【第13話】夜更けの記録と、重なる声
──焦げた空気の匂いが、戦場の残滓を物語っていた。
深夜二時。ギルド支部の廊下は、ほとんど息をひそめたように沈黙していた。
魔石灯は最小出力でかすかに揺れ、硬質な床に映る光の線は、誰かの気配を拒むかのように伸びていた。
その静寂の中、記録室の扉だけが小さな音を立てて開く。
入ってきたのは、ロイ・グランベルク。
手には使い込まれたノートと、魔力伝導式の万年筆。目元には隈。けれどその足取りに迷いはなかった。
椅子に腰掛け、机の上にノートを広げる。
魔力灯を点け、最初のページをめくると、そこには既に膨大な文字列が並んでいた。
「……さて」
ロイはペン先を軽くならし、深く息を吸った。
そして、最も最近の演習記録のページに、赤で書き込んでいく。
「開始から0.7秒。レアの突撃が0.2秒早い。ユナの詠唱が──」
指先が止まる。
何度も目を通してきたデータ。それでも何かが、うまく噛み合っていない。
「いや、指示の伝達タイミングか。……もしかすると、俺の術式側の反応遅れか?」
独り言を呟きながら、赤の補足を走らせる。
《支援術式展開時、対象との魔力同調に0.3秒遅延》
《ユナ詠唱の呼吸にズレ。要手順調整》
こうして毎夜、記録は重ねられていく。
戦場での言葉、動き、意図。その全てを「言語」に変える作業。
それがロイの役目であり、責任だった。
***
《個別記録:レア・フィルシュタイン》
レアの行動記録は特に多い。感情の起伏に応じて魔力変動が激しく、特異な炎の挙動を持つ彼女は、戦術支援において最も“読めない”存在だ。
(だが最近は違う。突撃の軌道に無駄がなくなった。反応も、視認タイミングも、確実に向上している)
ふと、ロイはノートとは別の薄い紙束を取り出した。
それは、過去の訓練中にレアが見せた「予定外の動き」を時系列で記録した一覧だった。
一度だけ──レアは、仲間ではなく“ロイ自身”を庇って前に出たことがある。
(炎の爆裂半径を誤認していた俺を、咄嗟に押し出した)
その時の彼女の瞳は、恐怖と決意の混ざったものだった。
「……あいつ、もう誰かを見捨てるつもりはねぇんだな」
ページの余白に、こう記す。
《第9回訓練以降、危険察知時の即応性が上昇。
“自発的な庇い”を確認。突撃ではなく、“守り”を意識した動作》
(大丈夫だ。あの子は、ちゃんと前を見てる)
***
《個別記録:ユナ・エルフェリード》
神憑きの少女。その魔力は、制御が不安定でありながら、ある種の“奇跡的な精度”を持つ。
(だが──その精度は“安定”からはほど遠い)
ロイは静かに、前回の模擬戦記録を読み返す。
ユナの詠唱は、予定よりも1.5秒遅れた。だが、それにも関わらず──その術式は、標的の急所を正確に貫いた。
「……狙ってたわけじゃない、か。だけど“届いた”」
その差異が、ユナという存在を一層“読めないもの”にしていた。
記録に付された補足コメントを追う。
《精神状態と魔力変動が極めて高い相関性を示す》
《緊張時の精度が上昇傾向。抑制時は不安定に揺れる》
(あの子は、自分を制御しようとして、かえって乱している)
ロイは、ある時の会話を思い出していた。
『わたし、誰かに“信じてる”って言われたこと、ないから』
(──なら、まず俺が“言葉にして”伝えねぇと)
彼は、ノートに小さく記した。
《ユナとの接触時、毎戦前に“指示確認”+“安心の言葉”を必須化。
効果:精神安定と詠唱成功率の向上に繋がる可能性あり》
***
《個別記録:ノア・ブラッカス》
記録室の灯りが一瞬だけ、明滅した。
魔力灯の寿命が近いのか、それとも──疲労で目が霞んだのか。
だがロイは気にせず筆を走らせる。
(ノアは“理論”で動いてる。だが、それは時に“世界の都合”とは乖離する)
機械的な魔導演算、冷静な判断、計算された位置取り──
その全てが美しい。完璧に見える。だが、それゆえに“想定外”を最も苦手とする。
