第1話「おじさんは、隠れるのが上手いんだ」
東京の空は、市崎煌人の心境を映したかのように突き抜けるほど青かった。
大学4年生の2月。就職活動という名の長いトンネルを抜け、手元には第一志望だった中堅商社の内定通知がある。卒論も無事に受理され、あとは卒業式を待つばかり。まさに「人生のボーナスタイム」を謳歌している真っ最中だった。
「……にしても、なんで俺がここにいるんだよ」
煌人は、上野のほど近くに位置する「東京箱星美術館」の重厚なエントランスを見上げ、小さくため息をついた。
現在、この美術館では異例の企画展が開催されている。
『は? 転生したら食洗機だった』展。
SNSから火がつき、アニメ化・映画化まで果たした、今や世界的人気を誇るライトノベルの原画・設定資料展だ。
煌人自身、サブカルチャーに疎いわけではない。だが、「転生したら〇〇だった」というジャンルの多発には、正直言って食傷気味だった。
「剣になったり、スライムになったり……今度は食洗機か。結局、中身が最強なら何だっていいんだろうな」
そんな冷めた思考が、彼の根底にはあった。
それなのに今日ここに来たのは、中学時代からの親友・佐藤に「どうしても外せない用事ができた。限定グッズの完売が怖いから、下見ついでに展示の様子を実況してくれ!」と拝み倒されたからだ。
「断りきれない自分の性格、社会人になる前に直すべきかもな……」
煌人は苦笑いしながら、チケットを提示して館内へ足を踏み入れた。
館内は、平日にもかかわらず若者や外国人観光客で溢れかえっていた。
壁一面に展示された美麗なイラスト。主人公である「食洗機」が、その洗浄機能を駆使して異世界の毒や呪いを浄化し、聖女たちを救う名シーンの数々。
周囲のファンたちは「このシーンの作画、神すぎる!」「食洗機のノズルの角度、設定資料で見るとエグいこだわりだな」と目を輝かせている。
煌人はスマートフォンを片手に、展示物を写真に収めて佐藤に送る。
「おい、食洗機の内部構造の図面、撮ったぞ。満足か?」
即座に返ってくる、興奮したスタンプと感謝のメッセージ。
(……何がいいのか、さっぱり分からん)
煌人は人混みを抜け、少し静かな展示室へと歩を進めた。
そこは、物語の結末に近い「最終決戦」のラフ画が飾られているコーナーだった。
「『転生したら』なんて、結局は今の人生をリセットしたい奴の幻想だろ。俺は……今のままで十分だよ。このまま卒業して、働いて、たまに旅行して。それが一番だ」
煌人は、自分の手のひらを見つめた。
内定先の研修でもらった、少し高価なボールペンのインクが、人差し指に小さく滲んでいる。これが自分の現実であり、掴み取った未来だ。
だが。
その「現実」が、物理的な音を立てて崩れ始めたのは、その直後のことだった。
「キャァァァァァッ!!」
静寂を保つべき美術館に、裂帛の叫び声が響き渡った。
続いて、ドタドタと複数の人間が走り回る靴音。
「警察だ! 警察を呼べ!!」
「避難しろ! 全員、外へ出ろ!!」
煌人の思考が、一瞬停止する。
(……演出か? いや、違う)
空気の震えが、肌に刺さるような鋭さを帯びている。これは熱狂ではない。本物の「恐怖」だ。
人混みが逆流し、出口へと殺到する。煌人は突き飛ばされそうになりながらも、壁際を這うようにして、人々が逃げてくる「源流」の方へと視線を向けた。
そこにあったのは、煌びやかな美術品ではなく、あまりにも無機質で、場違いな「箱」だった。
中央の展示台の足元に、それは置かれていた。
大きさは弁当箱ほど。
金属製のケースからは赤と青の導線が複雑に絡み合い、むき出しの基板には、デジタル数字が赤い光を放ちながら、冷酷に時を刻んでいる。
『02:15』
「爆弾……?」
誰かが言ったその言葉が、煌人の脳内で反響した。
