明け方まで聞いてくれたエレナ嬢に、はじめてヴァイスは執着という感情を覚えた。
中堅冒険者を手玉に取るなど、一流娼館の人気嬢にしてみれば容易い事なのかもしれない。
自分の本来の客層にそぐわぬ冒険者のする間抜け話が、本当に面白かっただけなのかもしれない。
だがそんなことは一切合切がどうでもよく、とびっきりの美少女に自分の迷宮での話を聞いてもらうのが楽しくなってしまったのだ。
ほんの少しの嫉妬を感じながらも、エレナ嬢の高級娼館での日々の話を聞くのも楽しかったのだ。
お互いがお互いにとっての『非日常の日常』を定期的に交換することが、ヴァイスにとっての生きるハリになった。
エレナ嬢にとってもそうであればいいなと、素直に思うことが出来た。
だからこそもうずっと『約束』などしなかった自分が、二月に一度は逢いに行くよ、などという、戯言でたわい無いくせに、高く付く約束をしてしまったのだ。
上手くカモにされているのであっても、それはそれでいいやと思えた。
必要な金を稼ぐために頑張るヴァイスを、相棒は呆れ顔ではあったものの協力もしてくれていた。
おもえばそうなってからここしばらく、ヴァイスは楽しかったのだ。
冒険者としての自分の『日常』が。
だからこそ、最後のこんな状況でエレナ嬢のことを思い出す。
「結局また俺は……約束守れねえんだな。――情けねえ」
そう口にした後、心の中で自分の言葉を否定する。
――いいや。
たとえオチが同じでも、最後までみっともなく足掻くことを今一度ヴァイスは決める。
約束が途切れるのは死によってだけでいい。
死んでもいないのに、己の意志で約束を反故にすることだけはしない。
不可避の死を前にして、ヴァイスの口の端に笑みが浮かぶ。
自棄になった無気力なものではない。
男が生涯のうち、一度でも浮かべられれば上等の太い笑みだ。
――仲間達との約束は守れなかった俺だがな。……惚れた女との約束くらいは守って見せねえと、男に生まれた甲斐がねえやな。
そんな精神論でどうにかなる局面でないことは、よくわかっている。
それでも生きて帰る意志を放棄しない。
くだらない理由で自ら望んで死地に立ち、たわい無い約束でそこからの生還を心の底から望む。
我ながら矛盾の塊で嫌になる。
だがどれだけ他者にとってはくだらなくても、自分にとって譲れぬものであったことだけは確かだ。
いつだったかエレナ嬢から、自ら望んで立った戦場から生きて戻ろうとする気力になってくれる者達に傭兵達は感謝を忘れず、かくてグレン王国の『花弁制度』は成立したときいた。
しがない冒険者の自分だが、はじめてグレン王家の想いが理解できた気がする。
夜街の女であろうが、田舎町で待ってくれてる幼馴染であろうが、惚れた女を泣かしたくなくて踏ん張るのは男の在り方としてアリだと思う。
惚れた女に歯を食いしばってでも、いい格好をして見せたいのが男って生き物だ。
――むこうが惚れてくれてるんだか、本当に泣いてくれるんだかは知らん。
だが理屈はいい。
そもそも惚れてると告げてさえいない。
今のままじゃ、自分は多くのお客様の中の一人に過ぎない。
フラれるのが順当だとしても、告げるくらいはしたいものだとヴァイスは笑う。
本当に泣いてくれるのであれば、死んで惚れた女を泣かせるなんてみっともないことはしたくない。
だから生き残る。
今はそれでいい。
万が一の可能性にかけて、ヴァイスは包囲の一角に全力で飛び込んだ。
無傷で済むはずもないが、一点突破で包囲を破らねば奇跡も起きようがない。
そうそう起きないからこそ、奇跡は奇跡と称される。
そんなことは百も承知で、ヴァイスは矛と盾を全力で振り回す。
死に際してやっと自覚した、惚れた女にもう一度逢う為に。
「支配人、アポはありませんが面会希望の方が見えられています。いかがなさいますか?」
支配人の執務室の扉をきちんとノックして入室し、伝えるべき内容を店員が伝える。
