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第4話「おじさんは、実は好き嫌いがないタイプなんだ」


「(やめろ……。来るな。俺の視界に入るな……!)」


煌人の理性は、全力でブレーキを踏んでいた。しかし、カメレオンの肉体という名の暴走特急は、すでに停車駅を通り過ぎている。

視力2.0超の「精密な目」が、倒木の影でうごめく青白い芋虫を、まるで高級ホテルのデザートワゴンに載った特製プリンのように映し出していた。


(……いやいやいや! 無理だって! これを食べたら、人間としての大切な何かが終わる。お天道様に顔向けできないし、何より――)

「(……俺、こんなの食べたら、もうお嫁に行けない……っ!)」


絶望のあまり、煌人は心の中で乙女のような悲鳴を上げた。

もちろん、彼は22歳の屈強(自称)な男子大学生だ。だが、この「おぞましいものを口にする」という極限の心理的ストレスは、彼の言語感覚をバグらせ、一周回って「純潔を失う悲劇のヒロイン」のような心境へと追い込んでいた。

内定先の商社の研修で「何でも食らいつくガッツを見せろ」と言われたが、これじゃない。絶対に、これじゃない。


(待てよ。……お嫁? ……俺、男だよな?)


ふと、根源的な疑問が脳裏をよぎった。

一度目の死から、美術館の爆風、カメレオンへの変身、そして木からの落下。怒涛の展開に流されすぎて、自分の「今の性別」を一度も確認していなかったことに気づいたのだ。


「(……もし、メスのカメレオンに転生してたら? 卵とか産んじゃうわけ? いや、それ以前に、俺、今どうなってるんだ!?)」


煌人は、芋虫への食欲を無理やり「自己分析」という理性的な行動で上書きしようと試みた。

商社マンたるもの、自分のスペック把握は基本中の基本だ。

彼は、ゴブリンのすぐ横で、這いつくばったまま自分の下半身を「独立した眼球」で覗き込もうとした。


(えーと、カメレオンの構造的には……尾の付け根あたりに……)


右目と左目をそれぞれ極限まで内側に回し、自分の尻尾の付け根を凝視する。

人間だった頃とは全く異なる、鱗に覆われた未知の造形。

カメレオンのオスには、尻尾の付け根に「ヘミペニス(半陰茎)」を収めるための膨らみがあるはずだ。


「(……あった。……ある、よな? これ、膨らんでるよな?)」


よく分からない。正直、爬虫類の解剖学なんてゼミの資料には載っていなかった。(当たり前)

だが、その膨らみを確認しようと必死に腰を振ったり、尻尾を巻き上げたりしているうちに、彼はある決定的な違和感に気づいてしまった。


(……っていうか、俺。今、全裸じゃん)


そう、当たり前である。カメレオンに服を着せる文化はこの森にはない。

人間だった頃は、あんなに「身だしなみ」や「スーツの着こなし」を気にしていたのに。今や自分は、ゴブリンのすぐ横で、一糸まとわぬ姿(鱗一枚だけど)で、自分の股間を必死に覗き込んでいる変態トカゲに成り下がっている。


「(……もう、お嫁に行けないどころの話じゃないな。公然わいせつ罪で逮捕されても文句言えないわ、これ)」


自尊心の最後の欠片が、パラパラと崩れ落ちる音がした。

性別が男だろうが女だろうが、今この瞬間、自分は「飢えたトカゲ」という名の獣でしかないのだ。


グゥゥゥゥ……。


その時、腹の虫が空気を読まずに鳴り響いた。

皮肉なことに、股間を確認するために身をよじった結果、煌人の顔は、先ほどの「ジューシーな芋虫」からわずか数センチの距離まで近づいてしまっていた。


(……いいんだ。もう、どうにでもなれ。性別がどうとか、人間としての尊厳がどうとか、全部この森の腐葉土に埋めてやる……!)


