追放された聖女でしたが、敵国の王子は私を必要としてくれるようです
「――よって、聖女エステル・アルノーを、王家に対する叛逆の罪により国外追放とする」
玉座の間へ響いた宣告を聞きながら、エステルはしばらく言葉を失っていた。
死罪ではない。その一点だけを拾えば、慈悲深い裁定と呼べるのかもしれない。しかし、左右に並んだ貴族たちの顔に浮かぶ薄笑いと、その中央で椅子に深く腰掛けている第四王子フィリップの満足そうな表情を見れば、そこに慈悲など欠片もないことくらい分かった。
「……叛逆、でございますか」
ようやく絞り出した声に、国王ではなく宰相が答えた。
「そうだ。フィリップ殿下のお命に関わる治療を任されながら、聖女としての責務を果たせなかった。そればかりか、治療後には殿下の容態を一時的に悪化させている。王族の生命を危険に晒した以上、単なる失敗では済まされぬ」
「ですが、私は殿下を害そうとしたわけではございません。魔力回路に生じていた閉塞を解くため、可能な限り慎重に施術を――」
「結果として失敗したではないか」
言葉を遮ったのは、当のフィリップだった。
第四王子という立場でありながら、王族として甘やかされて育った彼は、病み上がりとは思えないほど尊大な態度で脚を組み、エステルを見下ろしている。数日前まで高熱にうなされ、まともに立つことさえできなかった男と同一人物とは思えないが、それも当然だった。
結局、彼の症状を抑えたのはエステルではない。
北方から招かれた高位治癒術師が、王家秘蔵の霊薬を惜しみなく使い、数日がかりで熱と痛みを鎮めたのである。
「そなたには一度、機会を与えた。聖女ならば治せると皆が期待したにもかかわらず、結果はこの有様だ」
「殿下の病は通常の負傷や疾病とは異なります。魔力回路そのものが長期間にわたって圧迫されており、一度の施術だけで完全に治療するのは難しく――」
「言い訳はもうよい」
フィリップは面倒そうに手を振った。
与えられた機会は、本当に一度きりだった。
診察を許されたのは半刻にも満たず、しかもフィリップ本人が「痛い」「苦しい」「もうやめろ」と騒いだことで治療は途中で中止された。それでも聖力を流し込んだ直後、一時的に症状が強く現れたことだけが切り取られ、エステルが治療に失敗したという結論だけが残った。
本来なら、もう一度だけでも状態を確認させてほしかった。
施術の途中で魔力回路が強く反応したことは、悪化ではなく回復へ向かう兆候だった可能性が高い。少なくともエステルにはそう見えたし、それを確かめるために再診を願い出たのだが、二度目の機会は与えられなかった。
「しかしまあ」
列席していた侯爵の一人が、わざとらしく嘆息した。
「歴代の聖女であれば、王族一人の病くらい祈り一つで退けたと記録にはある。今代は随分と、慎ましい奇跡しかお持ちでないようですな」
周囲から、小さな笑い声が漏れた。
「神も時には、人選を誤られるのかもしれません」
別の貴族が重ねる。
エステルは何も言わなかった。
聖女に選ばれてから八年、似たような言葉には何度も触れてきた。
奇跡と呼ばれるほど派手な治癒ができるわけではない。欠損した腕を瞬く間に生やせるわけでも、死の淵にある者を一息で蘇らせられるわけでもない。傷を塞ぎ、病を和らげ、毒を薄めることはできるが、そのどれもが地味で時間を必要とした。
だから、歴代最弱。
陰ではずっと、そう呼ばれていた。
それでも、自分にできることを続けてきたつもりだった。
王都に疫病が流行った年には、三日三晩ほとんど眠らず患者を診た。水害のあった南部では泥の中を歩き回り、避難民の傷を治した。辺境で魔物に襲われた騎士たちを救うため、夜通し祈ったこともある。
けれど、誰かが死ねば力不足と言われ、全員が助かれば当然だと言われる。
聖女とは、そういうものなのだと自分に言い聞かせてきた。
「最後に申し上げます」
エステルは静かに顔を上げた。
「フィリップ殿下の症状は、まだ完治しておりません」
玉座の間が僅かにざわめき、フィリップの眉が吊り上がった。
「何だと?」
「今は霊薬によって症状が抑えられているだけです。魔力回路の閉塞そのものは残っている可能性がありますので、できれば今後も定期的な診察を――」
「貴様!」
フィリップが椅子を蹴るように立ち上がった。
「最後の最後まで私を病人扱いするつもりか! そんなに自分の失敗を認めたくないのか!」
「そういう意味ではございません。私はただ、再発の危険が――」
「もうよい!」
怒鳴り声が広い空間に反響する。
宰相は止めるでもなく、むしろ呆れたような顔でエステルを見ていた。
「聖女エステル。判決は覆らぬ。王家は十分な温情を示したのだ。命まで奪われなかったことに感謝し、速やかにこの国を去るがよい」
「……承知いたしました」
十分な温情。
その言葉の本当の意味を、エステルが知るまで時間はかからなかった。
判決が下されたその日のうちに、彼女は王城の地下へ連れていかれた。
国外追放と聞いていたので、てっきり国境まで馬車で送られるものだと思っていた。ところが案内された先にあったのは厩舎でも城門でもなく、王城のさらに地下深く、普段なら王族と一部の近衛しか立ち入れない古い石造りの区画だった。
湿った空気の中を、何度も階段を下っていく。
壁に灯された魔導灯は頼りなく、その先に何があるのかまでは照らしてくれない。
「……あの」
前を歩く騎士へ、エステルは声をかけた。
「私は、どこへ連れていかれるのでしょうか」
騎士は足を止めなかったが、肩越しにちらりと振り返ると、口元へ隠す気もない笑みを浮かべた。
「死の門の噂くらいは、聞いたことがあるだろう?」
「……死の門?」
その名前なら知っている。
王都で暮らしていれば、誰でも一度くらいは耳にするものだ。
王家がまだ小国の一領主にすぎなかった時代から存在するとされる、古代の転移魔法陣。現在の魔術体系では再現不可能な遺物であり、王家の血によってのみ起動できるとも、建国以前の魔術師が遺したものとも言われている。
ただし、その用途について語られるものの大半は噂だった。
戦時には王族だけが逃亡するために使う。王家の秘宝を隠すための門。あるいは、二度と戻ってきてほしくない者を送るためのもの。
そして、その最後の噂だけが妙に具体的だった。
死刑にするほどではない。
しかし、国内には置いておけない。
そんな罪人にだけ開かれる、王家公認の国外追放路。
それが《死の門》。
「まさか……」
エステルの声が僅かに震えた。
騎士は今度こそ足を止めた。
通路の先に、巨大な石造りの門が立っている。
左右の柱には見たこともない古代文字が刻まれ、その中央には薄い膜のような青白い光が揺らめいていた。
「そのまさかだ」
騎士は楽しそうに言った。
「国外追放者のためにしか開かれない、ありがたい門だよ」
「行き先は……どこなのですか」
「さあな」
あまりにも軽い返答だった。
エステルは目を見開く。
「さあな、とは……」
「俺たちも知らん。門の向こうがどこへ繋がっているのか、確かめて戻ってきた者はいないからな」
「知らない場所へ、人を送るのですか?」
「そういうものだからな」
騎士は笑った。
「運がよければ、どこかの街道沿いにでも出るんじゃないか? 運が悪ければ、まあ……死の門なんて呼ばれているくらいだ。察しろ」
エステルは門の向こうを見る。
青白い膜の先には何も見えない。
光が揺れているだけで、その向こうに道が続いているのか、それとも奈落があるのかすら分からなかった。
「……これが、国外追放なのですね」
「そういうことだ」
王都を出て、新しい土地で生きろと言われたのだと思っていた。
違った。
どこへ着くかも分からない古代魔法へ放り込み、あとは勝手に生きろという話だった。
それでも、処刑ではない。
王家はきっとそう言うのだろう。
自分たちは命を奪っていない。
生き延びる可能性だけは与えた、と。
「もたもたするな」
背後にいた別の騎士が、苛立った声を上げた。
「待ってください。せめて、行き先だけでも――」
「行け!」
「ですが――」
背中に強い衝撃が走った。
「きゃっ!」
体勢を崩したエステルの身体が、そのまま青白い膜へ吸い込まれる。
一瞬、世界から音が消えた。
上も下も分からないまま、身体が落ちているのか浮いているのかすら判断できず、視界いっぱいに白い光だけが広がる。息を吸おうとしても空気がなく、声も出せないまま、身体の輪郭そのものがほどけていくような感覚に襲われた。
そんな状態が永遠に続くのではないかと思った次の瞬間、エステルの身体は硬い地面へ投げ出された。
「――っ!」
肩から転がり、土の上へ倒れ込む。
しばらく息ができず、肺が空気を求めるまま何度か激しく咳き込んでから、ようやく身体を起こした。
