4.幸せの記憶
てこでも動かないのではないかとばかりに評判が広まり、また幾許かの時が経ちます。
それでも御鏡姫は何度かの挑戦を受け、ことごとく嘘を見抜いていきました。
時にはその慧眼で、時にはシュピーゲルの助力によって。
どうすれば御鏡姫に勝てるのかと、ようやく人々が諦め掛けていた頃。
ふと、御鏡姫はシュピーゲルに訊ねます。
「本当は、どうして?」
「本当、とは?」
何かぼかすような御鏡姫の物言いに、シュピーゲルは首を傾げます。
普段の彼女であればもっと直接的な言葉を好むはずだったのです。
御鏡姫は、なにやら考え事をするように続けます。
「どうして、貴方は私のためにあんなにも真剣になってくれるのかしら」
それを聞いてシュピーゲルは、先日のレイからの質問を再度問われている事に気づきます。
そして、とうとうこの時が来たかと、悲しそうに微笑みました。
その問いの答えは、ずっとずっと昔からシュピーゲルの中にあったのです。
しばらく2人は無言でいると、御鏡姫はシュピーゲルを急かす様に、或いは脅える様にシュピーゲルに目線を向けてきます。
シュピーゲルは観念したかのように話し始めました。
「私が姫の元に現れてから、もう何年になりますか……とても、色々な事がありましたね」
「…そうね。楽しい事、腹立たしい事、うれしい事、色々あったわ」
急に語りだしたシュピーゲルに、御鏡姫は真意を図りかねて話を合わせるように続けます。
御鏡姫が内心で困惑している中、シュピーゲルはなおも語りを続けます。
「私には楽しい事やうれしい事の連続であったと言えましょう。そう、何もかもが新鮮でした」
「それはそうでしょう?貴方は記憶を失っていたのだから」
何を当たり前の事を言っているのだと、御鏡姫は相槌を打ちます。
シュピーゲルの語りは、そんな事を気にしないかのようになおも続いていきました。
「そう、何もかも忘れて、姫様と色々な事をしました」
「今思えば、貴方を巻き込んで、本当に色々な事をしたわね」
探検やいたずらなど、他の女中などとは一緒に出来ないような凡そ淑女らしくない遊びまで、シュピーゲルを引っ張り出したものだと、御鏡姫は思い返します。
似たような事を思い返しているのか、シュピーゲルは苦笑を浮かべながら話を続けます。
「ええ、その一つ一つが、姫様とともに叱られた事でさえ、とても幸せな記憶なのです」
「叱られたことも?変わっているのね。それともそう言う趣味かしら」
シュピーゲルから悲壮感のようなものを感じ取った御鏡姫は、思わず茶々を入れて話を中断させようとします。
しかしシュピーゲルの話はそれを意図的に流すようにして続いていきます。
「この幸せな時間が、幸せの記憶が何時までも続けば良い。そう思っていたのです」
「……なんで、何時までも、続けば、なんて…」
御鏡姫は、シュピーゲルの物言いから何か嫌なものを感じ取り、言葉が続かなくなってしまいました。
シュピーゲルは悲しい微笑を御鏡姫に向けて、決定的な一言を放ちます。
「しかし、この幸せはもう終わってしまうのです」
「……どういうことなの?」
御鏡姫は、問い返しながら気づいてしまいました。
何故、シュピーゲルはこの場で思い出話をしだしたのか。
何故、今の幸せは終わってしまわなければならないのか。
……何故、この話をしだしてからシュピーゲルから常に嘘の気配が漂っているのか。
どうしても最後の一言が口から出てきません。
”あなた、記憶が戻っているの?”
いくら唇を震わせようと、息を吐こうと、それが声になる事はありませんでした。
ふるふると震えている御鏡姫を見えない様にするかのように、シュピーゲルは跪いて言葉を発します。
「姫様、私ずいぶん前より記憶が戻ってございます」
「……っ」
シュピーゲルの雇用条件は記憶が戻るその時まで。
御鏡姫はまさにその瞬間、自らの半身とも呼べる執事を失ってしまったのです。
シュピーゲルは数日準備の時間をもらい、とうとう出立の日となりました。
共に働いた人や、お館様に見送られ屋敷からゆっくりと離れていきます。
あの決定的な日以降、シュピーゲルの前に御鏡姫は一度も現れていません。
シュピーゲルは屋敷が見渡せるところで立ち止まり、御鏡姫の部屋窓を見上げました。
すると御鏡姫もこちらを見送ってくれているのが分かります。
シュピーゲルは、遠めでも分かるように大きく一礼をすると、自らの家へと足を進め始めました。