たとえば、味方が予定通りに動けなかったとき。
ノアの術式は、往々にして“過不足”を起こす。
(ただ──最近は変わってきた)
少し前の訓練記録。レアが負傷して動きが鈍ったとき、ノアは誰よりも早く補助術式を切り替えた。
(計算じゃない。“目”で見て判断した)
その一瞬に、ロイは確信した。
「──あいつは、仲間を“見よう”としてる」
記録の最後に、大きく太線を引いてこう記した。
《第27記録:想定外の突発行動に即応。演算パターン外の挙動を確認。
=“演算に感情を上書き”した兆候あり。成長》
***
書き終えて、ロイは一度ペンを置いた。
静かな部屋。魔石灯の光がわずかに揺れ、紙の上の文字が少しだけ踊って見えた。
(……最初から、こうじゃなかった)
記録室の壁にかけられた古い術式地図を見ながら、ロイはひとつ、昔の任務を思い出した。
──それは、まだ支援術式を導入したばかりの頃。
術式干渉によって味方の魔術が暴走し、仲間の一人が片脚を失った。
原因は、ロイの“判断の遅れ”だった。
(忘れるな。俺は、誰かを支えるためにここにいる。
でも同時に──俺が遅れれば、誰かが倒れる)
彼はその日の記録を今も破っていない。
それが、自分の“背骨”だからだ。
***
《個別記録:アデル・ロートハイト》
突撃戦術において、アデルは理想的な“矛”だった。
正面突破、遮蔽物無視の突入、リスク覚悟の肉薄攻撃──その全てにおいて、判断に迷いがない。
だが同時に、“支援術式との連携”という観点では、最も扱いが難しい。
(彼女は“速すぎる”んだ)
ロイは前回の模擬戦を思い出す。
ロイが支援結界を展開しようとしたその刹那、アデルはすでに前に出ていた。
結界は、彼女の背中に間に合わなかった。
そしてその背中には、傷がひとつ。
帰還後、彼女はそれを「かすり傷だ」と言って笑っていた。
けれど、ロイは忘れなかった。
(あれは、俺の遅れだ)
ノートに記す。
《アデルの突撃予測距離:平均値より1.2m前方。反応時間0.3秒早い。
→ 支援術式、先行展開対応必須。予備展開術式の配置検討開始》
アデルは、味方の支援を“信じて”飛び込む。
それは、戦術的には危険だ。だが──信頼としては、何より重い。
(信じられてるなら、応えなきゃな)
***
《個別記録:エミリア・ヘイゼル》
彼女の支援術式《祝環創術》は、回復・加護・干渉中和の全てをこなす万能支援だ。
展開の正確さ、効果の安定性、術式反応速度──全てが“平均以上”。
だが、ロイはある種の危機感を抱いていた。
(……この子、“合わせてくれる”んだ)
戦術上はありがたい。だがそれは、彼女自身の“芯”をぼかしてしまう危険を孕んでいる。
ロイは過去のある場面を思い出す。
初期訓練でアデルが倒れたとき──
『大丈夫。私が支援しますから』
そう言って即座に立ち上がった彼女の背中は、確かに頼もしかった。
けれど同時に、その目は少しだけ“遠く”を見ていた。
(もしかして……この子は、“諦めること”に慣れすぎてるのかもしれない)
何も言わず、何も求めず、ただ支える──
それは支援職としての理想形に見える。けれど、人としては、どこか“孤独な在り方”だった。
だからロイは書き記す。
《エミリアとの術式設計:共同検討枠を拡張。
彼女に“任せる”のではなく、“共に考える”形を徹底》
彼女が隊の一員として“並ぶ”ために。
***
ロイはふと、記録ノートの端に短くメモを加えた。
《現状:全員が“支援を受ける側”としては適応済。
今後の課題:全員が“支援の構造”を意識して動けるように。術式視認強化+共有指標検討》
戦場で“支援”は一方通行ではない。
送り手と受け手が、相互に意識しなければ真価は発揮されない。
(それは言葉と同じだ)
言葉も、支援も──受け取られなければ意味がない。
***
静寂の中、ふいに意識が緩み、ロイは椅子の背にもたれた。
(……眠気は来てるが、今だけは)
彼は天井を見つめ、薄く笑う。