周囲を見渡すと、先ほどまで「食洗機の魔法」に熱中していた人々が、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
美術館の職員や、ベテラン風の管理人が駆け寄ってくるのが見えた。
(よかった。プロが来た。これで助かる……)
煌人は安堵しかけた。
管理人は、その手にずっしりと重そうな、金網さえ断ち切りそうな大型のボルトクリッパー(ハサミ)を握っていた。それで爆弾の線を切るつもりなのだ。
しかし、管理人の顔を見た瞬間、煌人の背筋に冷たい水が走った。
管理人の顔面は蒼白で、歯の根が合わないほどに震えていたのだ。
「……無理だ。こんなの、マニュアル通りじゃない。逃げるぞ! 命が一番だ!!」
管理人は、手に持っていたハサミを放り出すように捨てると、脇目も振らずに出口へと走り出した。他の職員たちもそれに続く。
誰も、爆弾を止めようとはしなかった。
美術館も、展示されている原画も、歴史も。
死の恐怖の前では、すべてがガラクタに等しいことを、彼らの背中が物語っていた。
「待てよ……え……?」
煌人の足は、地面に縫い付けられたように動かなかった。
逃げなきゃいけない。わかっている。
だが、膝が笑い、呼吸の仕方を忘れたかのように胸が苦しい。
『01:30』
静まり返った展示室に、電子音だけが虚しく響く。
煌人は、死ぬのか。
せっかく勝ち取った内定も、これから始まるはずだった春休みも、すべてがこの無機質な箱によって「リセット」されてしまうのか。
その時だ。
電子音の合間を縫って、微かな、掠れたような声が聞こえてきたのは。
「……うえぇ……っ……ひっ……」
爆弾の設置された展示台の裏。死角になっている場所に、小さな影がうずくまっていた。
『01:20』
赤いデジタル数字が、煌人の網膜に焼き付くように明滅している。
逃げろ。脳の全細胞がそう叫んでいる。だが、腰から下の感覚が消失したかのように、足が震えて一歩も動かない。
「はは……なんだよ、これ。ドラマかよ……」
乾いた笑いが漏れた。内定をもらった時、あんなに強固に感じられた自分の「未来」が、今は薄い紙細工のように頼りない。
視界の端で、管理人が捨てていった大型のハサミが冷たく光っている。
その時だ。
展示台の影から、震えるような小さな「音」が漏れてきた。
「……パパ……ママ……」
心臓が跳ねた。
煌人は、まるで錆びついた機械のように首を動かし、音のする方を見た。
展示台の向こう側、死角になっている床に、一人の少年が座り込んでいた。
小学校低学年くらいだろうか。紺色のランドセルを背負ったまま、両手で顔を覆い、声を押し殺して泣いている。
「……っ!」
煌人の呼吸が止まる。
少年は、恐怖のあまり過呼吸気味になり、動けなくなっているようだった。周りの大人たちは、パニックの中でこの小さな影に気づかず、自分たちの命だけを抱えて外へ飛び出していったのだ。
(助けなきゃ。……いや、無理だ。俺だって怖い。今すぐ走れば間に合う。この少年を抱えて走る余裕なんて……)
冷酷な計算が頭をよぎる。
だが、少年の小さな背中が、爆弾の刻む電子音に合わせてビクビクと震えるのを見た瞬間。
煌人の脳裏に、死の間際の「食洗機」のラフ画がフラッシュバックした。
――「誰かを救うのに、理由なんていらない」
そんな物語の王道な台詞が、今は酷く重く、呪いのように心に刺さる。
「……動け。動けよ、俺の足……っ!」
煌人は自分の太ももを拳で思い切り殴りつけた。
痛みが神経を走り、麻痺していた感覚が無骨に呼び戻される。
彼は這いつくばるようにして、一歩、また一歩と、少年の方へ膝を引きずりながら進んだ。
床に落ちた誰かのパンフレットを踏みつけ、展示ケースの角で肩を擦り、必死に距離を詰める。
爆弾までの距離、わずか数メートル。
