第5話「おじさんは、皮を整理するのも上手いんだ」
「……はぁ、……はぁ、……はぁ……」
荒い呼吸を整えるたびに、肺がひっくり返るような錯覚に陥る。
舌ワイヤーアクションという、文字通り「命綱」一本に懸けた緊急脱出。樹上の枝に腹ばいになった煌人は、四肢の指が食い込むほど強く、樹皮を掴んでいた。
(……生きてる。……生きてるよな、俺)
数秒前、眼下で轟いた棍棒の衝撃音が耳の奥でリフレインしている。
煌人は、カメレオンの擬態能力をフル稼働させた。周囲の枝の色、影の落ち方、さらには樹皮のわずかな凹凸までもが、煌人の肌に「転写」されていく。今の彼は、どんな熟練のハンターでも見つけることはできない。文字通り、森の一部だ。
「グギィ……? ギガ、ギガァ……」
地上では、獲物を見失ったゴブリンが、マヌケな声を出しながらその場にへたり込んでいた。自分の棍棒で耕してしまった泥の地面を、不思議そうに指でつついている。
(ふぅ……。ひとまず、あっちの『タクシー』は営業終了か。急に煽り運転を始めたと思ったら、今度は乗り逃げ(獲物ロスト)かよ。商社のマナー研修からやり直してこい、この緑!)
内心で毒づき、煌人はようやく全身の力を抜いた。
助かった。もう大丈夫だ。そう、確信しかけて――。
(……いや、待て。……落ち着け、市崎煌人。まだ安心するのは早い)
脳内の「冷静な煌人」が、冷酷に待ったをかけた。
煌人の脳裏にフラッシュバックしたのは、あの美術館の最後。
必死に導線を切り、赤いデジタル数字をゼロで止めた。あの瞬間も、彼は「勝った」と確信し、安堵の微笑みを浮かべていたのだ。だが、その直後、天井を突き破って降ってきたのは、本物の「死」だった。
(……一度目の死からの教訓だ。……『止まった』と思った時が、一番危ない。……上だ。上を確認しろ!)
煌人は、独立して動く眼球をバラバラに回転させた。
片方の目で下のゴブリンを監視しつつ、もう片方の目を真上――雲一つない異世界の空へと向ける。
(……よし、爆弾は降ってこない。……じゃあ、次は周囲だ。俺を狙っている別の捕食者はいないか? この木自体が巨大な魔物の触手だったりしないか!?)
一分、二分……。
石像のように固まったまま、煌人は全方位への警戒を続けた。
心臓の鼓動が次第に落ち着き、森の平穏なざわめきだけが周囲を満たしていく。
どうやら、今回は「追い打ち」はないらしい。
(……はは。……死から学べるなんて、冷静に考えたらとんでもないな、俺。……普通の人間は、一度死んだらそれでおしまいなんだ。経験値を次に活かせるなんて、……究極のOJT(職場内訓練)かよ……)
乾いた笑いが、喉の奥で震えた。
美術館の爆死という、人生最悪の不条理を経験したことが、異世界での「異常なまでの慎重さ」という生存スキルに変換されている。
それは、かつて就活でアピールしようとしていた「ガッツ」や「適応力」よりも、ずっと重く、切実な武器だった。
(よし。……今度こそ、一安心、かな。……あとは、このままゴブリンが立ち去るのを待って――)
「……ッ、い、……いっ……!? なんだこれ!?」
安心した瞬間に訪れたのは、新たな敵の襲来ではなかった。
内側から、全身の皮膚を突き破るような、猛烈な「痒み」と「熱感」だった。
(な、なんだ……!? 芋虫の毒か? それとも、アドレナリンが切れて一気にガタが来たのか!?)
煌人の視界が、急激に白く濁り始める。
それは外の世界が霧に包まれたからではない。
彼自身の「まぶた」の表面から、まるで薄い和紙のような白い膜が浮き上がり始めたからだった。
(あ、これ……知ってる。……俺、今。……『剥けて』るのか!?)
異変は、まぶただけではなかった。
背中、足、そしてあの誇り高き「舌」の根元までもが、一斉にペリペリと音を立てて剥離し始めたのである。
全身を襲う、不快感と高揚感が混ざり合ったような奇妙な感覚。煌人の皮膚の下で、新しい「自分」が古い殻を押し上げようと蠢いている。
(あ、熱い……! なんだこれ、内側から何かがせり上がってくる感覚……。体全体が、一回り小さなサイズのウェットスーツに無理やり押し込められたみたいだ!)