ほぼ常態化したとはいえ異常事態でなければ、『胡蝶の夢』の店員は優秀なのだ。ノックもせずに扉を開けるというような無礼は本来はやらかさない。
最近、その状況に物足りなさそうな表情を浮かべる支配人こそがどうなのだ、という感想が店員の中で出回っているとかいないとか。
とはいえ異常事態とまでは言わぬものの、開店直後のバタバタした『胡蝶の夢』にそういう来客があるのは珍しいことだ。
あらゆる目的のために支配人にアポ無しで会う事を望む存在は数多いが、そういう連中は開店前の比較的落ち着いた時間帯を選ぶ。
わざわざ断られやすい時間を選ぶものはいない。
「相手と用件は?」
「B級冒険者のナーシュ様ですね。ご用件については急ぎだとだけです」
「知らん名だな……」
執務机に着いたまま、天を仰ぐ支配人。
まだ今夜の一順目のお客様が入られた直後であり、喫緊の業務はない状況だ。
こういうときに支配人が下す答えの予想を、店員たちはだいたいつけている。
「10分だけ会おう。内容次第で今夜の空いている時間をすべてその件にあてるかも知れんが。……ここへ通してくれ」
予想通りの答えに、もうそれなりに『胡蝶の夢』に勤めて長い店員が急いでナーシュ氏――ヴァイスの相棒である長寿族の魔法使いを呼びに走る。
己の利益目当てのみで支配人に会おうとする者と、そうでない者の区別くらいはさすがにつく。
落ち着いてはいたが、切羽詰った瞳をした冒険者に面会の許可が下りたことに胸をなでおろしながら店員は呼びに急ぐ。
うちの支配人が、またぞろ厄介事を抱え込まねばいいけどな、などと好いているからこその余計な心配をしながら。
「まいったな……」
執務室の上等な椅子に深く身を沈めながら、支配人が一人ごちる。
人払いをしており、室内には支配人が一人いるきりである。
ナーシュの話は10分もかからずに完了した。
彼が支配人に伝えた内容は、今日『胡蝶の夢』のエレナ嬢に予約を入れていた自分の相棒のヴァイスが来れなくなった事。
その理由と、そのために今後も定期的に押さえていた予約には来れなくなるかも知れないという事。
その二点のみ。
ご丁寧に今日のキャンセル料も支払っていった。
詳しい理由を聞いたのは支配人の方からだった。
ナーシュはほぼ絶望的だとはわかっているだろうに、自分の持つ全ての資産をかけて救助に向かうつもりらしかった。
前衛可能なB級冒険者何人かを雇えればそう難しいことでもないだろう。
実際ナーシュはヴァイスと二人でその階層までもぐっていたのだし、救われた三人組パーティーも不運に見舞われなければ到達可能な階層であるのだ。
B級冒険者が複数で万全の用意を整えてもぐれば、ほぼ安全に到達して、戦闘不能状態の冒険者一人を地上へ連れ戻すくらいは充分に可能だ。
時間さえ無視できれば、だが。
実際、ナーシュが三人の冒険者を保護しながら地上に到達するまでに丸一日を要している。
地上からヴァイスと別れた場所までどれだけ急いでも同じ程度はかかるだろう。
それでも最速といっていい速度なのだ。
冒険者の魔物との戦闘が数日間の長きに及ぶことは珍しくないが、それは複数のパーティーで入れ替え、サポート体制が万全に整っていてのことだ。
単独での継戦時間はそんなにも持たない。
中には王弟ガイウスのように『英雄』『救世主』と呼ばれる規格外が存在することも確かだが、めったに存在しないからこそ英雄は英雄たれるのだ。
一般の人間からすれば規格外といっていい戦闘能力を有するB級冒険者とはいえ、丸一日以上経過した今なお生きている可能性は限りなく低い。
それは別れる寸前にありったけのサポート魔法をナーシュから受けてはいても、そう変わることはないだろう。
極少ない可能性で今なお生きているとしたところで、救援が到達するにはまだ丸一日かかるのだ。
そのときにまだ生きながらえている可能性は、残念ながらないとしか言い様がない。
詰んでいる。
