【第14話】火の踊り子、烈脚を舞う
瘴気が濃い。
霧のように滲んだ灰色の靄が、風のない林道にゆらりと漂っていた。
木々の葉はまだ青いが、空気は鈍く重く、まるで腐りかけた肺を通したような感触だった。
ロイ・グランベルクは前方に視線を向けたまま、術式の中継調整を続けていた。
「ノア、支援転送は三十秒ごとに再配置。視界に入らなくても接続は継続」
「了解。転送基点は固定化中……先行パルス、発信済み」
視界の先に、半ば倒れかけた木の幹と、その向こうで崩れるようにしゃがみ込んだ少女の姿があった。
黒衣。漆黒のブーツ。左脚に濃い血痕。
周囲には魔物の骸が四体。異様に引き裂かれた痕跡。獣の咆哮というより、踊るような乱打の軌跡――。
「間に合ったか……! アデル、前に出るな。援護はノアの送信域内で留めろ」
「……ったく、ここ、敵の死臭で満ちてやがるぞ。何やったんだよあの嬢ちゃん」
「観察は後だ。まずは接触と安全確保」
ロイは小さく息を吐き、歩を進める。
その黒衣の少女――ルシア=ヴァルシュタインは、ふらりと顔を上げた。
瞳は焦点を結んでいない。だが、誰かを探すように、ゆっくりと視線を巡らせ――そして、ロイの姿を認めた。
瞬間。
空気の揺らぎが変わった。瘴気の粒子が後退するように軌道を乱し、
血の匂いより先に、“誰かの記憶”が脳裏をよぎった。
――この声、この姿。
かつて、戦術論の講義で聞いた声だった。
(……なぜ、あの人がここに)
混濁した意識の底で、そう呟いた気がした。
臨時講師だった。戦場の匂いを纏い、誰にも媚びず、
ただ一言、「意味を持てる奴は、そう多くない」と言った男。
その男が、今、手を差し出している。
「お前……ルシア=ヴァルシュタインか? 状況は把握した。援護は後続に回す。お前は、もう動かなくていい」
その声音に、命令でも叱責でもない何かを感じた。
認識。確認。選別。指揮官としての視線。
けれど、奇妙なほどに、“意味”を問う目だった。
――この人は、覚えていないかもしれない。
それでも構わなかった。
「……救援、感謝します」
短く、静かに言ったルシアの声は、しかし確かに、“志願”という名の意志を滲ませていた。
***
ギルド支部の医務室は、昼過ぎの光が差し込んでいた。
ベッドの上でルシア=ヴァルシュタインは、無言で足首に巻かれた包帯を見下ろしていた。死霊術による身体補助はすでに解いてある。左脚の損傷は軽くはなかったが、致命ではなかった。何より、最後まで“術式の型”を崩さずに戦い切ったことが、ギルド職員たちの間で小さく話題にすらなっていた。
ドアのノックが控えめに響く。
「入っていいか」
あの声だった。
「……構いません」
扉が開き、ロイ・グランベルクが一歩だけ中に入る。その姿勢はどこか、“言葉を置きにきた”という風に整っていた。
「まずは、無事で何よりだ。今回の件――」
「志望申請書は提出済です」
ルシアの声は、どこまでも平坦だった。
ロイの目が、一瞬だけ細められる。
「……そうか。早かったな」
「助けられたから、ではありません。私は判断のための材料を得たにすぎません」
「その材料ってのは、俺の指揮か?」
「はい。そして、貴方が“意味”を探す人だということも」
一拍。
その言葉に、ロイの眉がわずかに動いた。
“意味”という言葉に引っかかったのか、それとも――過去の記憶に接続する感触があったのか。
「……講義の記録を、見たのか?」
尋ね方が曖昧だった。だが、ルシアは即答する。
「いいえ。受けた側です」
その瞬間、ロイの目がわずかに開かれた。
数年前。帝国士官学院の講義室。貴族令嬢たちが並ぶ最前列の左端。黒衣の少女が、誰とも交わらず、ただひたすらノートに記録を続けていた光景が、脳裏をかすめた。
「……お前か。あの時、ひと言も質問しなかった」
「はい。私は、あの授業で“質問をする者”ではなかった」
「だが、今は“答えを持とうとする者”か」
「……そうありたいと、思います」
それは、まるで剣を交える前の礼のようだった。
「加入については、こちらで承認を進める。初期訓練後、すぐに実戦部隊の試験へ回す」
