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【第3話】神を宿す空の器

 寮の廊下に、朝の光が差し込む。

 ロイ・グランベルクは窓際の椅子に座り、冷めかけたコーヒーカップを両手で包んでいた。

 ギルド支部の寮は、古くて小さい。だが、眠るには充分な静けさと、ほんの少しの安心感がある。

 昨夜のレアは、だいぶ表情が柔らかくなっていた。訓練場で炎を制御できたことが、わずかな自信になったのだろう。

 だが、彼女の内側に残る“火の影”は、まだ完全には消えそうもない。


 ロイはぼんやりとカップを傾け、窓の外に目をやる。春先の北風が、街路樹の新芽をそっと揺らしていた。



 その日の午前。


 レア・フィルシュタインは、訓練場でロイと二人きりだった。

 薄いシャツ姿で、手のひらの上に小さな炎を宿し、それをそっと握りしめて消す。

 昨日よりも、火は少し長く“自分のもの”でいてくれた。


「うまくなったな」


「……まだ、怖いです。でも、昨日より、少しだけ」


 ロイは頷き、魔力計測札に記録をつける。


「訓練はこれで終わりにしよう。今日は“外”に出る用事がある。どうする? 一緒に来るか?」


「外……?」


「村はずれの、古い教会跡だ。ギルドの依頼があってな。道案内役も兼ねて、同行してほしい」


 レアは逡巡したが、やがて小さく「はい」と答えた。

 ロイと行動することで、少しずつ自分を“外”に馴染ませていく。それが、彼女の“訓練”でもあった。



 寮を出て十五分ほど歩くと、町外れに古びた教会が見えてくる。

 崩れかけた石の階段、苔むした壁。扉は半ば朽ち、祭壇の跡には古い鐘がぶら下がっている。

 この教会は、かつて神職の少女が“神憑き”として隔離されていた場所だった。


 依頼内容は、老朽化した教会の調査と周辺の簡易清掃、そして“調査中に見かけた少女の安否確認”だった。


「……あの鐘、まだ鳴るんですね」


 レアがぽつりと呟く。


「昔は、村の祈りの場所だった。今はもう、人の声も神の気配も薄いが」


 ロイは壁際の草むらを見渡す。

 そのとき、小さな人影が鐘の下に立っているのに気づいた。


 風に揺れる白いワンピース。

 肩までの銀色の髪、無表情の横顔。少女は鐘の鎖に手を伸ばしていた。


「……誰?」


 レアがそっとロイの背中に隠れる。


「……ギルドの者だ。ここで何を?」


 ロイの問いかけにも、少女は振り向かない。ただ、ゆっくりと手を引っ込めた。


「あなたが、今日の“依頼主”ですか?」


 淡々とした、感情の薄い声だった。


「いいや。俺はただの支援術士。君に用がある」


「──私は、“ここ”の守り人です。名前は……ユナ」


 少女はそう名乗った。


「ユナ……?」


「はい。神々のエンプティ・スローンを宿す者です」


 ロイは目を細めた。噂に聞いていた“神降ろし”の少女に違いない。

 無感情で、だが目の奥だけが妙に澄んでいる。


「君は、ここで何をしている?」


「待っています。……ずっと、誰かを」


「誰か……?」


「“呼ばれる日”を、です」


 ロイとレアは顔を見合わせた。



 教会跡の周囲には、誰の姿もない。

 時折、風の音が鐘を揺らし、かすかな金属音が響いた。


「ユナ。君に、頼みたいことがある。ギルドの依頼だ。教会跡の調査と、君の安否確認。もし可能なら、町に戻ってきてくれないか」


「私は、ここにいるべきです。“神”がそう言いましたから」


 ユナの声は淡々としていたが、どこか頑なだった。


「ここは、君にとって居場所か?」


「……わかりません。ただ、今は“人間”として、あなたたちと話しています」


 ユナは壁に腰かけ、膝を抱えた。


「“神”は、時々私の中に降りてきます。そのときは、私の意志は消えてしまう。……怖いです」


 ほんのわずかだけ、声が震えた気がした。


 レアがそっとユナの隣に座る。


「……わたしも、怖いよ。自分の火が、誰かを傷つけるんじゃないかって」


 ユナは、ゆっくりとレアの方を見る。


「あなたも、何かを“宿して”いるんですね」


「……うん。でも、制御は苦手」


「私もです。だから、ひとりでここにいた」


 沈黙が落ちる。


 ロイは少し離れた場所に立ち、ふたりのやり取りを見守っていた。



 昼近く、鐘の下で風が止んだ。


 ユナが立ち上がり、ロイの方を向く。


「ギルドの人。私は、どうすればいいですか」


「君がここに残りたいなら、それも選択肢だ。ただ、もし“外”を見てみたいなら、俺たちと来い。無理に誘いはしない」


「……外、ですか」


 ユナはしばらく考えていた。


「行きます。……でも、“神”が現れたら、私の意志はなくなります。それでも、いいですか?」


「いいさ。困ったときは、俺が何とかする」


「……ありがとうございます」


 ユナは、微かに微笑んだ。



 町へ戻る道すがら、三人はほとんど言葉を交わさなかった。


 ユナは歩幅が小さく、レアも合わせてゆっくり歩いた。


 途中、小さな川の橋の上で休憩をとった。


「水の流れ、きれい……」


 ユナがぽつりと呟く。


「私、“神”が宿ると、景色が変わって見えます。色も、音も、全部」


「怖い?」


「はい。でも、“消えるよりは、怖いままでいたい”です」


 その言葉に、レアも黙ってうなずいた。



 ギルド寮に戻ると、ロイは手早く手続きを進めた。

 ユナも仮保護の扱いで、空き部屋を与えられることになった。


「荷物は?」


「ありません」


「そうか。じゃあ、必要なものは支給する」


