記憶のかりんとう
あの日の対談で、南波の口元の笑みと、るいの落ち着いた声が、まだ胸に残っていた。
「感情派と計算派、真っ二つに割れましたね」と南波が言ったとき、軽く足を組み替え、私を試すように見た。
るいは「違いがあるからこそ面白い」と穏やかに笑った。
その会話の余韻が、なぜか湯島の坂道を歩かせていた。
冬の光が薄く差し込む坂道は、歩くたびに心をゆっくりと引っぱってくる。
石畳は昨夜の霙の名残でわずかに濡れており、京花のブーツの底がしっとりと吸いつく。
坂道脇の梅の木は、まだ硬い蕾を抱えたまま、冷たい空気に耐えている。
吐く息は白くほどけ、坂の下からは自転車のブレーキが擦れる甲高い音がかすかに届く。
遠くの鈴の音が風に混じり、都会のざわめきが遠のいた。
男坂、女坂、無縁坂、切通坂。名前だけで物語を秘めたような坂が、ここにはいくつもある。
京花は、どうしてもこの町を歩いてみたかった。
湯島の静けさは、京花の胸のざわつきを少しだけ薄めてくれる気がした。
きっかけは、一通のメール。
「「京花さん、こんにちは。湯島に、ゆしま花月っていう小さな和菓子屋さんがあって、そこのかりんとうが味も食感も香ばしくて、噛んだときに何かが戻るって感じがするんです。よければ、京花さんにも一度、食べてほしいです。」」
東京都・港区 森野こずえ
以前から何度も番組に感想を寄せてくれているリスナー。
精神安定剤は京花というレビューをSNSに投稿して、密かな伝説になっている、あの人だ。
そのメールを読んだ瞬間、心がほんの少し震えた。
噛んだときに何かが戻るという表現に奇妙な焦燥を覚える。
戻るものなんて自分にはないと思っていたのに。
戻る何かがあると思ってしまったことが怖かった。
ゆるやかな坂を上りながら、息を整える。
湯島の町は相変わらず静かで、午後三時だというのに人通りもまばらだ。
高層ビルや商業施設のざわめきから少し離れただけで、東京はこんなにも声を失うのか。
坂の途中、白いのれんがゆらいでいるのに気づいた。
筆文字で「ゆしま花月」と書かれている。
古びた木造の店構えに、何か、時間が止まったような感覚を覚える。
カラリと引き戸を開けると、甘く焦げたような香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
どこか冬の日のこたつの風景を思い出させる香り。
「いらっしゃいませ〜。」
奥から現れたのは白衣をまとった年配の女性。
髪はきちんとまとめられ、その笑顔は凛とした品がある。
「こんにちは〜。かりんとうを見せていただいてもよろしいですか?」
「もちろんです。ゆっくり見てってくださいね。」
棚には、茶筒のような丸い缶が整然と並ぶ。
中に入っているのは、見慣れた茶色くて太いタイプとは違う。
細身で飴が光って見える琥珀色の棒。
なんとなく声を出しそうな佇まい。
「きれいですね〜。」
「でしょ? 上白糖を煮詰めて飴にして、ちょっと焦がしてるんです。うちは黒糖じゃなくて、あえて白にするのは香りが立ちやすいからなんです。」
試食用のひとつを勧められ、京花はそっと口に含んだ。
歯に当たった瞬間、パリッという軽快な音が響く。
それはまるで薄氷を割るような小さな音だった。
飴の層が舌の上でじんわりと溶け、すぐに上白糖の澄んだ甘みが広がる。
その奥から、焦がし飴のほろ苦さが追いかけてきて、口の中がゆっくりと冬の午後の色に染まっていく。
思っていたよりずっと静かな音だったのに、口の中ではやけに存在感があった。
「静かな音、なのに主張がありますね。」
「ふふ、静かな子ほどよく喋るって言うしね。」
京花は笑った。
「こんなに印象的な味なのに、どうして有名じゃないんだろう?」
「そういうのに興味ないんですよ。私は買いに来るお客様の顔が分かる商売をしたいの。味がどこかに流れちゃうと、顔もなくなってしまうでしょ?」
