雨の中で黒と白
「な……、なんだよ、これ」
突如降り始めた雨は、すぐに勢いを増しどしゃ降りとなる。真新しい制服がすぐに水を吸い込み重たくなった。
しかし、そんなことなど少しも気にならない。俺の意識は別のところへ向いていた。
目の前の光景は「悲惨」と言う他ない。
新築特有の鼻を刺す臭いも、窓から溢れる灯りもない。逃げ惑う悲鳴も狂騒もなく、ただ呻き声だけが木霊する。
一人だけ異空間に放り込まれたようだ。
魔獣を見たことがない訳じゃない。でもこんな大群をこんな間近で見たことなんてあるはずがない。
魔獣たちの数は建物の外壁を埋め尽くしてもなお余りある。その内の一頭が深紅の瞳を通して俺の姿を見つめる。
まずい! 逃げないと!
頭の中で警報が鳴り響くが、脚がすくんで動かない。必死に脚を動かそうとするも、思い通りに動かない。
近付く魔獣の鼻息が聴こえて気が気でなくなる。
「くっそぉ!」
俺の右足は根性の雄叫びで動いたが、見事に縺れた。俺はその場に腰から落ちて尻餅を着く。
この際体裁なんてどうでもいい。どうにかして逃げないと……。
無理矢理脚をもたつかせて後退する。しかし俺の足はアスファルトの道を空振りし続ける。前にも後ろにも思うように進まない。
サンショウウオをそのまま拡大したような魔獣は、割けたような広い口から呻き声とヨダレを垂れ流す。
知能を宿さない魔獣はただ目の前の生物を襲う。とき捕食し、ときに殺戮するだけ。どちらにしろ逃げなければ殺される。
「あーあ、沢山いるや」
「っ!?」
どこから現れたのか、一人の少女がいつの間にか俺の隣に佇んでいた。
絹のように透き通る白い肌に流れる白髪。真っ白のワンピースに身を包んだ小柄な少女は、魔獣の群れを見て感嘆している。
「何してんだ!? 早く逃げろよ!」
俺は語気を強くして少女に怒鳴り付ける。
想像を越える大きさの俺の絶叫に驚いた少女は肩をビクつかせて振り向いた。
警戒する少女は俺の顔をまじまじと見つめたまま硬直した。
「……なんだよ」
「いや、なんでもないけど……、逃げるんだったらあなたも逃げなくていいの?」
「出来たらしてる。けど恥ずかしながら脚が動かない……」
「でも私が逃げたらあなた一人よ」
「だからなんだよ。お前だけでも逃げるんだ!」
「……」
再び少女は黙り込んだ。少女は大きな青い瞳を見開いている。
そして微笑を湛えて呟いた。君っておかしい、と。
「なんで笑って……、っ!?」
「Uuuuaaa!」
しまった。距離は十分にあったと思っていたが、体躯の大きい魔獣はたった一歩で近付いていた。
「OHhhhh」
魔獣は腹の底で響く重低音の雄叫びとともに、大木のように太い右腕を振り上げる。
そして振り降ろされる凶爪。真っ直ぐに叩き付けられる。
その切っ先は白い少女に迫っている。
「くっそおぉぉ!」
火事場の馬鹿力か、無駄な足掻きか。それでもやっと動いた脚は地面を蹴り出して……、必死に少女を庇っていた。
「お……」
少女の素っ頓狂な間抜けな声が聞こえる。
「あぁ……」
最期に聴こえた自分の声。人の最期って案外素っ気ないんだな……。
遅れて背中にやって来た激しい痛み。しかし悶える気力もない。ただ背中を伝う生温いものが雨に流され、冷えていく感触が蠢いていた。
「なんで私を庇ったかなあ……」
遠退く意識の中、白い少女がそう呟いたのが見えた。
不思議な少年だ。
少女の第一印象はもれなく的を射ていた。
名も知らぬ少女を、名も知らぬ少年が命を賭けて守る。
