【第2話】陰の火を宿す者
ギルド寮の天井を見上げていた。薄曇りの朝。見慣れないベッドの上に、レア・フィルシュタインはしばらくぼんやりと横たわっていた。
木枠の窓から外を覗くと、北の空は相変わらずどんよりしている。冷たい空気が、部屋の隅々まで染み込んでいた。
──誰もいない焼け跡の井戸端。煤けた手を握りしめていた自分が、遠い夢のようだった。
昨日、ロイ・グランベルクに拾われてここへ来た。部屋も、寝床も、温かい食事も用意された。
それでも、心のどこかはまだ“燃え尽きた村”に置き去りのままだった。
ドアが静かにノックされる。
「おはよう。起きてるか?」
眠たげな、低い声。支援術士──ロイの声だった。
レアは思わず身をこわばらせたが、すぐに「はい」とだけ返事をする。
「朝飯だ。食堂に来いよ。食わなきゃ力も出ない」
その口調は、昨日と変わらず、どこか淡々としていて。
命令でも、優しさでもない。ただ“現実”を淡々と運ぶ声だった。
レアはゆっくりとベッドから降りる。肌寒さを感じて、支給された上着を羽織った。
簡素な部屋。壁に掛けられた古びた時計が、朝の六時半を示している。
食堂は、すでにパンと豆のスープの匂いで満ちていた。
長机の向こう、ロイがカップを手にして待っていた。
「……おはようございます」
「おう。こっち座れ」
レアはおずおずと席に着く。ロイは黙って、彼女の前にスープ皿とパンを置いた。
「昨夜、眠れたか?」
「……はい。少しだけ」
「最初はそんなもんだ」
ロイの動作は、いちいち無駄がない。鍋を片付けながら、さりげなくレアの様子を観察している。
「飯の後、時間があるなら……訓練場を案内しようと思う。支援職向けの設備もある。使いたきゃ、自由にしていい」
「……はい」
「無理はするなよ。疲れてたら部屋で休んでても構わん。ギルドの仕事も急ぎじゃないしな」
言いながら、ロイはパンを小さくちぎり、スープに浸す。
レアも見様見真似でそれを口に運ぶ。
「熱いから、ゆっくり食え」
豆と野菜の素朴な味。昨日の空腹を思い出すと、少し恥ずかしくなった。
「……おいしいです」
「そりゃよかった。人間、腹が減ってたらまともに考えられない。まずは食うことだ」
会話は、それ以上続かない。だが、不思議と“居心地の悪さ”はなかった。
*
朝食が終わると、ロイは一度自室へ戻り、荷物の整理と日誌の記録を始めた。
窓の外には、まだ薄い霧が漂っている。レアは、手持ち無沙汰のまま部屋を出て、廊下を歩く。
途中、ギルド職員らしき青年が会釈してくれるが、特に話しかけられることもない。
建物の一階奥、“訓練場”と書かれた扉を見つけた。
ドアを開けると、広い土間と、魔力感知陣が刻まれた床。壁には防護用の盾や訓練用の木剣、魔力分散札などがずらりと並ぶ。
「レアか。ちょうどいい。案内しようと思ってた」
ロイが後ろから現れた。すでに軽装のジャケット姿。
眠たげな目で、土間の奥を指さす。
「奥は支援術士用の制御陣。爆発や暴発があっても最小限に抑えられるようになってる。危ない時は俺が術式で止めるから、気にせずやってみろ」
「……訓練、ですか」
「ああ。無理にやらなくてもいい。けど、力を持て余してるなら、まずは“どう扱えるか”から始めてみろ」
レアは、小さく頷いた。
「じゃあ……」
そっと右手を掲げる。
――頭の中に、昨日の記憶がよぎる。
村の井戸端。煤まみれの指先。爆発の轟音。全てが“自分のせい”で壊れた気がした。
思い出すだけで、体が強張る。
ロイはその横顔を、じっと見ている。
「……無理しなくていい」
「……はい」
「まずは、炎を“出さない”練習からだ」
「え?」
「スキルを使うことじゃなく、使わないことを“意識”してみろ。暴発したときの感覚を逆に思い出す。魔力を込める前に、“止める”感覚を掴むんだ」
レアは、ゆっくりと呼吸を整え、指先に意識を集中させる。
けれど、炎は生まれなかった。
――ホッとしたような、悔しいような。
「……できませんでした」
「それでいい。“暴発しなかった”ことが、まず一歩だ。何度でも繰り返してみろ」
レアはうなずき、もう一度、今度は左手でやってみる。やはり何も起こらない。
「……これ、意味あるんですか」
「あるさ。魔力の流れを“知る”ことが大事だ。いきなり制御できる奴なんていない」
淡々とした声。レアは、その言葉に少しだけ救われた気がした。
*
昼近くになると、ロイはギルドの手伝いに出かけた。
レアは一人、寮の部屋で過ごすことになる。
本棚には、冒険者向けの教本や、魔力制御の入門書、支援術士の戦術論が並んでいた。
パラパラとページをめくると、どの本にも“制御”や“冷静さ”という言葉が頻繁に出てくる。