その言葉を聞いたとき、るいの言葉を思い出した。
「あなたの番組って、リスナーの顔が見える感じがいいよね。数字の先に、人がいるってわかるから。」
対談のあと、控室でそう言われたことを、ずっとしまいこんでいた。
「私、実は東京の味をテーマにしたポッドキャストをやっているものなんです。あっ、ラジオ番組みたいな。」
「あら?声のお仕事をされてるのね?確かに話し方が落ち着いてる。」
「今日はリスナーの方にお勧めされて、ふらっと来ちゃいました。本当は、もっと早く帰るつもりだったんですけど。」
「ふふ。うちのかりんとうが足止めしたのかもね。貴方って、いい感じてるのね。実は昔から、人の時間をちょっとだけ遅らせる味って言われ続けてきたのよ。」
そんなかりんとうは、ガラスの棚の奥でキラキラと輝いている。
声は出さないけど、確かにそこにある。
誰かの記憶の中に、きっといつもいた味。
南波なら「静かなだけじゃ数字は取れない」と笑い飛ばすだろう。
るいは「数字じゃない価値もある」と笑ってくれるはず。
そんな二人の顔が、一瞬、頭をかすめた。
京花はそっと、自分用に小さな丸缶を手に取った。
店の奥にある小さなテーブルに腰かけ、京花はそっと湯呑みを手に取った。
あたたかい焙じ茶。
甘い香りに慣れた舌を、香ばしさがゆっくりと撫でていく。
「かりんとうって、昔はそんなに好きじゃなかったんです。甘すぎる気がして。」
「わかるわ。うちのを食べる人はそういう人が多いのよ。甘いのが苦手。でもこれは別だっていうのよね。」
店主は穏やかに笑いながら、棚の奥からもう一缶を取り出す。
「これは、さざれっていう、砕いたタイプ。歯が弱くなっても楽しめるようにってね。常連さんが歳を重ねても来て頂けるようにって工夫したものなのよ。」
缶のふたを開けた瞬間、軽やかな香ばしさが立ちのぼる。
ごく細い棒状のかりんとうが、まるで鉱石のかけらのように光を反射していた。
「さざれって、さざれ石のさざれですか?」
「そう。砕けても、美しいってことね。ほら、歳を重ねると噛み砕くってことが怖くなるでしょ?でも、味の記憶まで薄まるわけじゃない。だから、かけらで十分味を楽しめるのよ。」
京花は、言葉のひとつひとつを噛みしめるように聞いていた。
味の記憶が残るというのは、つまり、誰かの生きた証がそこにあるということ。
「この味をもう一度食べたい」と願うことは、「あの人に、もう一度会いたい」と願うことと同じ意味を持つのかもしれない。
ガラリ。
入口の引き戸が小さく鳴った。
入ってきたのは、背筋の伸びた小柄な女性。
手には包みがひとつ。
歳の頃は60歳くらいだろうか。
「あら、松崎さん。いらっしゃいませ。さざれですよね?」
「ええ、娘がね、これしか食べないのよ。」
「ふふ。ご入用なら多めに包みましょうか?」
「お願いできるかしら。助かるわ〜。」
京花が2人のやり取りを見ていると、松崎がこちらに目を向けた。
お互い軽く会釈を交わす。
「見ない方ね。観光の方?」
「いえいえ、ちょっとお店に興味があってふらっと立ち寄りました。かりんとうがすごく綺麗で美味しいですよね。」
「そうなのよ。ここのは、味が立ってる。余計なことを言わずに、ちゃんと甘い。それがいいのよ。」
松崎はそう言って、にこりと笑った。
「わぁ、素敵な表現ですね。娘さんはさざれ推しなんですか?」
「実はね、重い病なの。ずっとベッド生活で、食欲もなくてね。それでも、このさざれだけは口の中でゆっくり溶かすように食べてくれたの。味覚は最後まで残るって言うでしょ?」
京花は言葉を失い、手にしていた湯呑みの湯気をただ見つめた。
鼓動の音だけが、静かな店内に響いているように感じた。
湯呑みを持つ指先が、かすかに冷たくなる。
