記憶のガリ
「え? ガリだけ食べに寿司屋に行ったの?」
リスナーから届いたメッセージに、京花は思わず笑ってしまった。
「世田谷・等々力の『栄寿し』にある、たまり漬けガリ。
東京で生まれて東京で育ったのに、こんなガリを今まで知らなかった自分が恥ずかしい。甘くない、生姜の風味が立つ、でも尖ってない。これが東京の味だって初めて思いました。」
ガリ。
それは寿司の脇役として語られることが多い。
しかし、脇役には脇役の矜持がある。
寿司の合間に口を整える存在。
それだけで終わらせるには惜しい仕事が、そこにはある。
―――
桜は散り始めていた。
アスファルトには花びらの吹き溜まりができ、通り過ぎる風がそれをふわりと舞い上げる。
収録を終えたスタジオで、千紘がイヤモニを外してため息をついた。
「南波の記事、見た?」
京花は黙って頷いた。
記事のタイトルは「東京の勘違い土産を検証する」。
玉子焼のおかきの写真の下に、「感傷で街は救えない」という彼の辛辣な言葉が並んでいた。
「ああいう言い方、マジでムカつくな!。」
颯がスマホを睨みながらぼやく。
京花は何も言わず、ただ指先でマイクの端をなぞる。
「でも、反論するほど、彼の思う壺ってやつだよね。」
千紘の声は冷静だった。
「それに、この記事、るいさんのコメントまで引用してる。対決を煽ってるようにしか見えない。」
その言葉に、京花の胸の奥がざわついた。
るいはどう感じているのだろう。
この騒動を、彼女はどのように乗り越えるのだろうか。
等々力駅から少し歩いた先、住宅街のなかに『栄寿し』はあった。
大通りの喧騒から離れた静かな通り。
木の引き戸と、白い暖簾が出迎えてくれる。
引き戸を開けると、木の香りとともにほのかに酢飯の匂いが漂ってきた。
カウンターの奥には、小さなガラス瓶に活けられた山吹の枝。
桜でもチューリップでもない、控えめな黄色が、店の雰囲気に静かな品を添えている。
壁には手書きの品書きが並び、その端に「春の光もの」と墨文字が踊る。
時がゆるやかに流れていて、京花は思わず小さく息をついた。
「いらっしゃい!おひとりですか?たぶんガリ、でしょ?うちのをお目当てに来られる方、最近増えたんだよね。」
店主は初老の穏やかな男性で、カウンターの中からにこやかに答えた。
ガリだけを食べに寿司屋へ。
一見、奇妙な行動に思えるが、実際に目の前に置かれたそれは、ただの付け合わせとは呼べなかった。
琥珀色の生姜。薄く、丁寧にスライスされ、醤油の香りがほのかに立ち上る。
一枚口に入れると、生姜特有の辛味がまず来る。
そのあとに続くコクが圧倒的。
まろやかな酸味、熟成されたたまり醤油の深み、それを受け止める生姜の歯応え。
「これは、まるで味の間奏みたい。」
すべてが主張しすぎない。
でも、口のなかを整えるという意味では寿司よりも寿司らしいのかもしれない。
「甘くないって、珍しいですよね?」
そう尋ねると、店主は微笑んで答えた。
「昔はね、ガリに砂糖を使わないことも多かったんですよ。うちは江戸前の流れを守っててね。魚の旨味を邪魔しないようにってさ。あれ、美味しかったじゃなくて、なんか全部美味しかったって言われるようにって、ね。」
その言葉に、京花は深くうなずいた。
東京という街の味は、ときに控えめで、ときに鋭い。
だが、記憶に残るという意味では、目立たない味こそが残っていたりする。『栄寿し』のガリは、主役を引き立てるという役割を超え、それ自体が東京の味として成立していた。
「しっかしガリを取材に来るなんて人なんて、あんたが初めてだよ。」
店主の白石さんはそう言って笑った。けれどその笑顔には、どこか嬉しさと照れが混ざっていた。
「ほら、変わってるって言われたっすね。」
隣でそう言ったのは颯だった。
春らしい薄手のジャケットを羽織り、頬には店のぬくもりがほんのりと残っていた。
その向こうでは、千紘が味噌汁の湯気をぼんやり見つめながら「この店、時間が止まってるみたい」とつぶやく。
水島はというと、カウンター端でガリを小皿に分けながら「これ、テイクアウトできたら神」と真顔。
白石さんはその様子を見て笑った。
「若い人がこういうのを面白がってくれるって、なんか嬉しいもんだね。」
「なぜ、たまり漬けにされたんですか?」
京花の問いに、白石さんは手を止めずに応じた。
「うちは父の代からずっと、ガリはたまり。甘くないほうが、魚に寄り添えるっていうのが信条だったんだ。時代が変わってお客さんの好みも変わったけどそこだけは崩さずにやろうと決めてるんだ。」
