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東京リアルグルメ  作者: マリブン
Season1

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1/13

記憶の味

パチッと音が鳴って、録音が止まった。


「お疲れ様で〜す。」


背後から千紘の声。

控えめだけど芯のある声。

京花はテーブルに置いたメモ用紙をぼんやり見下ろしたまま、小さくうなずいた。


―――


「ねえ、洋ちゃん、東京の味って何だと思う?」


京花はカフェラテの湯気越しにそう尋ねた。

夫は瞬きひとつせず「カレーライス。」と即答した。


「いやいや、それはさすがに全国区すぎでしょ〜!」


「ん〜、でも、さ。俺は中学の給食で初めて食べたあの味は東京の味って感じなんだよなぁ。」


そんな会話を今朝、食器を洗いながら2人は交わした。

京花にとって、味は記憶であり、主張であり、個性だ。

でも、東京の味ってなに?何を食べれば、東京の味を食べたと言えるのか?


そのモヤモヤが、ポッドキャスト収録中にぶり返した。


番組宛に届いたメール。

差出人は、千葉県在住の高校生リスナー「しずくちゃん」。


『私は東京に住んだことがないのですが、修学旅行のお土産に悩みます。雷おこしって正直、そんなにおいしいですか?

そもそも東京の味て何なんでしょうか?』


一同、爆笑。

しかし、「京花さんが思う、東京らしい味ってなんですか?」というリスナーの問いが、収録後の空気を妙に重くさせた。


「しずくちゃん、ありがとう!東京って本当に、食べるものとか、お土産品とか困るよね。東京には、なんでもあるんだもん。私、しずくちゃんのために何か探してみますね!」


収録が終わり、ヘッドホンを外した京花に、構成作家の千紘がそっと紙のメモを差し出してきた。


「これ、どう?」


メモには、手書きでこう書かれていた。


深川めし(しぐれ煮バージョン)

門前仲町「こふね」:要予約(おばぁちゃんが営業)

東京湾で獲れた貝を使用。


「ありがとう。これ、観光客向けじゃないやつ?」


「うん。地元の人しか知らないし、炊き込みタイプ。観光向けの味噌ぶっかけとは違うよ。」


千紘の言い方はいつもさっぱりしてる。

でも、確かに刺さる。


京花はカバンの中からiPadを取り出して、地図アプリで門前仲町周辺をタップした。

白い丸がぽつぽつと浮かぶ。

そのうちのひとつに親しみを覚えた。


「しぐれ煮ってさ、あさりを甘辛く煮詰めるやつよね?」


「うん。江戸の漁師が保存のために甘めに炊いたんだってさ。」


「ご飯に炊き込むの?」


「言うたやん。観光地のぶっかけじゃなくて、家庭の中に残ってる、まさに東京の味!」


京花はそっとメモをポケットに滑り込ませた。

きっとそこには、まだ誰も知らない東京がある。


録音の赤いランプはもう消えていたのに、彼女の中では何かが点灯していた。

だけど、やっぱり東京の味って何だろう?