湯気は細く揺れ、まるで京花の心の奥で隠れていた何かを呼び起こすようだった。
娘を想う母の声が、甘さに滲み込んで静かに染みてくる。
言葉にできない温度が、胸の奥でゆっくりと広がっていく。
「それでね、毎週一度、このお店に来るのが私の歩く理由になってるの。ここに来てこの匂いを嗅ぐと、今日も大丈夫って思えるのよね。」
決して大声で語られることはない。
でも確かにある生活の支え。
それが、あの小さなかりんとう。
「お嬢さん、お名前は?」
「京花です。普段は食の話しを仕事にしています。今日はたまたまここにいます。」
「たまたまね。」
松崎は笑った。
「でも、たまたまたって不思議な言葉よね。私達はきっと、自分で思ってるより何かに導かれてる。このお菓子も、そういう味なのかもしれないわね。」
「導かれてる…。」
るいなら、「偶然は仕掛けられるもの」と微笑むだろし、
南波は「そんな運任せじゃ、数字は伸びない」と即答するに違いない。
けれど今の私は、この小さな偶然を信じたい。
京花は、自然と背筋を伸ばしていた。
甘さというのは、柔らかいけれど弱くない。
むしろ、耐える力に近い。
言えなかったこと、忘れようとしていたこと、すべてを包み込んで、それでもちゃんと美味しい味。
そのあとも、店内には数人の客がふらりとやってきては、静かに買い物をして去っていく。
大きな声はなかった。
宣伝も、音楽も。
でも、味が語っていた。
「また来るね」と、言わずに伝えていく。
京花は、ようやく決心がついたようにスマホを取り出した。
「あの、もしよろしければ、ゆしま花月 さんのことを少しだけお話として残させていただけませんでしょうか? 私の番組の中で、どうしても語りたくなってしまいました!」
「ふふ、やっぱりそう来たのね。いいわよ。構わないわ。でも、約束して。派手にしないことが条件よ。」
「もちろんです。静かな味は、静かなまま伝えたいです。」
―――
静かなまま、でも確かに伝える。
その難しさと大切さを、京花は少し知った気がした。
自宅に戻った京花は、キッチンのテーブルに座った。
目の前には、ゆしま花月のかりんとうとお気に入りのほうじ茶。
ノートパソコンには「#湯島の甘さ、声にならない記憶」と仮タイトルだけが打たれたまま。
まだ一行も書けない。
どこから話せばいいのか。
湯島で見た風景、耳にした会話、かりんとうの音や香り、舌ざわり。
そのすべてをどう言葉にすればいいのか。
京花は、湯呑みを手にしたまま考え込んだ。
そのとき、スマホの通知が鳴る。
リスナーの森野 梢からのメール。
「「こんばんは、京花さん。
今日の夕方、湯島花月の前を通りかかったとき、もしかして京花さんじゃないかと思う方を見かけました。
あのお店は、私にとっておばあちゃんとの大切な場所です。
最後に一緒に買ったかりんとうの香りを、今も覚えています。
もし本当に行ってくださったなら、とても嬉しいです。」」
京花はメッセージを読んだまま、動きを止めた。
おばあちゃんの思い出。
その言葉が、胸の奥にしまい込んでいた記憶を静かに揺らした。
祖母は北海道で小さな食堂を営んでいた。
小学生の頃、京花は白い割烹着姿の背中をよく見つめていた。
祖母の煮物や味噌汁は、説明のいらない優しい味だった。
「おばあちゃん、どうしてこの味になるの?」
「わからん。そうなるのさ。」
湯島のかりんとうを食べたとき、あの答えの意味が少しわかった気がした。
理由はいらない。
ただ覚えている。
それが味の記憶。
「ありがとう、おばあちゃん。私、少しわかったよ。」
―――
京花はマイクを手に取り、座り直す。
カラになった湯呑みの横には、皿に盛られた かりんとうの琥珀色が光る。
録音ボタンを押し、数秒の沈黙のあと、マイクに手を伸ばしては、何度も引っ込めた。
伝えたいのか?