煌人は、思わず身をよじった。すると、背中の中心線から「ペリッ」という、乾いた、しかし生命の躍動を感じさせる音が響いた。それを合図に、白い半透明の膜が、まるで使い古した日焼けのあとの皮のように浮き上がってくる。
(う、わ……。向けてる。剥けてるよ、これ! 全身がくまなく、一斉に!!)
人間だった頃の煌人にとって、「皮が向ける」といえば、せいぜい日焼けをしすぎた夏の終わりの肩か、あるいはもっとこう、思春期の男子がこっそり直面する「大人への階段」にまつわるデリケートなイベントくらいのものだった。
(……いや、待て。自分で剥くのと、勝手に剥けるのは、根本的に意味が違うんだよ……って、何一人で下ネタみたいな独り言を言ってんだ俺は! こんな極限状態の異世界で、性教育の授業みたいなセルフツッコミしてる場合か!)
自分の脳内にまだ残っていた「男子大学生」特有の低俗な語彙に呆れつつも、煌人の動揺は収まらない。爬虫類としての生理現象を頭では理解していても、自分の「外殻」が剥がれ落ち、中から瑞々しくも無防備な新しい肉体が露出していく感覚は、あまりにも原初的な恐怖を伴っていた。
(……でも、これ。……この「何か」が始まる独特の予兆と、高揚感。……俺、知ってるぞ。この瞬間に、これ以上ないくらいピッタリの言葉を……!)
脳裏に浮かんだのは、かつて子供時代に遊び尽くしたゲーム機の画面だ。
ピコピコという電子音と共に、進化の光に包まれる不思議な生き物たちの姿。
「(……おや? 市崎煌人の様子が……?)」
セルフ実況。
絶体絶命のゴブリン戦を終え、未知の栄養素(芋虫)を摂取し、生命のステージが一段階上がるこの瞬間。煌人の脳内では、あの有名なBGMが壮大に鳴り響いていた。
「(……ありがとう、〇ケモン! そしてありがとう、〇天堂! おかげで俺は今、この異常事態を『進化の演出』として受け入れられてるよ……っ!)」
皮が剥がれる不快感は、いつしか「レベルアップ」への期待感へと塗り替えられていく。
煌人は、巨木の枝の上で、急ぐことなく、しかし着実に、自身の過去を脱ぎ捨てていった。
ペリ、ペリペリ……。
一気に剥がれるのではない。それは、新しい自分を一枚ずつ丁寧にパッキングし直すような、静かで神聖な儀式だった。
まぶたが剥がれ、視界がさらにクリアになる。
四肢が剥がれ、指先の吸着力がより強固になる。
そして――。
(ゆっくりだ。焦るな。……おじさんは、自分の皮を整理するのも、上手いんだからな……)
新緑の風が、剥き出しになった新しい皮膚を優しく撫でる。
煌人は、古い殻の中から、より鋭く、より洗練された「カメレオン」として、ゆっくりと、しかし確実に、その再誕の時を待っていた。
眼下のゴブリンはまだ、自分が踏み荒らした泥の中で呆然としている。
その頭上、静寂に包まれた樹上にて、一匹のトカゲが「市崎煌人」という概念を更新しようとしていた。
ペリ……ペリリッ!
最後の一皮が尻尾の先から滑り落ち、煌人の「再誕」は完了した。
全身を包んでいたあの鬱陶しい突っ張り感は消え去り、代わりに新緑の風が、剥き出しになった新しい皮膚を心地よく愛撫する。煌人は少し距離を置き、枝の上に力なく横たわる自らの「抜け殻」を、独立した眼球でじっと観察した。
(……へぇ。初めて客観的に見たけど、俺、こんな姿してたんだな)
人間だった頃、鏡の中で見ていた「市崎煌人」の顔は、どこにでもいる、少し就活に疲れ気味の大学生だった。だが、今、そこに脱ぎ捨てられている「俺」の形は、予想に反して極めてコミカルだった。
(……意外と、可愛いじゃん。目がクリクリしてて、フォルムも丸っこいし。もっとこう、グロテスクな爬虫類かと思ってたけど……これ、マスコットキャラでいけるな)
脳裏に浮かぶのは、あの有名な『某スライム』の姿だ。
あちらも見た目は愛らしい青色のぷにぷにだったが、中身はとんでもない化け物だった。
(……某有名スライムさんも俺も、本当に付けるべきタイトルは『転生したら可愛くなっちゃった♡』じゃないのか? もし人間時代の俺にメッセージを送るとしたら、もう、これしか言えないな。『可愛くてごめん』って)
煌人は、カメレオンの平たい手足で、あざとく頬に手を当てるポーズ(のつもり)を取ってみる。
(……そしたらきっと、人間の俺は、こう返すんだろうな。『入社するには有利かもしれないけど、入社してからが大変だ』って。そしたら今の俺は、こう食い下がるわけだ。『かわいいだけじゃだめですか?』って言って、枝の上でリズミカルに踊り出すんだよ、俺!)