「……ここは」
顔を上げる。
そこに広がっていたのは、目の覚めるような草原地帯でもなければ、広く澄み渡った青空でもなかった。
空は黒々とした枝葉に覆われ、昼間だというのに薄暗い。地面には腐った葉と泥が積もり、その隙間を灰色の霧が蛇のように這っている。
鼻を刺したのは、湿った土の匂いではない。
植物だけではなく、獣の死骸と古い水、それに何か得体の知れないものまで一緒に煮詰めたような腐臭が、空気そのものに染みついていた。
エステルは思わず口元を押さえる。
「……まさか」
見覚えはない。
それでも、この光景について書かれた文献なら知っている。
人の住めない土地であり、魔物すら長く生きられず、瘴気だけが百年以上積もり続けているという場所。王国の北方、敵国ヴァルグレンとの境界に存在する禁足地。
「死の、森……?」
呟いた瞬間、背筋が冷えた。
自分は国外へ追放されたのではない。
生きて国境を越えることなど、最初から期待されていなかったのだ。
処刑台を用意する代わりに、王家は《死の門》を開いた。
その事実を理解しても、不思議なほど涙は出てこなかった。ただ胸の奥が冷えていき、これまで自分が信じていたものが静かに崩れていく感覚だけが残った。
「……進まないと」
ここに座っていても仕方がない。
エステルは立ち上がり、服についた土を払った。
死の門を通る前に渡されたのは、小さな袋一つだけだった。中には着替えが数枚と、水筒、それに硬いパンが二つほど入っているだけで、銀貨すらほとんどない。
それでも、何もないよりはましだった。
彼女は袋を肩へ掛け、森の中を歩き始めた。
数分も進まないうちに、空気の重さが増していく。
灰色の霧は単なる霧ではない。
瘴気だ。
魔力の淀みが長期間蓄積した土地に発生し、植物や獣を侵し、やがて魔物へ変える。人体にも有害で、長時間晒されれば臓器や魔力回路に障害を残すと教本には書かれていた。
エステルは胸元へ手を当て、小さく祈った。
淡い光が身体を包む。
治癒術の一種で、毒や病の進行を遅らせるためのものだ。完全に防げるわけではないが、何もしないよりはいい。
「森を抜けるまで……どれくらいなのでしょう」
答えてくれる者はいない。
エステルは歩き続けた。
しばらくすると、奇妙なことに気づいた。
最初は疲労のせいだと思ったが、自分が通った後だけ、瘴気が僅かに薄くなっている。さらに進むと、黒ずんでいた苔の一部が緑色へ戻っていた。
「……?」
しゃがんで触れてみる。
普通の苔だった。
瘴気に焼かれて脆く崩れていたはずのものが、ほんの少しだけ水分を取り戻している。
「私が、何か……?」
考えてみたが、心当たりはない。
いま使っているのは、自分の身体を守るための簡単な治癒術だけだ。周囲へ影響を与えるような術式ではなく、まして土地そのものを回復させる力など習った覚えもない。
疲労で見間違えたのだろう。
そう結論づけ、エステルは立ち上がった。
さらに森の奥へ進む。
しかし、異変は続いた。
彼女が踏みしめた場所から瘴気が薄くなり、腐っていた草が僅かに頭を起こしていく。泥のように濁っていた水溜まりの表面からも黒い膜が消え始めていたが、当のエステルには、その一つ一つを確かめる余裕がなくなっていた。
身体が重い。
いくら治癒術で抵抗しても、濃すぎる瘴気を完全に遮断することはできない。加えて朝からまともに食事もしていなかったため、やがて足がもつれ、エステルは木の根に躓いた。
「きゃ……っ」
地面へ手をつき、荒い息を吐く。
もう、どれくらい歩いたのか分からない。
空は木々に塞がれているが、周囲は明らかに暗くなっていた。
このまま夜を迎えれば、終わる。
分かっているのに、脚が動かなかった。
「少しだけ……休めば」
背中を太い樹幹へ預ける。
ひどく冷たい木だった。
目を閉じると、今日一日の出来事が頭の中へ浮かんでは消えていく。
叛逆罪を言い渡され、聖女の資格を奪われ、死の門をくぐらされ、気づけば死の森に一人きりで捨てられている。
「私、本当に……そんなに役に立たなかったのでしょうか」
誰に聞くでもなく、呟いた。
返事がないのは当然だった。
王都では毎日誰かが訪ねてきた。
怪我を治してほしい、病人を診てほしい、子供の熱が下がらない、兵士が魔物に噛まれた、井戸の水で体調を崩した。もう休みたいと思った夜もあったが、それでも誰かが待っていると思えば起き上がれた。
今は誰もいない。
自分を必要とする人間など、もう一人もいない。
「……もう、いいのかな」
その言葉が口から出てしまった瞬間、エステルはほんの少しだけ笑った。
聖女がそんなことを言ってはいけない。
そう思ったが、もう聖女ではなかった。
資格も剥奪されたのだから、これくらいの弱音なら許されるのかもしれない。
そのとき、背後から木材が軋むような音が響いた。
エステルは顔を上げる。
風は吹いていない。
それなのに、目の前の枯れ木がゆっくりと揺れていた。
疲労で目がおかしくなったのかと思ったが、違う。
根が動いている。
土の中から黒い根が何本も持ち上がり、それを脚のように使いながら、一本の巨木がゆっくりと地面から抜け出していく。幹の中央には大きく裂けた空洞があり、その奥で赤黒い光が二つ灯っていた。
「魔物……」
知識の中から、該当するものを探す。
瘴気に長年晒された樹木が魔物へ変じた存在。
《屍樹》。
枝を腕のように動かし、根によって獲物を捕らえ、死骸を養分として取り込む魔物だ。
エステルが立ち上がろうとすると、別の方向からも軋む音が聞こえた。
一体ではない。
二体、三体と、周囲の枯れ木が次々に動き始め、そのさらに奥でも木々が不自然に揺れている。
囲まれていた。
「……困りましたね」
そう口にしてみたものの、声は震えていた。
戦闘訓練など受けていない。
結界術はいくつか扱えるが、今の魔力量では何体も相手にできず、何より逃げるだけの体力すら残っていなかった。
屍樹の一体が長い枝を持ち上げる。
先端は槍のように尖っていた。
死ぬ。
不思議なほど冷静に、そう思った。
王都から捨てられ、誰にも知られず、この森で死ぬのだろう。
もちろん怖かったが、同時に、もう抗わなくてもいいのだと思ってしまった。
エステルは目を閉じる。
枝が空気を裂く音が迫った、その直後だった。
激しい金属音が鳴り響く。
「伏せろ!」
低い声が飛んだ。
エステルは反射的に身体を縮める。
頭上を鋭い風が通り過ぎ、次の瞬間、目の前にいた屍樹の枝が根元から切断されて地面へ落ちた。
目を開いたエステルの前に、一人の騎士が立っていた。
全身を覆うのは、艶を抑えた黒い甲冑。
胸当てから籠手に至るまで実戦向けに作られた重厚な装備で、その表面には細かな傷がいくつも刻まれている。頭部もまた黒い兜で完全に覆われており、額から頬当てにかけて青白い魔術印が淡く明滅していた。
瘴気を防ぐための術式なのだろう。
顔はまったく見えない。
体格から男性らしいことは分かったが、年齢すら判断できなかった。
「立てるか?」
兜の奥から声が響く。
「……はい。たぶん」
「なら、俺の後ろへ下がれ」
黒い騎士はそれだけ言うと、迫ってきた別の屍樹へ踏み込んだ。
重厚な甲冑を着ているとは思えないほど速い。
横薙ぎの一撃で枝を払い、その勢いを殺さぬまま長剣を幹の奥深くまで叩き込む。並の生物なら、それだけで致命傷だったはずだ。
しかし、屍樹は止まらなかった。
裂けた幹の内部から黒い霧が滲み出し、傷口を埋めながら急速に形を取り戻していく。
「やはり、この辺りの個体は再生が早いか」
騎士が低く呟く。
別の屍樹が背後から根を伸ばした。
「危ない!」
エステルが叫ぶ。
黒い騎士は身体を捻って避けたが、完全には間に合わなかった。
鋭い根が左腕を掠め、黒い籠手と上腕部を覆う装甲の隙間を裂く。
「っ……!」
わずかに覗いた皮膚を見て、エステルは息を呑んだ。
傷そのものよりも、腕へ広がっている黒い痣のほうが気になったからだ。
瘴気による侵食。
しかも、今できたものではない。
「その腕……!」
「後だ!」
騎士が叫ぶ。
屍樹たちが一斉に動き始めた。
一本、二本どころではなく、森の奥からさらに何体も近づいてくる。
黒い騎士は強い。
それでも、このままではいずれ数に押し切られる。
助けてもらったのなら、自分にも何かできないか。
エステルは震える脚へ力を込め、立ち上がった。
「少しだけ、時間を稼げますか」
「何をする気だ」
「分かりません」
黒い兜が、僅かにこちらへ向く。
「分からない?」
「ですが、このままでは二人とも死にます。私にもできることがあるか、試したいのです」
自分で言っていて、随分と頼りない説明だと思った。
それでも黒い騎士は笑わなかった。