そして支配人としては、その事実をエレナ嬢に伝えなければならない。
ナーシュの名は知らなかったが、その相棒のヴァイスについては支配人の記憶にあった。
『三枚花弁』の御贔屓筋であれば名を把握していて当然だが、ヴァイスはエレナ嬢の御贔屓筋とはみなされていない。
二月に一度の一晩買い程度では、ただのお客様の一人に過ぎないのだ。
だがエレナ嬢のほうから、ヴァイスの予約を最優先するようにしているとなれば、店側としても対応は変わってくる。
支配人の魔法ではケアしきれない心のバランスを保つことを、特定のお客様や、お客様以外の男性に頼っている嬢は少なくないのだ。
『胡蝶の夢』の嬢としての仕事に破綻をきたさないのであれば、そのことをとやかく言うつもりは支配人にはない。
冷たい言い方をすれば、お客様の一人が不運に見舞われてもとくにどうとも思わない。
冒険者という、己の命をかけての仕事であればこそ、その判断と結果は己が負わねばならぬものだろうとも思う。
だがそのお客様が『胡蝶の夢』の嬢にとって重要な立ち位置にいるとなれば話は違ってくる。
嬢の利益、ひいては『胡蝶の夢』の利益のためにできることをするというのは、支配人にとって業務の範疇だ。
それを確認するためにも、エレナ嬢には報告をしなければならない。
「エレナ嬢を呼んでくれ。今日は予約すっぽかされて、蝶の泉でふてくされてるか、部屋に篭ってるはずだ……」
店員にそう伝えてエレナ嬢が執務室を訪れるまで、支配人は瞑目して天を仰いでいる。
酷い言い方をすれば、たいしたことのないお客様の一人であってくれればいい。
そうであれば身もふたもないが「お客様一人減った」というだけの話で終わる。
だがエレナ嬢の心のどこか大事な部分に触れているお客様だった場合、厄介なことになる。
優先して予約を入れることをよしとしている以上、その可能性は高い。
ヴァイスが冒険者として未帰還者となったところで支配人の知ったことではないが、その結果『胡蝶の夢』の売れっ子嬢の一人であるエレナ嬢の心のバランスが崩れるのは大問題だ。
嬢の魅力は精神的なものにこそ、大きく左右される。
体調面での管理が完璧である『胡蝶の夢』に置いてはなおの事だ。
支配人の仕事として、売れっ子嬢を売れっ子嬢として維持することは重要な仕事のひとつだ。
別名自己欺瞞とも言うが。
「予約すっぽかされた惨めな僕に何の用があるの、支配人」
案の定やさぐれた様子でエレナ嬢が執務室に入ってくる。
呼んできた店員がノックをしているので、いつものような無頼を働いているわけではない。
「空いた時間お客様取れとか鬼発言するんじゃないよね? 勘弁してよねー……って、そっちのほうがまだ気がまぎれるかなあ」
どうやら『蝶の泉』にいたようで、その蒼みがかった癖のある短めの髪はしっとりと濡れている。
湯気をあげそうな艶やかな肌も湿気に濡れており、薄着な事もあいまって妙な色気をかもし出している。
予約の日は開店と同時に来るヴァイスに、この時間になっても来ないことに腹を立てているというよりも落ち込んでいる様子だ。
来ないのであれば時間買いのお客様をとろうかなどと、捨て鉢な発言をしている。
「そのご予約のお客様……ヴァイス氏の事でエレナ嬢を呼んだ」
懐いている相手にすっぽかされたことに傷ついているようにしか見えないエレナ嬢の様子に、支配人の声はおのずと堅くなる。
堅くなってしまう。
「……すっぽかされたくらいで呼び出し食らうのって普通ないよね? もしかして僕に飽きて指名換えするとかお店変わるとか言ってきたの? えー、なんかやらかしたかなあ」
その声を聞いて、エレナ嬢の様子も堅いものになる。
おちゃらけた事こそ口にしているが、その整った顔からは表情が抜けてゆく。
『胡蝶の夢』で『三枚花弁』を張れる嬢は馬鹿ではない。
支配人の執務室に呼び出されて、堅い声で語られれば何かがあったことなどすぐに察する。
