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第3話「おじさんは、チャンスを逃さないのも上手いんだ」


何はともあれ、生きていた。

その事実が、波紋のように煌人の内側にじわじわと広がっていく。


全身を焼くようなあの熱波も、内臓を震わせた衝撃波もない。あるのは、草木の匂いと、自分を支える「緑の頭」から伝わってくる、どこか野蛮で力強い体温だけだ。


(ああ……俺、本当に生きてるんだな……) 


一度は捨てた命だ。あの美術館で、崩れ落ちる天井と降り注ぐ爆弾の火影を見ながら、煌人は確かに自分の終わりを確信した。少年に「カメレオンだ」と嘘を吐き、煙に巻かれて意識を失ったあの瞬間。あれが物語の完結だと信じて疑わなかった。


だが、今、煌人の心臓は小さく、しかし激しく、この爬虫類の胸の中で時を刻んでいる。


(……幸せだ。ただ息をしているだけで、こんなに……)


たとえ姿形が変わっていても、たとえそこが地獄のような戦場ではなく見知らぬ森の中であっても、「存在している」という感覚そのものが、今の煌人には何物にも代えがたい報酬のように思えた。死の淵を覗いた者だけが知る、生存という名の、あまりにも純粋で暴力的なまでの幸福感。


しかし、感傷に浸っていられる時間は長くはなかった。

ふと我に返れば、自分の四肢が掴んでいるのは、紛れもない「殺戮の雑兵」の頭皮なのだ。


(……待てよ。このゴブリン、なんで俺を振り払わないんだ? 自分の頭の上に、別の生き物が乗ってるんだぞ?)


煌人は、独立して動く右目で、恐る恐る自分の足元を観察した。

鋭い爪、汚れた緑色の皮膚、そしてそこから漂う、鼻を突くような獣臭と腐った果実の混ざった悪臭。ゴブリンは、特に気にする様子もなく、鼻歌のような奇妙な唸り声を上げながら、ノシノシと茂みを掻き分けて歩き続けている。

そこで煌人は、ある「物理的な真実」に思い至った。


(そうか……。俺、今めちゃくちゃ軽いんだ……!)


人間だった頃の体重は、標準的な65キロ前後。もしその重さが頭の上に乗れば、いかなゴブリンと言えど首が折れるか、少なくとも絶叫して暴れ回るはずだ。

だが今の煌人は、体長わずか20センチ程度の小柄なカメレオン。重さにして、せいぜい卵一個分か、あるいはそれ以下。しかも、カメレオンの指は、一点に力を集中させるのではなく、接地面を包み込むようにして「分散」させる構造になっている。


(ゴブリンからすれば、せいぜい「大きめの木の葉」か「少し太めの小枝」が頭に落ちてきた程度の感覚なんだ。おまけに、俺の今の体色は、こいつの肌と全く同じ……完璧なまでの『ゴブリン・グリーン』に染まってる……)


視力2.0超の目が捉えたのは、自分の肌が周囲の環境だけでなく、接している「対象」の色にまで同化し始めているという驚異の事実だった。


(気がついていない。こいつは、自分が今、世界で一番不用心な『タクシー』になってることに、一ミリも気づいていないんだ……!)


恐怖が、急速に「好奇心」と「安機感」へと塗り替えられていく。

バレなければ、ここは安全地帯セーフティゾーンだ。

地上を歩けば蛇や猛禽類に狙われる。木を登れば重力に裏切られて落下する。だが、この森の生態系で中堅どころに位置するであろうゴブリンの頭の上なら、少なくとも下等な捕食者に怯える必要はない。


「(……はは、最高じゃないか。特等席だ)」


煌人は、少しだけ力を抜いて、ゴブリンの頭頂部にある皺の間に、しっくりと自分の体を収めた。

かつて商社の内定を勝ち取った際、「君はどんな環境でも立ち回れる適応力がある」と評価されたことを思い出す。まさかその適応力が、モンスターの頭上で発揮されることになるとは夢にも思わなかったが。


緑色のタクシーは、密林の奥へと進んでいく。

煌人は、揺れる視界の中で、次なる「生存戦略」を練り始めた。

とりあえず、命は繋がった。

なら、次に考えるべきは――。



グゥゥゥゥ……。



再び、胃袋が鳴った。

幸福感でお腹は膨れない。ゴブリンの頭の上で揺られながら、煌人の視線は、ゴブリンが腰に下げた粗末な布袋の中身へと注がれた。


(……よし、狙うはあの腰袋だ)


煌人は、ゴブリンの頭頂部から眼球だけをギョロリと動かし、標的を定めなおした。

揺れる布袋の隙間から、何やら乾燥した肉のような、あるいは大きな木の実のような香ばしい匂いが漂ってくる。カメレオンの肉体に変わってからというもの、嗅覚までが異常に鋭敏になり、その「食い物」の存在が脳を直接揺さぶってくるのだ。


(射程は十分。ここから舌をシュッと伸ばして、中身を一つ掠め取る。ゴブリンは歩いている最中だし、袋が揺れたくらいの振動なら、自分の足取りのせいだと思うはず……)


