南波という男 【番外編】
南波修司は、今日も一日、キーボードに向かう。
画面には、すでに公開された京花の番組に関する記事が、無数のコメントと共に並んでいる。
「また南波が京花に噛みついた」
「冷笑系食レポの南波さん、今回もキレキレですね」
「思い出を語るな、と?じゃあ何語ればいいんだよ」
スクロールの途中、たった一件だけ、空気の違うコメントがあった。
「南波さんの文、嫌いになれない。何か、隠してる感じがして。」
その一文を、彼はいいねもせず、ただ見つめた。
そして画面を閉じる。
まるで、他人の喧騒を見ているかのようだ。
彼の言葉は、常に軽薄なキャラクターを演じている。
だが、それは売れる記事を書くためのビジネスキャラに過ぎない。
彼の目的は、炎上を煽り、PVを稼ぐこと。
新人時代、彼は一度だけ、真っ直ぐな食のコラムを書いた。
誰のことも批判せず、自分の記憶と感動だけで綴った文章だった。
結果は、PVも反応もゼロ。
「正直だけじゃ、数字にならない」
それを悟った日から、彼は別の道を歩き始めた。
そのために、最も注目を集めている京花のようなパーソナリティを標的にする。
京花の声は、何かを忘れたふりをして笑う人の声だった。
痛みを抱えたまま、語りのプロとして立ち続ける者の声。
彼は、記事の中でそれに触れないようにした。
触れたら、自分が負ける気がしたから。
南波にとって、食はコンテンツだ。
物語や記憶に彩られた味は、最高の燃料。
図書室の片隅で、南波は誰にも話さずに、グルメエッセイを読んでいた。
声に出せないだけで、心の中ではいつも何かを味わっていた。
それを誰かに伝える言葉を、ずっと探していたのかもしれない。
「食は静かな行為だ」
「物語の押し売りは虚構だ」
そんな言葉を並べるほど、視聴者は感情的に反発し、より熱狂的な反応を返す。
彼はその反応を嗤いながら、次の記事のタイトルを考える。
―――
妻の理沙と、小学三年生の娘、美緒、そして二歳の息子、悠真と過ごす時間は、彼にとって、唯一の「静かな」時間。
理沙と出会ったのは、大学の写真サークルだった。
当時の南波は、食べ物を被写体にするセンスは誰よりもあったが、人との距離感が致命的だった。
理沙だけは、彼の無愛想な言動を笑い飛ばした。
周囲が人物を撮る中、彼だけが、校内の食堂メニューや自販機のラベルをカメラに収めていた。
「こんなもん、誰が撮るのよ」と言いながら、理沙だけが、それを面白がった。
「食べ物には寄れるのに、人間には寄れないんだね。」
その一言に救われて、彼は初めて「一緒にごはんを食べたい」と思った。
彼の私生活は、ビジネスとは切り離されている。
職場では、記事を書く機械として見られることもある。
だが、自宅では違う。
悠真が服にヨーグルトをこぼし、美緒が宿題を持って泣きついてくる。
そんな時、彼はただの「お父さん」だった。
悠真が夜泣きで起きた夜、南波は黙ってオムツを替えた。
オムツを替え終えたあと、しばらく悠真を抱いて部屋の中をゆっくり歩いた。
寝かしつける声は持たないが、歩幅のリズムだけで、息子の呼吸が穏やかになっていく。
抱き上げると、赤子の小さな手が彼の髭をひっかく。
「いてっ…」と言いながら笑っている自分に気づき、思わず鏡を見た。
そこにいたのは、笑顔が下手な父親。
でもその顔を、少しだけ好きだと思った。
―――
「パパ、今日のご飯はどんな物語?」
美緒がキラキラした目で尋ねる。
「物語なんてないよ。ただの、ハンバーグ。」
そう答えたあと、ふと、言葉を付け足したくなる。