(全員、よくやってるよ)
まだ未熟だ。まだ粗い。けれど、誰もが“繋がろう”としていた。
言葉を使い、動きを合わせようとし、目線を合わせようとしていた。
(その全てを、記録しておくのが俺の役目だ)
ノートの最後の空白ページに、こう記す。
《現在、我が隊は未完成。だが、変化の兆候あり。
各員が他者を“意識する”ようになっている》
***
──その夜、ロイが記録を綴る少し前。
少女たちは、それぞれの部屋で、目を閉じられずにいた。
***
(……あたし、最近ちょっと、変だ)
レアはベッドの中、天井をぼうっと見つめていた。
(前はただ“強くなりたい”ってだけだった。あたしは戦えてる、って思いたかった)
けれど今は違う。
(この隊で、“ちゃんと役に立ちたい”って思ってる)
それが、いつからかは分からない。
でもたぶん──あのおっさんが、真面目な顔で言った一言のせいだ。
『レア、お前の火は誰かを傷つけるためじゃない。守るためにある火だ』
あの時、少しだけ泣きそうになった。
(……次、失敗しないようにしなきゃ)
ぎゅっと布団を握り、レアは目を閉じた。
***
(言いすぎた……かも)
ユナはベッドに膝を抱え、思い出す。
今日の訓練中、ノアに強い口調で詰め寄ってしまった。
「ちゃんと見てよ! あなたのせいで術式がずれた!」
(あれ、本当は違った。ずれたのはあたしの詠唱だった)
でも、言い訳したくなかった。
“神の声”にすがっていた自分を、また思い出したくなかった。
(……ロイさんに叱られるかな)
けれど彼は、何も言わずに後で一言だけ呟いた。
『自分の詠唱を、誰かに預けちゃだめだぞ』
──それは、責めじゃなかった。支えだった。
(……届いてた。あの言葉)
ユナは小さく笑い、目を閉じた。
***
(……誤差、再計算)
ノアは照明を落とした机の上で、魔導端末を開いていた。
(アデルの突撃。エミリアの術式。……ロイの反応)
数字に置き換えられるものはすべて、表にして残している。
だが、その中にどうしても“定義できないもの”がある。
たとえば──“信頼”という名の行動。
(演算不能。けれど、排除はできない)
彼女は手を止め、小さく呟いた。
「……少しずつ、補正する」
それは、誰にも届かない音だったけれど──
彼女なりの“歩み寄り”だった。
***
(支援、かあ……)
アデルは寝台の上で、片腕を枕にして天井を見上げていた。
彼女の剣筋は、迷いがない。
それは訓練でも、実戦でも、突撃の最前線に立つ者としての誇りだった。
だが──その“無迷い”の背後には、誰よりも早く動き、誰よりも先に倒れる可能性があった。
(ロイの支援がなきゃ、あたしのやり方は危うすぎるってのは、正直、わかってる)
それでも、突っ込んでしまう。
(信じてるから、って言えば聞こえはいいけど……)
彼女は、誰かに支えられることに慣れていない。
かつての仲間は、彼女の前に立たなかった。
だから、剣を構えるたびに、“誰かの盾になる”しかなかった。
(でも、ロイは違う)
あの男は、背後から支えてくる。
目立たないくせに、ちゃんと“届く支援”を、絶対に外さないようにしてくる。
(だから……あたしも、それに応えないと、って思う)
ふいに目尻が熱くなり、アデルは毛布を頭までかぶった。
(……なんで泣きそうになってんだよ、ばーか)
ごろごろと寝返りを打って、いつもより時間をかけて眠りについた。
***
(……今日も、怒らなかった)
エミリアは自室の窓を少しだけ開け、涼しい夜気を胸に吸い込んだ。
誰かの支援が遅れたとか、失敗したとか。
そんなことで、ロイは決して誰かを責めることがなかった。
(でも、それが……時々、つらい)
自分がもっと上手くやれていれば。
支援がもう少し早ければ。
誰かが傷つかずに済んだのではないか──そんな考えが、何度も頭をよぎる。
エミリアは窓枠にもたれかかり、過去のことを思い出す。