死に最も近い場所へ、煌人は自らの意志で近づいていく。
「……おい。少年」
喉が張り付いて、声が掠れた。
少年がビクッと肩を震わせ、顔を上げる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔。その大きな瞳に、恐怖で顔を引き攣らせた煌人の姿が映った。
「お、……おじさんと、一緒に……」
『01:05』
「おじさんがいるから、大丈夫だ。少年は、助かるよ」
煌人は、一生で一番不器用で、そして一番優しい嘘を吐きながら、精一杯の微笑みを作った。
その顔は、恐怖で今にも泣き出しそうだったが、震える腕でしっかりと少年の小さな体を抱き寄せた。
『00:55』
デジタル数字のカウントダウンは、煌人の心音を追い越すような速さで刻まれていく。
抱き上げた少年の体は驚くほど軽く、そして小刻みに震えていた。その体温を感じた瞬間、煌人の中で「自分一人が逃げ出す」という選択肢は完全に消滅した。
「少年、落ち着いて。……パパかママの電話番号、わかるかな?」
煌人は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。画面には卒業旅行の計画を立てていたグループチャットの通知が躍っている。数分前まであんなに大切だった「日常」が、今は遠い銀河の出来事のように思えた。
「う、うん。……言えるよ」
少年は、煌人の胸元に顔を埋めたまま、必死に数字を口にした。その健気な声に、煌人は強く唇を噛む。
番号を打ち込み、発信ボタンを押す。コール音が鳴る間、煌人は出口の方を睨みつけた。そこには陽光が差し込み、自由な世界が広がっている。だが、ここから出口まで、子供を連れて安全圏まで走り切るには、あまりにも時間が足りない。
『――もしもし!? 悠真!? どこにいるの!?』
スピーカーから漏れたのは、狂乱に近い女性の悲鳴だった。
少年が「ママ……!」と声を上げた瞬間、煌人はスマートフォンのマイクを自分の方へ向けた。
「お母さん、落ち着いて聞いてください。僕は今、息子さんと一緒にいます」
『あなた、どなたですか!? 悠真を、悠真を助けてください! お願い、お願いですから……っ!』
「……約束します。この子は、必ず返します」
煌人の声は、自分でも驚くほど静かだった。過度の緊張が、逆に彼に冷徹なまでの冷静さを与えていた。
「今、息子さんに代わります。出口の外で待っていてください。絶対に、戻ってこないでください」
煌人がスマホを差し出すと、少年――悠真は、小さな手でそれを握りしめた。
「ママ! おじさんが助けてくれるって! うん、今から行くよ。……うん、分かった!」
悠真の顔に、希望の光が宿る。子供にとって、親の声は何よりも強力な魔法だった。電話を切った後、悠真は煌人を見上げ、「僕、電話かけれたよ!」と少しだけ誇らしげに言った。
「ああ、すごいな。俺がスマホを持って使いこなしたのは高校生になってからだぞ。少年は天才だな」
煌人は悠真の頭を優しく撫で、そのまま彼を出口の方へと促した。
「さあ、行け。ママが待ってる。いいか、絶対に後ろを振り向くなよ。全力で走るんだ」
「おじさんは? 一緒に行かないの?」
「……おじさんは、ちょっとあそこの『箱』に用事があるんだ。すぐ後を追うから、先に行ってろ」
悠真は一瞬不安そうな顔をしたが、煌人の強い眼差しに押されるように頷いた。
「分かった! おじさん、あとでね!」
小さな背中が、光の射す出口へと駆け出していく。
それを見送った瞬間、煌人の顔から「偽りの余裕」が剥がれ落ちた。
膝から崩れ落ちそうになるのを、傍らに落ちていた展示用の柵を掴んで耐える。
視線を戻せば、そこには死を振りまく機械が、無感情に時を刻み続けている。
『00:40』
「……さて。おじさん、かっこつけすぎたかな」