「……五秒でいいか」
「十分です」
「分かった。好きにやれ」
騎士が前へ出る。
剣を振るい、迫る枝を落とし、地面から突き上がる根を切り裂いていく。
エステルは胸元で両手を組んだ。
治癒術では足りない。
結界でも防ぎきれない。
ならば、自分に何ができるのか。
聖女として八年間、人を救うためだけに使ってきた力を思い返す。
傷を癒やし、病を和らげ、毒を薄める。身体の中にある悪いものを取り除き、その人が本来持っている状態へ戻していく。
そこで初めて、エステルは目の前の森そのものを見た。
木々は黒ずみ、土は腐り、水は濁っている。そして、そのすべてに瘴気が絡みついていた。
「……同じ、なのでしょうか」
人の身体が病むように、この森もまた病んでいる。
それならば。
エステルは目を閉じた。
誰かに教わった術ではなく、祈りの言葉すら思いつかないまま、ただ一つだけ願う。
どうか、この場所から苦しみが消えますように。
次の瞬間、まぶしい光が溢れた。
「――っ!」
黒い騎士が振り返る。
エステルの足元から淡い白金の光が広がり、円を描くように森の中を駆け抜けていく。
光に触れた瘴気が消えた。
黒い霧が薄れるのではなく、最初からそこに存在していなかったかのように跡形もなく消滅していく。
屍樹たちが動きを止めた。
幹の奥で灯っていた赤黒い光が失われ、黒ずんでいた木肌がみるみる色を変えていく。
やがて全身が白く乾き、次々と音を立てて崩れ落ちた。
一体だけではない。
周囲にいた屍樹すべてが、同時に力を失っていく。
その先では腐り果てていた地面から、小さな緑色の芽が顔を出した。
エステルは呆然とそれを見つめる。
「……え?」
何が起きたのか、自分でも分からない。
黒い騎士も動かなかった。
先ほどまで漂っていた瘴気が消え、鼻を刺していた腐臭もなくなっている。濁っていた水溜まりは底まで見えるほど澄み始め、枯れていた苔は少しずつ緑を取り戻し、死んでいたはずの土から細い草が顔を出していく。
「……ありえない」
兜の奥から、掠れた声が漏れた。
「どうされました?」
「どうしたも何も……」
黒い騎士は周囲を見回し、やがて自らの兜へ手を掛けた。
側頭部に指を添えると、刻まれていた魔術印が一つずつ光を失っていく。
瘴気を遮断するための術式だったのだろう。
もう必要がないと判断したらしい。
金具が外れる音がして、黒い兜がゆっくりと持ち上げられた。
その下から現れた顔を見て、エステルは思わず目を瞬かせた。
思っていたよりも、ずっと若い。
黒に近い濃い銀髪は兜の中で僅かに乱れ、額へ数本が落ちている。鋭さを感じさせる灰青色の瞳と、軍人らしい引き締まった輪郭を持ちながら、顔立ちそのものは驚くほど端正だった。
随分と、整った人だ。
そんな場違いな感想が一瞬だけ浮かび、エステルは慌てて頭の隅へ追いやった。
兜を脇へ抱えた騎士は、こちらを見ることすら忘れたように、浄化された森を見つめている。
「この森が……浄化されている」
「浄化?」
「それも、この規模で」
彼は地面へ膝をつき、芽吹いたばかりの草へ指先で触れた。
「百年以上だ」
「……はい?」
「この森は百年以上、誰にも浄化できなかった」
エステルは瞬きをした。
「そんなに?」
「ヴァルグレンでは《嘆きの森》と呼ばれている。百年前の戦争で生まれて以来、年々領土を侵食し続けてきた。何十人もの高位術師を投入しても、せいぜい拡大を遅らせるのが限界だった」
知らなかった。
王国では、ただ《死の森》とだけ教えられていた。
人が住めず、魔物すら長く生きられない危険な土地。それ以上の説明を聞いたことはない。
黒い甲冑の騎士は、エステルの足元を見る。
そこには、先ほどまで存在しなかった小さな白い花が咲いていた。
「……あなたは何者だ」
警戒するような問いではなく、純粋に答えを求めているようだった。
エステルは少し迷った。
もう、その肩書きを名乗る資格などないのかもしれない。
それでも他に説明できるものを持っていなかった。
「エステル・アルノーと申します。今日まで、隣国で聖女を務めておりました」
「今日まで?」
「叛逆罪で国外追放になりましたので」
灰青色の瞳が僅かに細められる。
「叛逆?」
「はい。王子殿下の病を治せませんでした」
自分で口にすると、改めて情けない話だった。
エステルは小さく笑った。
「私は歴代の聖女と比べても、随分と力が弱いそうです」
騎士はしばらく黙っていた。
何か失礼なことを言っただろうかと思った直後、彼は低い声で尋ねた。
「誰が言った」
「……え?」
「誰が、あなたを弱いと言った?」
エステルは答えに詰まった。
「皆様……でしょうか」
青年――そう呼んでも差し支えない年齢だと、今なら分かる――は眉間へ指を当てた。
何かを堪えるように、一度深く息を吐く。
「あなたの国では、百年間誰にもできなかったことを一瞬で成し遂げる人間を、弱いと呼ぶのか」
「ですが、私は治療にも失敗しましたし……」
「先ほどから話がまったく噛み合わないな」
少しだけ呆れたように言って、青年は兜を腰の留め具へ掛けた。
その動きで左腕の装甲がずれ、先ほど見えた黒い侵食痕が再び露わになる。
「見せてください」
考えるより先に、エステルは彼へ近づいていた。
「何を?」
「腕です。瘴気に侵されています」
「これはいい。今すぐ命に関わるものでは――」
「駄目です」
思わず強く言ってしまった。
青年が僅かに目を見開く。
「放置すれば魔力回路まで侵食します。すでに相当長い間、この森へ入っていますね?」
「……よく分かるな」
「これでも、一応は聖女でしたので」
エステルは籠手の留め具を外してもらい、露わになった腕へ手を添えた。
触れられた青年の身体が一瞬だけ強張ったが、彼女は気づかないまま傷口へ意識を集中させる。
「少し熱く感じるかもしれません」
治癒術を流す。
いつもの感覚だった。
傷を塞ぎ、毒素を押し流し、身体が本来持っている状態へ戻していく。
数秒後、青年が息を呑んだ。
「……待て」
「痛みますか?」
「違う」
彼はエステルの手元を見た。
黒い侵食痕が消えている。
皮膚には、先ほど屍樹に裂かれた傷跡すら残っていなかった。
「……消えた」
「はい。治りました」
「治った、ではない」
青年がエステルを見る。
「これは十年近く蓄積した瘴気だ。宮廷医にも、高位治癒術師にも除けなかった」
「十年……?」
今度はエステルが驚いた。
「そんなものを放置していたのですか!?」
「放置していたわけではない。治せなかったんだ」
「でも今、普通に……」
二人で見つめ合う。
しばらくして、青年が小さく笑った。
兜の下では分からなかったが、その表情は思ったより柔らかい。
「なるほど」
何がなるほどなのか、エステルには分からない。
青年は姿勢を正すと、胸へ手を当てた。
「名乗るのが遅れた。俺はレオナルド・フォン・ヴァルグレン。この国の第二王子だ」
エステルの思考が止まった。
「……王子?」
「ああ」
「ヴァルグレンの?」
「この森で黒い甲冑を着て歩いている他国の王子が、そう何人もいるとは思えないが」
敵国の第二王子。
しかも、自分を国外追放へ追い込んだ第四王子フィリップより、明らかに王位に近い立場の人間だった。
エステルは、自分が何をしたのかをようやく理解する。
叛逆罪で追放されたその日のうちに、敵国の第二王子へ治癒魔法を使ってしまったのである。
「あの」
「なんだ」
「今の治療、やはり反逆罪が増えたりしますか?」
レオナルドは数秒黙った。
それから、耐えきれなかったように吹き出す。
「あなたは随分と面白いことを気にするな」
「私としては、今日だけで二度も叛逆罪になるのは避けたいのですが……」
「安心しろ。少なくとも我が国では、人を助けても叛逆罪にはならない」
「そうなのですね」
「普通はそうだ」
どうやら、常識らしい。
エステルが少しだけ安心していると、レオナルドは改めて彼女の背後へ広がる森を見た。
先ほどまで死に絶えていた場所には、ほんの僅かではあるが確かに緑が戻り始めている。
「エステル」
「はい」
「あなたに頼みたいことがある」
その表情から、先ほどまでの笑みが消えた。
一国の王子としての顔だった。
「我が国は百年、この森に土地を奪われ続けてきた。村が消え、畑が腐り、多くの兵士が瘴気に侵された。俺もその一人だ」
エステルは黙って聞く。
「今日も森の侵食が急激に進んだという報告を受け、部隊を率いて調査に入っていた。途中で屍樹の根が一斉に隆起し、部下たちとは分断されたが、その先で奴らが同じ方向へ集まっていることに気づいた」
「同じ方向……」
「あなただ」
レオナルドは、崩れ落ちた屍樹へ視線を向けた。