貴族家で“万能支援者”と評されながら、特化型の補佐に押し出された日。
自分の“中途半端さ”が、他人の役に立たないという言葉で断罪された瞬間。
(……なのに、ロイさんは)
“任せるんじゃない。考えてくれ”
“お前の視点がなきゃ、術式は完成しない”
そう言ってくれた。
(なら、私も……ちゃんと、自分で選ばなきゃ)
風が一度、カーテンを揺らす。
その音の向こうで、どこか遠くに微かな足音がしたような気がして、彼女は小さく微笑んだ。
「……頑張りますよ、ロイさん」
***
記録室。
ロイは最後のページをめくり、筆を静かに置いた。
ペン先にはまだ余力があったが、紙の上の文字は、今日の分で満たされていた。
手を止めたのは、情報が尽きたからではない。
(今書いたこの記録が、明日“意味を持つかどうか”は、俺次第だ)
戦術記録とは、単なる報告書ではない。
それは、未来への“道標”であり、次に進むための“踏み石”だ。
ロイはノートを閉じ、ページの端に付箋を貼る。
《要再検証:支援術式同調軸の設定調整。個別反応差を記録の上、術式展開速度に反映》
(俺の支援が遅れれば、あいつらが傷つく。
でも──俺が手を止めれば、あいつらの可能性も止まる)
その手はもう一度だけペンを取り、ノートの裏表紙に記す。
《全員、生きて帰す。それが俺の戦術支援だ》
***
翌朝──
支部の食堂には、ゆっくりとした空気が流れていた。
レアはパンの端をもそもそとちぎっていた。
ユナは寝ぼけ眼でカップを抱え、スープをすすっている。
ノアは端末を片手に、横から話しかけてきたアデルに一瞬だけ反応し、わずかに頷いた。
エミリアはキッチン側で食器を並べながら、さりげなく皆の体調を視線で確認していた。
ロイはそんな光景を、テーブルの隅で見つめていた。
何も言わず、ただ少しだけ目を細めて──笑った。
(……ああ。こりゃ、ちゃんと“隊”になってきてるな)
整ってはいない。完璧でもない。
でも、呼吸が合いはじめている。そんな気配が確かにあった。
少し前まではなかった小さな会話、気遣い、笑顔。
その全てが、昨日の記録に書ききれなかった“兆し”だった。
***
「支援術式を一部見直す。
全体展開は維持するが、個別の反応に合わせた段階的な調整を入れる。まず“確認”を徹底する」
朝の訓練ミーティング。ロイの言葉に、各人が真剣な眼差しを向けていた。
「突撃の前に、支援が先行してるかどうかを意識しろ。
詠唱の合図、支援の軸、位置取り──全部、再確認する」
レアが「はーい」と軽く手を上げ、アデルが「当然」とうなずく。
ユナは小さく「……がんばる」と呟き、ノアは「既に個別対応済」と淡々と答えた。
エミリアは「必要なら、私も設計に加わります」と言って、ロイの目をまっすぐに見た。
──ロイは、その目を、ひとつひとつ見返した。
(この隊は、まだ完成してない。
けど、“動き始めてる”)
かつてはバラバラだった少女たちが、今はロイの指示のもとで同じ方向を見ている。
まだ未完成。だが、確かな進化の気配がそこにあった。
***
その日の訓練前、ロイは記録ノートの新しいページを開いた。
そして、冒頭にこう書いた。
《本日より、支援術式の第3段階に入る。
隊の反応傾向に応じて、段階展開式への再設計を開始する》
(あいつらを“信じられる材料”は、もうある)
支援者としての責務を、静かに、自分の中に落とし込んだ。
***
その日の訓練は、いつもより静かに始まった。
笑いも、叫びも、乱れた動きも、最初のうちはなかった。
──だが、沈黙は緊張ではなかった。
それは、各自が“耳を澄ませるための静けさ”だった。
ロイが新たに設計した支援術式は、従来の“全員同時支援”から、“段階的・個別支援”へと構造を変えていた。
「アデル、突撃前に、赤光の波形を確認しろ」
「了解。見えたら3秒カウントで出る」
「ノア、エミリアの術式と干渉しない位置、何度目標だ」
「43度。第2構成式で反応率は81%まで改善」