煌人は、管理人が捨てていった大型のボルトクリッパー――死への片道切符を掴み、爆弾の前へと戻った。
少年の足が安全圏に届くまでの時間を稼ぐ。
そのためには、この「赤」と「青」の運命を、自らの手で切り拓かなければならない。
『00:35』
悠真の足音が遠ざかり、美術館の広大な空間には、死を宣告するメトロノームのような電子音だけが残された。煌人は、冷たい床に膝をつき、爆弾の心臓部を覗き込む。
手には、管理人が捨て去った重量感のあるボルトクリッパー。ずっしりとした冷たさが、これが映画のセットではなく、現実の殺戮兵器であることを突きつけてくる。
「赤と、青……か。ベタすぎるだろ」
目の前には、鮮やかな二色の導線が対照的に並んでいる。
一般的に「赤」は爆発、「青」は解除。そんなフィクションの定説が頭をよぎるが、この不条理な状況でそれを信じるほど、煌人はおめでたくはなかった。だが、何もしなければ悠真が安全圏に逃げ切る前に、この建物ごとすべてが瓦礫と化す。
「運命の赤い糸……なんて、今の俺には似合わないな。なら、消去法で青だ」
煌人は奥歯を噛み締め、震える手でボルトクリッパーの刃を青い導線に宛がった。
金属の冷たさが導線の絶縁体に触れる。深呼吸。肺が焼けるような緊張感の中で、彼はゆっくりと力を込めた。
――その時だった。
刃先が青いビニールをわずかに切り裂いた瞬間、煌人の目は驚愕に見開かれた。
剥がれた青い皮膜の下から覗いたのは、銀色の銅線ではない。
鮮血のように禍々しい、もう一本の「赤い絶縁体」だった。
「……は……?」
慌ててハサミを引き抜き、手袋越しにその部分をこすり上げる。
青い塗装は、まるで安物のメッキのようにボロボロと剥がれ落ち、その下から完全な「赤」が姿を現した。
煌人は絶望に叩きつけられた。
右に赤。そして、左にも赤。
どちらを切っても正解なのか、あるいはどちらを切っても終わりなのか。この爆弾を作った者の、歪んだ悪意が透けて見えるようだった。
「ふざけるな……。嘘だろ、こんなの……!」
『00:15』
思考が白濁する。脳が「答えがない」と悲鳴を上げている。
だが、時間は待ってくれない。赤いデジタル数字は、無慈悲に一桁へと突入しようとしていた。
もし今切って、即座に爆発したら?
出口に向かっている悠真は? まだ建物の近くにいるかもしれない母親は?
爆風は、ガラスの破片は、彼らを無傷では済ませないだろう。
「ギリギリまで待つ……。少年が、一歩でも遠くへ行けるように」
『00:10』
汗が目に入り、視界が滲む。
煌人はボルトクリッパーを握り直した。
論理も、知識も、この極限状態では何の役にも立たない。
残されたのは、22年間共に歩んできた自分自身の肉体への信頼だけ。
『00:05』
「……。……。……。」
『00:03』
煌人は、内定通知を掴み取ったときも、卒論を書き上げたときも、いつも自分を支えてきた右手にすべての意識を集中させた。
この手は、商社で世界を相手に握手をするはずだった手だ。
この手は、いつか愛する誰かと繋ぐはずだった手だ。
「俺の利き手だ……。信じるぞ、右!」
『00:01』
「おおおおおぉぉぉぉ!!!」
煌人は吠えた。恐怖を、未練を、すべてを吐き出すような絶叫。
右側の赤い導線に向けて、ボルトクリッパーを全力で閉じ合わせた。
パチン、という乾いた切断音。
それと同時に、視界を埋め尽くしていた赤いデジタル数字が、漆黒へと消えた。
静寂。
鼓動の音だけが、耳の奥で爆音のように鳴り響いている。
煌人は、生きていた。
「……止まった……?」
全身から力が抜け、ボルトクリッパーが床に転がった。煌人は荒い呼吸を繰り返しながら、腰を抜かしたまま天井を仰いだ。
勝利した。運命に、悪意に、死に。
内定先の研修で覚えたてのネクタイの締め方なんて、今のこの達成感に比べればゴミのようなものだ。