「おそらく奴らにとって、あなたの力は天敵なのだろう。だから森中から集まり、あなたを排除しようとした」
「私を……」
「そして実際、あなたはそれだけのことをした」
彼は浄化された地面を示した。
「あなたの力があれば、百年続いたこの森の侵食を終わらせられるかもしれない」
胸の奥が僅かに動いた。
必要だと言われた。
今日、初めて。
それでも、その言葉を素直に信じるには、あまりにも多くのことがありすぎた。
「……私に、そのような力があるのでしょうか」
「ある」
即答だった。
迷いがまるでない。
「少なくとも、俺は今、この目で見た」
レオナルドはエステルの足元に咲いた白い花へ視線を落とし、それから再び彼女を見た。
「ただし、勘違いはしないでほしい。あなたの力を必要としているからといって、あなた自身を拘束するつもりはない」
「え?」
「あなたは追放されたのだろう。なら、これからどこへ行くかを決める権利はあなたにある」
そんなことを言われるとは思わなかった。
聖女になってから、自分の行き先を自分で決めたことなどほとんどない。求められれば赴き、命じられれば治療をすることが当然だった。
「まずは森を出よう」
レオナルドが手を差し出す。
「部下たちとも合流しなければならないし、ここで話を続けていれば、別の屍樹が寄ってくる可能性もある」
エステルはその手を見つめた。
敵国の第二王子。
本来なら、最も警戒すべき相手なのかもしれない。
それでも今日、初めて自分の力を見て、「弱い」と言わなかった人でもあった。
黒い甲冑に包まれた身体とは対照的に、差し出された手は何も強制していない。
エステルは少し迷ってから、その手を取った。
「よろしくお願いいたします、レオナルド殿下」
「ああ」
彼の手は温かかった。
二人が歩き出した背後で、死んでいた森に小さな風が吹く。
白い花が揺れ、その周囲から新しい芽が次々と顔を出していた。
それが百年続いた《嘆きの森》の終わりの始まりであり、追放された聖女エステルの人生が初めて彼女自身のものへ変わっていく瞬間であることを、このときの彼女はまだ知らなかった。
◇
森の奥から、複数の金属音が近づいてきた。
枝を払い、根を踏み越えながら進んでくる音は一つではない。やがて木々の隙間から姿を現したのは、レオナルドと同じ黒い甲冑に身を包んだ騎士たちだった。
全員が、瘴気を遮断するための黒兜を深く被っている。
先頭を走っていた騎士は、エステルたちの周囲へ広がった緑を目にした瞬間、目に見えて動きを鈍らせた。
「……なんだ、これは」
兜越しの声が低く響く。
他の騎士たちも次々と足を止めた。
黒く腐っていたはずの土には若草が芽吹き、瘴気に覆われていた空気は驚くほど澄んでいる。ほんの少し離れれば再び灰色の霧が漂っているだけに、この一帯だけが森の中から切り取られた別世界のようだった。
「殿下!」
誰かが叫び、騎士たちが一斉にこちらへ駆け寄ってくる。
「ご無事でしたか! 先ほどの魔力反応は――」
そこで、言葉が途切れた。
全員の視線がレオナルドへ向いている。正確には、その顔へ。
「……殿下?」
「なんだ」
「兜は?」
レオナルドは腰へ掛けた黒兜を一瞥した。
「外した」
「それは見れば分かります!」
先頭の騎士が血相を変えているのが、兜越しでも伝わってくる。
「なぜ外しているんです! ここは嘆きの森ですよ!?」
「もう、この辺りには瘴気がない」
「だからといって――」
騎士は途中で言葉を止め、周囲を見回した。どうやら、ようやく異常を実感したらしい。
兜に刻まれた魔術印へ触れ、それから慎重に留め具を外す。露わになった顔は、驚きに固まっていた。
「……本当に、ない」
深く息を吸っても、咳き込むこともなければ喉を押さえる様子もない。
「瘴気が……消えてる?」
「そのようだ」
「いやいやいや、殿下。そのようだ、ではありませんって」
後ろにいた別の騎士が、慌てて兜を持ち上げた。
明るい栗色の髪が現れる。年若い男だった。
整った顔立ちではあるが、先ほどまで命の危険がある森を歩いていたとは思えないほど表情が軽い。男は周囲の緑を眺めたあと、ようやくエステルの存在に気づいた。
「……ん?」
目が合う。
ほんの数秒、男は何も言わなかった。
やがて、ぱっと表情が明るくなる。
「殿下」
「なんだ」
「その方、どなたです?」
「先ほど森で保護した」
レオナルドが簡潔に答える。
「保護?」
「事情はあとで説明する。まずは――」
「『月明かりが地へ降りれば、きっと乙女の姿を取るのだろう』……なるほど。昔の詩人も、たまには正しいことを言う」
男はレオナルドの言葉を軽々と遮ると、妙に感心した様子でそんな一節を口にした。
「……はい?」
エステルが意味を理解できずにいる間にも、男は迷いなくこちらへ近づいてくる。
そして彼女の前まで来ると、先ほどまで森の中を駆け回っていた騎士とは思えないほど優雅な仕草で胸へ手を当て、大仰に頭を下げた。
「失礼いたしました。カイル・オルブライトと申します。殿下直属の騎士をしております」
「エステル・アルノー――」
そこまで言って、エステルは言葉を止めた。
「あ、いえ……エステルです」
口にした自分自身が、いちばん戸惑っていた。
アルノー。
生まれてからずっと使ってきた名だった。
けれど、あの国を追われた今も、自分はそう名乗っていいのだろうか。
家名まで奪われたわけではない。それでも、王国から罪人として捨てられた自分が、以前と何も変わらないように名乗ることには妙な違和感があった。
カイルはその一瞬の躊躇を深く追及しなかった。
「エステルさん」
代わりにその名だけを口の中で転がすように繰り返し、満面の笑みを浮かべる。
「お名前まで素敵だ」
「……ありがとうございます?」
「ところで、恋人はいらっしゃいますか?」
「はい?」
あまりにも自然に聞かれたため、一瞬意味を理解できなかった。
後方から、別の騎士の呆れた声が飛んでくる。
「おいカイル、また始まったぞ」
「何がまたですか。今回は本気です」
「毎回そう言ってるだろうが」
「今回は本当に本気です。一目惚れしました」
本人は至って真剣だった。
エステルはどう返せばいいのか分からず、助けを求めるようにレオナルドを見る。
なぜか、彼の眉間には先ほどまでなかった皺が寄っていた。
「カイル」
「はい、殿下」
「やめろ」
「何をです?」
「口説くな」
カイルが目を瞬かせる。
「まだ名前と恋人の有無を聞いただけですが」
「その先へ進むつもりだろう」
「もちろん」
「なら、なおさらやめろ」
低い声だった。怒鳴っているわけではないが、有無を言わせない響きがある。
カイルは少し驚いたようにレオナルドを見る。
エステルは、そのやり取りを別の意味に受け取った。
自分は敵国から追放されてきた罪人であり、つい先ほど森の中で拾われたばかりの身である。そんな人間が第二王子直属の騎士と馴れ馴れしく会話するのは、好ましくないのだろう。
「……申し訳ございません」
エステルは頭を下げた。
レオナルドが怪訝そうにこちらを見る。
「なぜあなたが謝る?」
「私の立場を考えれば、軽々しく殿下の部下の方と親しくするべきではありませんでした。今後は、身の程を弁えて――」
「そういう意味ではない」
レオナルドは少し強い口調で言った。
エステルが顔を上げる。
「あなたに非はないし、身の程を弁えろなどと言った覚えもない」
「ですが、私は敵国から追放された罪人です」
「それはあなたの国での話だ」
レオナルドは即座に返した。
「少なくとも今、あなたは我が国で罪を犯してはいない。それに、しばらくは俺の客人として扱うつもりだ」
「客人……?」
「ああ」
その言葉が、エステルには不思議に聞こえた。
囚人でもなければ、捕虜でもない。
客人。
自分には随分と不釣り合いな響きだった。
「ですから」
カイルが横から口を挟む。
「客人なら俺が口説いても――」
「特にカイル、お前は駄目だ」
「俺だけ名指し!?」
周囲の騎士たちから笑いが起きる。
レオナルドはそれを無視した。
「彼女は先ほどまで、この森を一人で歩いていた。状況すら整理できていない人間に余計なことを吹き込むな」
「いやあ、別に結婚を迫るとかではないですよ?」
「一目惚れしたと言ったばかりだろう」
「それは本当です」
カイルはさらりと言って、エステルを見る。
「本当にお綺麗なので」
「カイル」
「はいはい。やめます、やめますって」
両手を上げながら数歩退くが、その顔にはどこか楽しそうな笑みが残っていた。
「……それにしても、ああいう殿下、初めて見たな」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言いました」
レオナルドの眉間の皺がさらに深くなる。