指示はすぐに返ってくる。
まるで、前夜に“言葉の練習”をしていたかのように。
***
訓練は小規模な模擬戦形式。
ダミー標的と時折出現する低等級の幻獣を相手に、個々の反応と連携力を検証していく。
第一波、レアの突撃にユナの支援魔術が重なる。
火炎を中心に、空間を抑える広域術式──その中心軸をエミリアが護る。
第二波、ノアの魔導機巧が展開し、幻影型の移動目標を引きつける。
そのカバーに回るのがアデル。突撃軌道はロイの想定と0.1秒の誤差もなかった。
「──通ったぞ、ノア」
「術式軸を再展開。第5構造式に移行」
やがて──すべての敵が“討伐完了”と認定された。
***
「ふぅー……ちゃんと動けた、かも」
レアが額の汗を拭きながら、ぐったりと座り込む。
それを見て、ユナが小さく「お疲れ」と呟き、隣に座った。
ノアは無言で魔導端末を確認していたが、ふとアデルに向かって言った。
「……突撃軌道、ほとんど誤差なしだった。参考になった」
それを聞いてアデルは、珍しく素直に笑った。
「へぇ、あんたに“感謝”されるなんて、レア並みにレアだねぇ」
「感謝、ではない。データの話だ」
けれどその返しに、エミリアがくすっと笑った。
「でも、ありがとうって言ってもらえるのは、嬉しいものですよ?」
──その場の空気が、ふと、やわらかくなった。
***
ロイは、全体を見渡す場所に立っていた。
支援術式の配信軸は安定している。魔力の流れも問題ない。
(──“できてる”)
自分の支援が、確かに機能している。
そして何より──少女たちが、互いの“存在”を意識し始めている。
それは、数値では測れないものだった。
でもロイには、確信があった。
(“隊”はもう、形になりはじめてる)
ふと、かつての自分が書いた記録の一節を思い出す。
《隊とは、連携の単位ではなく、互いを信じ合える単位であるべきだ》
それは理想論だと、ずっと思っていた。
だが今、目の前の光景は──その“理想”に限りなく近づいていた。
***
訓練後。
少女たちが食堂で遅めの昼食をとっている中、ロイは記録室に戻っていた。
新しいページを開く。
万年筆の先を紙に落とす。その文字は、どこまでも静かだった。
《第13日目記録──支援術式再設計、段階展開運用開始》
《全員が互いを“見る”ようになった。
これは偶然ではなく、蓄積の成果である》
《特記:模擬戦後、自然発生的な相互補完の動きあり。
言語化しきれない“連携感覚”が芽生え始めている》
ロイは一行空けて、こう書いた。
《これを“隊”と呼ぶことに、今は抵抗がない》
その一文を書き終えると、ロイはノートを閉じた。
小さく、深く息を吐く。
(支援者でよかった)
それは、誰に聞かせるでもない、自分への答えだった。
***
そして、最後のページの端に。
ロイは、静かに、けれど確かにこう書き残す。
《全員、生きて帰す。それが俺の戦術支援だ》
その言葉は、ページの端に、しっかりと根を張るように記された。
そして次のページには、まだ何も書かれていない。
けれどロイは、その白紙に**“明日の名”**を書く準備を、もう終えていた。
今度は誰が、どこで、何に巻き込まれるのか──
それを予測する術はない。だが、支援者としての決意は、すでに定まっていた。
記録室の扉が、ひとりでに軋んだ。
開かれたその先には、ギルド職員が一人、気まずそうに立っている。
「……グランベルク隊長。至急、依頼報告書をご確認いただきたいものが」
「新規か?」
「いえ、**“再提出された案件”**でして……。
当初は別部隊で処理予定だったのですが、対象区域で“想定外の痕跡”が見つかりまして」
その言葉に、ロイは静かにうなずいた。
白紙のページを閉じて、立ち上がる。
また新しい、未知の一日が始まる。
支援者の記録は、常に“何か”と戦う日々の上に綴られる。
──だが今はもう、ひとりではない。
──焦げた空気の匂いが、戦場の残滓を物語っていた。