煌人は、静かに目を閉じた。

いや、目は開けたままだ。左右バラバラの眼球で、獲物の「一番柔らかそうな部分」をしっかりとロックオンする。


(おじさんは、実は……好き嫌いがないタイプなんだ……!!)


自分自身に最後の「嘘」を吐き捨て、煌人は、ピンク色の弾丸を解き放った。


「(……!!)」


ピンク色の閃光が芋虫を捉え、口内へと引き戻した瞬間、煌人の脳内で何かが弾けた。


「(……っ! ……っっっ!?)」


最初の一噛み。恐れていた「ドロリとした嫌悪感」ではなく、弾力のある皮が弾けた瞬間に溢れ出したのは、まるで冷やした最高級の桃の果汁と、濃厚な生クリームを絶妙な比率でブレンドしたかのような、甘美でクリーミーな「至福」だった。


(う、美味い……! なんだこれ、めちゃくちゃ美味いぞ!!)


噛めば噛むほど、上品な甘みが口いっぱいに広がり、喉を通る時の滑らかさは喉越しのいい冷やしうどんの比ではない。人間だった頃に食べた、銀座の老舗のデザート。あるいは、内定者懇親会で出された一皿数千円のオードブル。それら全ての記憶が、この一匹の芋虫の前に霞んでいく。


(……はは、笑える。あんなに拒絶してたのに、俺の細胞が喜んでるのが分かる。……やっぱり、料理は『見た目』じゃねぇ。……『味』なんだよな!)


商社の営業として、煌人は常々「本質を見極めろ」と言われてきた。

商品のパッケージがどれだけ派手でも、中身が伴わなければ意味がない。逆に、見た目が泥にまみれた芋虫だろうが、その実態が「極上のスイーツ」であれば、それは紛れもない一級品なのだ。


(そうさ。俺は今、異世界という市場で、最高の商品メシを見つけ出したんだ。……お嫁に行けない? 結構。変態トカゲ? 構うもんか。この味が手に入るなら、俺は喜んでカメレオンとしての社畜(野生生活)に身を投じてやる!)


さっきまでの自己嫌悪はどこへやら、煌人はあっという間に芋虫を完食した。

すると、どうだろうか。

腹の底から熱いエネルギーが湧き上がり、指先の鱗一枚一枚にまで力が充満していく感覚がある。人間だった頃の、栄養ドリンクを無理やり流し込んで得ていた一時的な覚醒とは違う。もっと根源的で、力強い、生物としての「アップデート」の予感。


(……あ、これ、いける。今の俺なら、さっきのバナナだって片手……いや、片足で持ち上げられる気がするぞ)


満足感に包まれ、ペロリと舌で口の周りを拭う煌人。

だが、そんな勝利の余韻に浸る彼を、現実は逃がしてはくれなかった。


「……グ、グガァッ……」


すぐ隣で、先ほどまで泥のように眠っていた「緑色のクッション」ことゴブリンが、頭を振りながらゆっくりと身を起こし始めたのだ。

最悪なことに、そのゴブリンの目の前には、空っぽになった「不味い肉(干し肉)」と、満足げに虹色に輝く(美味いものを食べて体色が変わってしまった)煌人が鎮座している。


(……あ。……調子に乗って、味わいすぎた)


ゴブリンの濁った黄色い眼球が、カチリと煌人を捉えた。

そして、自分が大切にしていた「非常食」が食い散らかされている(実際は一口食べて投げ出しただけだが)惨状を認め、その顔が怒りで赤黒く染まっていく。


「ギ、ギガァァァァァッ!!!」


森に響き渡る咆哮。

煌人は、自分を指名手配中の犯人を見るような目で睨みつけるゴブリンを前に、冷や汗(トカゲに汗腺があるかは不明だが)を流しながら、必死に愛想笑いのような顔を作った。


(……お、おじさんは、隠れるのが上手い……だけじゃなくて、逃げるのもめちゃくちゃ上手いんだぞ……っ!)