エステルには、なぜカイルがそれほど楽しそうなのかよく分からなかった。
騎士たちが周囲の安全を確認したあと、一行は嘆きの森から離脱することになった。
レオナルドの話によれば、本来彼らは森の侵食状況を調査するために来ていたらしい。
数日前から、通常では考えられない速度で瘴気の濃度が上がり始め、屍樹の活動範囲も拡大していた。そこで第二王子であるレオナルド自身が部隊を率い、原因を探るため森へ入ったのだという。
「王子殿下自ら、そのような危険な場所へ?」
歩きながら尋ねると、レオナルドは前を向いたまま答えた。
「この方面の防衛は俺の管轄だからな」
「ですが、王族の方が直接出向かなくても……」
「俺が最も瘴気に慣れている」
そう言って、彼は左腕を見る。
先ほどまで黒い侵食痕が広がっていた場所は、もう普通の皮膚へ戻っている。
「もっとも、その結果が十年分のこれだったわけだが」
「慣れているのではなく、我慢していただけでは?」
「……あなたは意外と容赦がないな」
「治療する側からすると、無理をする患者さんは困るのです」
そう返すと、レオナルドは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「覚えておく」
そのやり取りを少し後ろで聞いていたカイルが、何か言いたそうな顔をしていたが、今度はレオナルドに睨まれる前に黙った。
森を進むにつれて、エステルは自分がどれほど奥深くまで放り出されていたのかを知った。
レオナルドたちは地形を熟知しているらしく、瘴気の薄い道を選びながら迷いなく進んでいく。それでも森の外縁へ到達するまで、かなりの時間を要した。
やがて木々の密度が下がり、視界の先に陽光が差し込んだ。
その光を見た瞬間、エステルは思わず足を止めた。
死の森へ送られてから、初めてまともに見る青空だった。
「大丈夫か?」
レオナルドが振り返る。
「はい。ただ……空が、こんなに綺麗だったのだなと思いまして」
口にしてから、自分でも少し変なことを言ったと思った。
けれど、レオナルドは笑わなかった。
「そうか」
それだけ答えて、少し歩調を緩める。
エステルに合わせたのだと気づいたのは、しばらくしてからだった。
森を抜けた先には、石壁に囲まれた前線拠点があった。
砦というほど巨大ではないが、木造と石造の建物がいくつも並び、兵士たちが忙しく行き交っている。森から戻ってきた一行を見るなり、門番たちは安堵した表情を浮かべた。
「殿下!」
「ご無事でしたか!」
「負傷者は?」
「こちらは軽傷だけだ。だが、医務室を確認したい」
レオナルドがそう答えると、兵士の一人が少し顔を曇らせた。
「……今日また二人、侵食が悪化しました」
その言葉を聞いて、エステルの足が止まる。
「侵食?」
「嘆きの森の瘴気です」
カイルが説明した。
「俺たちは防護装備を使っていますけど、それでも完全には防げません。長くこの辺りに勤務している兵士ほど、少しずつ身体に溜まっていくんです」
レオナルドの腕と同じだ。
「診せてください」
エステルはすぐに言った。
レオナルドがこちらを見る。
「エステル」
「お願いします。私に治せるかもしれません」
「あなたは今朝から嘆きの森を歩いていたのだろう? それも、瘴気への対策もせずに。なら今日は休め」
「ですが、苦しんでいる方がいるのでしょう?」
「いる。だが、全員が今すぐ命を落とす状態ではない。今日中に処置が必要な者だけなら見てもらいたいが、明日まで待てる者は明日だ」
エステルは少し驚いた。
王国では違った。
患者がいるなら治療する。何人いようと、どれほど疲れていようと、聖女なのだから治す。
自分も、それが当然なのだと思っていた。
「……私なら、まだできます」
「できるかどうかではない。休む必要があるかどうかを言っている」
「でも、私は聖女ですから」
そう口にした瞬間、レオナルドはわずかに眉を寄せた。
「俺の国では違う」
「……え?」
「あなたは元聖女だ。違うか?」
エステルは言葉を失った。
「元……聖女」
胸の奥へ、思いがけず小さな痛みが走った。
自分で何度も、もう聖女ではないと思っていたはずだった。それでも他人の口からはっきりと「元」と付けられると、八年間のすべてまで否定されたような気がしてしまう。
「……そう、ですね」
視線が自然と下がった。
聖女ですらなくなった自分には、いったい何が残っているのだろう。
そんな考えが浮かびかけたところで、レオナルドが小さく息を吐いた。
「どうしてそこで落ち込む」
「いえ。落ち込んでなど……」
「顔に出ている」
「……申し訳ございません」
「だから、なぜ謝るんだ」
レオナルドは困ったように眉を寄せ、それから少し言葉を選ぶように間を置いた。
「俺は、あなたに価値がないと言ったつもりはない。むしろ逆だ」
エステルが顔を上げる。
「あなたを聖女という役目だけで扱うつもりはない、という意味だ。あなたの国がその肩書きを奪ったのなら、ここでまで同じものを背負わせる必要はない」
「でも、皆様は……」
周囲を見れば、いつの間にか医務室から顔を覗かせている兵士たちがいた。
先ほどレオナルドの腕から侵食を消したという話も、すでに広がっているらしい。
エステルが医務室へ入ると、三人の兵士が運び込まれていた。
いずれも腕や首筋に黒い侵食痕が広がり、一人は高熱にうなされている。エステルは一人ずつ状態を確認し、淡い光を流し込んだ。
最初の兵士の腕に広がっていた黒い痣が、ゆっくりと薄れていく。
付き添っていた医師が息を呑んだ。
「……消えている」
数分後には痣が完全になくなり、二人目も同じように治癒した。三人目は侵食が深く少し時間を要したものの、やがて呼吸が落ち着き、熱も下がり始める。
「嘘だろ……」
誰かが呟いた。
医務室の入口には、いつの間にかさらに多くの兵士が集まっている。
「侵食が消えた……?」
「殿下の腕も治したって、本当なのか?」
「この方、まさか……」
一人が、恐る恐る口にした。
「聖女……?」
その言葉を皮切りに、ざわめきが広がった。
「聖女様だ」
「嘆きの森を浄化したのも、この方なんじゃ……」
「聖女様が来てくださったんだ……!」
エステルは戸惑った。
今朝まで聞き慣れていたはずの呼び名なのに、ここで向けられるそれには畏怖と希望が入り混じっている。
「聖女様、本当にありがとうございます」
「俺たち、もう治らないと思っていました」
「他にも侵食に苦しんでいる奴がいるんです。もしよければ――」
「待て」
レオナルドの声が通った。
騒めきが止まる。
「彼女は俺が森で保護した客人だ。それ以上でも、それ以下でもない」
兵士たちが戸惑ったように顔を見合わせる。
「ですが殿下、この力は……」
「力が何であろうと、今日は客人だ。治療を頼みたい者がいても勝手に押しかけるな。彼女には休息が必要だ」
「……承知しました」
兵士たちは素直に頭を下げた。
「ありがとうございます、エステル様」
今度は聖女ではなく、名前で呼ばれた。
エステルは思わずレオナルドを見る。
彼は何も言わなかったが、僅かに満足そうな顔をしていた。
医務室を出ると、すぐに客室へ案内された。
前線拠点なので、王都の宮殿のような豪華さはない。それでも部屋は清潔で、柔らかな寝台があり、湯浴みの準備まで整えられていた。
食卓には温かいスープと焼いた肉、白いパンが並んでいる。
エステルはしばらく、それを見つめた。
「お気に召しませんでしたか?」
案内してくれた侍女が心配そうに尋ねる。
「いいえ。そうではありません」
むしろ逆だった。
自分一人のために、これだけのものが用意されていることに戸惑っている。
「私、何かお手伝いした方がよいでしょうか?」
「お手伝い?」
「食事をいただくのでしたら、その分くらいは……」
侍女は困った顔をした。
そこへ扉が叩かれる。
「入っても?」
レオナルドだった。
「どうぞ」
彼は甲冑を脱ぎ、簡素な黒い軍服へ着替えていた。
森の中では分からなかったが、改めて見ると背が高い。甲冑がない分、先ほどより少しだけ年相応に見えた。
「食事は?」
「これからいただこうと思っていました」
「そうか」
レオナルドは少し安心したようだった。
侍女へ下がるよう伝え、部屋の中へ入ってくる。
「何か問題があったか?」
「いえ。ただ……ここまでしていただく理由が、よく分からなくて」
「理由?」
「皆様は私を聖女様と呼んでくださいました。私の力が、この国のお役に立てるかもしれないことも分かりました。でも殿下は、ずっと私を客人と呼びます」
「ああ」
「なぜですか?」
レオナルドは、問いの意味を確かめるようにエステルを見た。
「私が聖女だから保護してくださったのではないのですか?」
「違う」