軽戦闘訓練の翌日。ギルド支部の演習場では、午前から調整訓練が続いていた。
ロイが指揮する隊の新たな構成、すなわち五人による戦術試験は、実にぎこちないものだった。
「ノア、術式が重なってる。タイミングをずらして」
「了解……ただし、干渉信号、最小限に収束中」
淡々と応答するノアの言葉に、ロイは軽く眉を寄せた。
「アデル、突撃の前に“確認”。エミリアの支援がまだ展開しきれてない」
「わかってる、けど間が持たねぇんだ。押しとどめねぇと、ユナが前に出る」
「ユナ、支援届いてないから、斬撃の軌道にズレ出てるぞ!」
「え? ……ん、うん。ごめんなさいっ」
乱れていた。
連携が、術式が、そしてそれぞれの“温度”が。
エミリアの《祝環創術》は、安定支援として機能しているものの、各自の特性と呼吸が揃わず、均衡はすぐに崩れた。
ロイの《支援術式群》がリアルタイム補完を試みるも、負荷が急増している。
(現状、この五人は“足し算”にしかなっていない……)
支援者が二人に増えた今、本来ならば術式の運用はより滑らかになるはずだった。
だが実際には、支援の“考え方”そのものが異なるため、術式の流れに微妙な干渉が生じていた。
──理念の衝突。
ロイの支援は個別最適化、エミリアの支援は全体調和。
どちらも正しく、どちらも必要だが、共存には“歩み寄り”が要る。
「……今日は、ここまで」
ロイが手を挙げ、訓練を中断させた。
ユナが剣を鞘に収め、アデルが肩で息をし、ノアが無言で術式を解除する。
エミリアだけが、そっと手元の光環を小さく閉じた。
「……すみません、私の支援が……」
「違う。エミリアの術式は問題ない。噛み合わせの問題だ。……全員、作戦室で振り返りするぞ」
午後の演習は、やや重苦しい空気を残して終わった。
***
作戦室では、全員が円卓を囲んでいた。
資料の代わりに広げられたのは、ロイが記した支援術式のログと、エミリアが作った簡易図解。
「ロイの支援は、“その人の一手”を底上げする形だよね。エミリアさんは“みんなで底上げ”……って感じ?」
ユナが指で空中に線を描くように言った。
その喩えは意外と的確だった。
「……言語仕様にも差異がある。ロイの術式、対象者識別は高精度だが、術者負荷大。エミリア、分散化により低負荷安定……ただし個別補正は弱」
ノアの分析が続く。
しかし、アデルがふと口を開いた。
「けどよ、どっちがいいとか、悪いとかじゃねぇよな?」
「……その通りだ。問題は、“どっちを先に展開するか”なんだ」
ロイの言葉に、一同の視線が集まった。
「たとえば、エミリアの祝環がまず展開され、その上に俺の術式が重なる形なら、互いの術式がぶつかりにくくなる。逆は、干渉が強くなる傾向がある」
「……なるほど。たしかに、私の術式は“土台”のような役割を果たすかもしれません」
エミリアが頷いた。
「その順番なら、私の術式が後から干渉しにいかずに済みます。結果として、全体の調和が生まれる」
ロイが指差す図面には、二重螺旋のように重なる術式構造のイメージが描かれていた。
「理屈はわかったけど……それを“実戦中”にどうやって保つのさ?」
ユナの疑問は正しかった。
訓練で整えても、戦場では意図しないタイミングのずれが無数に発生する。
「そこを制御するのが、“指揮系統”と“共通語”だ」
ロイが表情を引き締める。
「エミリア、君と俺で“術式コール”を統一しよう。展開タイミング、支援優先、干渉禁止――音声コードで共有すれば、混線はかなり減る」
「了解しました。それなら、私の祝環にも“識別語”を設けましょう。たとえば――《オープン・リング》で展開、《ステイ》で維持、《グレイス》で回復」
「助かる。“タイミングの共有”さえ整えば、俺たちは噛み合う」
円卓の上で、二つの支援術式の図解が重なった。
まるで、ようやく“同じ場所”に向かおうとしているかのように。
***
夕刻。
ユナとアデルは訓練場の片隅で剣の素振りをしていた。