「構いません」
「ただし――」
ロイの声が低くなる。
「……お前の能力はすでに把握済だ。だが、“隊に属する”ってのは、もっと別の話だ。わかるか?」
ルシアは頷いた。だが、その目には微かに揺れる硬さがある。
静かに視線が交差し、会話は終わった。
***
数日後。
ギルド支部の演習場では、隊による戦術再編訓練が行われていた。
「今日は新規編成をテストする。ルシア=ヴァルシュタインが加わる形で、分隊支援網を組み直す」
ロイの声に、ノアが反応する。
「ルート展開は?」
「三層式。ノアとルシアで支援術式の中位干渉を制御。アデルとユナ、接敵班は自由行動枠。ただし、接続確認を常に取れ」
「了解」
アデルは鼻を鳴らした。
「……死霊魔法ってのは、味方に害はねぇのか?」
「戦術構成に問題はない。俺が確認した」
「そりゃ信じるけどよ。……なんか、不気味なんだよな。あの冷静さが」
ロイはそれ以上言葉を継がず、ルシアに目をやる。
「準備はいいな?」
「はい。展開可能です」
「なら行け」
術式が解き放たれた。
ルシアの足元から、青白い光が円を描いて展開する。
死霊魔法《冥脚円舞》。己の脚を媒介に、霊力の波を戦場に染み込ませる魔術。
その“舞踏”は、地に沈んだ亡者の気配を呼び起こし、敵の足を掴み、味方の動きを滑らかに補完する。
ユナが一歩だけ踏み出し、視線だけをルシアに送った。
「……霊の軌跡が、見える」
ノアがすぐさま演算補正を行い、支援術式のルートを“ルシア経由”に切り替えた。
「接続確認。干渉反応、極めて安定……この数値、予想以上」
アデルが呟く。
「マジかよ……支援が、通る。ロイの術式と違うのに、違和感がねぇ」
ロイは微かに口角を上げる。
(あいつ、“合わせた”な……俺の術式の位相に)
ルシアの沈黙は、無関心ではなかった。すべては“意味を持たせる”ための調整だった。
新たな踊り子が、烈脚をもって支援陣に加わった。
まだ静かだが、そのステップは、確かに“隊”の律動に混じり始めている。
***
演習の終了を告げる魔力弾が、場内の空に音もなく弾けた。
霧が晴れるように展開術式が収束し、演習場は次第に現実の風景へと戻っていく。残滓となった霊気が静かに足元から抜けていき、隊員たちは次々と呼吸を整えながら休息位置へと移動していった。
「……ふう」
アデルが腰に手を当て、肩をまわす。
「なあ、ユナ。あの“霊の足場”みてえな奴……おまえ、気になんねえのか?」
ユナは小さく首を振った。
「いいえ。……むしろ、落ち着く」
「マジかよ。感覚、やっぱおまえズレてんな」
「貴方が近すぎるだけです」
ぴしり、と即答。
アデルが小さく「ぐっ」と呻く。ユナの物言いは淡々としていたが、ルシアをかばうようにも見えた。
「ルシア、おまえ……」
アデルが振り向く。ルシアはまだ演習装束のまま、姿勢を変えずに立っていた。
「おまえの支援、確かに効いた。でもな――」
その言葉に、ルシアがわずかに目線だけを向ける。
「“自分の型”だけじゃなく、俺たちのテンポも読んでただろ」
沈黙。
「……ありがとよ」
数秒の空白を挟んで、アデルが不器用にそう言った。
ルシアは、軽く首を横に振る。
「私は、“意味のない支援”をしたくないだけです」
「……ふーん、よくわかんねぇけど、なんか納得しちまうな」
アデルはそう言い残し、訓練器具の片づけへ向かった。
残ったユナとルシアの間には、わずかな空気の違いが生まれていた。
「貴女は、“霊”が怖くないのですね」
ルシアが尋ねる。
「はい。……私も、たぶん、空っぽだから」
ルシアの目が一瞬だけ揺れた。
“空っぽ”という言葉に、ほんの一拍の間だけ、過去の記憶が呼び水のように浮かびかけた――
だが、それは表に出ることなく、再び静かに沈んだ。
「……次の演習は、いつですか?」
ユナの問いに、ルシアはそっと視線をロイの方へ送った。
その男は、演習場の端で一人、皆の動きを俯瞰しているようだった。
***
演習後。
ロイ・グランベルクは記録用の端末に術式データを書き出しながら、ルシアの戦術参加についての所感を整理していた。
(予想以上、だな)
