三幕 喧嘩
亜人種の魔物を指して魔族と呼ぶのは些か時代遅れな気がしたが、私は表に出さずに生ハムを食んだ。
こうやって心の内と表情を解離させるのは、あまり良い習慣ではないと分かっているけれど、こういうのは性格だから中々直らない。
「ヘルトレーゼはミルス河を境にざっくり西が商業区、東が居住区で分けられているけれどね。ムートンはちょっと複雑なんだ」
エリオットが丸皿の中に残っていた麦米を、四角と中心の五つに分けた。
「僕らが普段探索しているのは南西の旧貧民街。ここは元々立派な拵えの建物なんか無かったから、火攻めで大半の家屋が全焼しているし、遮蔽物がないから比較的戦いやすい。ゴブリン達にも格付けがあるんだろうな。この辺りは縄張り争いに敗れ、まともな建物を拠点とする事ができなかった落ちこぼれが流れ着くらしい」
紫毛の美少年は匙でその隣を指す。
「南東は旧市街。かつては市があったんだろうけど、今は木造の家が倒壊した状態で残ってるばかりだ。それでも井戸なんかは残ってるから、奴らにとっては多少贅沢ができる場所には違いない」
カウンターの方で他の冒険者相手に情報収集していたディンが、木杯を手に戻ってきて椅子に腰を下ろした。
「北西の旧魔術学区を狩場にしてる先輩様から有難いアドバイスを頂戴したよ。なんでもこの半年で二十くらいのパーティが探索に挑んで、五パーティが全滅、八パーティが仲間を失っているとか」
エールを一気に飲み干す黒髪の少女は、あからさまに不貞腐れて言った。
「北東の旧歓楽街は地獄だって。数百のゴブリンからなる街が出来てるそうだよ。遺跡にいたゴブリン達の装備ってやけに充実してたけど、その割に刃物の類が落ちてるところ見た事ある?」
思い起こせば、ムートン遺跡には瓦礫が散乱するばかりで、鉄器や布が全く見受けられなかったような。
時間と共に風化したものだと思っていたけれど、繊維物ならともかく、金属加工品が一切残されていないのは確かに不自然だ。
「武具に限らず、使えそうな物はムートン中から北東に集められてるみたい。逆茂木で囲われていて、唯一の出入り口である南門には、銛に新しい冒険者の屍骸が吊るされているそうよ」
食卓に重い沈黙が落ちる。
こんな話題の最中でも食欲を失くす事なくパンを齧ってられる自分に、少し気味が悪くなった。
「なぁ、こっちのテーブル空いてるぜ」
「おぉ、ラッキー!」
「じゃあ僕、飲み物取ってくるよ」
私達のすぐ脇を、溌剌とした青年と軽薄そうな男子、卑屈そうな猫背の少年が、口々に話しながら通り過ぎていく。
大衆食堂の中はいつも喧噪に包まれているが、今日はやけに若い声が耳についた。
「私達もそろそろ南東の市街区に移らないとね。いつまでも駆け出し気分でいたら、他の冒険者に迷惑だし……」
ソフィアが同年代の他パーティが陣取っている卓を横目にしながら杯に口を付ける。
「中心には何があるの?」
エリオットの皿を斜向かいから覗き込む私に、彼は真ん中に固めていた大麦の炊き飯を匙に掬って頬張った。
「むぐむぐ。いつも見へるりゃないか。んぐ。領主の城だよ。今でも魔王軍の将兵が残ってるなんて噂されてて、誰も探索に行かない。北東ゴブリン街の奴らも何故か寄り付かないらしい。たまに一攫千金目的で冒険者が数名入るけど、生きて帰ってきた人はいないって聞いたな」
*
倒壊した木造建築というものは、年月を経て苔や蔦に覆われ、緑化していく。
半世紀以上もの時を与えれば、それはさながら森の始まりのようで、見る者にある種の郷愁を齎していた。
尤も、感傷に浸っていられる程穏やかな場所ではない。
そこかしこに芽吹くクローバーの葉には赤黒い染みが付いているし、倒れた柱の瘤に注目すれば、それが職人の粗さに依るものではなく、干乾びた小鬼の屍骸なのだと分かるだろう。
“エールの風”に限らず大抵のパーティは狩猟を終えた後、殺めた魔物の骸を適当な物陰に安置する。
高位の魔法使いには爆撃を扱える者がいて、開拓地にはしばしば魔法で掘られたすり鉢状の窪地があった。
冒険者の間では“墓穴”と呼ばれ、近くにあれば魔物の死体はそこに投げ入れ、出来るなら油で燃やす事が推奨される。