その背後で、ノアは一人、空に光を描くように術式を検証している。
「……静かですね」
エミリアがぽつりと呟いた。
その隣に立つロイも、同じように空を見上げていた。
「今日の君の提案、助かった。……皆の術式が、ちゃんと“共鳴”しはじめてる」
「いえ、私こそ……。これまで、どこでも“重ねられる支援”として便利に扱われてきました。でも、今は少しだけ……“必要とされてる”気がします」
エミリアの瞳に、火灯りのような揺らぎが浮かんだ。
「君は、ここに必要だ。俺が保証する」
ロイの言葉は、静かに、けれど確かに響いた。
それは、術式でも戦術でもない、
“心の支援”だった。
***
翌朝、ロイは珍しく早く目覚めた。
仮設拠点の一角、まだ薄暗い共同テントで寝息が聞こえる中、ロイはそっと外に出る。冷えた朝の空気を肺に入れ、軽く肩を回した。
──支援者が二人いる。
これは、隊にとって初めての“選択肢”だった。
(だが、選択肢は多すぎても混乱を生む)
ロイは木立の方へ向かい、簡易設置された術式試験装置の前に立つ。透明な術式反応板に、彼自身の《支援術式群》を展開してみせた。
「術式展開、補助対象:ノア、ユナ、アデル……負荷率、26%」
数字は上々。昨日の調整が奏功している証だった。
だが、ロイは眉を寄せた。
「実戦時、想定変数が多すぎる……“術式補完”が後手に回る可能性が高い」
彼の支援は、“常時最適”ではなく“都度最適”。
瞬間の判断力で最良を編み出すが、それは術者に常時過負荷を強いる形となる。
そこへ、足音。
「……おはようございます、ロイさん」
振り向くと、エミリアが厚手の外套を羽織って現れた。
「早いな。寒くなかったか?」
「はい。朝の空気、好きなんです」
エミリアは手を組んで軽く胸の前で深呼吸し、ロイの隣に立った。
「術式……練習、ですか?」
「調整だ。昨日の反応がまだ掴み切れてないからな。……君も?」
「私も、です。……あの、“提案”が、もし余計なことだったらと思って……」
「いや。昨日の成果は、君の提案によるところが大きい。……感謝してるよ、エミリア」
ロイの言葉に、エミリアはふっと微笑み――それから、少しだけ目を伏せた。
「ロイさんは……どうして、そこまでして皆を“噛み合わせ”ようとするんですか?」
唐突な問いだった。
だが、ロイはすぐに答えた。
「……バラバラじゃ、生き残れないからだ」
その声に、迷いはなかった。
「支援は、戦術じゃない。“生き残るための術”だ。……それがバラつけば、誰かが倒れる。その瞬間、全体の崩壊が始まる」
「……」
「支援者の責任は、“全体を生かすこと”だ。……君も、俺も」
エミリアは黙ってロイの横顔を見つめた。
その目には、どこか祈るような光があった。
「……ロイさん」
「ん?」
「私は、あなたが噛み合わせてくれたこの隊に、“居てもいい”ですか?」
静かな問いだった。
だが、エミリアの声は、震えていた。
ロイは、正面から彼女を見る。
「もちろん。むしろ、“いてくれなきゃ困る”」
その言葉に、エミリアの目が潤んだ。
「……ありがとうございます」
小さな声とともに、彼女は軽く頭を下げた。
その仕草は、誓いにも似ていた。
***
午前の訓練では、昨日の方針を試すべく、ロイとエミリアの支援展開の順序を徹底した。
「《オープン・リング》、展開します」
エミリアの術式が、やわらかな光の環を描く。
ノアの術式はそれを起点に、安定化された座標内で制御され、アデルの突撃も滑らかさを増した。
「支援、感触いい。……前に出る」
「アデル、左手の動き、少し内側。支援回路が補正かかってる」
「了解!」
ユナも、神憑きの制御を受けながら戦闘テンポを調整していた。
「《グレイス》……回復支援、小範囲」
「補完する。《ステイ》、支援維持!」
掛け声が訓練場に響く。
ロイとエミリアの術式が噛み合い、隊全体がようやく“ひとつ”に動き始めていた。
(……そうだ。これだ)
ロイは確信した。
