八幕 天啓
あの時、彼女はちょうど私の前に立っていた。
ビルム老が踊るように軽快な足捌きで、滑空からの一撃離脱を躱している隙に、弩(設置式のクロスボウ)が放たれる。
轟音と共に射られた鉤矢が到頭、竜の翼膜を穿って上昇を禁じた。
暴れるワイバーンは拘束された事で、ワイヤーの起点を中心とした半球状の領空のみに行動を制限されている。
その円周は折悪しく、冒険者による包囲網と重なっていた。
本来はさらに外側で陣を張っていた筈の冒険者達は、大挙するゴブリンに押されて輪を狭めざるを得なかったのだ。
私は咄嗟に飛び出して、竜の鉤爪からソフィアを守った。
後ろからゴブリンが迫っているのも分かっていた。
すぐさま振り返り、そして口に鉄香が撥ね付く。
滅多刺しにされて即死した彼女の、刃が幾本も突き出した背中が地面に横たわるまで待って、仇の小鬼達を皆殺しにした。
ソフィアは両腕を広げ、大の字に倒れていた。
多分、魔法で防ぎきれなくなった敵勢を、身体を張って受け止めてくれたのだ。
私の為に。
「俺がタンクとしてゴブリンを堰き止めていれば、後衛の魔法使いが接近されることなんてなかった。なのに俺ときたら、負傷したのをいい事に蹲って何もしなかった。ソフィアは、俺が」
「あなたのせいだって、ディンは言ったの?」
「……いや」
ロランは深く、しかし淡泊な息を吐いた。
「自分の支援が足りなかったせいだ。気に病むな、と」
如何にも彼女らしい、不器用な気の回し方だ。
「もうディンとは組まないの?」
「あいつは冒険者を辞めた。俺はこれ以外で食ってく当てもないし、だからといって今更復興だの開拓だのやる気も……」
「じゃあ、私と来る?」
ロランは低く自嘲するように笑った。
「昼間の連中と組めばいいじゃねぇか。腕も立つんだろう?俺より余程」
「あいつらは気が合わないもの」
「俺となら合うってのか?」
「少なくともソフィアならそれを望むよ」
「……かもな」
彼が寝息を立てるまで待って、私も眠った。
天幕の外は、いつまでも騒がしかったのを覚えている。
*
葉を透かす日差しが乾いた土を斑に明るく染める。
枝先に留まった青鳥が首を傾げ、すぐさま飛び立っていった。
微かな地面の揺れに礫粒が撥ねる。震動は次第に地鳴りとなって、驚いた虫達が競うようにその場から退散した。
やがて低く色の濃い草の茂みを突き破り、針のような硬質の毛に覆われた鼬が現れる。
次々と沸いて出る針鼠の群れに、草葉はあっという間に見る影もなく踏み倒された。
彼らが去った後には、僅かな虫食いの葉と荒れた腐葉土ばかりが残されていた。
傍の茂みから顔を突き出した私は、赤毛に葉を乗せたまま慄然として、針鼠の群れが去った方向を見やる。
「ユングバングってあんな感じなんだね」
「群れの規模はマチマチだ。さっきのはかなりデカい。以前の俺らでもせいぜい十匹までの集団しか狙わなかった。奴ら死んだら仲間でも食らっていくからな。皆殺しにしない限りは金にならん」
ヘルトレーゼ市を横断する街道は、ラビン王国南部の東西に広く分布していて、エハトラハト街道と呼ばれている。
王国童話に於いて牧師エハトと牧羊犬ラハトによる喜劇はそれなりに有名な話だと言えるだろう。
旅を続けていた敬虔で貧しい修道士は、草原の只中に朽ち果てた石造りの小屋を見つけ、そこで夜を明かした。
翌朝目を覚ますと、狩りから戻ったらしい野犬と玄関口でばったり出くわし、青年は脚を噛まれて負傷してしまう。
杖無しには歩けない体となった彼は、これも女神ハイネスのお導きと考え、犬を躾けた後に羊を育て暮らし、遂には小屋を教会として立て直すに至ったという。
私の出生地である遥か西のエハンバルにあった聖堂が彼の地であると言われていたが、生憎と真相は知らない。
「私もエハトラハトの街道を西から辿ってきた口だけど、ユングバングなんて動物見たことないよ。この辺りにしか棲息してないの?」
「もっと南に行けばよく見られるぞ。俺の故郷じゃ主食とはいかんまでも、宴には必ずあいつらの肉が焼かれたもんだ」
木陰に隠れていたロランは、しゃがみ込む私の脇をすり抜けて、針鼠の群れが通った轍に足を踏み入れる。
「ユングバングは森にいくつも巣穴を掘ってる。狩りの時にはねぐら同士の間を、地図上の点と点を結ぶみたいに集団で走り抜け、途中にあった草葉を根こそぎにしていく」
「じゃあ草食?」
「いや、肉も食う。好んで襲うことはないが、ちょっかいを掛けると群れで跳び掛かって、後には骨も残らんな」
「……見てきたみたいに言うね」
「見たことあるからな。この森で、獲物は人間だった」
シリク森林を最初の狩場として選んだ私は、今思えばかなり絶体絶命だったのかもしれない。
「さあ、呆けてたってしょうがない。やるんだろ?」
腰に手を当てて振り返る緑髪の青年に、私は瞼を落として半眼を返した。
「当然」
*
黄金の穂が風に揺られ、曇り空のもとに枯草が舞い上がる。
ヘルトレーゼ北側穀倉地帯中腹にて。
「一応聞くが、なんだと思う?」
「“門”だね。どう見ても」
畔道で腕組みするロランと並び立ち、私は片腕を後ろ手に掴んだまま重心を左に移ろわせた。