それが指名替えや河岸移り程度ではないという事も。
「本日付でヴァイス氏は冒険者ギルドにおいて未帰還者登録がなされた。迷宮下層で魔物に囲まれた状況で単独となってから、約一日が経過している。……絶望的な状況といっていいだろう」
呼び出しておいて濁しても何の意味もない。
言い難いことだとはいえ、いやそれゆえにこそ端的に事実を伝える支配人。
黙っていればなかったことになるのであれば、そんな楽な世界もないだろう。
だがどんな世界であっても現実はそんなに都合よくできてはいない。
「そっか……」
長い、長い沈黙の後で、エレナ嬢がポツリと零す。
その顔にはやっぱりな、という表情が浮かんでいる。
エレナ嬢が懐くような男が、理由もなく一方的に予約を無視するはずがないという確信があったのかもしれない。
であれば支配人に呼ばれる前から、こういう事態を想定していたものか。
冒険者のお客様には、確かによくあることではあるのだ。
「あの人ね……エッチなことぜんぜん得意じゃないんだよ」
そうして泣き笑いのような表情で、自分が懐いた男のことを語りだす。
「上手じゃなくて、すぐにおわっちゃって。なのに朝まで寝かせてくれないんだよ。迷宮で体験した面白いことやばかばかしいこと、嬉しいことや悲しいことをずっと聞かせてくれて……」
どれだけ自分がその時間を大切に感じていたか、こうなってやっと気付いたとでも言わんばかりに愛しげに想い出を語る。
「僕もいつの間にか、『胡蝶の夢』での面白いことやばかばかしいこと、悲しいことや……嬉しいことを話すようになっててね」
自分でも信じられない、というふうにエレナ嬢は微笑う。
嬢が自分の日常を、同情を引いてお金を引っ張る以外で語るとなれば相当なことだ。
嘘偽りない娼婦の本音を聞かされて、愉快になれるお客様はそう多くない。
お客様は高額な金を出して夢を見にきているのだ。
知りたくもない現実をさらけ出すなど、娼婦としては悪手でしかない。
そんなことは恋人と、私室の褥でするべきことなのだ。
「娼婦の僕が感じる『嬉しいこと』を、驚きながら、それでも同じように嬉しそうに聞いてくれてさ」
だがそんな会話を、ヴァイスは喜んで聞いていてくれていたという。
エレナ嬢も、そんなヴァイスに甘えて、いつしか頼ってしまっていたのだろう。
「お話をしながら、お話を聞きながら、一緒に寝ちゃうんだ、いつも。それで朝おきて、お互い続きはまた今度なって……」
幸せな記憶。
これからも二月に一度、ずっと続くと漠然と信じていた時間。
「でももう、続きは聞けないんだね」
そしてエレナ嬢も、続きを聞いてもらうことができない。
エレナ嬢本人のあずかり知らぬところで事態は推移し、もう取り返しの付かない事態にまで進行してしまっている。
エレナ嬢にできる事は、もう何もない。
いや初めから何もなかったのだ。
「――好きだったな」
自分の気持ちを自覚して、髪と同じ蒼みがかった瞳から涙を零す事以外は。
黙ってエレナ嬢の話を聞いていた支配人の前で、頤を少し上に上げながらエレナ嬢は涙を流している。
もうこれ以上、言葉は出てこない。
エレナ嬢の独白を聞き終わった支配人が、エレナ嬢と同じように天を仰ぎながら嘆息する。
何かを今、決めたのだ。
「伝達。――王都グレンカイナ冒険者ギルドマスター『神殺し』ガルザム老ならびに、王国魔導軍軍団長『賢者』ライファル老師に『胡蝶の夢』の支配人として正式要請。内容は可及的速やかに本日『未帰還者』登録されたB級冒険者ヴァイス氏を救出すること。詳細は冒険者ナーシュ氏からきかれたし」
「はい」
突然明瞭な言葉で指示を出す支配人を、涙に濡れたままの瞳に驚きを浮かべてエレナ嬢が見る。
扉の前に控えていたものか、エレナ嬢を呼びに行った店員が即座に返事を返す。
たしかにS級どころではない、そういったカテゴライズからも逸脱した二人であれば、短時間で現場までたどり着くことはたやすい。
