記憶の焼きそば
「布田って?」
録音ブースから出てきた京花が、スタジオの空気も読まずにぼやいた。
村上千紘は、手帳をパタンと閉じながら、「また?」と呆れた顔で答える。
「東京。調布市。京王線。Googleマップで一発だっての。」
「いやそういうことじゃなくてさ、東京って言っても、なんで今、その布田なの?って話。」
「布田の焼きそばをリスナーが教えてくれたでしょ。昨日のメール、ちゃんと読んだ?」
「読んだよ。読んだけど、忘れてただけ。」
「さすが名前と固有名詞が壊滅的な女。」
千紘の皮肉に水島拓真が小さく笑った。
音響機材の前で無言の編集作業をしていたが、耳は全部、2人の会話に向いている。
「ちゃんと読んどけよな。あのメール、結構熱かったぜ。
あの焼きそばだけは、祭りの匂いがするって書いてあった。」
「焼きそばに匂いがあるのは当たり前だよ。」
「祭りの匂いっていったろ。」
京花はカフェテーブルに座り直し、紙コップのコーヒーに口をつける。
「調布の焼きそばって、有名だったっけ?聞いたことない。」
「有名じゃない。だから面白いんだよ。」
千紘はプリントした紙を1枚、京花の前に滑らせた。
《坂井屋の焼きそばについて》というタイトルが太字で打たれている。
「地元では坂井のソースって呼ばれてるらしいよ。特注の甘口ソース、太めの蒸し麺、鉄板は昔の祭り屋台をそのまま引き継いでるって。」
「ほぉ。」
「面白いのは祭りのあとにだけ営業してた時期があったって話。町の夏祭りの翌日。片づけが終わって、だれもいなくなった路地にぽつんと灯りがついてて、そこだけ焼きそばの匂いがしたって。」
京花はその描写に少しだけ心を動かされた。
祭りのあとに残る焼きそば。
喧騒が終わっても、味だけが街に居残ってるような、そんな存在。
「で、今はどうなってるの?」
「やってるよ。でも、もう店主がひとりで切り盛りしてて、高齢。週3営業。常連以外には店の存在すら知られてない」
「わたしみたいな一見さんが行ったら、浮くやつじゃん。」
「浮いてこそ、だろ。記録する側なんだから。」
千紘はすました顔で答え、ペンの芯をカチカチと鳴らした。
そのとき、SNS担当の桐谷颯がスタジオのドアを滑り込んで開けた。
黒のパーカーにキャップを後ろに被り。
明るい目と口角の上がった笑顔。
「おっすー! 布田に行くんすか? 京花さん、今日の服そのままじゃダメっすよ。完全に焼きそば食べ慣れてない人になってるからー。」
「なんのこっちゃ。」
「焼きそばっぽさってあるんですよ。ソースに染まる覚悟っていうか、胃袋ごと寄り添う気持ちってーかね。」
「その語彙、浅くて深いな。」
水島が突っ込み、颯が「それ褒めっすよね?」と満面の笑顔で返す。
東京に来て結構長いのに布田ってどんな町なのか、京花はまったく想像つかない。
「東京ってほんと変な街だよね。北海道に住んでた時は東京って聞いたら全部、渋谷と原宿のセットだと思ってたよ。」
「地方出身あるあるですね。」
「実際は、こういう聞いたこともない名前の街がごろごろしてて、焼きそば一杯のために電車乗って小一時間かけて行くのが、東京生活だったりする。」
「名言出たな。」
千紘がボイスメモをポチッと録音した。
「よーし!行こう!」
京花は立ち上がり、カバンに録音機材と地図を突っ込んだ。
「名前も、ルートも、ソースの味も知らないまま行って、感じてくるのが一番いいよね!」
「それ、絶対に途中で迷うパターンじゃん。」
「その迷い道が、味になるの。」
「なんでちょっと格好つけた?」
その日の収録は、午後の一枠で終わった。
京花は上着を肩にかけ、バッグを片手に言った。
「明日、集合は布田駅。10時半。いいね?」
「か〜しこまりました〜!」
「じゃあ、私はファミチキ買って帰るんで。」
「焼きそば前日にジャンク入れんのやめー。」
出る直前、京花がぼそっと呟いた。
「そういえば、焼きそばで泣いたこと、実はあるんだよね〜。」
「え、なにそれ?」
「中学のとき。地元の夏祭りで、母親が初めて屋台出したの。練習に付き合って、家で何十回も試作して、でも本番、鉄板の火加減をミスって、ほとんど焦げちゃってさ。」