「だけど、美緒が好きな形にしてあるから、ちょっとだけ魔法かかってるかもな。」
彼は無愛想に答える。
それは、ビジネスの顔とは全く違う、不器用な父親の顔。
―――
ある日、学校から持ち帰った美緒の作文に、こんな一文があった。
「パパのつくるカレーは、話を聞いてくれない味がします。」
どきりとした。
黙っていた時間が、こんなふうに届いていたことに。
「パパは、なんでも知ってるけど、たまに知らないふりをする」
とも書かれていた。
その一行に、南波は少し笑った。
子どもは思った以上に、親をよく見ている。
―――
「うそだ。ママがね、パパの誕生日だからって、すっごくがんばってたの、見てたもん。」
美緒は眉をひそめた。
「それ、パパの物語でしょ?」
言い返せなかった。
ふと、頬が熱くなる。
正しさでは言い負かせない相手が、こんなに近くにもいた。
南波の食に対する哲学は、彼の幼少期に深く根差している。
父は寡黙な職人で、一日中、工房にこもって木を削っていた。
母は、朝から晩まで、和裁の内職に追われている。
食卓に会話はほとんどなかった。
食事が唯一の休息時間。
南波は、黙って魚を口に運ぶ父の横顔を、じっと見つめていた。
数年前、父の七回忌で久々に実家に戻った。
親戚たちが食べ残した魚の皿を見て、彼は思わず骨を並べていた。
無意識だった。
母がその様子を見て、つぶやいた。
「ふふ。あなた、お父さんに似てきたわね。」
その言葉だけが、今も胸に残っている。
父は、骨を丁寧に外し、皿の端にきれいに並べる。
その無言の動作に、南波は、父の愛情を感じていた。
母は、自分が作った卵焼きを、彼の茶碗に、そっと一つ、乗せてくれた。
その卵焼きは、いつも少し甘い。
高校受験の朝、母は卵焼きを焦がしてしまった。
「ごめんなさい、ちょっと今日のは苦いかもしれないわ。」
けれど、その日の味が、一番記憶に残っている。
苦味の奥にある、必死さと不器用さ。
母の甘え下手な優しさが、その味に詰まっていた。
南波にとって、食事とは、言葉を必要としない、
愛と行為の記録。
だから、彼は「物語を語るな」と言う。
物語は言葉であり、言葉は時に、真実を覆い隠す嘘になるからだ。
―――
一方、日向るいも、南波の記事に注目していた。
るいは、京花と同年代で物事を客観視する性格。
彼女は、京花のような感情に訴えかける手法を好まない。
「最近、記憶や涙で味を語る番組が増えていますが、それって感動の押し売りになっていないか心配です。食って、もっと静かで個人的な行為だと思うんですけどね。」
るいは、南波の記事を読み、内心で同意する。
「南波さん、嫌いじゃないな。言葉は乱暴だけど、言いたいことはわかる。」
彼女は、南波の言葉を、自分自身の食に対する哲学を代弁しているように感じていた。
その日、南波は、次の記事のネタを探すため、北千住の「まるたけ」に足を運ぶ。
雑然とした商店街の路地裏に、その店はひっそりと佇む。
「築地風 だし巻きたこ焼き まるたけ」
店に入ると、威勢のいい声が響く。
「いらっしゃい!何にする?」
「だし巻きたこ焼きを、ひとつくれ。」
カウンターに座り、焼き上がるのを待つ。
目の前の鉄板には、透明感のある黄金色の卵液が流し込まれている。
(なんだ、この違和感は…)
南波は、目を細める。
たこ焼きの型に、小麦粉ではなく卵。
やがて焼き上がったそれは、まさにたこ焼きの形。
ソースもマヨネーズも、青のりもかかっていない、素のままの姿。
南波は、つまようじを手に取り、一つを口に運ぶ。
熱が舌を包む。
そして、だしの香りがふわりと広がる。