返事はあまりにも早かった。
「森で倒れかけている人間を見つけたから助けた。それだけだ。あなたが聖女だと知ったのは、その後だっただろう」
「……そうでした」
「その後で、あなたの力が我が国にとって途方もなく価値のあるものだとも分かった。それは事実だし、明日になれば正式に相談もしたい」
レオナルドはそこで一度言葉を切った。
「だが、それとあなた自身をどう扱うかは別の話だ」
エステルは黙って彼を見る。
「何かしなければ、食事をしてはいけないのか?」
「え?」
「誰かの役に立たなければ、部屋を使ってはいけない?」
答えられなかった。
そんなふうに考えたことすらなかった。
「あなたは今日、死にかけていた。なら食べて、眠って、身体を休めればいい。聖女だったかどうかなど関係ない」
「ですが私は、もう元聖女で……」
先ほど自分でも口にした言葉なのに、少しだけ寂しく聞こえた。
するとレオナルドは、今度こそはっきりと笑った。
「そうだ。俺の国では、あなたは元聖女だ」
やはり、ほんの少し胸が沈む。
だが、その続きを聞く前に視線を落とすことはしなかった。
「だからこそ、ここでは自由にしていい」
「自由に……?」
「聖女でなければ、毎日誰かを救わなければならない義務もない。病人がいるからといって、倒れるまで働く必要もない。少なくとも俺は、あなたにそんなことを求めるつもりはない」
レオナルドは穏やかに続けた。
「あなたは俺が森で助けた、俺自身の大切な客人だ。まずは一人の人間として扱う。それでは不満か?」
「……大切な、客人」
「ああ」
エステルは胸の前で手を重ねた。
聖女だから必要とされることには、慣れていた。
自分の力を欲しがられることも、誰かに縋られることも、それが役目だと思ってきた。
けれど、役目を果たさなくてもここにいていいと言われたことはない。
「不満では、ありません」
声が少し震えた。
「ただ……そんなふうに扱われたことが、なかったので」
レオナルドは何か言いかけ、やがて柔らかく目を細めた。
「なら、慣れてくれ」
「慣れられるでしょうか」
「時間はいくらでもある」
その言葉が、妙に温かかった。
「聖女としての話は明日だ。森の浄化についても、治療についても聞きたいことは山ほどある。だが今夜は違う」
レオナルドは食卓の椅子を軽く指した。
「今夜くらいは、聖女ではなくエステルとして休め」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。
聖女ではなく。
エステルとして。
八年間、誰にもそう言われたことがなかった。
「……はい」
エステルは小さく笑った。
「ありがとうございます、レオナルド殿下」
「食事も全部食べろ」
「全部ですか?」
「森で倒れかけていた人間が何を言っている」
「……頑張ります」
「そこは頑張らなくていい」
思わず笑ってしまった。
今日初めて、自然に出た笑いだった。
レオナルドも僅かに笑う。
「では、また明日」
「はい。おやすみなさいませ、レオナルド殿下」
「ああ。おやすみ、エステル」
扉が閉じる。
エステルはしばらく、その扉を見つめていた。
それから席につき、温かいスープを一口飲む。
身体の奥へ熱が染み込んでいく。
美味しい。
ただそれだけのことなのに、涙が出そうになった。
聖女だからではない。
役に立ったからでもない。
一人のエステルとして、ここにいていい。
そんな当たり前のことを許されたのが、どうしようもなく嬉しかった。
一方、廊下では。
「殿下」
壁にもたれて待っていたカイルが、にやにやしながら声をかけた。
「何だ」
「随分長かったですね」
「様子を確認していただけだ」
「へえ」
レオナルドは無視して歩き出す。
カイルも隣へ並んだ。
「俺、やっぱりエステルさんを口説いちゃ駄目ですか?」
「駄目だ」
「即答だ」
「お前は節操がなさすぎる」
「でも今回は本気ですって」
「なおさら駄目だ」
カイルは一瞬黙った。
それから、楽しそうに笑う。
「『俺自身の大切な客人』、ですか」
レオナルドの足が止まった。
「……聞いていたのか?」
「聞こえただけですよ。いやあ、ああいう殿下は本当に初めて見たなあ」
「忘れろ」
「無理ですね」
カイルは笑いながら先へ歩いていく。
残されたレオナルドは僅かに眉を寄せ、それから客室の扉を一度だけ振り返った。
なぜ自分があれほど即座に「駄目だ」と答えたのか。
そして、なぜ彼女を「大切な客人」と呼ぶことに何の迷いもなかったのか。
その理由を、この時の彼はまだ深く考えようとはしなかった。
◇
ヴァルグレンの前線拠点で迎えた最初の朝、エステルは窓から差し込む柔らかな朝日で目を覚ました。
誰かに呼び起こされたわけでも、治療を求める声が扉の向こうから聞こえたわけでもない。寝台の中でぼんやりと天井を見つめているうちに、こんなふうに自分から目覚めるまで眠ったのはいつ以来だろう、と考えてしまった。
王国にいた頃なら、とっくに一日の予定が始まっていた時間だった。
朝一番で教会から報告を受け、治療を待つ者の一覧に目を通し、必要とあれば王都の診療所へ向かう。地方から使者が来ていればその対応が入り、王城から呼び出されれば予定など関係なく駆けつけるのが、聖女としてのエステルの日常だった。
今は、何もない。
枕元にも今日の予定表はなく、扉を開けたところで、自分を待っている患者の列があるわけでもない。
昨日レオナルドから言われた通り、朝食を済ませたエステルは、前日に治療した兵士たちの様子だけを確認することにした。
三人とも熱は下がっており、身体を蝕んでいた黒い侵食痕も戻っていなかった。昨日までは寝台から起き上がることさえ難しかった一人など、すでに自分で食事を取れるほどまで回復している。
「聖女様、本当にありがとうございます。俺、もう右腕は駄目なんだと思っていました」
深々と頭を下げられ、エステルは咄嗟に「私はもう聖女ではありません」と訂正しかけた。
その言葉を飲み込んだのは、昨日レオナルドから言われたことを思い出したからだった。
元聖女。
初めてそう呼ばれた瞬間は、胸の中から大切な何かを一つ抜き取られたような寂しさがあった。八年間背負ってきたものを失ったのだから、そう感じるのも当然なのかもしれない。
それでもレオナルドが伝えようとしたのは、聖女でなくなった自分には価値がないということではなかった。
「……元気になられて、よかったです」
結局、エステルはそう言って微笑んだ。
兵士も嬉しそうに笑い返した。
その日の午前中に診たのは、さらに二人だけだった。
まだ治療できます、と申し出るエステルに、医師は申し訳なさそうな顔をしながら首を横に振った。
「殿下から、一日に診ていただくのは五名までと厳命されております」
「五名……ですか?」
「はい。エステル様なら、まだ十人でも二十人でも診ると言い出すだろうから、と」
どうやら性格まで見抜かれてしまったらしい。
「本当に、もう少しくらいでしたら平気なのですけれど」
「そう申されましても、私が殿下に叱られてしまいます」
真顔で返されては、それ以上無理を言うこともできなかった。
突然空いてしまった午後をどう過ごすべきか悩んでいると、昨日世話をしてくれた侍女が何冊かの本を持ってきてくれた。ヴァルグレンの歴史書に植物図鑑、それから恋物語まで混じっており、好きなものを選んでいいのだという。
エステルは少し迷った末、物語の本を手に取った。
窓際の椅子へ腰を下ろし、ページをめくる。
誰かを治療しているわけでも、何かの役に立っているわけでもない時間を過ごしていると、時折どうしようもなく落ち着かなくなった。それでも扉を叩いて仕事を命じる者は現れず、物語の主人公が舞踏会へ向かう頃には、エステルも少しずつ本の世界へ引き込まれていた。
日が傾き始めた頃、ようやく扉が叩かれた。
「エステル、起きているか?」
聞こえてきた声に、エステルは思っていた以上に素早く本を閉じた。
「はい。どうぞ」
入ってきたレオナルドは、森へ向かうときの甲冑ではなく、黒い軍服姿だった。どうやら調査から戻り、着替えてからここへ来たらしい。
「体調は?」
「もう問題ありません。お医者様にも診ていただきました」
「そうか」
それだけ確認すると、レオナルドは分かりやすく肩の力を抜いた。
「今日は森を見てきた。あなたが浄化した場所を中心に、昨日よりさらに瘴気が後退している」
「昨日より?」
「ああ。浄化された土地そのものが、周囲の瘴気を少しずつ押し返しているようにも見える。まだ断定はできないが、少なくとも悪い兆候ではない」
レオナルドは森の様子を一通り話したあと、エステルの膝に置かれた本へ視線を向けた。
「退屈だったか?」
「いいえ。むしろ……少し戸惑っていました」