これは、誰かの犠牲に成り立つ支援ではなく、全員が支え合う“輪”だった。
その中心に、エミリアは立っていた。
淡く、けれど揺るぎない光を纏って。
***
訓練後、ユナがエミリアのもとに駆け寄った。
「ねえエミリアさん、あの“ぐるっと広がる支援”、すっごく気持ちよかった! まるでお風呂みたいっていうか、あったかくて!」
「ふふ……例えが面白いですね。でも、私の支援は、そういう“ぬくもり”を大事にしてるんです」
「そうなんだ……。……あたしも、そういう支援になれたらなあ」
ユナの目に、憧れのような光があった。
その様子を、少し離れた位置でロイは見守っていた。
気づけばノアも近くに来ていた。
「観測結果。術式調和率、昨日比+23%。支援干渉、顕著に減少」
「分析、助かる。……ノア、お前はどう感じた?」
「感じたもの。……“息の合う時間”が、増えた。……静かな空気、居心地いい」
「……ああ、そうだな」
隊の空気が、確かに変わり始めていた。
それは、戦術上の進歩だけではない。
心の深部で、静かに、確かに──“響き合い”が始まっていた。
***
……日が暮れ始めるころ。
演習を終えたロイたちは、仮設拠点の屋外に設けた簡易食堂に集まっていた。木製の長テーブルには、あり合わせの食材で用意された夕食が並ぶ。質素ながら、温かい匂いが隊員たちの緊張をほどいていく。
だが、今日の食卓には静かな緊張が漂っていた。
ノアとエミリアが、テーブルの左右に並ぶ位置で座っている。間にアデルとユナがいて、何気ない話題で空気をほぐそうとしていたが、ふとした沈黙のたびに、どこかぎこちない間が流れた。
「……あの、ノアさん。今日の術式、私の祝環と干渉しやすかったでしょうか?」
「反応、あり。重複判定による干渉、一定数検出。ただし、調整可能範囲」
「……そうですか。ありがとうございました」
会話は成立している。だが、それ以上は深まらない。
ロイは彼女たちを見つめながら、自分の食器を手に取った。
(祝環と、個別支援……術式の系統が違えば、当然、干渉も起きる。だが問題は、それだけじゃない)
支援職という役割に対する、意識のずれ。 術式の理論に対する、価値観の違い。 そして、“ロイ”という存在に対して持つ、それぞれの想い。
──それが、調律を乱している。
突然、アデルが箸を置き、立ち上がった。
「なあ、ちょっと言いたいことある」
全員の視線が集まる。
「ノアもエミリアも、確かに支援術式はすげぇし、考えも違うのかもしれねぇ。でもよ、今のおれら、どっちが欠けても動けねぇんだよ」
言葉に熱がこもる。
「ノアの支援がなきゃ、暴走する奴が出る。エミリアの支援がなきゃ、全体が崩れる。……だったら、どっちも必要なんじゃねぇのか?」
その声音に、ロイは思わず笑った。
「……アデル、お前が言うと説得力あるな。全身で受けてきた分だけ」
「当たり前だ。盾なんだからな。全部、受けて、感じたことだけ言ってんだよ」
沈黙が落ちた。
ノアが、ゆっくりとエミリアの方を向いた。
「再演算、提案。術式設計、共通基盤に再構築。祝環を起点に、個別支援を上乗せ──可能性、認識」
エミリアも、少し驚いたように目を見開いたあと、微笑んだ。
「……はい。私も、それができたら嬉しいです」
ようやく、言葉が交わった。
小さな音を立てて、輪が一つ、結ばれた気がした。
***
夜遅く、ロイは記録室にいた。 演習の記録、術式の分析、各自の相性パラメータ──整理すべき情報は山のようにある。
それでも、不思議と疲れはなかった。
(……これなら、まだいける)
祝環と個別支援の融合。 それはまさに、支援術式の“再設計”だった。 一人の支援職では成し得なかった境地が、いま、確かに形を成しつつある。
──ただの“支援職”では終わらせない。
その意思が、ロイの背を押していた。
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