甘くもなく、しょっぱくもない、優しい味。
その中に、プリッとしたタコの食感が現れる。
彼の口の中に、様々な記憶が去来する。
小学校の遠足。
母が作ってくれた卵焼き。
夏祭りの屋台。
そして、数年前、家族で訪れたお台場のたこ焼きミュージアム。
美緒が、たこ焼きのソースを顔につけて笑っていた。
理沙が、悠真を抱きながら、熱いから気をつけてね、と優しく声をかけていた。
(これは…危険だ。)
味に反応する前に、心が揺れた。
それは、味覚のトリガーというより、感情の記憶庫に刺さった鍵のようだった。
南波は、顔をしかめる。
これは、彼が最も忌み嫌う「記憶商法」そのもの。
彼は、残りのだし巻きたこ焼きを、一つずつゆっくりと食べる。
食べるたびに、彼の頭の中に、家族との思い出が、押し寄せる。
店を出た南波は、すぐにカフェに駆け込む。
記事を書かなければならない。
彼の指は、キーボードの上で踊る。
『感情に踊らされる消費者達』
『インフルエンサーによる記憶商法と地域文化の分断』
言葉は、まるで刃物。
しかし、記事を書き終えた後、心に残ったのは、虚無感。
なぜ、こんなにも攻撃的になってしまうのか。
それは、彼自身が、あの「だし巻きたこ焼き」の味に、心を揺さぶられたからだ。
彼の頑なな心が、見たくないものを見せられてしまった。
その夜、南波は自宅の書斎で、酒を飲みながら、京花のポッドキャストを聞いている。
「東京の味は、静かに記憶を育てていく。そのやさしい力を私たちはきっともっと信じていいんだと思います。」
京花の声は、穏やかで、しかし確信に満ちている。
南波は、グラスを置く。
(静かに記憶を育てていく?)
彼の心臓が、ドクン、と大きく鳴る。
それは、彼がビジネスとして語ってきた「静かさ」とは全く異なるもの。
言葉と行為、そして家族。
―――
数日後、南波は、大学時代の恩師である教授を訪ねた。
教授は、食文化を研究する第一人者で、南波の理論的支柱でもある。
「おや、珍しいなぁ。君が私に会いに来るなんてね。」
教授は、にこやかに南波を迎えた。
南波は、躊躇いながら、最近の出来事を話す。
「先生、最近の食文化は、記憶や感情を安売りしすぎていると思いませんか?特に、あの『だし巻きたこ焼き』…あれは、ただの…。」
教授は、南波の話を、静かに聞く。
南波が言葉に詰まると、教授はゆっくりと口を開く。
「修司君、君は『食』を何だと思っているんだい?」
南波は、戸惑う。
「それは、命を繋ぐための、行為です。」
「そうだな。でも、それだけかい?」
教授は、微笑む。
「食は、コミュニケーションだよ。言葉を使わない、最も原始的な、コミュニケーションだ。」
「黙って出されたご飯に、愛情がなかったことは、一度もなかっただろう?」
教授の問いかけに、南波は小さく頷いた。
「それは、分かっています。しかし、それを言葉で語りすぎるのは…。」
「なるほど。君は、言葉を恐れているんだね?」
教授の言葉が、南波の胸に突き刺さる。
「君のお父さんの愛は、言葉じゃなかった。それは、君にとっての『食』の原風景だろう?だから君は、言葉を信じられないんだろうな。特に、食に関する言葉はね。」
南波は、何も言えない。
教授は、続ける。
「だがね、南波君。言葉は、時に、行為を補完する。お父さんの無言の愛も、もしそこに『君のために、魚の骨を外してやったんだよ』という言葉があったら、どうかな?」
南波は、ハッとする。
「それは、君の心の中で、より深く、その愛を刻み込むだろう。言葉が、行為に意味を与えることもあるんだ。」
教授は、温かい眼差しで南波を見つめる。