「それで?」
「誰も買わなくて、残った焼きそばを全部、わたしが黙って食べたんよ。」
「それは泣ける。」
「涙じゃなくてソースの辛さで泣いたの。舌ヒリヒリで(笑)」
京花は笑いながら、ドアを閉めた。
東京の夕暮れ。
京花は焼きそばと記憶の匂いが、遠い布田で、静かに彼女を待っているような気がした。
―――
午前十時半。
京王線・布田駅の改札を出ると、ほんのり焦げたような匂いが風に混じっていた。
それは空腹が呼び寄せる幻か、過去の残り香か。
「なんか、空気が焼かれてるって感じだね、」
そう呟いた京花は、キャップにリュック、いつもよりラフな格好。
「焼かれてるって表現が、もう京花さん。」
颯が横で笑いながらスマホを構え、軽く動画を回し始めていた。
「今日は素材多そうっす。祭りの匂いって、映像で撮れますかね?」
「それなー。やっぱり音と湯気と油の跳ねでしょ!」
「わかってる〜、だからGoProにコンデンサーマイクつけてきました〜。」
「やる気満々やん、あなた。」
駅前の通りは静かだった。
コンビニと古い歯医者、数軒の花屋が並ぶ一本道を抜けると、ふと、昭和がそのまま残っているかのような路地に入る。
「ここ?」
千紘が地図を確認しながら指差した先、看板の文字がすでに読み取れないほど色褪せた古い木造の建物があった。
《やきそば 坂井屋》
引き戸の奥、半分見える鉄板台の奥ガスの火がかすかに揺れているのが見えた。
「すみませーん。」
京花が声をかけると、中からコトンという音がして、間もなくゆっくりと戸が開いた。
「あらあら、いらっしゃいませ。」
顔を出したのは、白い割烹着に三角巾、眼鏡をかけた女性だ。
想像していたより若く、50歳後半ほど。
肌は焼けていたが目元は穏やかで、どこか家族の台所の空気が漂っていた。
「珍しい顔ぶれね、初めての人?」
「はい。一見です。坂井屋さん、ですよね。私、ポッドキャストで東京の名物を探していまして、今回こちらにお伺いしたんです。」
「ああ、味で語ろうの人? うちのお客が昨日なんか言ってたわ。」
「え?」
「Twitterかなんかでみてね、ここに来るかもって、はしゃいでたの。その子、近所のタカシ君っていうのよ。」
京花は苦笑いを浮かべた。
颯が小さく手を挙げる。
「すみません、Twitterしたの俺っす。ネタバレしちゃったな。」
「まあまあ、まず座って。今日の焼きそば、ちょっと味濃いかもしれないけどいいかしら?」
「あ、はい。なぜ濃くなるんです?」
「昨日、少し考えごとしててね。煮詰めすぎちゃったのよ。」
「ほぉ。何を考えてたんですか?」
「あとで話すわ。まずは焼きそばつくらないとね。」
店内には木のベンチとちゃぶ台が二つ。
窓の隙間から光が差し、粉だらけの棚の上には
昔の駄菓子の空き箱と手描きの値札が黄ばんで残っている。
鉄板の上で、油がジュウと音を立て始めた。
甘いソースの匂いが一気に立ち上る。
「んー、いい匂い。東京の味を味わえるのが楽しみです。」
京花が思わず口にすると、女将、坂井初枝は焼きそばをコテでひっくり返しながら言った。
「違うよ。布田の味。東京の味なんてがらじゃないわよ。」
その言葉に京花は一瞬、返す言葉を失った。
「東京の中にあるけど、東京の顔はしてないのよ。うちの焼きそば、昔から、ここにだけある味だからさ。」
「なるほど。東京の味って、ひとつじゃないですもんね。」
「ひとつどころか、人の数だけあるでしょ?だから残すのが難しいのよ。残したい人がいないと、忘れ去られてなくなってしまうしね。」
千紘がポケットからメモを取り出し、黙ってペンを走らせた。
颯はレンズ越しに女将の横顔を追い、水島は店内の空気と音をしっかりとマイクに記録している。
そして、出された焼きそばは、驚くほど家庭の味だった。
もちもちした太麺に、ソースがしっかり絡んでいる。
キャベツはシャキシャキを残しつつ、どこか甘い。
紅しょうがは控えめで、玉子焼きの細切れがぽつぽつ混ざっている。
「うちのはね、冷めても美味しいように作ってるの。夏祭りでお客さんが持ち帰って、夕飯に食べるからさ。」
「なるほど〜。」