―――


地下鉄東西線・門前仲町駅。

通勤ラッシュとは違う空気がここには流れていた。

スーツケースを引いた観光客と年季の入った自転車で野菜を運ぶ地元民。

その混在が、この街の東京らしさをうたっている。


改札を抜けると、潮の香りがうっすら鼻をかすめた。

コンクリートのにおいじゃない、もっと複雑で、少し懐かしい香りだ。


京花はカバンの中から折りたたんだ手書きの地図を広げた。

スタッフの千紘が前夜、送ってくれたものだ。

Googleマップの星印よりも、手描きの丸印の方が、なんだか信じられる気がする。


「こふね、こふね…っと。」


駅から5分ほど歩いた先、観光ルートを外れた小路に入り込む。

煉瓦の壁、駄菓子屋の看板、干された洗濯物。

門前仲町の下町は、どこか北海道の古い商店街にも似ている。


細い路地の奥に、手書きの木看板が見えた。

「しぐれ煮ごはん こふね」

その下に小さく、「午前のみ」「予約優先」「店主高齢」と貼り紙。


「あったけど..。ちょっと不安かも。」


格子戸を開けると、かすかな魚と味噌のにおいが鼻をくすぐった。

京花は、ひと呼吸おいてから「こんにちは〜。」と声をかけた。


奥の厨房から、ゆっくりした足音が聞こえてくる。

現れたのは背の低い小柄なおばあさんだった。

白髪をバンダナで包み割烹着を着て、手には木の杓文字。


「いらっしゃい。あんた、はじめて?」


「すみません、飛び込みで…。でも、どうしても食べたくて来ちゃいました。」


「それはありがとう。まぁ、座りなさいな。」


京花はぺこりと頭を下げ、畳敷きの小上がりに腰を下ろした。


「しぐれ煮ご飯、ひとつ。あと、できればあさりのお味噌汁も頂けますか?」


「お味噌汁はないのよ。うちは全部、炊き込んでるからね。」


「全部、ですか?」


「そう。あさりも、ごぼうも、生姜も、うちでは汁にしないの。ご飯が、全部吸ってくれるから。」


おばあさんはそう言って、厨房に戻っていった。

その背中が、やけに頼もしく見えた。


柱時計の音が響く中、京花は店内をぐるりと見渡した。

古びた写真が何枚かある。

東京湾の漁師達という文字のついたモノクロ写真の一枚には、笑顔で船に乗る若い男達と、波しぶきが写っていた。


「あっこれ、東京の写真なんだ...。」


京花は小さくつぶやいた。


「はい。お待たせしました。」


目の前に出された茶碗。

炊き込みご飯からは、ふわりと湯気が立ち上る。

薄く茶色がかったご飯粒の間に、きらりとあさりの身が光っている。


その時、木戸がカラカラと開いた。


「ばあちゃん、戻ったよ。あれ、お客さん?」


現れたのは、くしゃっとした前髪に白いTシャツの青年だった。


「あ...お邪魔してます。」


「壮真っていうんだ、この子。うちの孫。」


厨房からおばあさんの声がした。

壮真は興味津々で強化に話しかけた。


「しっかし、なんだってこんなところ知ってたん?あんた、しぐれ煮のこと、誰かに聞いたの?」


「ええ、ポットキャストのリスナーさんの質問がきっかけで。」


「へぇ、ポットキャストねぇ。変わった仕事してるんだね。」


京花が事情を話すと壮真は眉をあげて、京花の茶碗を覗き込んだ。

そこに盛られたのは、飾り気のない一杯の炊き込みご飯。

炊きたての湯気がふわりと立ち上がり、しょうがと煮あさりの香りが鼻をくすぐる。


京花はそのご飯を一口、口に運んだ。

ふっくらした米のひと粒ひと粒が、甘く、でも、しつこくない。

あさりの旨味が奥行きを生み、ごぼうの土の香りがわずかに残る。

噛むほどに、しょうがの辛味が後から追いかけてきて、口の中を洗い流す。


「これ、すごく美味しいです!感激しました!!」


「そうかい?」


「観光向けのぶっかけ深川めしとはまるで違います。こっちは、味が静かで、でも芯がある。」


「それが東京湾の味よ。」


「ばあちゃんの味って、俺は小さい頃からずっと食ってたから、東京の味だなんて、考えたこともなかったな。」


壮真が言った。


「東京らしさを探してる私が、誰かの日常を勝手に名物にしてる気がしてきました。」


そう口にすると、壮真は笑って言った。


「いやいや、それはそれでいいんじゃない?勝手に記念日みたいなもんだよ。こっちは、ただ食ってただけだしね。」


京花は再び箸を取り、茶碗のご飯をもうひと口。

口の中に広がるのは、懐かしさだけではない。

どこか温かく、根っこの深い味。


「あの…東京湾の味って、あさりの味ってことなんですか?」


「ちがうよ。」


おばあさんは湯飲みに口をつけながら言った。


「あさりも、ごぼうも、しょうがも、全部ひとまとめにして、火にかけて、味が混ざって、やがて、誰のものでもなくなる。うちは、それを東京だと思ってるよ。」