「はは……勝った。おじさんの、勝ちだぞ、少年……」
煌人の顔に、安堵の微笑みが浮かぶ。
だが、その微笑みが凍りつくまで、わずか数秒の猶予も残されていなかった。
天井のスピーカーから、不気味なノイズが走る。
そして、彼が止めたはずの「箱」が、まるで生き物のように別の音を奏で始めた。
――ピー、ピー、ピー、ピー。
その音は、解除の合図ではない。
真の地獄が、上空から降り注ぐための「呼び鈴」だった。
電子音ではない。それは、何かが空気を切り裂き、高速で回転しながら落下してくるような、物理的な風切り音を伴う「警告」だった。
「……? なんだ、この音……」
煌人が再び天井を仰いだ瞬間、世界がスローモーションに切り替わった。
美術館の巨大な天窓。そこを突き破り、無数のガラスの破片がダイヤモンドの粉塵のようにきらめきながら舞い落ちてくる。そしてその中心、光を背負って降ってきたのは、無機質で黒い、巨大な金属の塊だった。
それは、煌人が命がけで解体した「箱」など比較にならないほど巨大で、圧倒的な破壊の質量を伴っていた。
「……そうか。あれは……」
煌人の脳が、死の直前の超活性化によって、残酷な真実に辿り着く。
自分が必死に線を切り、止めようとしていたあの小さな箱。あれは爆弾そのものではなかった。特定の時間に、正確に「ここ」へ死を誘導するための、ただのビーコン(標的信号)に過ぎなかったのだ。
赤を切ろうが青を切ろうが、タイマーがゼロになった時点で、真上の空域からこの「本物」が投下される仕組みになっていた。
自分が線を切って時間を止めたのは、解除ではなく、ただの「着弾確認」のサインに過ぎなかった。
「……ハハ、最後まで……報われないな、俺……」
落下する爆弾が床に触れるまで、あと数ミリ。
網膜に焼き付いたのは、かつて見たどの美術品よりも完成された、暴力的な死のフォルム。
次の瞬間、世界は「音」を失い、純白の閃光と、すべてを飲み込む紅蓮の業火に塗りつぶされた。
ドォォォォォォォン!!
猛烈な衝撃波が、煌人の骨を砕き、内臓を揺らし、意識を肉体から引き剥がそうとする。
オレンジ色の炎が、津波のように視界を飲み込んでいく。熱いという感覚すら一瞬で通り越し、ただ自分が「炭」へと変わっていく情報だけが脳に流れ込んできた。
展示されていた『食洗機』の原画が、熱風で灰へと変わっていく。
内定先のパンフレットが、火花となって舞い上がる。
積み上げてきた22年の月日が、爆心地の熱量によって蒸発していく。
(ああ……俺、ここで死ぬんだ。……でも……)
意識の端で、不思議と後悔はなかった。
この炎の中に、あの少年はいなかった。
この衝撃の中に、あの母親の悲鳴は混じっていなかった。
自分が「標的」の傍に立ち尽くし、時間を稼いだおかげで、死の矛先は自分一人に絞られたのだ。
炎が視神経を焼き切る直前、ポケットの中でスマートフォンが激しく振動した。
それは、死神からの呼び出し音か、あるいは、世界でたった一人、自分の名を呼ぶ者の声か。
煌人は、感覚の消えゆく右手を必死に動かし、炎の渦中でその端末を掴み取った。
視界はすでに、単なる「赤」ですらなくなっていた。網膜を焼く白熱の光と、内臓を直接叩き割るような爆風の圧力。市崎煌人の肉体は、物理的な限界をとうに超え、ただ「少年を救った」という精神の残火だけでその場に繋ぎ止められていた。
その時、手の中で震えるスマートフォンが、地獄の底で鳴り響く唯一の福音のように感じられた。非通知設定。しかし、煌人にはわかっていた。それが誰からの、どんな報せであるかを。
指先の感覚はもうない。だが、彼は「念じる」ことで通話ボタンを押し、血と灰に塗れた端末を耳元へと寄せた。
『――もしもし!? おじさん? 聞こえてる!? 僕、悠真だよ!』