「なのでソース足す必要もない、マヨもいらないようにつくってるのよ。」
「情報量、すごい。」
京花は焼きそばを二口目運びながらつぶやいた。
「おいしい。なんていうか…例えるなら背景のある味。」
「味だけじゃないのよ。作る側が、どう残したいかがスパイスになってるのよ。」
「素敵なこといいますね〜。」
「そう?私は子供もいないし、息子も病気で店は継げないの。だからね、あと何年できるかなぁって、最近思ってるのよ。」
初枝は笑っていた。
その笑顔の奥には、どこか遠くを見るような目をしていた。
「ところで、残したい味って、誰に残すんです?」
京花の問いに、女将はしばらく沈黙したあとで答えた。
「あんたみたいに、ちゃんと食べる人達にかな。」
その言葉が、京花の胸にすっと染みこんだ。
食べることは、誰かの過去を受け取ること。
そして、たとえ一度きりの出会いでも、その味を忘れないという意思があれば、それはもう継承なのかもしれない。
「ここのお店を収録で紹介文してもいいですか?」
「どうぞどうぞ〜。坂井の焼きそばを思い出してもらえる人が増えたら嬉しいしね。」
その言葉を聞いた後、店内はソースの香りと名もなき誰かの残したい気持ちが漂っているように京花は感じた。
「私、焦がさないために、ずっと火を見てきたのよね...。」
坂井初枝がそう言ったとき、鉄板の上では、まだじゅうじゅうと油が跳ねていた。
それは焼きそばのことだけではない。
家庭の火、地域の火、そして坂井屋という店の火。
それを見続けてきた人だけが出せる味が、この焼きそば。
その言葉は妙に深く心に響く。
「焼きそばってね、じっと見てないと一瞬で焦げるのよ。
気を抜くと麺の下が真っ黒になるし、野菜から水が出て味がボヤけることもある。でも、見すぎると今度は手が止まっちゃうのよね。」
初枝の言葉には、料理の話を超えた重みがあった。
「ずっと見て、見ながらも手を動かして、焦がさずに、でもしっかり味を入れる。人生と一緒ね、なんて思うのは、歳のせいかしらね。」
京花は黙って焼きそばの余韻を噛みしめていた。
甘いソースのあとに残る、鉄板の香ばしさと、キャベツの水分がほのかに舌を潤す感覚。
「でも、焦がした味が好きな人もいますよね?」
京花がぼそりと言った。
初枝は目を細めて笑った。
「そうね、うちの息子は焦げ好きなのよ。でもね、焦がすっていうのは、やろうと思ってやるものなのね。焦がさないために必死でやって、結果ちょっと焦げたのと、最初から火加減任せで焦がしたのは、全然違うのよね。」
京花は思わずうなった。
自分が今まで取材してきた料理人達の中でも、こんな味の哲学を自然に話す人には、そうそう出会えない。
「あの、なぜそんなに焼きそばに真剣になれるんでしょうか?失礼な言葉に聞こえたらごめんなさい。」
初枝は鉄板の火をいったん止めてトングを置いた。
そしてちゃぶ台の向かいにゆっくりと腰を下ろした。
「うちね、昔は駄菓子屋だったのよ。」
「え、焼きそば屋さんじゃなくて?」
「そうよ。昭和四十年代までは、菓子と文房具。焼きそばを始めたのは、母が祭りで出した屋台が評判になったのがきっかけなの。」
京花は頷きながら、メモも取らずにそのまま話を聞いた。
「駄菓子って、安くてどこでも買えるのが魅力だったけど、うちは逆で、ここでしか買えない味を作りたかったのよ。
祭りのあとに、みんなが集まれる場所を残したくて。」
「なるほど。」
「時代には逆行したわよ。コンビニができて、ファミレスができて、若い子達はこういう昭和の店には来なくなった。でもね、それでも年に何人かはココに戻って来るの。昔、おばあちゃんとここで焼きそば食べたんですってね。」
京花は胸の奥が不思議な感覚に包まれた。
食べ物が、人を時空ごと引き戻す力を持っていることを
彼女は知った。
「てなわけで、そういう人のために焦がさないように火を見てきたの。残すのって大事でしょ?でも、残し方ってもっと大事なのよね。」
その言葉に、京花は思わず「はっ」とした。
残すこと、それは、自分の番組で何度も口にしてきたテーマ。
でも、「残し方」にまで思いを馳せたことが果たしてあっただろうか?