死霊魔法の特性上、味方との親和性は低いと考えていたが――
ルシアは、驚くほど迅速に“合わせて”きた。
それは戦術論的適応ではなく、感覚の問題だった。相手の呼吸、思考、配置、術式の癖、すべてを“理解した上で踏み込んだ”調整。
(……あいつ、本当に、あのときの……)
記憶の底に残っていた、教壇からの視線。
整然とノートを取りながら、ひとつも質問を投げず、それでも講義の全記録を残していた少女。
――貴族の家名も、家格も意味を持たない、“無言の受講者”。
(もう一度、名前を尋ねておけばよかったな)
当時のロイは、あくまで臨時講師でしかなかった。
彼女の正体も、立場も、気づかなかった。だが今、こうして再び目の前に立った。
隊の“律動”の中に加わる者として。
そして――副官という器を求めて近づいてきた者として。
ふと、ロイの視線が遠くの空へ向けられた。
(これは……もう一度、“あの頃”を試されてるのかもな)
かつて、自分が伝えきれなかった“意味”の所在。
それを、受け取った者がいたことに――
ほんのわずかだけ、胸が熱くなった。
***
その夜、ルシア=ヴァルシュタインは、ギルド宿舎の一室にいた。
私物と呼べるものはほとんどなく、殺風景な部屋だったが、彼女にとっては落ち着く空間だった。
机の上には、分厚い戦術記録書。
そして、申請書類の控え。
「……」
無言でページをめくる。そこに書かれていたのは、今の部隊編成と各隊員の戦術的特性の整理。
自筆による分析だった。
どの位置で支援が崩れやすいか、誰が連携に難を抱えているか。
すべてを、冷静に、合理的に。
しかし、その末尾には一行だけ、やや筆圧の強い文字が並んでいた。
「“支援対象に信頼を求めるべからず。戦術は個人を越えてこそ価値を持つ”……」
それは、講義でロイが何度も口にしていた一文だった。
ルシアにとって、その言葉は、何よりも深く刻まれていた。
(あの人は、変わらない)
(誰に対しても、立場に関係なく、同じだけの意味を与える)
そう、あの講義で。
他の誰もが、形式として受け取っていた内容を、彼は真剣に“届けよう”としていた。
今、それを思い出すだけで、胸の奥に、じんわりと熱が広がった。
「……」
机の脇に置かれた小さな箱を開く。
中には、かつて講義の最後に配布された「戦術応用課題プリント」が一枚だけ残されていた。
彼女はそれを、誰にも見せることなく、ただ持ち続けていたのだ。
***
翌日。
ギルドの事務棟の一室。
ルシアは、正式な副官志望として、ロイとの面談に臨んでいた。
「――これが、私の申請書類です」
静かに差し出すルシア。
ロイは受け取り、無言で目を通す。
「副官、か」
「はい。……まだ足りないのは、わかっています」
「……いや、そっちはもう、見えてきた。あとは……」
ロイは一度、書類から目を離し、ルシアをまっすぐ見つめた。
「“俺の言葉”が、昔のおまえに届いてたってのが、今日の答えだったんだろ?」
ルシアの目が見開かれた。
「……覚えて、いたのですか」
「全部ってわけじゃねえ。だが――」
ロイは静かに笑った。
「“誰かに伝わるかもしれない”って、信じて話すのが、俺のやり方だ。だから今、答えをもらえた気がするよ」
ルシアの瞳に、初めてわずかな光が差した。
それは、敬意でも、忠誠でもなく。
“信頼”という名の、まだ名前のない感情の兆し。
「……ありがとうございました。ロイ隊長」
その言葉に、かつての少女はもういなかった。
教室でノートを取り続けていた沈黙の影は、今、ひとつの舞を終えた踊り子のように、確かな足取りで前を向いていた。
***
その日の夕刻。
訓練場の隅で、ノアがぽつりとつぶやいた。
「……これで、七人目、ですね」
アデルが首をかしげる。
「誰が?」
「“この隊に、何かを持ち込んできた者”です」
アデルは言葉に詰まり、それから肩をすくめた。
「難しいことはよくわかんねぇけど……いい感じにはなってきた、ってことでいいんだよな?」
ノアは肯定も否定もしなかった。ただ、空を見上げた。
そこには、誰のものでもない、ただ澄んだ光が広がっていた。