スピーカーから溢れ出したのは、先ほどまでの絶望的な泣き声ではない、弾けるような安堵に満ちた少年の声だった。その背後からは、母親の泣き崩れるような嗚咽と、遠くで響く救急車のサイレン、そして「よかった、本当によかった……」という祈りの言葉が混じり合って聞こえてくる。
「……ああ……。聞こえてるぞ、少年。……無事だったんだな。……よかった」
煌人の声は、もはや声の体をなしていなかった。喉は熱風に焼かれ、肺は煙で満ちている。それでも、彼の口元には、人生で最も穏やかな、そして最も誇らしい微笑が浮かんでいた。
『うん! パパとママに会えたよ! おじさん、ありがとう! ありがとう! 今、どこにいるの? 警察の人たちが、中には誰もいないって言ってるけど、おじさんはもう逃げたんだよね?』
悠真の言葉が、煌人の胸を鋭く刺す。外はもう、安全な世界なのだ。少年は、これから始まるはずだった煌人の「春休み」よりも、ずっと長く、輝かしい未来へと一歩を踏み出した。その事実だけで、この全身を焼く痛みすらも、尊い対価のように思えた。
「……ああ……。おじさんも、もう脱出してるよ。……心配するな」
煌人は、自身の崩れゆく意識を繋ぎ止め、必死に「日常のトーン」を装って嘘を吐いた。今、少年を悲しませてはいけない。彼の記憶の中に残る「おじさん」は、炎に巻かれた犠牲者ではなく、颯爽と彼を救い出したヒーローでなければならない。
『本当? でも、僕、出口のところでずっと見てるけど、おじさんが出てくるの見えないよ。どこにいるの? どこ!?』
少年の必死な声。煌人は薄れゆく視界の端で、燃え盛る美術館の天井を見上げた。瓦礫が崩れ、もはや出口への道などどこにも存在しない。彼は一人、炎の檻の中で完結しようとしていた。
「はは……。見えないか? ……当然だよ。言わなかったっけ。おじさんはね……隠れるのが、すごく上手いんだ」
『え……?』
「……おじさんの正体は……カメレオンなんだよ。どんな場所にも溶け込んで、誰にも見つからないように姿を消せる。……だから、見えなくて当たり前なんだ」
カメレオン。
それは、彼を死に追いやったこの「展覧会」への皮肉であり、同時に、一人の少年を救うために「自分を消した」彼自身の生き様そのものだった。
『カメレオン……? おじさん、カメレオンさんなの?』
「そうだ……。だから、もうおじさんを探さなくていい。……少年、最後におじさんからのお願いだ。聞いてくれるか?」
『……うん』
「世界には……生きたくても、生きられない人が……たくさんいるんだ。だから、おじさんと約束しろ。……君は、今を、大切に生きるんだぞ。……それが、カメレオンのおじさんからの……最後の、約束だ……」
その言葉を吐き出した瞬間、煌人の意識から「重力」が消えた。
自分の体が熱を失い、粒子となって風に溶けていくような感覚。スマートフォンが手から滑り落ち、液晶画面が炎の中に飲み込まれていく。
『おじさん? おじさーん!』
遠ざかる少年の声を背に、煌人は最後の一息を吐き出した。
「……またな。……22歳で、おじさんを自称するのは……早かったかな……」
最後に残ったのは、後悔ではなく、透き通るような満足感だった。
市崎煌人の物語は、美術館に響く爆音と共に、一度幕を閉じた。
それから俺は死んだ。はず……
意識が、まるで深い沼の底から気泡となって浮かび上がるように、ゆっくりと、しかし確実に「覚醒」へと向かっていく。
まず感じたのは、暴力的なまでの「静寂」だった。
つい数秒前まで鼓膜を震わせていた爆音も、皮膚を焼き焦がしていた業火の熱量も、すべてが嘘だったかのように消え失せている。代わりに、肺を満たすのは、湿り気を帯びた土の匂いと、嗅いだこともないほど濃密な「生の樹木」の香りだった。
(……生きてる……のか……?)