「私、その感覚、忘れてました。」
「忘れていいの。誰かが思い出してくれれば、それでいいのよ。」
「なんか、泣けてきます。」
「泣くことじゃないわ。泣いたら、焼きそばがしょっぱくなるよ。」
ふたりは顔を見合わせて、ほんの少し笑った。
その頃、店の外では颯が店先を撮影していた。
「京花さん、外観の写真もOKっす!」
「変なタグつけないでね。昭和残滓とかなら怒るよ。」
「そんなタグつけるわけないじゃないですか。生きてる記憶ってつけますね。」
「それは…ちょっと好きかも。」
千紘は、録音機材のスイッチを入れ直しながらつぶやいた。
「ねえ、京花。あなたが残したい言葉って、何?」
「それ、今言わなきゃダメ〜?」
「うん。収録じゃなくて、今のあなたの声で聞きたいの。」
京花は少し黙ったあと、視線を遠くに向けて言った。
「ごちそうさまかな。」
「え?」
「美味しかった!とか、また来ます!じゃなくて。貴方が作った食事を、ちゃんと気持ちまで受け取ったよ、っていう意味での、ごちそう様。」
「京花節と名言でたね〜。」
店内に再び鉄板の音が戻った。
火は静かに、でも確かに生きていた。
―――
「ね〜、あのソースの味ってさ、何入ってるんだろ?」
翌日、スタジオのキッチンで録音機材をセッティングしていた京花は、ふいに千紘に問いかけた。
「あ〜?昨日の坂井屋の? しらないなぁ。あんなに話してて聞いてなかったの?」
「聞いたよ。でも、ちょっとだけね。あとは秘密って言われたの。教えてくれたのは、しょうゆベースに砂糖、赤ワインを少し、あと鰹だし。」
「鰹だしかぁ。やっぱりね。」
「気づいてたんだ?」
「まあね。あのうっすらした後味、だし系だなと思って。」
そのとき、水島がブースから顔を出した。
「味の解説はいいけどさ、構成どうする? 今日の収録のテーマ決めた?」
「残したい味の記憶にする。」
「ま〜た、難解なテーマだな。」
「難しく聞こえるでしょ?でも話すのは、あの焼きそばの思い出だよ。」
京花はメモを広げ、昨日の光景を思い出す。
太陽が低くなった路地裏の空、鉄板の火の音、初枝さんの表情。
「昨日、初枝さんが言ってたの。味を残すってことは、誰かの記憶にレシピを書くことだって。」
「そんな事言ってたっけ?」
「ふふ。心で言ってたの(笑)」
「また出た、心の翻訳機。」
千紘は呆れつつ、イヤホンを片耳に装着した。
颯がその横で、スマホの画面を見せてきた。
「ほら、投稿。結構バズってるっす。布田焼きそばと記憶は冷めても残るってキャプション、いい感じでしょ?」
「やるじゃん!」
「でしょでしょ。あと、フォロワーの人がレシピも知りたいって言ってきてますけど?」
「それだ!」
「それ?」
「記憶に残す手順書。それが、今回の収録のテーマ!」
千紘が小さく笑った。
「レシピって、たぶん分量とか火加減だけじゃないんだよね。」
「うん。たとえば、野菜を切りながら、近所の子どもが入ってくる音がするとか、ソースの香りがしたら、息子がうるさくなるとか。そういう情景も含めて、味の文脈になる。」
「だったら、音も残そう。調布の町の音。店の鉄板の音。
あと、京花が美味しいって言ったときの声も。」
水島が淡々とマイクの設置位置を変えた。
「待って、それいる?」
「いる。昨日、美味しいって言ったとき、2秒黙ったからな。感情ダダ漏れの言葉だよ。」
「バレてたか〜。」
「バレてるよ。あれ、心が追いついてる時間だったろ?」
「そう。あの沈黙が、いちばん伝えたかった味の余白だったの。」
京花は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
彼女は話す前に、必ずそうやって声の準備をする。
「皆さん、こんにちは!味で語ろうの京花です。
今回は東京の調布、布田という町にある、小さな焼きそば屋さんの話です。
お店の名前は坂井屋さん。昭和の駄菓子屋の名残が残る鉄板ひとつの店なんです。