「何に?」
「何もしなくてもいい時間に、でしょうか」
答えると、レオナルドは一瞬だけ目を細めた。
昨日なら、なぜ休むことに戸惑うのかと聞かれたかもしれない。今日はもう何も言わず、窓の外へ視線を向けてから穏やかに頷いた。
「なら、少しずつ慣れるといい。明日も急ぎの患者がいなければ、午後は好きに過ごせ」
「……はい」
その日は、それだけで帰っていった。
翌日もレオナルドは森へ向かった。
エステルは侵食の重い兵士を数人だけ治療し、昼からは侍女と一緒にお茶を飲んだ。
夕方になると、やはりレオナルドが顔を出した。
「昨日より東へ二十歩ほど緑が広がっていた」
「二十歩も?」
「ああ。屍樹も浄化された区域には近づこうとしない。あの辺りなら、兜を外しても問題なさそうだ」
「それでも、森の中で簡単に兜を外すのはやめてくださいね」
「……まだ言うのか」
「患者さんが無茶をしないか見張るのも、治療した者の責任ですから」
そう告げると、レオナルドは少し困ったように笑った。
「分かった。気をつけよう」
そしてまた翌日。
治療を終えたエステルが部屋へ戻ると、食卓の上に小さな花束が置かれていた。
白い花を数本まとめただけの、素朴なものだった。
「これは……?」
侍女へ尋ねると、彼女はどこか楽しそうに微笑んだ。
「レオナルド殿下がお持ちになりました」
「殿下が?」
「嘆きの森で咲いていたそうです。エステル様へ見せたい、と」
その言葉だけで、胸の奥がほんの少し温かくなった。
夕方にやってきたレオナルドへ改めて尋ねると、本人は花を贈ったという意識すら薄いのか、いつもの調子で頷いた。
「あなたを見つけた辺りに咲いていた。最初は一輪だったはずだが、今日はかなり増えていたからな」
「それで、私に持ってきてくださったのですか?」
「ああ。実際に見た方が、森が戻っていると実感できるだろう。それに……あなたなら喜ぶかと思った」
最後の一言だけ、少し言いにくそうだった。
エステルは花へ視線を落とし、その白い花弁を指先でそっと撫でる。
「嬉しいです。ありがとうございます」
「そうか」
レオナルドも、僅かに笑った。
ちょうどそのとき、開いたままの扉の向こうをカイルが通りかかった。
彼は食卓の花に気づき、次にエステル、最後にレオナルドを見ると、見る見るうちに口元を緩めた。
「殿下、毎日女性の部屋へ通って、とうとう花まで贈り始めたんですか?」
「森の状況報告だ」
「花は報告書じゃありませんよ」
「お前は仕事に戻れ」
「はーい」
素直に去るかと思えば、カイルは扉から半分だけ顔を覗かせ、エステルへ笑いかけた。
「ちなみに俺なら、ちゃんと赤い薔薇を――」
「カイル」
「今度こそ戻ります!」
逃げるような足音が廊下へ消えていく。
エステルは堪えきれず、小さく笑った。
「カイル様は、本当に楽しい方ですね」
「……そうか?」
先ほどまで穏やかだったレオナルドの表情が、なぜか少しだけ不機嫌そうになった。
「はい。お話ししていると、とても明るい気持ちになります」
「そうか」
「殿下?」
「なんでもない」
明らかに何かある顔をしていたが、本人が話したくないのなら追及することでもない。
そんな日々が、数日続いた。
エステルは毎日数人だけを治療し、それ以外の時間には本を読み、侍女と話し、時には砦の中を一人で歩いた。
最初のうちは、何か働かなければならないという焦りが消えなかった。誰かが忙しそうにしていれば手伝うことはないかと尋ね、治療室の前を通れば患者が増えていないか確認してしまう。
それでも周囲は、エステルが何もしない時間を咎めなかった。
治療した兵士は「今日はありがとうございました」と頭を下げ、医師は「続きは明日にしましょう」と当たり前のように言う。
そして夕方になると、レオナルドが帰ってくる。
今日はここまで草が増えた。
あの枯れ木から新しい芽が出ていた。
昨日より水が澄んでいた。
最初は報告だったはずの会話は、いつの間にか少しずつ長くなっていった。森の話が終わっても、今日読んだ本の話をしたり、兵士たちのくだらない騒動を聞いたり、レオナルドが幼い頃にこの辺境へ初めて連れてこられた日の話まで聞くようになった。
エステルはいつしか、夕方に廊下から足音が聞こえるたび、顔を上げるようになっていた。
その足音が自分の部屋の前で止まると、理由もなくほっとする。
そんな自分の変化について、深く考えないようにしていた。
ある日の午後、いつもより早い時間に扉が叩かれた。
「少し歩かないか?」
入ってきたレオナルドは、森帰りには見えない軽装だった。
「お散歩ですか?」
「ああ。今日は調査が早く終わった。あなたも砦の中ばかりでは飽きるだろう」
エステルは少し考えたものの、断る理由など一つもなかった。
「ぜひ」
二人で砦の門を出る。
嘆きの森とは反対方向には緩やかな草原が広がっており、その先には陽光を反射する細い川が流れていた。
風が草原を渡り、長い草を一斉に揺らしていく。
王都なら、移動には必ず目的があった。誰かを治すため、誰かに呼ばれたため、決められた場所へ時間通り到着するため。
こんなふうに目的もなく歩くこと自体が、エステルにはひどく新鮮だった。
隣を歩くレオナルドも急ぐ様子はなく、エステルが景色を見るたび、自然とその速度に合わせてくれる。
「不思議です」
ぽつりと口にすると、レオナルドがこちらを向いた。
「何が?」
「こんなにゆっくりした日々を過ごしたのは、初めてかもしれません」
「聖女だった頃は?」
「朝から晩まで、誰かを治していました」
エステルは遠くの草原を眺めながら、少しずつ記憶を辿った。
「治療が終われば次の方が待っていて、眠って起きればまた誰かが来ていました。嫌だったわけではないのです。治療を終えた方が元気になって帰っていく姿を見るのは、ずっと嬉しかったですから」
ただ、と続ける。
「立ち止まる時間がなかったのだと思います」
今になって、初めてそう思えた。
「ここへ来てからは、お茶を飲む時間があります。本を読む時間もありますし、窓の外を眺めながら、今日は何をしようかと考える時間まであるんです」
思わず笑みが浮かぶ。
「何もしていないのに、一日が楽しいと思えることがあるなんて知りませんでした」
レオナルドはすぐには答えなかった。
エステルの言葉を軽く扱わないよう、一つずつ受け止めているように見えた。
「正直に言えば、俺も似たようなものだ」
「殿下も?」
「ああ」
意外に思って見上げると、レオナルドは遠くに見える嘆きの森を眺めていた。
「森へ出れば、必ず誰かが怪我をした。屍樹に襲われる者もいれば、瘴気で倒れる者もいる。全員が無傷で戻れる日など、数えるほどしかなかった」
静かな声音だった。
「帰還したところで、次はどこまで侵食が進んだかという報告が待っている。村を移すか、森を焼くか、兵士を何人増やすか。長い間、考えていたのはそんなことばかりだった」
「……そうだったのですね」
「だが、この数日は違う」
レオナルドの表情が少し緩む。
「森へ出ても、誰も怪我をせずに帰ってくる。瘴気は昨日より薄くなり、死んでいた土地から草が生える。今日は小さな獣まで見かけた」
「動物が戻ってきたのですか?」
「ああ。俺を見るなり逃げていったが」
その言い方がおかしくて、エステルは笑った。
「殿下でも逃げられることがあるのですね」
「俺を何だと思っている」
「屍樹を何体も斬ってしまう方ですから」
「あれは逃げないからな」
二人の笑い声が、風の中へ溶けていった。
笑いが収まったあとも、どちらからともなく歩調はゆっくりしたままだった。
「毎日が驚きだ」
レオナルドが呟く。
その横顔には、冗談めいたところがなかった。
「あなたが来てから、ずっとな」
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
「それは……よかったです」
「あなたのおかげだ」
「聖女として当然の――」
反射的に出かかった言葉が、途中で止まった。
レオナルドがこちらを見る。
何も言わない。
ただ、少しだけ楽しそうにエステルを見ている。
「……言い直しても、いいですか?」
「もちろん」
エステルは少し考えてから、今度は自分の言葉を選んだ。
「私がお役に立てたなら、嬉しいです」
「うん。それでいい」
妙に優しい声音で肯定され、エステルは少しだけ視線を逸らした。
「俺も嬉しい」
「森が戻っているからですか?」
「それもある」
「それも?」
聞き返すと、レオナルドは一瞬だけ言葉を止めた。
「……それだけではない」
その先を待っても、彼は続けなかった。
「殿下?」
「あなたが来てから、俺自身も少し変わったらしい」
「変わった?」
「ああ。カイルに毎日のように言われている」