その言葉に、京花は何も返せなかった。


味は記憶だ。

けれどそれは、誰かのものだったはずの記憶が

食べることで共有される過去になることもある。


それが、東京に残る名もなき名物なのかもしれない。


京花は、しぐれ煮ご飯のラスト一口をそっと口に運んだ。

噛むたびに、甘さとほろ苦さが交互に押し寄せる。

それは、味覚というよりも記憶な気がした。


壮真がつぶやいた。


「味って、思い出にしないと残らないんかな。」


「うん。どうだろう。」


京花はうなずきながら茶碗を置いた。


目の前には、何気ない東京の路地と飾らない味。

けれど、そこには言葉では語り尽くせない、誰かの東京が確かに存在していた。


店内に流れる空気が、少し柔らかい。

京花が食べ終えた茶碗を下げながら、おばあちゃん、安藤ハルは、湯のみを片手に腰を下ろした。


「昔はね、このあたりの水路まであさりを獲りに行けたのよ。」


「えっ、水路ですか?」


「そう。川のそばに家があってね、潮が引いたら長靴履いてざると熊手持ってさ。」


「今みたいな漁業権とか。」


「なかったわよ。あれは、おかず採りって言ってね。誰でも、自分の家の分を獲ってたものよ。」


ハルの声には、強さよりも温もりがあった。

語りながら、どこか目の奥に懐かしさと寂しさが揺れている。


「でも、そのあさりがだんだん獲れなくなってね。」


「環境の変化で?」


「そうね。埋め立て地も多くなり、魚屋でも東京湾産なんて貼られなくなったわね。」


「今のしぐれ煮は…?」


「ほとんどの店は愛知からよ。いいあさりだけど、昔のとはちょっと違うの。」


京花は、静かに息をのんだ。

あの旨味は、東京で生まれたものじゃない。

でも、それでも東京の味と呼んでいいのかもしれない。

だって、炊いたのはこの台所で、味つけしたのもこの人だ。


「素材はどこのでもいいのよ。味はここで作る。そういうものじゃない?」


ハルが笑った。


「昔ね、あさりの煮汁がもったいないってご飯にかけて食べてたの。最初はそうだったの。でもね、段々、最初から炊こうってなって、しぐれ煮めしになったの。」


「発明ですね。」


「生活の工夫よ。台所は研究室。食べものが残ってた時代じゃないらね。」


「味の進化って、いつも、なくて困ったところから始まるんですね。」


「その通りよ。」


京花は思わず笑った。

今まで何百軒と食べ歩いた。

けれど、この一杯には、それらとは違う温度がある。


「味に心があるって言う人もいるけど...。」


京花は、自分の言葉を口にした。


「私は心じゃなくて、過去がある味の方が好きかもしれません。」


厨房から、しゅん、という炊飯器の音。

その音にかき消されるようにハルがつぶやいた。


「思い出なんてあんまり残らない方が楽に生きられるよ。」


「でも、誰かがその味を覚えてくれてたら、嬉しいでしょ」


「ふふ。そうかもね。」


ハルが見せた小さな笑みを、京花は静かに見つめていた。

そんな中、壮真がテーブルの端から湯呑を片手に言った。


「ばあちゃん、この前のしぐれ煮さ、ちょっとしょっぱかったよな。」


「だってあんた、途中でテレビに夢中になって火消し忘れたじゃない。」


「うわ、それ言う?」


「いうわよ。」


二人のやりとりに、京花は思わず吹き出した。


言葉じゃなかった。匂いだった。湯気だった。

焦げそうになった鍋の底、換気扇に残る潮の香り。

ここの味は台所に漂っていた時間そのもの。


「東京の味、見つかった?」


壮真の問いに、京花はにっこりと笑った。


「うん。東京にしかない匂いはちょっとわかってきた。」


「それはよかった。今日までやってたかいがあるよ。正直な話、もうやめようかと思ってたんだ。」


壮真の声は冗談めいていたけど、ほんの少し沈んでいた。

京花が食後のお茶をすすっているとき、彼が言った。


「ばあちゃんも高齢だしさ。営業日も減らしてるし、俺もそろそろ、他の仕事を始めなきゃなって、ね。」


「素敵なお店なのに。残念ね。」


「そう言ってくれるの、あんまりいないんだよ。地味だし、味も派手さがないって言われるしね。」


京花は湯呑をそっと置き、視線をテーブルに落とした。

しぐれ煮の名残が香る湯気の向こうで、彼の顔が少しだけ揺れていた。


「ねぇ、壮真くん」


「うん?」


「このお店ってさ、誰かの居場所になってるって思わない?」


「居場所?」


「ほら、味ってさ、誰かに思い出してもらえる理由になるじゃない?名前を忘れられても、あのときのあのご飯の味って記憶される。そういう場所がひとつでもあるなら、それって十分意味があることだって思うの。」