でもその鉄板は、火を見続けた人の記憶で温かい。」
「焼きそばのレシピを記録しようと思ったんですけどね、分量も手順もなんだか正確に測れないんです。何グラムとか、何分炒めるとか、そんなんじゃないんですよ。焦がさないように、手を止めずに動かす。その感覚が、この焼きそばのの根っこにある気がしたんです。」
水島が無言で録音レベルを微調整し、千紘が黙々と文字起こしを取っていく。
颯はガラス越しに頷きながら、京花の言葉に合わせて、
昨日撮った写真をひとつずつInstagramにアップしていった。
「布田焼きそばを記憶に美味しく残すには、手順より、誰がどう食べたかが大事なんです。私があの味を思い出すとき、一緒に思い出すのは、坂井屋さんの小さな鉄板と、火を見つめる目と、焼きそばを焦がさなかった時間です。」
そして曲が流れ、
赤いランプが消える。
京花はしばらくマイクに向かって座ったまま、何も言わなかった。
その静けさの中に、しぐれ煮とはまた違う、ソースの甘さと焦げの記憶が漂っていた。
「味って、やっぱ記憶だな。」
ぽつりと漏らしたその一言に、スタッフの全員が黙ってうなずいた。
「なんかさ、もしも明日、坂井屋がなくなったらどうしようって思ったの。そしたら泣けてきたよ。」
京花はそうつぶやいた。
冷めかけたコーヒーを口に運びながら、目の奥だけがどこか遠くを見ていた。
千紘はイヤホンを片耳にかけたまま、「その言葉、さっき言ってたら泣いてたかも」と笑った。
「それ、使う?」
「やめて。そこは収録外ってことでお願い」
水島が静かに告げた。
「でも、いずれはそうなるだろ。坂井屋さん。」
「うん、だからこそ記憶に残さなきゃって思ったの。」
「味?レシピ?言葉?」
「全部だよ。」
京花は少し黙ってから続けた。
「味が消えても、誰かの好きだったって記憶が残れば、たぶん、それで私は救われた気持ちになる。」
―――
収録の次の日、京花は再び布田を訪れていた。
収録ではなく。
坂井屋の引き戸を開けると、初枝は鉄板に油を引いている最中だった。
「いらっしゃいませ。あら、また来てくれたの?」
「ええ。今度は一人で。完全プライベートです。」
「取材じゃないの?」
「はい。ただの常連になりたい人です(笑)」
しばらくして出された焼きそばは、やっぱり美味しかった。
味は前回とほとんど同じ。でもどこか、今日は甘さが少しだけ強い気がした。
「味、ちょっと違いますね。」
「あら?わかる?」
「ええ。今日、何かあったんですか?」
「さっき、地元の子が就職で福岡に行くって挨拶に来てね。最後に焼きそば食べたくなってって言われたのよ。」
「それ、めちゃくちゃいい話ですね。」
焼きそばを食べ終えたあと、京花は一枚の紙を取り出した。
手描きの文字で書かれた、簡単なメモ。
「これ、もしよかったら見て貰えます?」
「なに?」
「思い出したときに作れる焼きそばのレシピを考えてみたんです。でも普通のじゃなくて、坂井屋に行けない日に、思い出すための焼きそば。」
初枝は目を細めてメモを見つめた。
そこにはこう書かれていた。
《焼きそばのない日のレシピ》
・太麺 気持ち多めに(寂しさを埋める分)
・キャベツ ざく切り、切り方にムラがあっても可
・玉子焼き 気が向いたら/なくても可
・ソース 焦がす直前まで炒めること
・火を見続けること(大事)
・食べる人を思い出しながら作る(もっと大事)
初枝は、じっとその紙を見つめたあと、静かに言った。
「これ、冷蔵庫に貼っていいかしら?」
「え?」
「うち、来年で店閉めようと思ってるのよ。」
「それはなぜ?」
「息子が今、入院しててね。あたしも一人じゃ正直、もう体力がきついのよ。」
京花は言葉を失った。
喉の奥がきゅっと詰まり、声が出なかった。
「でもね、その代わり、これからは布田焼きそば教室をやるの。近所の主婦や、学生さん呼んで、家で作れる坂井屋の味を伝えようとおもうの。」