甘くないという選択は、客ウケを狙うなら外したくなるポイントだ。
しかし、あえてそこに踏みとどまる勇気。
それは保守ではなく、価値観と信念のプライド。
「うちのガリは、握りの間の味の道標みたいなもん。主張しない。でも、ちゃんと方向を示す。主役の邪魔はしないけど、空気だけ整えておく。」
白石さんの言葉に、京花はハッとした。
「それって、なんだか私たちの仕事みたいですね。主役の味を引き立てる。自分たちが前に出すぎるんじゃなくて、味の言葉を聞いて、それをちゃんと届けるっていうか。」
「そうかもしれないね。でもね、今の時代はみんな主役になりたがる。料理人も、それを伝えるあんたみたいな人も。だから、こういう脇役の仕事はどんどん見向きもされなくなる。でも、俺はそれでもいいと思ってる。派手じゃなくても、ちゃんと芯があれば、誰かの心には残るから。」
京花は、南波の「世の中に残るものと、記憶に残るものは違う」という言葉を思い出していた。
たしかに彼の言う通り、栄寿しのガリは世の中を席巻するような味ではない。
しかし、こうして誰かの心に残る味として、静かに存在している。
それは、南波の価値観とはまったく異なる場所にある、もうひとつの正しさ。
―――
その夜の収録、京花はいつもより少しだけ声を落として話し始めた。
「今回、等々力で出会ったのは、甘くないガリでした。寿司の合間にいる存在。でも、それだけで語れない記憶の味。きっと、東京という街が積み上げてきた、控えめな誠実さが、あの一片には込められていた気がします。」
「ガリって寿司の脇にあるもの。でも、ないと寿司の全体がまとまらない。東京にも、そんなまとまりの鍵みたいな人や味がある。今回、等々力で出会ったのはそんなガリでした。」
「名前を主張しないものこそ、ほんとはいちばん、街の芯を支えてるのかもしれません。」
「さて、今回は東京の脇役グルメをテーマに、リスナーの皆様から届いたメッセージをご紹介していきます。」
京花がマイクに向かって言葉を紡ぎはじめると、スタジオの空気がふっと静まる。
今回の収録は、ガリという名もなき主役からはじまった。
それが、リスナーの心のどこかに眠っていた誰かの味を呼び覚ました。
「まずはこちら。『三軒茶屋のとろろ』さんから」
「私にとっての東京の脇役グルメは、母が作ってくれていたお弁当の切干大根の煮物です。メインはいつも違ってたけど、いちばん落ち着く味でした。自分で作ってみたけど同じ味にならなくて、下町のお惣菜屋で似た味を見つけて買って帰るのが習慣です。」
「わかります。メインじゃないのに記憶に残る味ってありますよね。」
千紘が相づちを打ちながら、京花の前に新しいお茶をそっと置いた。
「続いては、『北千住の夕焼け』さん」
「おでんのちくわぶです。子どものころは、なにこれ?味ないって思ってました。でも歳を重ねるごとに、あれがあるだけで落ち着くと感じるようになって、今では自分で買って煮込んでいます。」
「ちくわぶって、無口な食べ物だと思うんです。」
と、京花が笑って言った。
「あんまり主張しない味だからこそ、逆にいつまでも覚えてるんですよね。あとから、じわ〜っと思い出して沁みてくる感じ。」
「もうひとつ紹介させてください。『雑司が谷のタエコ』さん」
「母が入院する前の夜、一緒に飲んだ味噌汁の味が、今も忘れられないんです。豆腐とわかめに、ほんだしだけの、すごく普通の味噌汁。でも、それがうちの味だったんですよね。今も毎朝作ってるんですけど、なんか、ちょっとだけ違う気がして。でも、それでもいいと思ってます。だってその味を作る時間が、私にとって母を思い出す時間だから。」
京花はしばらく黙ってから、そっと言葉をつないだ。
「こういう話を聞くと、脇役って呼ばれる食べ物たちは、実は誰かの中では、ずっと主役だったんだなって思います。」
千紘と颯も静かに頷く。
まるで、今夜は味の話ではなく時間の話をしているようだった。
「今回、たまり漬けガリの話をしたとき、意外なくらい多くのリスナーさん達が何かを思い出したって反響を沢山いただきました。」
「それは控えめで、でも揺るがない味が、どこかで人生の風景と重なるからなのかもしれませんね。」
「東京って、名物に名前があるけど、名もなき味のなかにもちゃんと物語があるんです。」
「今夜、あなたが思い出した名もない味にも、そっと名前をつけてあげてください。それはきっと、自分だけの東京の味になりますからね。」
夜のスタジオ。時計は23時をまわっていた。