ただ残したいだけなのか?
自分でもわからない。
湯呑みの湯気だけが、答えを急かさずに揺れていた。
「このポッドキャストでは、毎回ひとつずつ、東京のあちこちにある素敵な味を、名物と呼びながら紹介しています。リスナーのみなさんの記憶や体験も、立派な名物の一部です。」
言葉を選びながら、目を閉じた。
湯島の坂道。
あの静かな店。
カリッと鳴ったあの音。
そして「また来るね」とは言わなかった、あの松崎の背中。
「今回、私が出会ったのは、声を出さない甘さでした。言葉にしなくても、味が人の人生を支えてることって、本当にあるんです。リスナーの梢さん、情報ありがとう。とても素敵な経験をさせていただきました!」
「なので、みなさん。ぜひ教えてください。あなたの知ってる東京の味、覚えている東京のお土産、
そして、忘れられそうな味も。私達と一緒に、東京の味を残していけたらうれしいです。」
「今回の東京名物は、ゆしま花月さんの琥珀色のかりんとうでした。さて、次はどんな味に、出会えるでしょうか?皆様、お楽しみにね。」
―――
京花は、目の前に置かれたカフェオレのカップにスプーンを回しながら、スマホを片手に開く。
ポッドキャストのリアクション欄には、新しいコメントが届いていた。
> 「湯島の話、最高。言葉にしないからこそ、伝わるってとこ大事」
> 「うちの祖母も、ゆしま花月のかりんとうが好きでした。静かに甘いって言葉が印象的」
> 「さざれの話が素敵でした。
年齢を重ねても、味覚は残るっていい言葉。」
―――
みぞれ混じりの冷たい雨が、窓を細かく叩いていたころ。
事務所では、京花、千紘、編集担当の水島の3人が、温かいコーヒーを手に向き合っている。
千紘がまとめた分析レポートにも目を通す。
「今回は女性30〜50代の反響が高いね。記憶と味という切り口への共感率が過去最高。一方で、地味すぎるという若年層の離脱も若干あり、だね。」
そんなとき、机の上でスマホが震えた。
画面に浮かぶ名前、向坂るい。
胸の奥がざわつく。
《京花さん、お疲れ様。新しい回、聴きました。すごく静かで、やさしい内容ですね。率直な感想を言わせてください。最近、聞き手に委ねすぎじゃないですか?番組の途中で離れるリスナーに、本当に届いているとは思えなくて。私なら、最後まで掴んで離しませんけど。お返事は不要です。》
読み終えて、ため息を吐く。
届く人にだけ届けばいい。
ゆしま花月という店、かりんとうという菓子。
それが、静かな主役に対する礼儀のような気がした。
私は私の道を行く。
それでいい。
湯島のかりんとうが教えてくれたのは、静けさもまた方法のひとつだということ。
数字や再生回数では測れない価値。
それをどう形にして見せるのか?