壮真は黙ってテーブルの端を指でなぞった。


「俺さ、東京の味とか、あんまり考えたことなかったけど…。この店がなくなったら、多分、俺にとっての東京って半分くらい消える気がする。」


「うん。」


京花は、少し口角を上げた。


「人によって、東京の形は違う。だから味も、東京も、ひとつじゃなくていいのよ。」


そのとき、厨房から炊飯器の蒸気がぶわっと立ちのぼった。

差し込む午後の光が湯気に反射して、キッチン全体がほんの少しだけ霞んで見える。


京花は、立ち上がってその光景を見つめた。

その瞬間をスマホで写真に収めていたのは、スタッフの桐谷颯だった。


「今の、めっちゃよかったっす。」


「え?いつのまに来たの?ていうか、撮ってたの?」


「ネタ探しに合流しに来ました。もちろんパッチリ撮りましたよ!」


彼が見せてくれた画面には、

湯気越しに笑っている京花と、少し照れくさそうなハルの横顔が写っていた。


それは、料理の写真でも、風景でもない。

この店にしかない空気が写った、静かな一枚だった。


「東京の味って、案外、湯気の向こうにあるのかもね。」


京花が呟くと、颯はカメラを下ろして笑った。


「それ、次のタイトルにしましょっか?」


「うん、悪くないかも〜。」


帰る準備をしながら、京花は立ち止まった。

店の棚の上に色褪せた木札が置いてあるのに気づく。


「これ、なんですか?」


「昔、うちのじいちゃんが漁師だったときの船名札だよ。」


「こふねって名前、そこからきてるの?」


「そう。小さな船だけど、ちゃんと家族を食べさせてくれたんだ。」


ハルがそう言ったとき、京花は静かに目を閉じた。

大きなものじゃなくてもいい。

記憶に残る味というのは、いつも小舟のように、誰かの暮らしを運んでいたのかもしれない。


―――


翌日の夜。

スタジオ内。

録音ランプが赤く点灯し、静かな夜の空気の中、京花の声がゆっくりと響いた。


「こんにちは、京花です。今日は、ちょっと静かめに話そうと思ってます。なぜなら、今日のテーマが記憶の味だからです。」


リスナーからの質問で「東京らしい味って、なんですか?」という問いかけに、24時間かけて出した答えを、京花は丁寧に紡いでいた。


「昨日、門前仲町の深川にある、しぐれ煮めし こふねというお店に行ってきました。

観光客向けの、ぶっかけ深川めしではなく、地元で長く愛されてきた、炊き込みのしぐれ煮ご飯がそこにありました。」


彼女の声は、いつもより少しだけ低く、言葉のひとつひとつに湯気のような温度を帯びていた。


「魚の味じゃない。調味料の味でもない。食べて感じたのはあれは、記憶の炊き込みご飯でした。」


「台所に立つ人の生活、使われた鍋、火加減、その家の空気までもが、ご飯粒に染みこんでるような、そんな味でした。」


スタッフルームでは、千紘がイヤホンを片耳にかけ、PC画面に文字起こしを打ち込んでいた。

音響の水島は無言で編集パネルに手を添え、

颯はスマホで昨日撮った湯気の写真をInstagramに上げようとキャプションを考えていた。


《#味で語ろう

#東京の炊き込み

#しぐれ煮めし

#忘れたくない味

#湯気の向こうに東京があった》


京花の声が続く。


「東京の味って、観光ガイドに載ってるものばかりじゃないと思うんです。誰かの暮らしの中で、毎日炊かれていたご飯の匂い。それを、私は東京らしさとして、記憶に留めたい。」


放送のラスト、彼女はほんの少しだけ笑って言った。


「今回のお土産はしぐれ煮の瓶詰めです。おばあちゃんの手作り。めっちゃごはん進みます。通販もなし、店舗限定。味も一期一会。そういうのって、たまらなくないですか?」


―――


録音ランプが消えた。

京花はイヤホンを外し、スタッフルームへ戻る。


「どうだった?」


「よかったよ。湯気の向こう側、しっかり届いた。」


千紘がそう言うと、他のスタッフたちもうなずいた。



その夜、京花は白米をよそい、しぐれ煮の瓶を開ける。

カチリという蓋の音に、鼻の奥がじんわりした。


炊飯器から立ちのぼる湯気が、灯にゆらゆら揺れていた。

それはまるで、深川のあの台所の景色が遠くから届いてきたような感覚。


「東京って、意外と優しいんだなぁ。」

京花はつぶやき、一口、炊きたての白ごはんにしぐれ煮をのせた。


「明日も、優しい1日でありますように。」

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