Ⅳ:サイレントナイト
【第四回のお題とテーマ】
・禁則事項……二人称のみで執筆(一人称と三人称の使用禁止)
・テーマ……静寂
――あなたは神を信じますか?――
それとも、無神論者? 或いは、不可知論者?
え? じゃあ僕はどうなんだって?
それは……分からない。
僕には元々、“神”という概念がない。いや、なかったと言うべきかな。
じゃあ哲学的な事はひとまず後にして、これならどうだろう?
君はペットを飼った事はある? それとも現在、飼育中?
僕はね。一度捨てられて保健所に入っていたんだよ。
君には分かるかい? 突然与えられる不安、恐怖がどんなものなのか。
僕が初めて保健所に連れて来られた時、そこがどんな場所なのかさっぱり分からなかったけど、重い鉄ドアを開けられた瞬間飛び込んできた光景は、今でも忘れない。
みんな混乱していた。怯えていたんだ。狂っている犬もいた。みんな理由を知らない。だけど伝わるんだ。言い知れぬ絶望感。全身に渦巻く、違和感。
怖くなって僕も無我夢中で暴れ回ったけど、一番手前の鉄格子の部屋に放り込まれた。鉄格子の間から鼻先を押し付けて、一番奥の部屋を見たらそこにいるみんなは恐ろしい程、大人しかった。
それは諦めと虚無感と、自分達の運命を受け入れきってしまっている哀切感。
次の朝には、彼らは全ていなくなっていた。僕らを監禁している鉄格子の部屋は、左右の壁がスライド式になっていて一日経過するごとに、次の部屋へと押しやられ移動する仕組みになっていた。
奥の部屋に近付くに従って、僕は言い知れぬ恐怖で食欲すら失った。そして最奥の部屋の手前まで移動させられた日に、突然僕は外に出されたんだ。
そこには、満面の笑顔をした彼がいた。僕は戸惑ったけど、そのまま彼に引き取られた。運良く僕は、あの空間独特の恐怖から解放されたんだ。喧騒の中漂い、そして最奥の牢獄に澱み集う重苦しい沈黙の威圧から。
だけど僕は悲しい事に、人間不信になっていたんだ。
僕を引き取ってくれた彼にも、懐疑心しか持てずにいた。それでも彼は、少しずつ僕の中の不安を解してくれた。彼は“彰太”と名乗った。
今まで僕はずっと人間に飼われていた。気付いた時からそうだった。
そんな飼い主が大好きだったのに、ある日突然いなくなった。僕を保健所に置き去りにして。
だけど彰太に引き取られて、また戻ってきたいつもの日々。ごく当たり前のひととき。飼い犬としての、ペットとしての。
ただ違うのは、以前の飼い主から彰太に変わった事。
当たり前の様にご飯を貰って、散歩に行って、少しずつ馴染んでいく彰太と遊ぶ。以前の飼い主とも同じ様に過ごしてきた、普段と変わらぬ日常が戻ってきたのに。
どうしてかな。そんないつもの毎日に、突然恐怖を覚えたんだ。それは見慣れた当たり前の光景や日々に対する、未知なる不安感。なぜかそれが初めての体験の様に感じて、怖くなった僕はパニックになって道路へ飛び出したんだ。
後で知ったけど、それはジャネブと言うらしい。デジャブの反対。
多分、以前突然保健所に置き去りにされたのが原因だと思う。君には経験ある? 当たり前の慣れ親しんだ日常で、突然襲われる違和感なんだ。
気付くと僕の足元に、彼が倒れていた。血塗れの姿で。彰太は僕に言った。
「良かった……。お前が、死ななくて」
それだけを言い残して、彼は動かなくなった。彰太は僕を守ってくれたんだ。
犬である、僕なんかの為に。人間である彰太が。体を張って車の前に飛び出して、そして死んでしまった。
彼がいなくなってしまった今、僕は彰太に逢いたくて堪らない。その為だったら何だってするよ。だからどうか、僕を彰太に逢わせて下さい――。
――あなたは神を信じますか?――
僕は分からない。
でもね。今なら思うよ。それに近い存在はいるのかも知れないって。君なら何を望む? 一体何を願うんだろう。
少なくとも僕は彼を望んだ。君がこの物語を読み終わる時、僕はもうこの世にいないだろう。
だって僕は、死んでしまった彰太に逢いたいと、願ったんだから。
この、命と引き換えに。
いいんだ。彰太がいなければ僕はきっと死んでた。一度救われた命。二度目はもう充分だよ。彼がいなければ僕はいなかったもの。だから彼がいない世界にもう僕はいらない。二度目の保健所は真っ平だよ。あの日あの時、保健所で感じた重苦しい威圧的な沈黙。
でも今は違うよ。心から安らげる――穏やかな静寂。
抜け殻になった僕の肉体を、真珠色の髪をした女の人が優しく撫でてくれている。オッドアイをした赤毛の豹を傍らにして。
「星が――とても綺麗ね。オセ」
夜空を見上げ、オセという名前らしい赤毛の豹に彼女は声をかけてから、続いて僕に尋ねてきた。
「これであなたは本当に幸せなの?」
きっとそこの君も、同じ事を思っているかもね。
彰太に誘われて天へ昇る僕に向けた、彼女の黄金の瞳からは次々と涙が零れている。泣いてるみたいだ。
「ワン!」
僕は彼らへ頷く様に答えると、大好きな彰太と一緒に夜空へ姿を消した。