ヴァイス氏が未帰還となっている迷宮の、一般的に信じられている最下層までであれば鼻歌交じりで到達できる実力者なのだ。
本来ただのB級の未帰還冒険者の探索に引っ張り出せるような人物ではないだけだ。
だが今回、ヴァイスはただのB級冒険者ではない。
『胡蝶の夢』の支配人が、嬢のケアのためにその存在が必要と認めた人物の救出となるのだ。
自身には魔物を蹴散らす力を持ち合わせていない支配人だが、必要と判断すれば使える力はためらいなく全て使う。
この場合、もっとも適しているのは確かにあの二人だろう。
『こっちでやるほうがはやいから暗部が伝えるよ』
「すいません、お願いします」
姿無きまま、どこかから聞こえる声に支配人は伝達を任せたようだ。
『三枚花弁』の身ではめったにくることのない支配人の執務室だが、この空間には嬢たちには知りえぬ秘密が山ほどあるらしい。
王家の暗部が常駐していることをもはやなんとも思っていない支配人も大概といっていいだろう。
「支配人……」
エレナ嬢は自分の話を聞いて、支配人が『特権』としか呼べないものを発動してくれたことを理解している。
だがそれに対して何を言っていいかわからない。
どんな対価を支払っていいのかもわからない。
だけどやめてくれと言う気にももちろんならない。
自分で支払える対価であればどんなものであっても支払おうと思える。
「時間も経ってる。どうなるかはわからん。いや正直可能性は低いと見たほうがいいだろう。だけどゼロじゃあねえ」
この国の王様にだって、そんな簡単に動かせるはずのない二人を即座に動かしておいて、支配人はその不確実性をエレナ嬢に説明している。
日頃から「うちの支配人はかなり変わっている」とは、もはや何回目かもわからない『支配人考察会議』で他の嬢たちと語ってはいたものの、ここまでとは思っていなかった。
悲しい気持ちが消えたわけではないけれど、驚きの表情で支配人を見つめるエレナ嬢に、ちょっと困ったような声で説明を続ける。
「うちの嬢をこれだけ惚れさせたヴァイス氏の勝ちだよ、ここまではな。間に合うかどうかはヴァイス氏次第だ。死ぬ瞬間までもう一度エレナ嬢に逢う事をあきらめてなかったら、あるいは奇跡が起きるかもな」
ここまでのことを、自分の娼館の嬢を泣き止ませるためだけにやってのける。
問えば支配人は「胡蝶の夢の利益のためだ」と答えるのだろう。
『三枚花弁』として人気嬢の一人である自分が落ち込んでいては、店の利益にならないと。
それならば自分は支配人の好意に甘えよう。
そのかわり『胡蝶の夢』の人気嬢として、相応しい態度を取ろうと決意した。
悲しい結果になっても、きちんとそれを抱えようと思えた。
「ちょっと自信あるかな」
まだ涙は乾いてはいないけれど、いつもの調子で答えるエレナ嬢に、支配人はほっとした表情を見せまいと努力する。
女に隠し切る事など不可能なのだが。
「ねえ支配人?」
「なんだ?」
支配人は今できる最大限のことをしてくれた。
だからといって、全てが良い結果になるなんていう事はない。
そんなことはエレナ嬢も、とっくの昔に理解している。
「約束が途切れるのって、どの時点でだとおもう? 約束って二人以上でするものだけど、誰か一人がずっと守っていたら途切れていないと思える?」
だから聞いてみる。
自分の絶対のルールに従って、自分達の所属する娼館の支配人をしている絶対的な味方に。
「さてな。だけど一人、そうやっておばあちゃんになっちまった人を一人、俺は知ってるよ」
帰って来た答えは、意外なものだった。
だけど支配人のその表情に、尊敬の念が浮かんでいるのがエレナ嬢にはわかる。
「それって不幸なのかな? それとも幸せなのかな?」
「そりゃ俺にはどうとも言えねえな。それを語っていいのは本人だけだと俺は思う。……だけどその人は、おばあちゃんになっても綺麗に笑うよ」