カメレオン特有の、あの前後に揺れる歩法をダンスに見立てて、煌人は一人で盛り上がる。
ふと、我に返った。
(……っていうか、俺。さっきからよく一人で喋るよな。人間時代には気づかなかったけど、俺、実はめちゃくちゃ独り言の才能あったんじゃね? これなら落語家もいけたのかな……。異世界で一人二役、カメレオン落語。新ジャンル開拓か?でも、もしかしたら著作権侵害とかあるのか?いや、ないよ。ここは異世界だし!)
少しだけ自分に自信を持った。
だが、そのポジティブな思考を、内なる「冷静な市崎煌人」がバッサリと斬り捨てた。
(著作権を忘れてるようじゃ無理か。著作権は、ねぇ、異世界でも守らないと)
煌人は、かつてテレビやネットで見た、あの「○○○○構文」でお馴染みのアイドル――菊○○○の凛々しい顔立ちと、キレのあるツッコミを脳内に召喚した。
(……いや、ちょっと待て。今の俺、完全に滑ってる……? 菊○○○さん風に今の自分を詰めるとしたら、こうだろ)
「……待って待って待って。これ、全裸で踊りながら、著作権とか気にしてるトカゲがいるってこと? ……いや、無理無理無理無理! 恥ずかしすぎて、俺、もう無理だわ!! 許せない!!」
カメレオンの皮膚が、羞恥心でみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
自意識過剰な一人芝居に、自ら菊池風磨構文でツッコミを入れて締める。
孤独な樹上で、煌人のアイデンティティは、人間時代よりも遥かに複雑に、そして騒がしく入り乱れていた。
しかし、そんな一人コントを強制終了させるかのように、目の前に置かれた「抜け殻」に異変が起きた。
ただの皮だったはずのそれが、カサカサと乾いた音を立てて、急速にその形状を変え始めたのだ。
不自然なまでに直線的な、長方形。
白く、滑らかで、厚みのない、文明の香り。
(……は? 嘘だろ……)
カサカサ、と乾いた音が樹上に響く。
先ほどまで煌人の体を包んでいた半透明の抜け殻が、まるで見えないシュレッダーにかけられた後、高度な3Dプリンターで再構成されたかのように、その質感を劇的に変質させていった。
そこに現れたのは、もはや生物の残骸ではない。
白く、平滑で、適度なコシを持った、紛れもない「A4サイズのコピー用紙」である。
「(……は? ……え? ……えええええええ!?)」
煌人は、カメレオンの眼球を限界まで突き出し、その「紙」を凝視した。
「(……日本語!? しかもこれ……Wordで作った文書じゃねーか!!)」
懐かしさが、津波のように脳内を駆け巡る。
22歳の若者にとって、それは「文明」そのものとの再会だった。
異世界の密林、ゴブリン、命懸けのサバイバル。それら全ての非日常を、この一枚の紙が暴力的なまでの「日常感」で塗り潰していく。
「(うわ、マジかよ! 懐かしい! 最後にこれ触ったの、あの地獄の卒業論文以来だぞ……!)」
煌人の脳裏に、締め切り直前のゼミ室の光景が蘇る。
一睡もせず、カフェイン飲料を流し込みながら格闘したあの白白い画面。
「(……卒論って、内容の独創性よりも、結局は『書式』なんだよな。インデントがずれてるとか、参考文献の書き方がJIS規格じゃないとか。内容にたどり着く前に、細かい不備をゼミの先生にネチネチ指摘されて……。あの『修正して再提出』の無限ループ、思い出すだけで胃が痛てぇ……)」
かつての苦い記憶を反芻しながら、煌人は吸い付くような前足で、その「抜け殻(Word)」を丁寧に広げた。
すると、そこには信じがたい「こだわり」が詰まっていた。
「(……おい、ちょっと待て。この文字、……MS 明朝じゃん! しかも見出しは、安定のMS ゴシック! おまけにこの、絶妙にダサいデフォルトの設定! 余白の取り方から行間の詰まり具合まで、完全にOfficeソフトのそれだよ!!)」
異世界で、まさかMicrosoftの気配を感じることになるとは。
煌人のテンションは、バナナを見つけた時よりも、芋虫を絶賛した時よりも、遥かに高く跳ね上がった。
「(最高だ……。フォントひとつで、こんなに安心するなんて。ありがとうビル・○イツ!)」
しかし、感傷に浸っていられたのは、最初の数行を読み飛ばすまでの間だった。
文書の最上段、本来なら「社外秘」や「重要」とスタンプが押されているはずの場所に、その名称は堂々と印字されていた。