「ギガ、ギガァァッ!!」


目の前の「緑のタクシー」だったはずの怪物は、今や「緑の処刑人」へと変貌を遂げていた。ゴブリンが地面から拾い上げ、怒りに任せて振り回したのは、節くれだった無骨な木製の棍棒だ。ヒュン、と空気を切り裂く不吉な音が、煌人の鼓膜を震わせる。


(……待て、落ち着け市崎煌人。こういう時こそ、現状の戦力分析だ。商社の営業なら、競合他社とのスペック差を冷静に見極めるのが鉄則だろ!)


煌人は、カメレオン特有の左右独立した眼球をフル稼働させ、死のシミュレーションを開始した。


(えーと、一般的なカメレオンの攻撃手段は……まずは威嚇。口を大きく開けて『シャーッ!』と鳴く。……いや、あんな凶器を持った相手に威嚇したところで、『どうぞ叩いてください』って的を晒すようなもんだ。却下!)


(次は噛み付き。……カメレオンの顎の力は意外と強いって雑学で聞いたことがあるけど、相手はゴブリンだぞ? 脛を一口かじったところで、その瞬間に頭上から100キロ近いスイングが降ってくる。相打ちにすらならない。却下!)


(じゃあ、爪で引っ掻くか、体当たりか? ……いや、論外だ。俺の体重はさっきの計算だと卵一個分。対するあいつは、少なくとも中学生男子くらいの体格はある。質量差が違いすぎるんだよ!)


逃げ道を探る煌人の視界の端で、ゴブリンがニチャリと下卑た笑みを浮かべ、棍棒の構えを低くした。それは獲物を確実に仕留めるための、野生の「構え」だった。


(……最後の手札。俺の最強兵器、『舌』……か?)


煌人は一瞬、時速100キロで放たれる自分の舌で、ゴブリンの目を突く、あるいは棍棒を奪い取るという妄想に縋りつこうとした。しかし、即座に脳内の「冷静な煌人」が冷酷なツッコミを入れる。


(ダメだ。あの棍棒の振り方……あいつ、意外と筋がいい。もし俺が舌を伸ばした瞬間に、タイミングを合わせてスイングされたらどうなる? 俺の舌は粘着性だ。棍棒にガッチリ吸着したまま、俺の本体ごと『場外ホームラン』されるのがオチだぞ! 異世界の空で星になるなんて、そんなキラキラした最期は御免だ!!)


棍棒が届く範囲、いわゆる「近接戦デッドゾーン」に入れば、カメレオンとしての武装は全て無力化される。

打撃武器の恐ろしさは、前世のニュースでもよく見ていた。防具も持たないこの小さな体なら、一撃かすっただけで内臓破裂、あるいは即・ミンチだ。


(……戦えない。物理的に、生存確率がコンマ一ミリも存在しない。商社マンが『勝算のない取引』には手を出さないように、今の俺がすべきは……!)


ゴブリンが一歩、踏み込んできた。

土埃が舞い、巨大な足が視界を遮る。


(……おじさんは、実は……『土下座』も上手いんだけど……今はそれより、『死んだふり』か『バックレ』だろ!!)


煌人は、芋虫で得たばかりのエネルギーを全て四肢に注ぎ込んだ。

カメレオンの鈍足? 知るか! 今は、一秒でも早く、この「棍棒の射程」からログアウトしなければならない。


「ギガァッ!!」


振り下ろされる棍棒。


「(……これだ、これしかない!)」


煌人は、まさに振り下ろされようとする棍棒の影に震えながら、一か八かの賭けに出た。

逃げるには遅すぎる。戦うには弱すぎる。ならば、カメレオンとしての誇り――『擬態』の限界を突破するしかない。


彼は、まだ食べ残して地面に転がっていた「芋虫の半分」の上へと、電光石火の勢いで覆い被さった。そして、脳内のすべてのリソースを「視覚情報の再現」に注ぎ込む。


(俺はカメレオンじゃない。俺は……ただの食いかけの芋虫だ。泥にまみれ、無残に千切れた、価値のない死骸だ……!)