「……そっか」
優しいなぐさめの言葉ではない。
だけど、支配人にこんな表情で語ってもらえるのなら、自己満足の約束を抱えて生きていくのも悪くないと思えた。
もしも、もう二度とヴァイスの話が聞けなくても、エレナ嬢がヴァイスに惚れていたのは間違いのない事実なのだから。
娼婦の自分が惚れた相手を、一生想って老いていくのも素敵だなと思えた。
他人にどう思われるかは関係ない。
自分がどう思うか、自分が大切だと思える人たちにどう思われるかだけが大事なのだ。
だったら――
「ありがと、支配人。僕は約束途切れさせないよ。……ずっとね」
そう言って泣き笑うエレナ嬢は、女の子として最高に美しかった。
とびっきりの美女達の、とびっきりの表情を見慣れている支配人の目を奪うほどに。
この後、エレナ嬢がヴァイスと再び逢えたかどうかは公的な記録には何も残されていない。
そもそも娼婦側からの記録などほとんど残されていないものだし、冒険者ギルドの記録にも馴染みの娼婦との記録までなされるはずもない。
妻子の情報さえ載っていないのだからある意味当然ではある。
娼館の文献資料としては有名な『胡蝶目録』や『夜街花弁目録』にもエレナ嬢の名前を見つけることはできるが、娼婦としての特徴以外の詳細についてはなにも記されていない。
だが支配人たちの時代よりすこし後、本になったりお芝居になったりした、ある『物語』が生まれる。
娼婦に惚れたしがない冒険者が、その娼婦を身請けするために無理して迷宮で命を落としそうになる、よくある話だ。
それは物語だけあって、ありふれたハッピーエンドで幕を閉じる。
陳腐でご都合主義な、高尚さなんてどこにもない、読んだ明日には忘れられるようなありふれたお話。
それでも、それだからこそ民衆から笑われたり、愛されたりする物語。
曰く――
片眼を失くし、片腕を失った状態でも冒険者は愛した娼婦の下へと生還する。
それは多くの仲間に助けられ、命からがらの生還だった。
娼婦を身請けするに足る宝物を手に入れることなど出来ず、この後冒険者として生きていくには致命的な怪我をも負った。
普通に考えたら不幸な終わり。
でもだけど。
「貴方は私のところまで還って来てくれたわ」
「だけどこのザマだ。これじゃあもう、お前を上手く抱けやしねえ」
「上手に抱いてくれたことなんてないくせに。でも平気よ。これからは私が上手に抱いてあげるから」
そんな陳腐な、ハッピーエンド。
娼婦とそのヒモになっても、笑って暮らした二人の物語。
この物語が、ヴァイスとエレナ嬢の話を知る誰かの哀れみから書かれた完全な創作なのか、事実に脚色を加えたものなのかを伝える資料は、なにも残っていない。
なお、現存している当時の冒険者ギルドの『登録冒険者名簿』にはS級冒険者として隻眼隻腕の『鉄壁』ヴァイスの名が記されている。
次話 支配人の弟娣子
次話から第伍章に入ります。
本来今回の間章ラストに持ってこようとしていた「支配人の弟娣子」を伍章の最初にしました。
よくやらかしている次話詐欺申し訳ありません。
今回の話も冒険者ギルドがらみでしたが、第伍章は冒険者ギルドと所有者を絡めての話になります。
長々と支配人と嬢たちの話を書きたい今作ですが、骨子になる物語もある程度提示できればと思っています。
御期待にそう所有者像を書けるか不安ですが、全力で頑張ります。
書籍化作業が一段落すれば、もう少し投稿速度も引き上げられるよう頑張ります。
メイン三人娘の話で書きたい場面が山ほどあるのですが、構成上次の間章か次章まで書けないのがストレスです。
遅い上に何時するかわからない不安定更新ですが、お見捨てなくお付き合いいただければ嬉しいです。
もう少しすれば、書籍化に関してもお伝えできる事が増えると思います。
イラストレーターさんをお伝えできる日が楽しみです、「娼館」も「いずれ不敗も」
これからもできましたらよろしくお願いします。