【第3話】神を宿す空の器
寮の廊下に、朝の光が差し込む。
ロイ・グランベルクは窓際の椅子に座り、冷めかけたコーヒーカップを両手で包んでいた。
ギルド支部の寮は、古くて小さい。だが、眠るには充分な静けさと、ほんの少しの安心感がある。
昨夜のレアは、だいぶ表情が柔らかくなっていた。訓練場で炎を制御できたことが、わずかな自信になったのだろう。
だが、彼女の内側に残る“火の影”は、まだ完全には消えそうもない。
ロイはぼんやりとカップを傾け、窓の外に目をやる。春先の北風が、街路樹の新芽をそっと揺らしていた。
*
その日の午前。
レア・フィルシュタインは、訓練場でロイと二人きりだった。
薄いシャツ姿で、手のひらの上に小さな炎を宿し、それをそっと握りしめて消す。
昨日よりも、火は少し長く“自分のもの”でいてくれた。
「うまくなったな」
「……まだ、怖いです。でも、昨日より、少しだけ」
ロイは頷き、魔力計測札に記録をつける。
「訓練はこれで終わりにしよう。今日は“外”に出る用事がある。どうする? 一緒に来るか?」
「外……?」
「村はずれの、古い教会跡だ。ギルドの依頼があってな。道案内役も兼ねて、同行してほしい」
レアは逡巡したが、やがて小さく「はい」と答えた。
ロイと行動することで、少しずつ自分を“外”に馴染ませていく。それが、彼女の“訓練”でもあった。
*
寮を出て十五分ほど歩くと、町外れに古びた教会が見えてくる。
崩れかけた石の階段、苔むした壁。扉は半ば朽ち、祭壇の跡には古い鐘がぶら下がっている。
この教会は、かつて神職の少女が“神憑き”として隔離されていた場所だった。
依頼内容は、老朽化した教会の調査と周辺の簡易清掃、そして“調査中に見かけた少女の安否確認”だった。
「……あの鐘、まだ鳴るんですね」
レアがぽつりと呟く。
「昔は、村の祈りの場所だった。今はもう、人の声も神の気配も薄いが」
ロイは壁際の草むらを見渡す。
そのとき、小さな人影が鐘の下に立っているのに気づいた。
風に揺れる白いワンピース。
肩までの銀色の髪、無表情の横顔。少女は鐘の鎖に手を伸ばしていた。
「……誰?」
レアがそっとロイの背中に隠れる。
「……ギルドの者だ。ここで何を?」
ロイの問いかけにも、少女は振り向かない。ただ、ゆっくりと手を引っ込めた。
「あなたが、今日の“依頼主”ですか?」
淡々とした、感情の薄い声だった。
「いいや。俺はただの支援術士。君に用がある」
「──私は、“ここ”の守り人です。名前は……ユナ」
少女はそう名乗った。
「ユナ……?」
「はい。神々の座を宿す者です」
ロイは目を細めた。噂に聞いていた“神降ろし”の少女に違いない。
無感情で、だが目の奥だけが妙に澄んでいる。
「君は、ここで何をしている?」
「待っています。……ずっと、誰かを」
「誰か……?」
「“呼ばれる日”を、です」
ロイとレアは顔を見合わせた。
*
教会跡の周囲には、誰の姿もない。
時折、風の音が鐘を揺らし、かすかな金属音が響いた。
「ユナ。君に、頼みたいことがある。ギルドの依頼だ。教会跡の調査と、君の安否確認。もし可能なら、町に戻ってきてくれないか」
「私は、ここにいるべきです。“神”がそう言いましたから」
ユナの声は淡々としていたが、どこか頑なだった。
「ここは、君にとって居場所か?」
「……わかりません。ただ、今は“人間”として、あなたたちと話しています」
ユナは壁に腰かけ、膝を抱えた。
「“神”は、時々私の中に降りてきます。そのときは、私の意志は消えてしまう。……怖いです」
ほんのわずかだけ、声が震えた気がした。
レアがそっとユナの隣に座る。
「……わたしも、怖いよ。自分の火が、誰かを傷つけるんじゃないかって」
ユナは、ゆっくりとレアの方を見る。
「あなたも、何かを“宿して”いるんですね」
「……うん。でも、制御は苦手」
「私もです。だから、ひとりでここにいた」
沈黙が落ちる。
ロイは少し離れた場所に立ち、ふたりのやり取りを見守っていた。
*
昼近く、鐘の下で風が止んだ。
ユナが立ち上がり、ロイの方を向く。
「ギルドの人。私は、どうすればいいですか」
「君がここに残りたいなら、それも選択肢だ。ただ、もし“外”を見てみたいなら、俺たちと来い。無理に誘いはしない」
「……外、ですか」
ユナはしばらく考えていた。
「行きます。……でも、“神”が現れたら、私の意志はなくなります。それでも、いいですか?」
「いいさ。困ったときは、俺が何とかする」
「……ありがとうございます」
ユナは、微かに微笑んだ。
*
町へ戻る道すがら、三人はほとんど言葉を交わさなかった。
ユナは歩幅が小さく、レアも合わせてゆっくり歩いた。
途中、小さな川の橋の上で休憩をとった。
「水の流れ、きれい……」
ユナがぽつりと呟く。
「私、“神”が宿ると、景色が変わって見えます。色も、音も、全部」
「怖い?」
「はい。でも、“消えるよりは、怖いままでいたい”です」
その言葉に、レアも黙ってうなずいた。
*
ギルド寮に戻ると、ロイは手早く手続きを進めた。
ユナも仮保護の扱いで、空き部屋を与えられることになった。
「荷物は?」
「ありません」