驚異的な速度で、煌人の体色が変化していく。

背中の皮膚は芋虫の青白い光沢を帯び、腹の側面は中身が溢れ出したような不気味な黄色へと染まる。さらには、自身の体をわざとクシャリと歪ませ、芋虫の節のような凹凸を擬似的に作り出した。


「ギガ……?」


空中で止まった棍棒。ゴブリンの濁った瞳が、困惑に揺れる。

さっきまでそこにいたはずの「虹色のトカゲ」が、一瞬にして消えた。目の前にあるのは、自分が大切にしていた肉(干し肉)の残骸と、さらに無残に転がっている「半分になった芋虫」だけだ。


(……しめた、止まった! 騙せたか!? このままこいつが『なんだ、消えたのか』って諦めて立ち去ってくれれば……!)


煌人は息を止め、心臓の鼓動すらも消し去ろうと必死に身を潜めた。

しかし、現実は甘くない。

ゴブリンという種族は、知的ではないかもしれないが、執念深さと「動くものへの破壊衝動」だけは一人前だった。


「ギガァッ! ギギガァッ!!」


ゴブリンは「消えた」ことに納得したのではない。単に、目の前の「景色」が気に入らなくて苛立ったのだ。

彼は、煌人が同化している芋虫の残骸ごと、その周辺の地面を粉砕せんと、全身のバネを使って棍棒を全力で振り下ろした。


(……っ! 嘘だろ、無差別攻撃かよ!!)


擬態は完璧だった。だが、「隠れている場所そのものを更地にする」というゴブリンの暴力的な回答の前では、どんなカモフラージュも無意味だ。

凄まじい風圧が煌人の皮膚を叩く。このままでは、芋虫の残骸と一緒に、文字通り「プレスされたトカゲ」が誕生してしまう。



(死ぬ――いや、動け俺の『ベロ』!!)



絶体絶命の瞬間、煌人の本能が弾けた。

彼は口を大きく開き、上方――ゴブリンの背後にある、太い巨木の枝に向かって舌を射出した。

さっきまでは「獲物を引き寄せる」ために使っていた舌。だが今は、それを「緊急脱出用のワイヤー」として使用する。


パチンッ!!


舌先がガッチリと枝を捉えた。

同時に、煌人は尾と足の力を抜き、舌の筋肉を爆発的な勢いで収縮させる。


ドゴォォォォンッ!!!


煌人がいた場所を、ゴブリンの棍棒が直撃した。

土が舞い、芋虫の残骸が粉々に飛散する。だが、そこに煌人の姿はなかった。

彼は、まるで特撮ヒーローのワイヤーアクションのように、一直線に空中を斜めに駆け上がっていたのだ。


「(あぶねぇぇぇえええ!! まさに間一髪!!)」


自分の体が自分の舌に引っ張られるという、過去の「失敗」を逆手に取った回避機動。

空中で振り子のように大きくスイングしながら、煌人はゴブリンの頭上を越え、再び安全な(はずの)樹上へと飛び込んだ。


枝をガシッと掴んだ煌人は、心臓をバクバクさせながら下を見下ろす。

そこには、自分が空振りさせた地面に棍棒が深く突き刺さり、「……ギガ?」とマヌケな声を出しながらキョロキョロと周囲を見渡すゴブリンの姿があった。


(……ふぅ、ふぅ……。心臓に悪いわ。確実に寿命が縮んだぞ……)


煌人は、震える手足で枝を強く抱きしめた。

しかし、絶望と恐怖の中に、確かな「手応え」も感じていた。

今の回避。芋虫を食べたことで得た、あの満ち溢れるようなエネルギーがなければ、舌の収縮速度が間に合っていなかったはずだ。


(料理は味……そして、味は『力』だ。……この世界、不味いものを食ってたら、一瞬で死ぬってことか)


「美食」が生存の鍵を握るという、なんとも煌人らしい――そしてカメレオンらしい――過酷なルールの片鱗が見えた瞬間だった。

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