(私には、無理なのかもしれない)
ふと、手が止まる。
焼け跡の井戸端で、独りきりだった昨日の自分が胸の奥でうずく。
(また、あの火が……暴れたら……)
怖くてたまらなかった。
*
午後、ロイが戻ってくる。
「どうだ、何か困ったことは?」
「……いいえ。大丈夫です」
「なら、夕飯の手伝いでもするか? 包丁ぐらいは使えるか?」
「少しだけ……」
「じゃあ、野菜を刻んでくれ」
厨房には、他にも冒険者や職員がいて、ざっくばらんな空気だった。
レアは、包丁を握る手が少し震えた。
「怖いなら無理しなくていい」
「いえ、大丈夫です」
刻んだ野菜が鍋の中で踊る。豆と塩の香り。誰かが冗談を言い合い、笑い声が響いた。
自分には、まだ混ざれない。でも、嫌な気配じゃなかった。
「今日はスープとパンだけだ。あとで部屋に持っていくから、ゆっくり食え」
「……はい」
*
夜、ロイは日誌をつけながら、窓の外の星空を眺めていた。
レアは、静かに自分のベッドへ潜り込む。
窓から見える遠い夜空。
その下で、昨日までと違う“明日”が待っている気がした。
*
翌朝。
ロイが用意してくれた簡単な朝食を済ませると、再び訓練場へ向かった。
「今日は、“炎を灯して止める”練習だ。いきなり全部制御しようとするな。“止める”タイミングを体で覚える」
「……はい」
レアは右手を前に出す。呼吸を整え、意識を集中させ――
ぱちっ、と小さな火花が生まれた。
……だが、その火はすぐに消えてしまう。
「……また、できなかった」
「いいんだ。大事なのは“爆発させない”ことだ。焦るな」
何度も繰り返すうちに、レアの額には汗が滲んだ。
「ちょっと休憩しよう」
ロイはベンチに腰かけ、水筒を差し出す。
「……ロイさんは、どうして私に、こんなに付き合ってくれるんですか」
唐突な問いに、ロイはわずかに眉を動かした。
「俺は、誰かを“救いたい”と思ってるわけじゃない。ただ、“投げ出されたもの”を見ると、つい拾いたくなる性分なんだ」
「……それでも、十分優しいです」
「そう思うなら、それでいい」
*
午後の訓練では、少しずつ“炎を制御する感覚”が掴めてきた。
何度か小さな火を生み出し、すぐに消すことができた。
「できました!」
レアが嬉しそうに報告する。
「おう、よくやった。……でも、調子に乗るなよ。今日のところはそれで終わり」
「はい!」
少しだけ、表情が明るくなった気がした。
*
夜――ギルド寮の屋上。
ロイは静かに煙草をくゆらせていた(※吸っているふりだけで、実際には火をつけない)。
レアがそっと隣に座る。
「……もう寝るか?」
「少しだけ、ここで」
「そうか」
沈黙が流れる。
やがて、レアがぽつりと呟いた。
「……ロイさん、わたし、今でも怖いです。火も、自分も、全部」
「怖いものを“怖い”と言えるのは、大事なことだ。無理に強がる必要はない」
ロイの声は、どこまでも静かだった。
「……でも、前よりは、少しだけ怖くなくなりました」
「そうか。それは大きな一歩だ」
「……ありがとうございました」
「礼を言うのは、まだ早い。これからだろ」
夜風が、二人の間を吹き抜ける。
遠くで犬の鳴き声が聞こえた。
それぞれの心の中に、“新しい居場所”の種が静かに芽吹いていく。
*
三日後。
レアの訓練は続いていた。ギルド寮の訓練場は、毎日少しずつ賑やかになってきていた。
他の冒険者たちが、興味深そうに彼女を眺めている。
「今日の調子はどうだ?」
「……昨日より、少しだけ炎が長く保てました」
「そうか。焦らなくていい。大きな火を目指すより、まずは“小さな灯り”を育てろ」
「はい!」
レアは、小さな火を両手に宿し、それをじっと見つめる。
そこには、ほんのわずかに“誇り”の色が混じっていた。
*
夜。ロイは支援術式の記録を整理していた。
部屋の窓辺に置かれた、小さなランタン。
その炎が、ふたりの夜を優しく照らしている。
「……ロイさん」
「なんだ」
「わたし、もっと強くなりたいです。もう誰も傷つけないように、自分の火をちゃんと使えるように……」
「そうか。なら、これからも一緒に頑張ろう」
「はい!」
ふたりの声は、小さくも力強く夜に響いた。
*
翌朝。
ギルドの掲示板に、新しい依頼が貼り出された。
回復薬の配達、道具の修理、郊外の清掃──どれも地味な仕事ばかり。
「レア。そろそろ、外の世界も見てみるか?」
「……はい!」
新しい冒険が、静かに始まろうとしていた。
次回──「神を宿す空の器」
火の次は、空。
神に触れた少女は、まるで世界から隔絶されていた。
だがロイは、彼女の「沈黙」に耳を澄ませる。