六幕 怨恨
「どうして?」
ソフィアの声は落ち着いていた。
「エリオットと組むもの」
短剣が卓に突き刺さる。
ディンがその柄を握ったまま私をじっと見つめる。
「まだそんな事言って」
「ねぇ、ロラン」
水を向ければ、刈り込んだ緑髪の青年が面食らったように首を引いた。
「……んだよ」
「エリオットと、具体的に何があったの?」
「……金に余裕ができてから、俺ら男女で部屋分けたろ。それからすぐ、あいつ熱で休むとか言いだしてよ。そのうち治るだろと思ってたんだ、その時はな。でもそのうちあいつ、灰色の斑が浮いた腕見せてきて、僕は抜けるだの、あいつらには上手く言っといてくれだの。俺は励ましてやってんのによ、もう限界だとか抜かしてどうにもならねぇから、もう好きにしろっつってそれっきりだ」
「そう」
私は給仕娘を呼び止めて、エールを頼んだ。
「“エールの風”。どうしてこの名前にしたの?」
顔を逸らしたまま訊くと、ソフィアが小さく笑い声を上げる。
「大した話じゃないよ。私達はここよりずっと、うんと遠くにある西の街で冒険者になったわ。皆駆け出しで、パーティを組んだのも、たまたま冒険者登録したのが同時期だったから、ギルドに斡旋されただけ。初めての探索でユングバング……ほら、あのすばしっこい針鼠ね、あれの狩猟依頼を受けて、まあ失敗して、違約金払って無一文になっちゃった訳。それで、トボトボ夜の街を歩いてたら、ちょうど酒場の前を通りかかった時、風に乗ってエールの匂いがしてさ。お酒でも飲まなきゃやってられないねって話してたところだったから、なんだか救われた気分になってね。それから何度も挑んで、期日の一週間後にようやく依頼達成数の猟果を持っていって、受付と色々交渉して違約金だけでも返して貰ったの。それだけ。何て言うんだっけ、こういうの。験を担ぐって言うのかな?」
私は運ばれてきた麦酒をひと口含み、喉に流し込む。
「ヒバ茸って知ってる?」
「……あの、傘が水色のやつ?」
「そうそれ。毒キノコだけど、死ぬ程じゃないから効能があんまり知られてない。せいぜい、よく見かけるけど食用に向かないとか、それくらいの認識。あれね、食べると肌に斑紋ができるんだよ。ごく局所的にだけど、血管を広げる作用があるみたい」
私は席を立って、混み合う酒場を眺める。
そこかしこに点された燭台の光で、橙色に染められた防具が艶めく。
この場にいる客の、どれくらいが冒険者に身を窶しているのだろう。
「エリオットも私と同じ。別にあなた達のこと嫌いになった訳じゃない。やってみたい事があって、パーティっていう輪の中ではそれはできないの」
「ベロ。あんたのやりたい事って」
ディンが得物を腰裏の鞘に戻しながら問う。
私はにっこり微笑んだ。
「竜殺しとか」
*
そのゴブリンは、他の個体に比べて少し賢かったのだと思う。
魔法生物はどのようにして産まれるのか。
種によって異なるが、古来より魔族と呼ばれてきた亜人類は、その多くが地面から這い出す。
どのような経緯で自らが生を受けたのか、ゴブリンには知る由もなく、興味もない。
彼らはただ本能の赴くままに大地を侵し、縄張りを広げていく。
いずれ再臨されるだろう“王”に献上する為に。
──王とは何者だろう?
その存在に、彼は漠然とした印象を植え付けられているものの、詳細については謎に包まれている。
だからその姿を目撃した時、ゴブリンは思った。
『あれこそが王に違いない』
彼にとっては未知なる脅威に怯え竦むより、崇め奉る事で仮初の安寧を得る方が易かったのだ。
──ワイバーンは群れを為す動物である。
白い硬皮に包まれたその体は凍てつく空の雨風をも弾き、後肢の鉤爪でどんな獣も容易く掴まえられた。
竜は魔物ではなく爬虫類。
肉食動物である。
彼らはハルタビア連峰と呼ばれる山岳地帯に棲みつき、腹が減れば周辺の森や草原で狩りをする。
主食は馬や牛、或いは羊だ。
大抵は番とその子供による三、四頭で巣を共にするが、彼はひとりだった。
獣が往々にしてそうであるように、竜もまた孤立すれば他の群れから排斥され、己の縄張りを持つ事はできない。
彼はミルス河の下流に向けて旅立った。
橙色の屋根が連なるヘルトレーゼの街並みを見つけた時は戦慄を禁じ得なかった。
故郷の山裾に時折やってくる鉄の当て具と刃を纏った小さき者達。
奴らはか弱くも狡猾で、空を翔ける翼の膜を矢で穿ち、爪を網に掛けて地上で引き落とし、幾頭もの同胞を血祭りに上げてきた。
そんな小さき者が、たった一つの蠢くように大きな群れを為しているではないか。
はぐれ者の竜に、とても太刀打ちできるものではない。
恐れをなして、東に迂回した。
そこにも、先に見たのと近しい街を見つけ、空で足踏みをするように翼を羽ばたかせて止まる。
しかしよく見れば、建物はどれも崩れ落ちるか朽ち果てており、小さき者よりさらに小さい下級魔族が棲みついていた。
恐らく西の者達の古巣なのだろう。
緑色の鬼どもは、森に溶け込まれると厄介だが、野にいればどうという事はない。
どういう訳か食べても土の味しかしないので腹の足しにはならないが、竜を相手に襲ってくる程の度胸はないだろう。