録音は続いている。
けれど、誰も喋らない。
静かに流れるBGMだけが、空気の隙間を埋めていた。
まるで、言葉のない言葉がリスナーに届くのを待っているかのように。
「なんか今回、しみたんすよね。」
と、颯がつぶやいた。
京花と千紘は顔を見合わせ、笑った。
「味の話しかしてないのに、なんでだろうね?」
と京花が返す。
「いや、してたのは味の話じゃなくて、記憶の話だったからじゃない?」
千紘がそう言ってお茶を片手にソファに座り直した。
「ちくわぶでしみる日が来るとは思わなかったっす。」
と、颯が苦笑混じりにつぶやく。
「オーバーだなぁ。」
京花が笑う。
「でも、わかるんすよ。派手な味って記憶には残らないこと。じわっと体に染み込んでくるような味のほうが、俺の中にいつもあったんだって気づけるんすよ。」
しばらく、誰も喋らなかった。
静かだったが、それは沈黙ではなかった。
言葉にならないものを各々が噛みしめている時間だった。
千紘が机の端に置かれた録音メモを見ながら言った。
「ガリの話からこんなに広がると思わなかったね。」
「うん。私も正直、ガリで回す30分は苦戦するかと思ってた。」
「でもむしろ、ガリだったからこそ語れたんじゃないっす?」
颯が珍しく深い声でそう言った。
「東京って語られすぎないことで守られてる味、多いんだと思います。」
「ちゃんとあるのに、ちゃんと語られない。でもそれを誰かが拾い上げたとき、すごく深い物語になるって、ね。」
京花は小さくうなずいた。
「派手なうま味じゃなくて、静かなうま味。そのなかに、人の暮らしとか、別れとか、習慣とかが染みてて。」
「だから忘れられないんだね。」
千紘の声は、どこか遠くを見ているようだった。
京花はふとポケットに入れていた小さな付箋を取り出した。
「この間、栄寿しから生姜のたまり漬けを買って帰った夜のこと思い出しちゃった。」
「その日、夫がちょっと落ち込んでて。特別なことはできなかったけど、温かいお茶漬けを作ってあげたの。」
「炊き立てのごはんに梅干しとそのたまり漬けガリをのせて。最後に煎茶をそっと注いだら、これ、東京のやさしさだねって笑ってくれたの。」
「黙って食べてるだけなのに、気持ちがちゃんと伝わる料理ってあるんだね。あれは私の中でもずっと忘れられない夜の記憶の味かもしれない。」
颯も千紘もそっと目線を落とした。
言葉にしなくてもそれがどれだけ京花にとって大事な記憶か伝わってきた。
京花は録音メモに手を伸ばしながら次のページをめくった。
「次は…煮びたしとか、炊き込みごはんとか?東京の余白を感じる味をもっと探していこうと思ってる!」
「余白?」
「うん。主張のないおいしさ。それをちゃんと主張として残していくのが、私たちの番組の役割だと思うから。」
颯が静かに言った。
「きっと、それは優しさを残すってことかもしれないっすね!」
録音ボタンが静かに光る。
京花はヘッドホンをつけ、ゆっくりと息を吸った。
目の前にあるのはリスナーからのメール、取材でのメモ帳、そして、小さな袋に入った、たまり漬けのガリ。
「今回もも東京の味をひとつご紹介致しました。」
「たまり漬けのガリ。それは寿司の隅にある小さな存在。けれど、そこに込められた手間、記憶、想いの深さは、どんな握りよりも心に残りました。」
「私たちはよく名物という言葉を使います。でも、名物って何でしょうか?観光地の名前? 有名店のランキング? SNSの話題性?」
「今回、私は名物とは誰かの心に残っているもの、誰かの暮らしの中で静かに息づいているもの、そういうものだと改めて感じました。」
「東京という街には目立たないけれど、整えてくれる味がある。ガリのように。その存在は、騒がず、誇らず、ただ静かにその場を整える。」
「私たちの暮らしにも、そういう味が必要なんだと思います。騒がないけれど揺るがない。静かだけれど、確かに支えてくれる。」
「それが東京の芯。そして東京を整える味なんだと私は思います。」
「このポッドキャストでは、毎回ひとつずつ、東京のあちこちにある素敵な味を名物と呼びながら紹介しています。リスナーのみなさんの記憶や体験も立派な名物の一部です。」
「なので、ぜひ教えてください。あなたの知ってる東京の味、覚えている東京のお土産、そして、忘れられそうな味も。」
「私たちと一緒に、東京の今を残していけたらうれしいです。」
「今日の東京リアルグルメは、たまり漬けガリでした。さて、次はどんな味に会えるでしょうか?おたのしみに!」