その答えを探して語ること。
それが私。
「次回は、少し方向を変えてみるのも面白いかも。今回の語らない甘さとは逆に、食べた瞬間に物語を語り出すような味を探す、とか。例えば江戸時代から続く味噌の文化みたいに、背景ごと語れるものもいいかもね。」
千紘の言葉に京花はしばらく考え込んだ。
確かに、それもありかもしれない。
湯島のかりんとうは、静かに寄り添う甘さ。
次は、食べた人が思わず誰かに話したくなるような、力強い味に会いに行くのもいい。
静かな味と、語る味。
その両方を知ってこそ、伝えられる世界がある。
「結局、あのかりんとうの回、京花には手応えあったの?」と千紘。
「うん…あるとは思う。でも、るいさんの言葉が頭に残っててね。水島くんはどう?」
水島は少し笑って、カップを置いた。
「俺はさ、湯島の回の音のバランスでちょっと悩んだんだよ。」
「どこ?」
「沈黙の間の部分。本当は無音でもよかったんだけど、遠くで紙袋がこすれる音を入れておいたんだ。」
「やるじゃん。」
「無音の中に、生活がある感じ。俺は聞こえない甘さより、聞こえない生活にぐっときたんだよね。」
その言葉に、京花は小さく息をついた。
水島は、ただ感じたことを迷わず形にできる。
自分はいつも「なぜ伝えるか」という理由を探してからじゃないと動けないのに。
「ほんと、羨ましいな」と呟いた声は、コーヒーの湯気に溶けて消えた。
―――
京花は番組宛に届いた一通の手紙を開いていた。
差出人は、森野梢。
便箋の文字は、丁寧に揃えられていた。
手紙。それだけで、その思いの重みが伝わる気がした。
京花さんへ
湯島の回を話してくださり、本当にありがとうございました。
あのかりんとうは、祖母が最後に口にしたお菓子です。
ベッドの上で、小さな欠片をゆっくりと舌の上で転がしていた姿を、今もはっきり覚えています。
そのときの祖母は、痛みや不安ではなく、ただ甘さを味わっていました。
番組で「語らない甘さ」と表現してくださったことで、私もその記憶をやさしく受け止められるようになりました。
あの味があったから、私は今でも誰かに甘やかされた記憶を忘れずにいられます。
これからも、味で語ることを続けてください。
これからも味で語ることを続けて欲しいです。
次のお話も楽しみにしています。
森野 梢」
読み終わったあと、京花は手紙を胸に当て、深く息を吐いた。
湯島の静かな坂道、かりんとうの琥珀色、祖母の白い割烹着。
記憶がゆっくりと重なっていく。
「誰かに甘くしてもらえた記憶」という言葉が、胸の奥で静かに広がっていった。
自分がやっていることに、意味なんてないと思った夜があった。
誰に向けた言葉なのか、わからなくなった回もあった。
南波の記事で、るいと私が対立しているように見せられたときも。
るいは一言も反論せず、後から「気にしてない」とだけ言葉をくれた。
その沈黙が私を守ったのか、それとも試されたのか?
今も答えは出ていない。
けれど、こうして誰かの記憶と少しでも交わることができたのなら、それは十分に続ける理由になる。
対談で南波が放った「静かじゃ数字は取れない」という言葉が、また胸の奥で転がった。
るいはあの時、「数字じゃない価値もある」とだけ言った。
湯島のかりんとうは、まさにその証拠。
京花はSNSに投稿した。
> かりんとうって、子どもの頃はただ甘いお菓子でした。
大人になって気づいたのは、その甘さの中に言えなかったことがたくさん詰まっているということ。
言わなかったから続いた関係。
言えなかったから忘れられない人。
静かな味は、そんな記憶をそっと呼び起こしてくれました。
―――
その夜、向坂るいのSNSにこんな投稿が流れてきた。
【今夜のひとこと】
話さなかったことで残る記憶もある。
#静かに、沁みました
#味で語ろう
#聴いてます
#負けないけど
るいなりのエールなのか、それとも牽制なのか。
敵ではないけれど、同じ景色を見ながら違う地図を手に歩く人。
そして南波は、そんな二人を面白がり、また火をつけるに違いない。
京花は手帳を開き、次の取材先候補を赤ペンで囲んだ。
外はまだ冷たい雨。
しかし、彼女の足はもう、その味に向かって歩き出していた。
誰かが語りたくなる、もうひとつの東京の味。
その物語を、彼女は今日も味で語っていく。
湯島で歩いたあの坂の傾きは、もう体が覚えている。
静かな甘さは、景色や匂いだけでなく、足取りまで記憶させる。
次にその坂を上るとき、琥珀色のかりんとうはきっと、また違う物語を連れてくるだろう。