理論上は完璧だ。だが、煌人の内なる「慎重派大学生」が警鐘を鳴らす。


(いや、調子に乗るな。こいつがいくら鈍感な『ゴブリン・タクシー』だからって、限度がある。もし舌を放った瞬間にこいつが振り向いたら? もし粘着音がペチャッと派手に鳴ったら? 2.0超の視力で捉えたこの光景が、最期の景色になるぞ)


「リスク管理」と「生存本能」が脳内で激しいディベートを繰り広げる。

しかし、空腹という名の独裁者は、もはや煌人の理性を力ずくでねじ伏せようとしていた。口内ではすでに、あの「超高速筋肉タン」が射出のスタンバイを終え、熱を帯びている。


(……やるしかない。バレたらその時だ。幸い、俺は今こいつと同じ緑色。最悪、顔に張り付いて目潰しでもして逃げ――)


煌人が覚悟を決め、喉元を膨らませた――その瞬間だった。


「ギョエッ!?」


突然、足元(ゴブリンの頭)が大きく傾いた。

ゴブリンが、腐葉土の下に隠れていた湿った苔に足を滑らせたのだ。


「(え……?)」


スローモーションのように世界が歪む。

巨体のゴブリンが派手な音を立てて前方へ前のめりに倒れ込み、その慣性に置き去りにされた煌人の小さな体は、放り出されるように宙を舞った。


「(ちょ……待て待て待て! なんで今なんだよ!!)」


視界が回転する。

地面に叩きつけられるゴブリンの背中。

空中に飛び散る泥。

そして、ゴブリンの衝撃で袋の口が開き、中に入っていた「獲物」たちが一斉に放り出され、煌人と一緒に宙に浮いている。


(また落下かよ! 学習能力ないのか俺は!!)


だが、今度は先ほどとは違う。

目の前には、空中を舞う干し肉のような塊。

そして下には、悶絶して地面に突っ伏したまま動けないゴブリン。

空中で無様に手足をバタつかせながら、煌人は悟った。

これはピンチではない。

空中ノーガード」で食糧を手に入れる、千載一遇のチャンスだと。


「(おじさんは、チャンスを逃さないのも上手いんだ……っ!)」


「(やってやる……、やってやるぞ!!)」


視界が激しく上下に揺れ、重力という名の無慈悲な鎖が煌人の小さな体を地面へと引きずり落とす。しかし、その刹那の滞空時間の中で、煌人の脳細胞はフル稼働していた。視力2.0超の眼球が、空中に放り出された黄金色の「干し肉」――おそらくは何らかの魔獣の腿肉を燻製にしたもの――を、驚異的な精度で捉え続ける。



(今だッ!!)


口が裂けんばかりに開き、喉の奥に凝縮されていたバネが弾ける。

シュルッ!!

ピンク色の閃光が、落下する煌人と、並走するように空中を舞う干し肉との距離をゼロにした。吸着。舌の先端にある強力な粘着液が、ずっしりとした肉の質量を確実に捉える。


だが、ここからが「元・商社内定者」の計算の真骨頂だった。


(さっきのバナナの二の舞は演じない。重さに振り回されるんじゃなく、その重さを利用してやる……!)


煌人は、肉を引き寄せるのではなく、逆に舌の筋肉を「ガイド」にして自分の体の軸を強引に操作した。空中で無様にバタついていた四肢を折り畳み、尾をムチのようにしならせて、空気の抵抗を受け流す。


(反転……! 肉をクッションにするんだ!!)


舌を巻き取る力を利用し、空中での重心移動を敢行する。

視界が180度回転し、背中側にあった地面が、今度は眼下に迫る。自分よりも重い「干し肉」が、まるで煌人を乗せるための魔法の絨毯のように、彼の体の真下に位置取った。


「(いける……。これなら死なない!!)」


肉の上。まるでサーフィンでもするかのように、煌人は四肢の指を干し肉のゴツゴツとした表面に食い込ませた。

直後、衝撃が走る。



ドスッ!!



地面に先に叩きつけられたのは、干し肉だった。

その厚みと弾力がクッションとなり、煌人の体にかかる衝撃を劇的に和らげる。それでも小さな肺から空気が漏れ、目の前がチカチカと火花を散らしたが、先ほどのような絶望的なダメージはない。


煌人は、荒い呼吸を整えながら、即座に周囲を確認した。

すぐ隣には、顔面を地面に強打して「グエェ……」と呻きながら気絶しているゴブリン。

そして自分の下には、命がけで手に入れた、まだ温かみの残る燻製の塊。


(……はは。勝った。俺の勝ちだ)


泥と汗にまみれ、それでも自分を裏切らなかった「右手の直感」ならぬ「舌の直感」。

空中で獲物を捕らえ、それをクッションにして着地するという、野生のカメレオンですら成し得ないであろうアクロバティックな「捕食」を、彼は完遂したのだ。


煌人は、目の前にある肉の香ばしい匂いに、ついに抗えなくなった。

人間としてのプライド? 衛生観念? そんなものは、死の淵を二度くぐり抜けた今の彼には、一文の価値もない。


(いただきます……。これが、俺の異世界での『初任給』だ!!)


