熊
文明の灯りが夜の谷を少しずつ侵食し、アスファルトの匂いが森の息吹を塗り替えていく。私たちが「境界」と呼ぶその場所で、彼らは何を抱えて立っているのだろうか。
怒りでも拒絶でもなく、ただ生命の掟に従い、静かな飢えと途方のない記憶を胸に佇む黒い影。奪われた領域の深淵を見つめながら、爪を立て、山の鼓動を刻み続けるその姿は、私たちが失ってしまった自然の厳粛な沈黙そのものである。
言葉を持たぬ獣の眼差しを通して、境界線の向こう側に広がるもうひとつの世界へと静かに耳を澄ませてほしい。
熊
アスファルトの匂いが消え
森の境界線が途切れる場所で
おまえは黒い沈黙として立っている
揺れるブナの葉擦れの下
重たい四肢に抱え込んだのは
冬を生き延びるための静かな飢えと
奪われた領域の途方もない奥行き
人々のつくる灯りが
遠くの谷を小さく焼き払う夜
おまえは獣道をひとつ折り返し
爪の先で夜の皮をゆっくりと剥ぐ
叫びもしない
拒絶もしない
ただ太い胸の奥で
忘れ去られた山の鼓動を
刻みつづけている
人間の足音が届かぬ深い闇の奥へ
おまえは大きな背を向け
静寂の毛皮を揺らしながら消えていく
踏みしめる苔の湿り気だけが
古の記憶をそっと手繰り寄せ
明けることのない夜の帳の底で
ただひとつの王として息を潜める
冷えた月光がその毛並みをなぞるとき
失われた山々は再び
おまえの呼吸の中に蘇るのだ。
静けさと境界の向こうに潜む「熊」の息遣いを感じていただけたでしょうか。
都市と野性の境界線がますます曖昧になる現代において、文明の灯りの外側に広がる不可侵の暗闇と、そこに息づく名もなき尊厳を描きたいと思い本書を紡ぎました。静かに夜を歩むその歩調に、私たちが忘れかけている自然の鼓動を重ね合わせて感じていただければ幸いです。