【発行元:転生者支援センター 】
「(……え? ……転生者、支援センター?)」
煌人の思考が、一瞬でフリーズする。
「(センター……? 公的機関か何かか? 異世界に来てまで、お役所の管理下に置かれてるってことか、俺? ……いや、それより待てよ。……『転生第一課』ってことは、……俺以外にも転生者がいるってことか!?)」
自分だけが特別な存在だと思っていたわけではない。だが、このようにシステマチックに、しかも「第一課」などという組織的な名称で管理されているとなれば、話は別だ。
他にも転生者が、この世界のどこかに、あるいは隣の木にでもいるのかもしれない。
「(マジか……。俺の他にも、スライムになったり、剣になったり、温泉になったりしてる奴が、どこかの課で事務処理されてるってことかも?……ってことは、……え? 俺の担当者は誰だ!?)」
煌人は、震える前足でその「A4用紙」を平らな枝の上に広げた。
木漏れ日に照らされたその文書は、異世界の原生林の中で、そこだけが日本のオフィスの一部を切り取って貼り付けたような、異様な違和感を放っている。
「(……読むぞ。……深呼吸しろ、市崎煌人。これは卒論じゃない。内定通知でもない。……俺の『人生(二匹目)』の取り扱い説明書だ……)」
眼球の焦点を、一番上の行に合わせる。
【ご案内】転生初期段階における諸手続きについて
拝啓
時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
本文書を読まれているということは、無事に初回脱皮を終えられた頃かと存じます。
転生者様がこの世界に転送された際、当『転生者支援センター』には自動的に通達が入るシステムとなっております。まずは、異世界へのご到着、誠におめでとうございます。
「(……おめでとうございます、じゃねーよ! 全裸で芋虫食わされた直後の奴に送る挨拶か、これが!?)」
ツッコミを入れつつ、煌人は読み進める。そこには驚愕の事実が記されていた。
当センターの職員は、管理運営の円滑化のため、全員が『元人間』で構成されております。
私は、転生第一課の髙橋と申します。元・日本人です。
同じく日本人であった市崎煌人様のバックグラウンドを考慮し、私が専任の担当者を務めさせていただきます。
「(……髙橋。……髙橋さん!! 本当に髙橋さんなのか!? 日本人なのか!? 頼む、今すぐファミチキとコーラを持ってここに来てくれ!!)」
同郷の、しかも「元人間」の存在に、煌人の瞳に(カメレオンなりの)涙が浮かぶ。しかし、続く文章はあまりにも事務的で、冷徹だった。
つきましては、今後の生活保障、および諸権利の確定のため、一度当センターまでお越しください。
結びに、今回の脱皮に伴い、貴殿には新たなスキルが複数解放されているはずです。
どのような名称にするかは、転生者様ご自身で考えてください。
当センターにお立ち寄りの際、受理・登録させていただきますので、窓口にてお申し付けください。
敬具
追伸:
地図情報を本紙裏面に添付いたします。現在地からは徒歩(カメレオン歩行)で約3ヶ月の距離となります。
「(……丸投げかよ!! スキル名、セルフサービスなの!? 普通、大○者とかが勝手に『スキル:〇〇を習得しました』とか教えてくれるもんじゃないのかよ!!)」
煌人は、カメレオンの顔で天を仰いだ。
『転生者支援センター』。そこは、手厚いサポートをしてくれる楽園などではなく、異世界に来てまで「自分で考えて申請書を出せ」と要求してくる、究極の「自己責任型」お役所組織だったのである。
「(……自分で考えろ、ね。……おじさんは、……ネーミングセンスも、上手い……はずなんだよな……)」
煌人は、裏面の地図を虚しく見つめながら、これから出会うであろう「髙橋」という男の顔(おそらく、どこにでもいる公務員顔だろう)を想像し、新しいスキルの名前を必死に捻り出し始めた。
現在の煌人のステータス(暫定)
種族:カメレオン(元・大学卒業見込み・商社内定者)
現在地:巨大な樹上の枝(安全圏確保中)
所有アイテム:脱皮した皮(Word文書/地図付き)
直近の目標:徒歩3ヶ月(!)の距離にある支援センターへ向かうこと
当面の課題:解放された「新スキル」への命名
もしかしてスベってますか?