彼は大きな口を開け、カメレオンとしての鋭い歯を、黄金色の肉へと突き立てた。


「(ついに……ついにこの時が来た!)」


煌人は、震える顎に力を込め、黄金色に輝く干し肉へとガブリと噛み付いた。

脳裏には、かつて内定祝いの席で食べたA5ランクの黒毛和牛や、深夜の残業(ゼミの資料作り)の後に胃に染み渡った脂ぎったラーメンの記憶が走馬灯のように駆け巡る。空腹は最大の調味料。おまけに、命懸けの空中機動で自ら掴み取った『戦利品』だ。不味いわけがない。絶品に決まっている――!


「(……ん……?)」


噛み締めた瞬間、煌人の思考が停止した。

舌の上に広がったのは、芳醇な肉の旨味ではなかった。

それは、まるで古びたゴム草履をドブ川の水で煮込み、そこに少量の砂利と獣の腐った脂をなすりつけたような、形容しがたい冒涜的な味だった。


「(う、うぇぇぇっぷ!! まずい! なんだこれ、殺人的に不味いぞ!!)」


あまりの衝撃に、カメレオンの顔がみるみるうちに土気色の斑模様へと変色していく。

噛めば噛むほど、粘り気のある嫌な臭みが鼻腔を突き抜け、喉の奥が拒絶反応で痙攣した。

人間だった頃の煌人なら、一口で吐き出し、即座に保健所に通報するか、SNSで「人生最悪のメシ」として拡散していたレベルの代物だ。


(おかしいだろ……。ゴブリンはあんなに大事そうに袋に入れて、さっきも鼻歌混じりで歩いてたじゃないか。ゴブリンは、こんなゴミ以下のものを美食として食ってるのか!?)


絶望と困惑に打ちひしがれながら、煌人は必死に咀嚼を続けようとした。だが、体が受け付けない。

その時、ふと脳裏に冷ややかな理性が戻ってきた。

「商社マンは常に客観的な視点を持て」――そんな研修の言葉が、異世界の泥の上でリフレインする。



(待てよ。……よく考えろ。俺は今、人間じゃない。……カメレオンなんだ)




煌人は、自分のピンク色の舌を見つめた。

そして、その舌の先端にある強力な粘着液と、先ほどバナナを狙った時に感じた「異常なほどの高揚感」を思い出す。


(さっき、バナナを狙った時……。俺、バナナそのものよりも、その横を飛んでた『虫』に、もっと強く反応してなかったか……?)


嫌な予感が、心臓を冷たく撫で上げる。

カメレオンという生き物について、前世で得た断片的な知識を必死に手繰り寄せる。

彼らは何を主食としていたか。彼らの消化器官は何を「エネルギー」として認識するように最適化されているのか。


(まさか……。嘘だろ……。いや、そんなはずはない。俺の心はまだ22歳の人間なんだ。……でも、この肉を『ゴミ』だと判定しているのは、俺の『舌』と『胃袋』だ……)


ゴブリンが大切に持っていた「加工肉」という、人間社会に近い食べ物を拒絶するこの体。

となると、この肉体カメレオンが「絶品間違いなし!」と歓喜の声を上げ、ヨダレを垂らして喜ぶ本当の食事とは――。



(……虫、か?)


煌人の右目が、たまたま近くの腐った倒木を這い回る、丸々と太った「青白く光る芋虫」を捉えた。

人間だった頃の煌人なら、悲鳴を上げて三メートルは飛び退いていたであろう、視覚的暴力の権化のような存在。

しかし、どうしたことか。

今、彼の視力2.0超の眼球を通してその姿を見た瞬間、脳の奥底から「うわぁ、ステーキみたいでジューシーそうだな」という、おぞましくも抗いがたい食欲の奔流が溢れ出してきたのだ。


「(やめろ……。やめてくれ。俺のこころよ、それを『美味しそう』だと認識するな!!)」


煌人は、足元の不味すぎる肉と、目の前の「美味しそうな芋虫」の間で、人生最大のアイデンティティ・クライシスに直面した。

「隠れるのが上手い」という美学を貫いた英雄の再出発。

その本当の試練は、ゴブリンとの戦いでも落下の恐怖でもなく、「バッタや芋虫を美食として受け入れる」という、生理的尊厳の崩壊にこそあった。



「(おじさん、カメレオンは……虫なんて食べな……いや、食べるよな……カメレオンだもんな……)」



泥にまみれた煌人の頬が、葛藤のあまり複雑な虹色に明滅した。

第3話公開しました!1話から3話まで僕の作品の中では1話あたりの文字数が多いんですけど、読者の皆様はどう感じていますか?感想でもTwitterでも意見を聞かせてもらえるとありがたいです。明日(2/14)も同じ時間に第4話公開予定です。

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― 新着の感想 ―
とても面白かったです! 安全なタクシーとはまた面白い表現でした笑 文字数の話ですが、今の感じ自分的には少し多めに感じますが、それでも不快にはなりません。そして、この話はカメレオンの話だと思いますので、…
爬虫類のサガをどうするのか…が注目ポイントですね
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