フィクションの中だけの出来事ではなかったのだ。
それでも目の前で人が死ぬのを捨て置くのも具合が悪い。
幸運なことに、この少年は少女が救って意味のある少年であった。
「まだ息はあるよね」
目分量で少年の生死を確認すると、少女は深く息を吸い込んで、跳ねた。
「えいっ」
突然飛び跳ねた少女は次の瞬間に姿を消した。
そして少年の背中を引き裂く瀕死の怪我も、出血も綺麗さっぱりなくなっていた。
まるで時が巻き戻ったかのように……。
王太郎がそのことに気付くのは、魔獣の群れが一掃されてから後のこと。
人の体から血が溢れようが、それが完治しようが、お構い無しなのが魔獣という化物である。
サンショウウオを引き伸ばしたような魔獣はグゥグゥと喉を鳴らす。
傷が治ったなら、また傷付ければいいだけ。
そんな思考回路があるはずもないが、本能のままに巨腕を再び振り上げる。
魔獣がさっきよりも力強く腕が振り降ろすのと同時に、隕石でも落下したような爆音が辺り一帯に響いた。
その衝撃は王太郎を襲っていた魔獣にのしかかる。
舞い上がる粉塵。
ひび割れる道。
潰れた魔獣と飛散する赤い血。
跡形もなく魔獣を潰した落下物は二本の脚でしっかりと立ち上がる。
「やり過ぎちった……」
足元の肉片を眺めたそいつは呟いた。
そいつはヤマト魔導学園の制服に身を包んでいた。ただ、その制服もたった今しがたカラーチェンジした。
血に染まった男子生徒は、両手にぶら下げた他の魔獣の頭を乱雑に投げ捨てる。
そしてたった今踏み潰した魔獣の側に倒れる王太郎を見つけた。
身を屈めて王太郎の生死を確認する。
「生きてる? ……多分生きてる」
大雑把な判断と共に倒れている王太郎を見捨てた。
死んでても、死にかけでも別にいっか。
男子生徒はドライな思考とともに、爆音に振り向いた魔獣の群と対峙する。
眼前を埋め尽くす魔獣のカーペットは不気味に波打つ。
男子生徒は笑った。
「相変わらず、うじゃうじゃとうぜーな。お前ら二分もかからねーよ」
不敵に飛び出した男子生徒は、群がる魔獣の中へ消えていった。
眠りから覚め、見上げた白い天井。真新しいLEDが光る。どうやら俺は保健室のベッドで横になっているようだ。
「やっと起きたか」
目を覚ました俺に聞き覚えのある鋭い声がかけられた。その声のする方へ首を動かすと、そこには担任の二騎先生がいた。
「どうしてお前は魔獣の群れの中で倒れていたのだ」
「どうして、って……。それは先生に使わされて、それで……」
体を起こしながら返答するが、当の二騎先生は立ち上がってどこかへ向かう。まさかのスルー!
「何はともあれ今回は運よく無傷だったが、次は少しでも化物たちに一矢報いられるようになることだ」
「……はい」
二騎先生の戒めに素直に頷く。魔導師になって魔獣を倒すために学園に通っているのに、何も出来なかった。
まだ魔導を修得していないとは言え、衝撃としては十分に強かった。
「そう言えばあの魔獣たちは? 他に居た人は……?」
俺の問いかけに対して二騎先生は眉間にシワを寄せる。
「生徒A、あたしに質問する気か?」
「当事者として、気になるので」
なぜここまで強気に言えたのかは分からない。だが、俺の頭にはあのときにいた白い少女があった。
二騎先生は溜め息とともに口早に言い放つ。
「襲撃された施設にはまだ人は入っていなかった。よってお前以外の被害者はゼロ。そして化物は一匹漏れなく全滅した」
二騎先生の回答を頷きながら飲み込む。
……被害者はゼロ?