「あの『だし巻きたこ焼き』も、同じことだよ。あの料理は、ユーモラスな形と、誠実な味という『行為』で、人々の記憶を揺さぶる。そして、京花君のようなパーソナリティが、それを言葉で語ることで、その『行為』が、多くの人々の心を繋ぐんだ。それは、決して安売りではない。それは、新しい形の、コミュニケーションなんだ。」
南波は、頭をガツンと殴られたような衝撃を受ける。
彼が「虚構」と断じたものは、実は、言葉と行為が融合した、新しい「食」の形。
帰り道、南波は、再び「まるたけ」に足を運ぶ。
彼は、無言でだし巻きたこ焼きを一つ注文する。
今回は、一つをじっと見つめてから、口に運ぶ。
熱い。
優しい。
そして、タコの食感。
彼の脳裏に、再び様々な記憶が去来する。
しかし、今回は、それを拒絶しようとはしない。
むしろ、その記憶を、そっと受け入れる。
彼の目から、涙がこぼれ落ちる。
それは、ずっと見て見ぬふりをしてきた、幼い頃の自分と向き合った涙。
あの時の父と母の、言葉にならない愛。
そして、その愛が、今、この「だし巻きたこ焼き」の味を通して、再び彼の心に語りかけてくる。
―――
翌日、南波は、新しい記事を書き始める。
タイトルは、『東京の味は、なぜ泣けるのか?』
彼は、これまでのように、批判の刃を研ぎ澄ませることはしない。
「食は、ただの栄養摂取ではない。それは、記憶と、言葉と、そして人と人とを繋ぐ、コミュニケーションの器なのだ。」
記事は、これまでの彼の論調とは、全く異なるもの。
それは、論理ではなく、感情が、そして何よりも彼自身の経験が、深く染み込んだもの。
記事が公開されると、SNSは騒然となる。
「南波、どうしたんだ?」
「ついに、京花に感化されたか!」
一方、るいも、南波の記事を読んでいた。
「どういうこと?」
彼女は、記事の内容に困惑する。
南波が、自分の哲学を、真っ向から否定しているように見えたからだ。
彼女が南波に共感していたのは、食に対する静かでクールな姿勢。
しかし、この記事は、感情や記憶を肯定している。
るいは、南波の真意を確かめるため、直接会うことを決意して南波に直接メールを送った。
『南波さん、お話、お受けします。』
南波は、そのメールを見て、驚き、同時に安堵する。
―――
数日後、京花のもとに、一通のメールが届く。
差出人は、南波修司。
件名は、『一度、お話しませんか?』
京花は、そのメールを見て、ふっと笑う。
そして、るいにも声をかける。
『るいさん、南波さんから会いたい旨の連絡が来たんだけど、一緒にどう?』
―――
当日、約束の時間、北千住の「まるたけ」に3人が集まる。
店の提灯が、雨上がりの路地裏をぼんやりと照らしている。
先に到着していた京花とるいが、南波を待つ。
るいは、いつものクールな表情ではなく、どこか期待に満ちた顔つき。
時間通りに南波が現れる。彼の顔は、いつもの冷徹な表情ではなく、穏やかな表情。
「お二人ともお揃いで。」
「るいさんが、ぜひ、って。ダメでしたか?」
京花が尋ねる。
「いや、そんなことは。むしろ、ありがたいよ。」
3人は、カウンターに並んで座った。
南波は、マスターに声をかける。
「だし巻きたこ焼き、3つ、お願いします。」
「へい!お待ちどう!」
マスターの威勢のいい声が、3人の間の緊張を、少しずつ溶かしていく。
鉄板に流し込まれた卵液が、ジュワッと音を立てる。
だしの香りが、店内に満ちていく。
るいが、つぶやいた。
「この香り、懐かしいです。祖母の家で、よく作ってくれた出汁巻きの香りに似てて。」
