【第4話】この手は、まだ燃えていない
ギルド寮の朝は、相変わらず静かだった。
木造の廊下に響く控えめな足音と、窓越しに差し込む柔らかな光。
だが、ロイ・グランベルクが小さな食堂に降りてくると、珍しく先客がいた。
「……おはようございます」
レア・フィルシュタインだった。少女は、すでにテーブルの上にパンとスープを並べ、自分の分を食べ始めていた。
「ああ、おはよう。今日は早いな」
「……少し眠れなくて」
「まあ、そういう日もある」
ロイはいつものように豆のスープを鍋から注ぎ、自分の席に着く。レアはちらちらと彼の顔色をうかがいながら、ゆっくりとスープを口に運んだ。
「ロイさん、今日はどこに行くんですか?」
「今日は、ギルドで依頼を受けている。川の堤防の修復作業だ。簡単な力仕事だが、同行するか?」
「はい、行きます」
「ユナはまだ寝てるだろう。起きたら追いついてもらえばいい」
「わかりました」
レアは静かに頷いた。その瞳に、不安と微かな期待が交錯しているのを、ロイは見逃さなかった。
*
朝食の後、二人はギルドから少し離れた小さな川沿いに向かった。
雨で緩んだ土手には、いくつかの場所で土砂が崩れ、木の杭が倒れていた。
「この杭を打ち直して補強するのが今日の仕事だ」
ロイは簡単な指示を出しながら作業を始める。
レアも見よう見まねで土を運び、木杭を支えた。
「重くないか?」
「大丈夫です。思ったより、ずっと楽です」
黙々と作業するうち、レアの頬に薄い汗が滲む。
川の水音と、小鳥のさえずりだけが響いていた。
「ねえ、ロイさん」
「なんだ?」
「私、こういう仕事……好きです」
ロイはわずかに眉を上げた。
「意外だな。てっきり、炎を扱う仕事の方がいいのかと思っていた」
「いいえ。炎を使うのは……まだ怖い。でも、こういう普通の仕事なら、誰も傷つけなくて済むから」
「そうか」
ロイは土を固める手を休めず、淡々と続ける。
「だが、君の炎もいずれ役に立つ日が来る。急ぐ必要はないが、完全に避けることもない」
「……はい。でも、今はこれで十分です」
レアの言葉は静かで、確かな芯が感じられた。
*
一時間ほど作業を続けていると、ユナがやってきた。
「……遅れて、すみません」
「気にするな。ちょうどいいところだ」
ユナも作業に加わる。細い腕で木材を運ぶ姿は、どこかぎこちなくも真面目だった。
ロイは二人を見ながら、自分の心に小さな安心を感じていた。
この少女たちはまだ、不安と葛藤の中にいる。だが、ほんの少しだけ“前”に踏み出し始めている。
*
昼が近くなり、三人は一度休憩を取ることにした。
川辺の草地に座り、ロイが用意したパンと水筒の水を口にする。
「ロイさん、なぜ支援術士になったんですか?」
突然、レアが尋ねた。
「……理由、か」
ロイは少しだけ遠い目をして答える。
「昔は前線に出ていたが、途中で気づいたんだ。“力”を持たない者がいかに簡単に見捨てられるかを。俺はそれを嫌った。だから後方支援に回った」
「それで……私たちみたいな人を拾ってくれるんですね」
「そうだ。見捨てられるのは、あまり気分がいいものじゃないだろう?」
レアとユナは、静かに頷いた。
*
昼食を終えて作業に戻ろうとしたとき、川の向こう岸で叫び声が聞こえた。
「誰か助けて! 馬車がひっくり返った!」
見ると、向こう岸の橋の近くで荷馬車が横転し、積み荷が散乱している。
「レア、ユナ、行くぞ」
三人は橋を渡り、現場に駆けつけた。
周囲には野菜や雑貨が転がり、馬は怯えて動けなくなっていた。
「怪我人は?」
ロイが声をかけると、運転手らしき老人が足を押さえて呻いている。
「足が……動かん……!」
「すぐに手当てする。レア、ユナ、積み荷を回収しろ」
「はい!」
二人は散乱した荷物を素早く拾い集める。
ロイは老人の足を診て、骨折ではなく軽い捻挫であることを確認した。
「大丈夫だ。すぐ楽になる」
簡単な治癒術式を施すと、老人の表情が和らいだ。
「あんたら、冒険者か?」
「いや、支援術士と見習いだ」
「見習い……か。いや、助かった。ありがとう」
老人は小さく頭を下げた。
*
荷物の回収が終わり、三人は橋のたもとに戻った。
「……驚いた」
レアがぽつりと呟く。
「何がだ?」
「自分が……ちゃんと誰かの役に立てたから」
ロイは静かに頷く。
「誰だって、何かの役に立てる。炎を使わなくても、神を降ろさなくてもな」
ユナも、小さく頷いた。
*
ギルド寮に戻った三人は、夕食の準備を始めた。
「今日は野菜が多いですね」
「さっきの老人が礼にくれたんだ。せっかくだから全部使うぞ」
野菜を刻む包丁の音が、静かな食堂に響いた。
「……私、今日みたいな日が続けばいいなって思います」
レアがそっと呟く。
「私もです」
ユナが静かに答えた。
ロイは微笑み、小さく頷く。
「きっと、続くさ。俺がついている限りはな」
その言葉に、少女たちの表情が少しだけ明るくなった。
*
夜。ロイは一人、寮の窓から外を眺めていた。
星空の下、ふたりの少女が自分の居場所を探し始めている。
それを支えることが、今の彼の仕事だった。
自分の手は、まだ燃えていない。
けれども、確かに何かを掴み始めている──そんな気がしていた。
次回──「焦げ跡と神託と、今日のごはん」
ほんの少しの平和と、少しだけ進んだ距離。
そして、レアとユナの過去が交差する。