「素敵です。」
「坂井屋がなくなっても、この味が町に残れば後悔はないわ。」
京花は、ゆっくりと口を開いた。
「残すって、そういうことなんですね。」
「そう。作り続けられる人を、何人か作ればいいのよ。」
「それ、番組で話してもいいですか?」
「ええ。でも、お手柔らかにね。あたし、やめるって言うときに、誰かを泣かせたくないから。」
帰り道、京花は駅へ向かう坂道をひとり歩いた。
胸がしめつけられる。
しかし、足取りはなぜか軽かった。
布田焼きそばのない日にも、味は残せる。
それは、きっとどんな東京の味にも負けないレシピだと思った。
―――
曲が終わり、録音ランプが赤く点灯し、千紘が録音時間を確認しながらうなずいた。
「皆さん、こんにちは味で語ろうの京花です。」
「今日は、昨日に引き続き、記憶を残すということについて話したいと思います。私はこのごろ、東京らしさってなんだろうと考えて、調布という町にある焼きそば屋さんに出会いました。」
京花は、間をとってから続ける。
「名前は坂井屋さん。小さな駄菓子屋の名残を残す、鉄板一枚の焼きそば専門店です。
そこには、観光用のポスターも、きらびやかな暖簾もありません。あるのはただ、ひとつのソースの香りと、鉄板の音。」
水島が無言でマイクバランスを調整する。
「坂井屋さんの味を、レシピで残すのは難しいと思います。
なぜなら、あの味には、誰と食べたかやどんな会話があったかまで含まれているからです。」
収録スタジオの外、SNS担当の颯がスマホをいじりながら、すでに投稿文を用意していた。
《坂井屋のソースは、鉄板の温度と記憶の温度で作られていた。焦がさないように火を見続けた人の心を聞いてほしい。
#味で語ろう》
「坂井屋の店主・初枝さんは、こう言っていました。残すのは味じゃなくて、食べた人の記憶だと。その言葉を聞いて、残したいという気持ちが、誰かの中に灯る瞬間を目撃した気がします。」
「私が伝えたいのは、東京の味とは、記憶を分け合うことだということです。あなたが食べたその味が、誰かの思い出の中に残れば、それはもう立派な東京の名物だと思うんです。」
千紘がモニター越しに目を細めた。
彼女が何も言わないとき、それは完璧に届いたというサイン。
「そして最後に、もしあなたが今日、焼きそばを作るなら、
火を見てください。焦がさないように、でも目を離さないように。誰かに味の記憶に残すつもりで、麺を返してください。私は、その焼きそばを食べたとしたら、たぶん、一生忘れないと思います。」
「このポッドキャストでは、毎回、東京にしかない味を、名物として紹介しています。リスナーのみなさんの記憶や体験も、立派な数ある中の名物の一部です。なので、ぜひ教えてください。あなたの知ってる東京の味、覚えている東京のお土産、 そして、記憶から忘れられそうな味も。私たちと一緒に、東京の味を残していけたらうれしいです。」
「今日の東京リアルグルメは、布田焼きそばでした。 さて、次はどんな味に会えるでしょうか?」
録音ランプが消えた。
京花は深く息を吐いて、背もたれに身体を預けた。
しばらく沈黙があったのち、千紘が一言。
「今回、いけたわね。」
「焼きそば、全国で売れんじゃない?」
「それは、たぶん間違った方向だけど。」
「でも、想いは伝わってる。」
―――
味で語ろうの最新回は、アップロードから24時間で再生数が30万を超えた。
「坂井屋行ってきました!」
「泣きながら焼きそば作りました,」
そんな声がSNSのタイムラインに次々と並ぶ。
そして、その頃
坂井屋の厨房で、初枝は一人、レシピメモを読み返していた。
焼きそばのない日のためのレシピ。
それを冷蔵庫に貼りもどし、湯呑に口をつける。
「あの子、うまいこと言うわね。」
一人、笑って、
鉄板に火をつけた。
今日もまた、誰かの記憶を焦がさないために。