麦畑の半ばに忽然とある黒い縦長の長方形は、微かに周囲の景色を映し出してこがね色の波紋を打っている。
「入ってみる?」
「馬鹿言え。門は大抵一方通行で潜ったが最後、試練を終えない限り二度と元の場所には戻れないって話じゃねぇか」
「変なクエスト受けなきゃよかったかな……」
「しょうがねぇだろ。金に困ってたんだしよ」
大柄な青年が財布袋を軽く揺すってみせる。
僅かな金鳴りが路銀の少なさを伝えてきた。
私は嘆息して指先を伸ばす。
「女神ハイネスのお導きのままに」
「本当にカミサマが用意した試練だと思ってんのかよ。酔狂だねぇ」
闇に身体を沈めた私に続き、ロランも続いて暗黒がさざ波を立てた。
見た目に反して水面のような抵抗はなく、ふたりが潜り終えると門は虚空に閉じてしまう。
「たまげたな……」
流石のロランもそれきり閉口してしまう。
──膨れ上がった夕差しを浴びる入道雲が横に見える。
──黄昏れ色というにも暗い藍色の星穹。
──片面は橙に、反面は影に、それぞれ染まる長い高い煙突めいた石塔。
「どう思う?」
「登らなきゃ駄目でしょうね」
円形の石床にロランと立つ私は、塔に釘みたいに突き刺さる足場らしき石棒の螺旋を指して所感を述べた。
踵を返したロランが覗き込んだ広場の下は、地面の様子が霞んで捉えられないほどの高さで、眼下を俄か雲がすり抜けている。
私が昇りはじめると、周回遅れで彼も付いてきた。
「門についての伝承はどの程度知ってるの?」
「殆ど知らねぇな。風の噂では、女神様が人に使わした試練であり、乗り越えるまでは時間の止まった世界で永久に囚われるが、達成の暁には御業の一端を生涯預けられるとかなんとか」
「結構知ってんじゃん……」
──十分経過。
「あれだけ広く感じた足場が豆粒のようね」
「確認するな。見ないようにしてんだから」
──三十分経過。
「……こう終わりが見えないと、延々と続いてるようにさえ感じられるわね」
「分かってると思うが気を付けろ。足を踏み外してみろ。ここじゃ御許に引き上げて貰えるか疑問だぜ」
「ロランって実は結構信心深いんだね」
「困った時のなんとやらだ。俺は見掛けに依らず臆病者でね」
──三時間経過。
「はっ……はっ……」
「ぜぇ……ぜぇ……」
ふたりの口元に白い靄が立つ以外、周囲には何も変化がない。
山のようだった入道雲の数々も疾うに遥か下方で、見上げる夜空では碧々とした星屑が大河を成している。
──十七時間経過。
ふたりして石床の円盤に腰砕けになり、荒く重い呼吸をひたすら繰り返した。
女の子座りで前傾しながら僅かに首を捻れば、背後の広場中心に私達が上ってきた四角穴が覗える。
「あー、腹減ったぁ……」
皮袋に詰めた水をゴクゴク飲み下し、ロランは大の字に寝そべった。
頤に湛えた汗を手の甲で拭いとり、立ち上がって抜剣。
切っ先を超上の夜景に差し向ける。
「私達は試練を終えた。報酬を寄越しなさい」
「恐れ知らずだな。関係ない振りしようげっ!」
四つん這いで距離をおこうとしたロランの襟首を掴まえつつ、星空の只中に小さく灯る無数の煌点群を見つめ続けた。
徐々に視界が歪みはじめる。
……いや、違う。
僅かだが光点達が視界に沿って歪曲するように移動していた。
やがて燐尾を残しつつ、その明りを強めていく。
星が降ってくる。
「……おいベロ。お前のせいだからな」
「……ごめん」
煌めく碧条の数々が石床広場の外を乱れ落ちていく。
遂には私達の上空も、星の燦牙に灼かれて──。
「うわっ!?なんだあんたら!」
皮鎧で各部を守った衛士が仰け反り、関所小屋の窓から検問係が顔を覗かせる。
「痛ったぁ……」
「生きてる、信じらんねぇ……」
肩から地面に突っ込んで尻を浮かせたまま悶絶する赤毛の娘と、四つん這いで恐る恐る振り返る大柄な緑髪の青年。
その背後で世界に空いた四角い穴みたいな“門”が縮み、跡形もなく消えてしまった。
煤けた頬を起こせばそこには、オレンジ色の煉瓦屋根と石積みの壁で造られた家々が軒を連ねた街並み。
ヘルトレーゼが広がっている。
「はぁ……なぁベロ」
立ち上がったロランは顎を反らして腕を伸ばし、蹲ったまま震える私に皮肉げな笑みを見せた。
「案外与太じゃなかったかもな」
私はその手を睨み据え、鼻を鳴らして掴み取る。
「金が貰えるならなんでも」
雲間から差した斜光が、吹きすさぶ麦切れを黄金色に閃かせていた。
*
ヘルトレーゼを中心に、半径五キロ圏内には穀倉地帯が広がっている。
それより外となると、エハトラハト街道を伝いに西へ行けばシリク森林が、東へ行けば復興中のムートン市に辿り着く。
多くの者が商用にこの東西ルートを辿る為、南北に何があるかは地図上に記されてこそあれど、実際に目にする者は極めて稀だ。
ヘルトレーゼから北方へ十キロ地点から分布するダイスクルー草原は、地形的にハルタビア連峰の尾根に当たり、緩やかな傾斜に緑々しい高草が生い茂っている。
奇妙なほど木の育たないこの草原は、地殻変動や土砂崩れにより切り立った丘や高低差が随所にあった。
また棲息を確認されていない、生前はかなり大型だったと思われる獣のあばらや脊椎、頭蓋などの骨が散在している。