「そうか。じゃあ、必要なものは支給する」
ロイは、支援術式端末で簡単な記録を取った。
「ユナ。今後のことだが、“神”が降りてきたときはどうなる?」
「人格も変わることがあります。声も、考え方も。“私”が何か言っても、もう一人の“私”です」
「暴走したとき、止める方法は?」
「強い衝撃か、“神”の望まぬ状況になると戻ります。あとは、私自身の意志が残っていれば……」
「なるほど」
ロイは真剣な表情でメモを取る。
「当面は、俺とレアが一緒にいる。少しずつ慣れていこう」
「はい」
*
夜。三人で簡単な夕食を囲む。
ユナは、パンを小さくちぎってゆっくり食べる。
レアは、時折彼女の様子を気にしていた。
「ユナは、好きなものある?」
「特に……ありません。味覚も、薄いです。でも、食べていると“人間”の感覚が戻ってくる気がします」
「わたしも、昔は何も感じなかったけど、最近少しずつ“おいしい”って思えるようになった」
ロイは静かに、二人のやりとりを見守っている。
「明日からは、三人で行動しよう。訓練も兼ねて、依頼の下見をいくつか回る。無理はしなくていい。困ったら、すぐ言え」
「……はい」
「はい」
初めての三人での夜。
部屋の隅で、小さな灯りが揺れていた。
*
翌朝、ロイは二人を連れて町の広場に向かった。
「今日は、初めての“外回り”だ。依頼の下見を兼ねて町を一周する」
ユナは周囲の人波をじっと観察していた。
レアも緊張している様子だった。
「ここが市場。向こうが冒険者の掲示板。広場の奥には小さな祈りの場がある」
ロイは淡々と案内する。
「……人がたくさんいます」
「怖いか?」
「……少し。でも、嫌じゃありません」
ユナは、慎重に歩みを進める。
途中、子供たちが通りすがりに「変な目つきの子がいる」とささやいた。
ユナは、表情を変えない。
「気にしなくていい。人は、自分と違うものを怖がるからな」
「はい」
*
町を回った後、三人はギルドに戻る。
訓練場で、軽い実技訓練を行った。
「ユナ。君のスキル《空なる御座》を使わなくていい。まずは“普通”に体を動かすだけでいい」
「はい」
ユナは、木剣を手にして軽く振る。
「難しい?」
「力加減が、よくわかりません。でも、怖くはありません」
「それで十分だ」
レアは、遠巻きに見ていたが、次第に近寄ってきた。
「ユナ、すごい。……私より上手かも」
「……本当ですか?」
「うん。私は、まだ怖くて、全然……」
「私も怖いです。でも、ロイさんが止めてくれるなら、大丈夫な気がします」
レアは少しだけ、ほっとした顔になる。
*
夜。
レアとユナは、二段ベッドの上下で眠ることになった。
「レアさん」
「なに?」
「私、うまく“普通”になれません。神様が、また来るかもしれません」
「……大丈夫だよ。私も“普通”じゃないし、ロイさんも、いろいろ変だから」
ユナは、ほんのわずかに微笑んだ。
「……ありがとう」
やがて、二人は静かな寝息を立てた。
*
深夜。
ユナの夢の中に、“神”が降りてきた。
『器よ。目覚めよ』
白い光に包まれた世界。
ユナは、そこで独りきりだった。
『何を望む』
「……外の世界を見てみたい」
『恐れるな。お前の意志が、最も強い力になる』
神はそう告げ、静かに消えていった。
ユナは、目覚めた。
「……大丈夫」
小さく、そう呟いた。
*
翌日。三人は新しい依頼に向かった。
古い倉庫の整理。
ユナは、棚の荷物を淡々と運ぶ。
「重くない?」
「大丈夫です」
ロイは、荷物のリストを確認している。
「この町で暮らしてみて、どうだ?」
「……まだ、よくわかりません。でも、ここにいてもいいと思えることが、少しだけ増えました」
レアも横から加わる。
「私も、最初は怖かった。でも、今は……楽しいって思える日もある」
ユナは静かにうなずいた。
*
依頼の帰り道。
市場の路地裏で、小さなトラブルに遭遇した。
酔っ払いの男が、道端で物を投げていた。
「おい、危ないから離れてろ」
ロイが手を広げて二人を庇う。
「なんだお前ら、怪しいガキ連れて歩きやがって!」
ロイは淡々と対応する。
「この子たちはギルドの保護下だ。手を出せば、こっちも黙っていない」
男はぶつぶつ言いながら去っていった。
「……怖かった」
レアがそっと呟く。
「でも、ロイさんがいたから、大丈夫でした」
「当たり前だ。俺の仕事だからな」
ユナは、そのやりとりをじっと見ていた。
「“誰かに守られる”って、不思議な感じです」
「人間って、そんなもんだよ」
「……はい」
*
夜。三人で小さな鍋を囲む。
静かな夜、外では風の音だけが聞こえる。
「明日は、もう少し遠くまで行く。新しい景色を見て、いろんなことを知ろう」
「……はい」
「はい」
眠る前、ユナはそっと窓の外を見上げる。
「神様、今日は降りてこなくていいよ」
自分の声が、初めて自分だけのものになった気がした。
*
三人の旅は、まだ始まったばかり。
それぞれの心に、少しずつ“居場所”の灯りがともり始めていた。
次回──「この手は、まだ燃えていない」
火と空、交わらぬままのふたり。
それでも、焚き火を囲めば少しは話せる気がする──そんな夜の物語。