その夜の空気は温かかった。
大きな物語が動いたわけでも、劇的な味の発見があったわけでもない。
けれど、誰かにとっての一番やわらかい記憶を掘り起こすような、そんな夜だった。
―――
午後の等々力。
空気は澄んでいて、街路樹の影が歩道に柔らかく揺れていた。京花は小さな紙袋を手に、『栄寿し』の白い暖簾をくぐった。
「いらっしゃい。ひとりかい?」
「はい。今日はちょっとお礼がしたくて。」
店主の白石さんは、いつものように笑ってカウンターの中から出迎えてくれた。
京花は紙袋から数通の封筒と手書きのメッセージカードを取り出した。
「先日、たまり漬けガリをポッドキャストで紹介させていただいたら、たくさん反響がありまして。」
「これ、リスナーの方々から届いた手紙なんです。皆さんの東京の味を教えてくれて。中には、こちらのガリに心動かされたって人もいました。」
白石さんはゆっくりとそれを受け取ると、しばらく黙ってから静かに言った。
「こういうのってしみるなぁ。でも、なんだか照れくさいや。」
京花は笑った。
「ガリだけを紹介するって最初は不安もあったんですけど、名もない味が誰かの記憶を引き出すんですね。」
そのとき、店の引き戸がカラリと鳴いた。
「こんにちは。今日も、ガリと、少しだけごはんちょうだい。」
白石さんは自然な動きでうなずき、すぐに準備を始めた。
女性は京花の隣の席に座り、そっと京花の顔を見た。
「あなた…?この間、ガリのことで来ていた人ね。」
「はい。あの…覚えていてくださって、嬉しいです。」
女性はゆっくり頷いた。
「若い人がこういう味を大事にしてくれるのは嬉しいわ。」
「私、夫が亡くなってから、ここで同じものを頼むのが習慣になったの。あの人のためにじゃなく、私が忘れないでいるためにね。」
京花は何も言わずにただその言葉を受け止めた。
白石さんが丁寧に並べた小皿を二人の前に置いた。
生姜のたまり漬けの色は光の中で一段と深く見えた。
「私、夫にこのガリでお茶漬けを作ったんです。これは東京のやさしさだって言ってくれて。あの一言で私の中でもこの味が特別な記憶になりました。」
女性はそっと手を伸ばし、箸で一枚のガリを口に運んだ。
「ふふ。それわかるわ。素敵なお話ね。」
カウンターに静かな笑みが広がった。
店を出た帰り道、京花は空を見上げた。夕暮れの光にあのたまり漬けの色が少し似ていた。
―――
翌日、日向るいは自身のSNSに一枚の写真を投稿した。
【写真】
等々力の街並みを背景に、小さなガラスの器に盛られた美しいガリ。琥珀色のガリはまるで宝石のようにも見える。その横には、ガリと柚子のゼリー寄せ、そして白い米を模したパンナコッタが並んでいる。
【テキスト】
《東京の脇役は、ただの脇役じゃない。静かな存在感と、どんな主役にも負けない芯の強さ。》
《等々力で出会った、ガリの新しい可能性。味の整え方は、人によって違う。》
《#ガリにだって、物語がある #東京の裏側 #新しい東京の味》
この投稿は瞬く間に拡散された。
「るいさん、やっぱり京花さんの番組、聴いてたんだ!」
「ガリをこんなに美しく表現するなんて、さすが。」
「東京にはいろんな表現の仕方があるってことだね。」
一方で、南波修司は、この投稿を見ていた。
彼の記事は、予想通りの炎上とアクセス数を生んだ。
しかし、京花がるいと対立しなかったこと、そしてるいが新たな形で「静かな味」を表現したことに、彼は面白さと同時に苛立ちを覚えていた。
「また綺麗事を並べやがって。」
彼はスマホを放り投げ、パソコンに向かう。
次の記事のタイトルを打ち込んだ。
「『東京の味』という名の虚構:ポッドキャスターとインフルエンサーが作り出す『物語』の罠」
彼は、京花がるいを巻き込んだように見える演出に、さらに火をつけようとしていた。
―――
その頃、京花はスタジオのキッチンで、買ってきたガリを細かく刻みながらお茶漬けを作っていた。
「ねえ、これ、るいさんも見てくれるかな?」
千紘にそう尋ねると、千紘はスマホの画面を見せながら言った。
「見てるよ。ほら。」
そこには、るいの投稿への京花のコメントが表示されていた。
《私も同じ味に会いました。静かな味には、言葉にならない物語が詰まってますよね。》
京花のコメントに、るいはただ一つの絵文字で返していた。
それは、穏やかに微笑む顔の絵文字だった。
京花は笑みをこぼし、夜風の中でそっと呟いた。
「また、あの味に会いに行こう。」
街灯の明かりが、その言葉をやわらかく包み込んだ。