「なんと?」
「それは言わない」
「気になります」
「知らなくていい」
珍しく頑なな様子に、エステルは笑う。
そうして歩いているうちに、川辺の草むらに小さな白い花を見つけた。
「あ……」
エステルが屈み込む。
レオナルドから貰ったものと同じ花だった。
「この花、ここにも咲いているのですね」
「この辺りでは珍しいものではない。ただ、最初にあなたを見つけた場所に咲いていたものは、よく覚えている」
エステルは花から顔を上げる。
「覚えているのですか?」
「忘れると思うか?」
返事はあまりにも自然だった。
その言葉の意味を理解した瞬間、胸の奥がゆっくりと熱を帯びた。
死ぬつもりで目を閉じた日。
何もかも失い、自分にはもう何も残っていないと思っていた場所。
そこで自分を見つけた人が、そのとき足元に咲いていた小さな花まで覚えている。
エステルは立ち上がり、しばらくレオナルドの顔を見つめた。
「レオナルド殿下」
「なんだ?」
「私、少し考えていたことがあります」
自分の声が思っていたより緊張していることに気づく。
「ここへ来てから、皆様にとてもよくしていただきました。治療した方にも感謝していただいて、私の力が嘆きの森にも役立つのだと知りました」
レオナルドは何も急かさず、続きを待っている。
「だから、その……私、この国に残りたいです」
一瞬、彼の表情が止まった。
「本当に?」
「はい」
答えると、レオナルドはすぐに喜ぶのではなく、確かめるようにエステルの目を見た。
「理由を聞いてもいいか?」
「この国のお役に立てるからです」
そう答えた途端、レオナルドの眉が僅かに下がった。
「……それだけか?」
「え?」
「あなたが残りたい理由だ」
エステルは戸惑った。
「聖女として必要とされているから、この国に残るのか?」
数日前なら、迷わずそうだと答えていた。
誰かに必要とされること。
役に立つこと。
それこそが自分に価値がある証なのだと、八年間ずっと思ってきた。
今は、少し違う。
「……いいえ」
エステルはゆっくりと首を振った。
「もちろん、お役に立てることも嬉しいです。誰かを治療することも、森が戻っていくのを見ることも、これからも続けたいと思っています」
胸元へ手を添える。
「でも、それだけではないんです」
レオナルドの灰青色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「ここにいると、エステルでいてもいいような気がするんです」
口にした途端、少し恥ずかしくなった。
「何かを治していない時間も、誰かの役に立っていない時間も、私はここにいていいのだと思えるようになりました。お茶を飲んで、本を読んで、殿下が帰ってくるのを待って……」
そこまで言って、エステルは自分の言葉に気づいた。
待っている。
自分は毎日、彼が帰ってくることを待っていた。
急に頬が熱くなる。
レオナルドも何かに気づいたらしく、ほんの僅かに目を見開いた。
それでもエステルは言葉を止めなかった。
「そういう時間が、私は好きです。だから、もう少しここで生きてみたいと思いました。聖女としてではなく、エステルとして」
しばらく、風の音だけが二人の間を通り過ぎていった。
レオナルドは何も言わない。
その沈黙が不安になりかけた頃、彼の表情がゆっくりとほどけた。
「そうか」
今まで見た中で、一番柔らかな笑みだった。
「よかった」
その短い言葉に、隠しきれない安堵が滲んでいた。
「殿下?」
「あなたが残る理由が、この国に必要とされるから、だけではなくてよかった」
レオナルドが一歩近づく。
「それだけなら、またあなたは自分を使い潰すかもしれない。聖女という役目が、国を変えただけになる」
その言葉に、エステルは何も返せなかった。
きっとその通りだった。
「でも、あなた自身がここにいたいと思ってくれたのなら、話は違う」
レオナルドが手を差し出す。
初めて会った森の中でも、自分へ差し出してくれた手だった。
あのときは、この手を取っていいのか迷った。
今は、迷わない。
エステルが自分の手を重ねると、レオナルドはその指先を包むように受け取った。
握手をするのだと思った。
ところが彼は、エステルの手を離さないまま、ゆっくりと身体を屈める。
「レオナルド殿下……?」
呼びかけへの返事はなかった。
代わりに、手の甲へ柔らかな感触が触れた。
唇だった。
ほんの一瞬だったはずなのに、時間だけがそこに留まったように感じられた。
触れられた場所から熱が広がり、指先までじんとする。
エステルは声も出せず、目の前のレオナルドを見つめた。
やがて彼が顔を上げても、手はまだ離されなかった。
「我が国へ来てくれたことを歓迎する」
「あ、ありがとうございます……」
「それから」
灰青色の瞳が、今まで以上に近い。
「ここに残ると、あなた自身の意思で決めてくれたことを、俺個人として嬉しく思う」
胸が強く鳴った。
今度ばかりは、聖女として言われているのではない。
この国にとって価値があるからでも、森を浄化できるからでもない。
レオナルドという一人の人間が、自分が残ることを喜んでいる。
「……殿下」
何と答えればいいのか分からない。
顔が熱くて仕方がないのに、手を引く気にはなれなかった。
「これは、その……ヴァルグレンでは普通のご挨拶なのですか?」
ようやく尋ねると、レオナルドは僅かに言葉に詰まった。
「敬意を示す礼ではある」
「では、普通なのですね」
「いや、それは――」
「普通の客人には絶対やりませんけどねえ」
聞き慣れた声が飛んできた。
二人同時に振り返る。
少し離れた木の陰から、カイルが顔を出していた。
「カイル」
レオナルドの声が一段低くなる。
「はい、殿下」
「なぜいる」
「護衛ですよ。お二人だけで砦の外を歩かせるわけにはいかないでしょう?」
理屈は正しい。
顔がまったく護衛の顔ではなく、面白いものを見つけた子供のように輝いていることを除けば。
「いやあ、いいものを見ました」
「忘れろ」
「無理ですね」
カイルは肩を竦め、まだレオナルドに手を取られたままのエステルを見る。
「ちなみにエステルさん。俺もヴァルグレン式の歓迎を――」
「駄目だ」
「まだ手も出してないでしょう!?」
即座に遮られ、カイルが声を上げて笑った。
「ほら、それですよ。俺が前から言ってたのは」
「何の話だ」
「ああいう殿下、初めて見たって話です」
レオナルドは何も返さなかった。
ただ、エステルの手をようやく離す。
名残惜しいと思ってしまった自分に気づき、エステルはますます顔を熱くした。
森でカイルに口説かれたとき、レオナルドが妙に不機嫌になったこと。
毎日のように自分の顔を見に来たこと。
自分が喜ぶと思って、森から花を摘んできてくれたこと。
散歩に誘い、歩幅を合わせ、そして今、自分がこの国に残ると決めたことを「俺個人として嬉しい」と言ったこと。
それらを全部まとめて何と呼べばいいのか、エステルにはまだ分からなかった。
ただ、もし自分が期待しているものと同じだったなら、嬉しいと思った。
「帰るぞ」
レオナルドが少しだけ気まずそうに言う。
「はい」
エステルは笑って、その隣へ並んだ。
今度は、ほんの少しだけ距離が近かった。
振り返れば、遠くに嘆きの森が見える。
百年もの間、瘴気と腐臭に覆われ続けた死の土地には、少しずつ緑が戻り始めている。
自分も、あの森と同じなのかもしれない。
何もかも奪われ、自分には何も残っていないと思っていた。
それでも、失ったものだけが自分のすべてではなかった。
聖女でなくても食事をしていい。何の役にも立たない午後を過ごしてもいい。誰かと話して笑っていいし、その人が帰ってくる時間を楽しみにしてもいい。
そして、誰かの隣にいたいと願うことだって、きっと許される。
「殿下」
「なんだ?」
「明日も森へ行かれるのですか?」
「ああ。もう少し奥まで調査する予定だ」
「では、帰ってきたら……またお話を聞かせてください」
レオナルドは一瞬驚いたようにエステルを見る。
その意味に気づいたのか、やがて穏やかに目を細めた。
「もちろんだ。必ず帰ってくる」
「はい。お待ちしています」
その返事を口にした瞬間、エステルはもう照れて俯くことはしなかった。
明日を楽しみにできる。
誰かの帰りを待ちたいと思える。
そして、その人にも帰ってきたいと思ってもらえる。
少し前までのエステルは、そんな日々が自分にも訪れるとは想像すらしていなかった。
追放された聖女としての物語は、きっとあの死の森で終わったのだ。
これから始まるのは、聖女という名だけに縛られない、一人の女性としてのエステルの人生。
その最初の一歩を、彼女はレオナルドの隣で歩き始めていた。