南波が、るいの言葉に、少し驚いたような表情を見せる。
「君も、出汁巻きの記憶があるんだね。」
「はい。私、食って、記憶と繋がってるんだって、この味を食べて、初めて気づきました。それまでは、ただ美味しい、ってだけで、何も考えてなくて。」
やがて、焼き上がっただし巻きたこ焼きが、3人の前に並べられる。
丸い、黄金色の球体が、熱気を放っている。
3人は、無言で、一つずつ、口に運ぶ。
熱が、舌を包み込む。優しいだしの味が広がる。
そして、タコのプリッとした食感。
最初に口を開いたのは、南波だった。
「私は言葉を信じてなかったんだ。言葉は、いつか嘘になる、と。だから、ただ、そこにある『食』そのものと、向き合いたかったんだ。」
「でも、違ったんだよ。言葉は、行為を、より深く心に刻む。そして、その行為が、家族を繋ぐんだと気づいたんだ。」
南波の声は、いつになく穏やかで、しかし、彼の言葉には、確かな重みがあった。
るいが、一つ、だし巻きたこ焼きを口に運ぶ。
「私、この味が好き。なんか、いろんなものが、ごちゃごちゃになってて、でも、全部、美味しいから、これが東京みたいな味って言うのかしら?」
京花が、微笑む。
「るいさん、いいこと言うね。東京の味は、勘違いから始まって、気づけば本物になってる。それって、いろんなものが混ざり合って、新しいものが生まれてるってこと。」
「実は私、大学時代に一度だけ、食レポのバイトやったことあるの。でも、全部嘘くさくなっちゃって、やめたわ。」
南波は、二人の言葉を、静かに聞く。
この日、3人は、初めて、それぞれの「食」に対する哲学を、言葉で、そして味で、互いに分かち合った。
南波は、言葉が、食の物語を豊かにすることを知る。
るいは、自身の言葉が、誰かの心を動かす力を持つことを知る。
そして、京花は、自身の声が、新しい物語を紡ぎ続ける力を持つことを再確認する。
帰り道、3人は、北千住の駅へと向かう。
南波は、二人に静かに頭を下げる。
「今日は、ありがとう。お二人と話せて、本当に良かった。私の、食に対する、凝り固まった考えが、少し、柔らかくなった気がするよ。」
京花は、にこやかに答える。
「こちらこそ。南波さんの、言葉の奥にある、誠実な味に、触れることができました。番組、これからも、応援してくださいね。」
るいは、南波に言う。
「南波さん、私、また、美味しい食べ物の物語、見つけたら、書きますね。そしたら、今度は、南波さんの感想、聞かせてもらえますか?」
南波は、一瞬、戸惑った後、笑った。
「ええ。楽しみにしています。」
南波は、二人に背を向け、改札へと向かって歩き出す。
彼の足取りは、いつになく軽やかだった。
京花は、るいと共に、南波の後ろ姿を見つめる。
「ねえ、るいさん。南波さん、なんだか、少し、丸くなったみたいじゃない?」
「そうね。でも、なんか、南波さんって、実は、最初から丸かったのかもしれないわね。見かけは、角ばってたけど、中身は、ふわふわで温かい、まるでだし巻き玉子みたいよね。」
京花は、るいの言葉に、大きく頷く。
―――
その日の夜。
南波は、いつもより少し早く帰宅した。
美緒が、彼の顔を見て、満面の笑みを浮かべる。
「パパ!おかえり!」
南波は、美緒を抱きしめる。
理沙が、キッチンから顔を出す。
「おかえりなさい。ご飯、もうすぐできるわよ。」
食卓には、理沙が作った、ハンバーグが並んでいる。
美緒の好きな星形にくり抜かれたニンジンも添えられている。
南波は、悠真を膝に乗せ、スプーンでハンバーグを小さく切り分ける。
「悠真、美味しいぞ〜。」