煌人は、鉛のように重い瞼をこじ開けた。
その瞬間、彼の脳に怒涛のような視覚情報が流れ込んできた。
「……っ、なんだこれ!?」
叫ぼうとしたが、声にならない。ただ、喉の奥が小さく鳴っただけだった。
それよりも異常なのは、自分の「視界」だ。
人間の視界は、通常180度から200度程度のはずだ。しかし今、煌人が見ている世界は、文字通り「死角」が存在しなかった。
前方にある巨大なシダ植物の葉脈。
後方で風に揺れる、不気味な青色の花。
それらが同時に、独立したパノラマ映像として脳内に直接投影されている。しかも、視力がいいというレベルではない。数メートル先の葉の上に止まっている小さな羽虫の、足の毛一本一本までが、顕微鏡を覗いているかのように鮮明に、高解像度で見えるのだ。
(落ち着け……落ち着け、市崎煌人。まずは状況を整理しろ……)
必死に自分に言い聞かせるが、体に力が入らない。
いや、違う。
「立ち上がる」という概念そのものが、今の自分の肉体には適用できないことに気づく。
這いつくばっている。地面に近い。視点が異常に低い。
土の冷たさが腹部に伝わってくるが、その感触は人間の皮膚のそれではなく、硬質でザラついた、鱗のような何かに覆われている感覚だった。
「三途の川……を、渡り損ねたのか?」
煌人は、自分の「手」を見ようとした。
視線を動かそうとした瞬間、再び違和感が彼を襲う。
右の眼球と左の眼球が、互いに全く別の方向を向いて回転したのだ。右目は上空を回る奇妙な鳥を追い、左目は自分の手元――かつて手だった場所を捉える。
そこに、かつての内定を勝ち取った右手の面影はなかった。
代わりにあったのは、二本の指が前を向き、もう二本の指が後ろを向いた、ペンチのような形をした奇妙な「四肢」。
それは、深い緑色と茶色が混ざり合った、周囲の枯れ葉と寸分違わぬ色に変色していた。
「……嘘だろ……。まさか……」
煌人の脳裏に、あの最期の瞬間が蘇る。
泣きじゃくる少年に向かって、自分を納得させるために吐いた「優しい嘘」。
『おじさんは、カメレオンなんだよ』
あの言葉は、単なる嘘ではなかったのか。
神様だか、それともこの世界のシステムだかが、死にゆく一人の青年の遺言を「真実」として受理してしまったとでもいうのか。
自身の背中に感じる、ゴツゴツとした隆起。
口の中に収まっている、異様に長くて強靭な筋肉の塊――「舌」の存在。
そして、周囲の景色に合わせて、自分でも意識しないうちに肌の色がじわじわと波打つように変化していく生理現象。
(……あはは……。笑えない……全然笑えないぞ……)
煌人は、自分の置かれた状況を、かつてないほど「高解像度」な視界で突きつけられた。
ここは東京箱星美術館ではない。
そこにあるのは、見たこともない巨大な樹木と、魔力のような淡い光を放つ植物が自生する、未知の原生林。
『おい!転生したらカメレオンなんですけど?』
就活を終え、未来を夢見た22歳の大学生、市崎煌人。
彼は今、異世界の片隅で、体長わずか20センチほどの「世界で唯一のカメレオン」として、文字通り第二の人生――いや、「二匹目」の人生をスタートさせていた。
新連載です!完全に不定期です!転スラに憧れすぎて異世界転生しちゃいました!