俺の頭に引っ掛かったものを問いかける間もなく二騎先生は扉に手をかける。
「お前も早く寮に戻れ。部屋割りと鍵は横に置いてある」
それだけ言い残して二騎先生は部屋を出ていく。
「……あの女の子はどこに行ったんだろう?」
気になることを口ずさみながら鍵と部屋割りの書かれた紙を手に取る。
ここヤマト魔導学園は全寮制である。
学園の土地自体が都市部から離れた臨海部にあり、俗世からの脱却と派手な修練が周囲に気兼ねなくできるようになっている。土地がだだっ広いのは言うまでもない。
特に荷物のない俺は鍵と紙を持って部屋を出る。
そのとき、二騎先生の言葉が引っ掛かった。
「俺は、無傷?」
俺はあのとき、確かに魔獣に背中を引き裂かれた。出血だってしてたはずだ。間違えることはあり得ない。なのに無傷?
「うーん……。さすが魔導学園と言うべきか、事態が早速こんがらがってきた……」
自分で言うのもなんだが、俺は頭はよろしくない。とっくに俺の脳ミソの処理能力を越えた事態に、一つの判断を下す。
「諦めて部屋行くか」
一旦忘れよう、そうしよう。必要なときに考えよう、そうしよう。……必要なときって今じゃね?
とりあえず今は頭の中に校内の地図を展開する。
おぼろ気な記憶の地図を頼りに出口を目指す最中、正面から来た男子生徒とすれ違った。
微かに鼻を突く生臭い臭いに俺は眉をひそる。そしてすれ違った生徒の背中を目で追った。
「変なやつもいるもんだ」
すぐに進行方向へ視線を戻した。
雨上がりの夕暮れの光が窓から校舎へ射し込んでいる。
そして帰るヤマト魔導学園寮。その寮の前に辿り着いたのだが……。
「“何プラザホテル”だよ」
豪華さを醸し出す赤い絨毯にシャンデリア。まるで一流ホテルのロビーだ。高級万歳。
学生寮にしては力の入れ所を間違っている気がするが、設備が整っているなら文句はない。
「俺の部屋は……」
渡された紙を片手に自室へ到着した。
扉を開いて部屋に入る。すると目の前には格別な空間が広がっていた。
二人相部屋の部屋にはシワ一つないフカフカのベッドに、高級ならではの橙の灯り。寮の部屋とは思えない部屋はもはや異空間だ。
「すげぇ……。恐れ多くて休まらねぇよ」
俺が部屋を一通り漁り終えると、洗面所から物音が聴こえた。どうやら誰かいるようだ。同居人なら挨拶しないとな。
「よう、俺もこの部屋で暮らすんだ。よろしく……、な……?」
洗面所の扉を開けて対面する同居人。
風呂上がりの水に濡れた艶やかな体は無駄な肉がなくよく引き締まっている。湯気の上がる頭にタオルをかけたままの相手は丁度パンツを引き上げたところらしい。その慎ましやかな胸はスポブラに収まり、背の高さは俺とほぼ変わらない。
「え……、王、太郎?」
「よ、よう紗耶……さん」
目の前にいるのは風呂上がりの幼馴染み、宇佐美紗耶。
紗耶は細い腕で体を隠しながらも、耳まで真っ赤にしている。
「わわ悪い紗耶! 命ばかりはお助けを!」
「うぅぅぅわぁぁぁ! 死ね王太郎!」
しかし紗耶はただの女子高生ではない。そのスリムな体には空手有段者としての実力が秘められており、しなやかな脚から繰り出される蹴り技は師範代までも沈めた逸話も持つ。
「王太郎、覚悟!」
「ぎゃぁぁぁ!」
大ぶりの枝がぶつかったかのような衝撃が脇腹に走る。
わたくし朝臣 王太郎。その後の記憶は、ありません。
──そうして俺の長い入学初日は終わった。