悠真は、南波の言葉に、嬉しそうに口を開く。
南波は、ハンバーグを口に運びながら、理沙に話しかける。
「理沙、今日、すごく美味しい玉子焼きを食べたんだ。」
理沙は、驚いた顔をする。
南波が、自分から食べ物の話をすることは、ほとんどない。
南波は、穏やかな声で、話し始める。
「丸い形で、中はふわふわの、だし巻き玉子なんだ。タコが入ってて、笑える形なのに、泣きたくなるくらい、優しい味がするんだ。」
美緒が、目を輝かせて南波を見つめる。
「パパ、それ、どんな物語?」
南波は、微笑み、美緒の頭を優しく撫でる。
「うん、これはね、東京の街が、いろんな人の心を、そっと温めてくれる物語だよ。」
理沙は、何も言わずに、ただ、その光景を静かに見つめていた。
彼女の目には、嬉し涙が浮かんでいた。
南波の、温かい言葉と、家族との食卓。
それは、彼が、これまで見過ごしてきた、最も大切な、食の物語。
東京の街は、今日も、たくさんの物語を、静かに、そして、賑やかに、育んでいる。
それは、言葉と、記憶と、そして、誰かの優しさで、編み上げられた、新しい、まるい味。
―――
夜、子どもたちが眠ったあと、南波はひとり書斎で古いノートを開いた。
学生時代に書きためていた、手書きのレシピメモ。
料理本からの写し、実家の母から聞き取った煮物の分量、自作のパスタソースの試作記録。
そこに、二十歳の南波の字で、こんな一文があった。
「誰かと食べたいと思ったとき、それが『料理』になる。」
自分で書いたはずの言葉に、心が少しだけ震えた。
あの頃の自分は、まだ誰かのことを、思っていたのかもしれない。
―――
翌週のある日曜。
南波は、美緒と悠真を連れて、近所の図書館に向かった。 理沙が「少し休ませて」とソファで丸くなっていたので、めずらしく父子だけの外出だった。
「パパ、これ読んで」
美緒が手渡してきたのは、『たこさんウインナーの涙』という絵本。
表紙のイラストに、思わず笑ってしまう。
ページをめくると、物語は、タコ型ウインナーがお弁当からはみ出て悩む話だった。
「たこさん、悲しいね」
「でもね、からあげくんが、きみはそのままでいいって言ってくれるの」
美緒の小さな声での朗読に、南波は目を細める。
ああ、こういう言葉は、まっすぐに届くんだ。
言葉があるから、食べものにも、物語が宿る。
―――
帰宅後、キッチンに立った南波は、そっと卵を割った。
今日は、ハンバーグではなく、だし巻き卵。
しかも、美緒が好きな甘めの味。
「今日はちょっと、俺が作るよ」
「ええ?珍しい!」
と理沙が笑う。
巻き終えた卵を一口味見してみる。
うまく巻けていない。 ちょっと焦げた。
でも、これはこれで、いいんじゃないかと思う。
子どもたちが食卓に並ぶ頃には、南波の胸には静かな誇りが宿っていた。
「今日はね、ハンバーグじゃないぞ〜。だし巻き卵だ。」
「やったー!」
ふわふわでも、少し形が崩れた卵焼きを前に、美緒が嬉しそうに言った。
「でもこれ、きっとパパの気持ちが入ってるから、おいしいんだよね。」
美緒が口に運んで、すぐに言った。
「これ、パパの味がする〜。」
南波は、一瞬言葉を失い、すぐに小さく笑った。
ふと思い出したのは、かつて自分が書いた言葉。
「誰かと食べたいと思ったとき、それが『料理』になる。」
今、まさにそれを、自分が実感していることに気づいた。
―――
味がする。 それは、言葉より正直な記憶の在りかた。
そして、たしかにそこにあるものへの、静かな賛辞だった。
こうして、南波修司の中で「食」と「物語」は、やっと同じテーブルについた。