彼はゴーストタウンの上空をぐるりと一周し、ワイバーンの習性としてできるだけ外敵に狙われ難い高所をねぐらに選んだ。
その街の中心に屹立していた、双塔の城を。
*
ムートン城の西側にある尖塔、“星級の塔”で待ち合わせをしたのは、多くの冒険者が東の“高貴の塔”に集まっているからだった。
「エリオットはまだ来てないわよ」
幅が広くて段差の低い螺旋階段に腰掛け、窓溝から差し込む日に膝を灼きながら、レーシュは私の目を窺うようにそう言った。
何となく嘘な気がしたが、私は「そう」とだけ言って気付かない振りをした。
隣に腰掛けて剣に布を当てていると、後ろで黒髪を縛った少女は身じろぎして、ちいさく息を吐く。
「冒険者には適性クラスっていうのがある。探索中、パーティに最も有効に貢献できる配置を、得意分野ごとに組み分けしたもの」
「……突然どうしたの?」
「別に。それで言うと、あなたは騎士なんだろうなと思って」
確か冒険者登録をする時、そんな事を書いた気もする。
「そういうレーシュは盗賊かしら」
ディンと似た雰囲気のある彼女の印象を、そのまま口に出してみた。
しかして、レーシュは首を振る。
「私も騎士よ、見えないでしょうけど」
それが今、何の関係があるのだろう。
怪訝な顔をする私に構わず、彼女は言葉を継いだ。
「エリオットは盗賊。育ての親が薬師らしくてね。同じ人と長く関わるのが嫌いみたいで、毒を上手く使ってあちこちのパーティを転々としてる」
「……詳しいね」
「昔からの付き合いだからね。好きでつるんでる訳じゃないけど、似た者同士。ほら」
階段を下りてくる足音が聞こえた。
立ち上がった少女は、少し登ってニヒルに笑う。
「私もあいつと同じで、性格悪いじゃない?」
「自分の陰口をうっかり聞かせられるのって、こんな気分なのか」
「あら、わざと聞こえるように言ったのよ」
紫髪の青年は口をへの字に曲げて、やれやれと首を振った。
*
ムートンの歓楽街は、かつて賭場や娼館で栄えた通りも多く、また豪邸と言って差し支えのない大居も庭付きで立ち並ぶ。
すぐ南にある宿場や職人階級の市街地とは違い、倒壊を免れた建物はほぼ原型を保っていた。
ワイバーンがいつ現れるとも知れない故、冒険者達は各々パーティごとに固まり、高貴の塔やムートン城内にある玄関ホール、食堂、訓練場だったと思われる広間、或いは城下にキャンプを設え、交代で北東区画を監視している。
「もう中に入るの?」
「僕らは一回獲物を見てるじゃないか。案内役を頼まれてるんだよ」
私が首を傾げていると、積み上げられたゴブリンの死体が焼かれていて、狼煙が上がっているのが目に入った。
ちょうどムートン北東区を前にした形で、ひとりの老婆が佇んでいる。
「こんにちは。私はビルムフォートレート。ヘルトレーゼ冒険者ギルドの理事を務めております」
「これはこれは、お偉いさんにわざわざ現場へご足労頂けるとは」
エリオットは敬意の欠片もないが、私は冷や汗を垂らして唾を飲んだ。
切れ長の眼は往年の鋭さを微塵も衰えさせておらず、丸腰でありながら切り掛かって敵うイメージがまるで浮かばない。
「ミスフォートレート。案内を必要とされてるって話だけれど、今いった所で無駄足になると思うわ。ワイバーンは狩りに出ている時間だもの」
レーシュが半眼で唱えると、ビルム閣下は薄く微笑んだ。
「存じています。ですが、彼奴らが寝床を変えないのもまた事実。いずれ元居た位置に戻ってくるなら、先んじて押さえておくに越したことはない」
「大型の獣ほど敵意に聡い、です。罠や待ち伏せは看破されると思うけど」
私が続けざまに問うが、これも閣下は一蹴する。
「承知の上です。あくまで参考までに」
考えがあるのかもしれないが、教えるつもりもないらしい。
エリオットが肩を竦めて手を差し出すと、ギルドの長は無言で廃墟の都へと歩みを進めた。
*
記録としてギルドに残るのは次のような事項となるだろう。
──ムートン北東区間に於ける魔法生物“ゴブリン”掃討完了。
──同区間で発見された指定危険動物“ワイバーン”討伐完了。
──今作戦に動員された冒険者総数、二十三パーティ八十七名。
──死者はフィックス、オリバー、ソフィア、以上三名。
鈴虫の鳴き声が聴こえる夜の路地裏は、軒下のランプだけを頼りに薄暗い石畳が続いていく。
細くて急な階段に座って星を眺めていると、それを映す瞳から順に、私の体までもが浄化されていく気がした。
「結局、ビルムフォートレートさんが片付けてしまうんだから、他の冒険者は要らなかったのかもね」
背後の闇が少し揺らいで、浅黒い肌の女が姿を見せる。
「露払いは必要でしょ。現にゴブリン達は邪魔してきた」
「烏合の衆だったけどね」
「それは私達も変わらない」
目を瞑って低く笑う。
なんだかんだ、あのパーティではこの人が一番気が合った。
「それで、今日は私を殺しに来たの?」
ディンは無言で腰裏の短剣を抜く。
「……ソフィアの仇だ」
「手に掛けたのはゴブリンよ」
「恍けるな!お前さえいれば彼女は今も生きていた!お前さえ……っ」