 ロイは、支援術式端末で簡単な記録を取った。


「ユナ。今後のことだが、“神”が降りてきたときはどうなる?」


「人格も変わることがあります。声も、考え方も。“私”が何か言っても、もう一人の“私”です」


「暴走したとき、止める方法は?」


「強い衝撃か、“神”の望まぬ状況になると戻ります。あとは、私自身の意志が残っていれば……」


「なるほど」


 ロイは真剣な表情でメモを取る。


「当面は、俺とレアが一緒にいる。少しずつ慣れていこう」


「はい」



 夜。三人で簡単な夕食を囲む。


 ユナは、パンを小さくちぎってゆっくり食べる。

 レアは、時折彼女の様子を気にしていた。


「ユナは、好きなものある?」


「特に……ありません。味覚も、薄いです。でも、食べていると“人間”の感覚が戻ってくる気がします」


「わたしも、昔は何も感じなかったけど、最近少しずつ“おいしい”って思えるようになった」


 ロイは静かに、二人のやりとりを見守っている。


「明日からは、三人で行動しよう。訓練も兼ねて、依頼の下見をいくつか回る。無理はしなくていい。困ったら、すぐ言え」


「……はい」


「はい」


 初めての三人での夜。

 部屋の隅で、小さな灯りが揺れていた。



 翌朝、ロイは二人を連れて町の広場に向かった。


「今日は、初めての“外回り”だ。依頼の下見を兼ねて町を一周する」


 ユナは周囲の人波をじっと観察していた。

 レアも緊張している様子だった。


「ここが市場。向こうが冒険者の掲示板。広場の奥には小さな祈りの場がある」


 ロイは淡々と案内する。


「……人がたくさんいます」


「怖いか?」


「……少し。でも、嫌じゃありません」


 ユナは、慎重に歩みを進める。


 途中、子供たちが通りすがりに「変な目つきの子がいる」とささやいた。


 ユナは、表情を変えない。


「気にしなくていい。人は、自分と違うものを怖がるからな」


「はい」



 町を回った後、三人はギルドに戻る。

 訓練場で、軽い実技訓練を行った。


「ユナ。君のスキル《空なる御座》を使わなくていい。まずは“普通”に体を動かすだけでいい」


「はい」


 ユナは、木剣を手にして軽く振る。


「難しい?」


「力加減が、よくわかりません。でも、怖くはありません」


「それで十分だ」


 レアは、遠巻きに見ていたが、次第に近寄ってきた。


「ユナ、すごい。……私より上手かも」


「……本当ですか?」


「うん。私は、まだ怖くて、全然……」


「私も怖いです。でも、ロイさんが止めてくれるなら、大丈夫な気がします」


 レアは少しだけ、ほっとした顔になる。



 夜。


 レアとユナは、二段ベッドの上下で眠ることになった。


「レアさん」


「なに?」


「私、うまく“普通”になれません。神様が、また来るかもしれません」


「……大丈夫だよ。私も“普通”じゃないし、ロイさんも、いろいろ変だから」


 ユナは、ほんのわずかに微笑んだ。


「……ありがとう」


 やがて、二人は静かな寝息を立てた。



 深夜。


 ユナの夢の中に、“神”が降りてきた。


『器よ。目覚めよ』


 白い光に包まれた世界。

 ユナは、そこで独りきりだった。


『何を望む』


「……外の世界を見てみたい」


『恐れるな。お前の意志が、最も強い力になる』


 神はそう告げ、静かに消えていった。


 ユナは、目覚めた。


「……大丈夫」


 小さく、そう呟いた。



 翌日。三人は新しい依頼に向かった。


 古い倉庫の整理。

 ユナは、棚の荷物を淡々と運ぶ。


「重くない?」


「大丈夫です」


 ロイは、荷物のリストを確認している。


「この町で暮らしてみて、どうだ?」


「……まだ、よくわかりません。でも、ここにいてもいいと思えることが、少しだけ増えました」


 レアも横から加わる。


「私も、最初は怖かった。でも、今は……楽しいって思える日もある」


 ユナは静かにうなずいた。



 依頼の帰り道。


 市場の路地裏で、小さなトラブルに遭遇した。


 酔っ払いの男が、道端で物を投げていた。


「おい、危ないから離れてろ」


 ロイが手を広げて二人を庇う。


「なんだお前ら、怪しいガキ連れて歩きやがって!」


 ロイは淡々と対応する。


「この子たちはギルドの保護下だ。手を出せば、こっちも黙っていない」


 男はぶつぶつ言いながら去っていった。


「……怖かった」


 レアがそっと呟く。


「でも、ロイさんがいたから、大丈夫でした」


「当たり前だ。俺の仕事だからな」


 ユナは、そのやりとりをじっと見ていた。


「“誰かに守られる”って、不思議な感じです」


「人間って、そんなもんだよ」


「……はい」



 夜。三人で小さな鍋を囲む。


 静かな夜、外では風の音だけが聞こえる。


「明日は、もう少し遠くまで行く。新しい景色を見て、いろんなことを知ろう」


「……はい」


「はい」


 眠る前、ユナはそっと窓の外を見上げる。


「神様、今日は降りてこなくていいよ」


 自分の声が、初めて自分だけのものになった気がした。



 三人の旅は、まだ始まったばかり。


 それぞれの心に、少しずつ“居場所”の灯りがともり始めていた。

次回──「この手は、まだ燃えていない」

火と空、交わらぬままのふたり。

それでも、焚き火を囲めば少しは話せる気がする──そんな夜の物語。

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