とは言え、冒険者も人だ。
行儀の良い者ばかりではない。
元よりまともな仕事でもない。
夥しい血痕が残っているなどまだ良い方で、ゴブリンの亡き骸が置き去りにされていたり、時には死んだ冒険者が遺棄されている事も珍しくなかった。
「エリオットが体調を崩した」
ロランの一言で、屋根の崩れた廃屋に沈黙が垂れ込める。
数日前から、ロランとエリオットが宿を移した事には気付いていたが、ソフィアからも何の説明も無かったので、私も特に言及していなかった。
「あいつをパーティから外そう」
「…………え?」
頭が真っ白だった。
ロランの喋っている内容を、上手く咀嚼できない。
「ベロニカが入った後で良かった」
それを聞いた途端、顔が熱くなった。
そろそろと立ち上がって、緑髪の青年に掴みかかる。
「訳、分っかんないよ。冗談にしたって、言っていい事と悪い事があるんじゃない……?」
「ベロ」
浅黒い肌の娘が、片膝を立てて壁に凭れたまま、あからさまに呆れを含んだ視線でこちらを見た。
「ひょっとしてあんた、自分が猟師になったとでも思ってたの?」
「……はぁ?」
「こんな死体だらけの場所に、毎日々々入り浸って、普段何喰ってるかも分かんない動物殺して返り血浴びてたら、そりゃそうなる奴もいるでしょ。使えない奴はさっさと切り捨てないと」
私は、ふらふらとディンに歩み寄った。
彼女もやがて、応じるように立ち上がる。
「落ち着いてベロニカ。それ以上は駄目」
ソフィアが静かに声を発した。
無視して拳を振り被った瞬間には、鳩尾にディンの蹴り足が突き刺さっていた。
「うぶっ」
堪らず倒れ込む私に、ディンはゆっくり近付いて、胸ぐらを掴み上げる。
「……ディン」
「ソフィアは黙ってな」
「げっほ、がはっ……!」
烈しく咳き込んでから振り仰げば、彼女は淡々とした顔で見下ろしてくる。
「……ぃっ」
その鳶色の瞳に宿る狂気の光条に、私の喉が引き攣った。
「冒険者ってね、探索の度に糧食を買い込まないといけないし、武具も定期的に買い替えなきゃいけない。支出が大きい割に、収入は職人階級にも劣る。だから皆、毎日のように依頼を受けて探索に出なきゃいけない。誰も彼も、今日を食繋ぐのがやっとだよ。医者に掛かるにせよ、薬を買うにせよ、堅気だって足踏みするくらい大金が要る」
「……で、でも、余った報酬はいつもギルドに預けてるでしょ?そのお金を引き出せば」
「不衛生な開拓地に入り浸って、いつも魔物と殺し合ってるんだ。重傷を負う奴も、疫病に掛かる奴も、いくらでもいる。戦いの中で死ななかったからって、一々そいつらの面倒見てたらどうなると思う?答えは簡単だ。破産して奴隷落ちよ、結局はパーティ全員死ぬ事になる」
はたはたと、頬に水滴が打つ。
今日は朝から雲行きが怪しかったが、本格的に降り出してしまったみたいだ。
雨に濡れるディンは決して泣いていなかったが、生気を感じない瞳をしていた。
「ギルドには報告しない。いいわね?」
ソフィアが誰にともなく言った。
「報告したら、どうなるの……?」
組合なら、彼を助けてくれるんじゃないか。
「伝染病の拡大を防ぐ為に……その……」
珍しく言い淀む銀髪の少女を、組み敷かれた姿勢のまま、信じられない気持ちで振り返る。
「捕まるって事……?」
こちら目を向けないリーダーに見切りをつけ、ディンを仰いだ。
彼女は襟元から手を放して腰を伸ばし、踵を返しながら言葉を落とす。
「まあ多分、殺されるでしょうね」
*
倒れていない木の柱を蹴って、矮躯の背後に音もなく迫る。
「ぜッッッ」
刎ね飛ばした醜貌が、何が起こったのか分からないという表情で壁を跳ね返った。
「ギャギャウッ!!」
激昂した仲間のゴブリンが、着地した私の背に樵用の手斧を振り下ろす。
振り返りざまにその手首を切断して、返す刀で胴を袈裟斬りにする。
左前方へ屈むと、覆い被さってきた死体を投擲された短剣が貫き、朱瞳に届く寸前で止まった。
ゴブリンの亡き骸を前蹴りする。
「ねぃッ」
「ブボッ!?」
投げた得物を取り戻そうと走り寄っていた小鬼が、同胞の死体にぶつかって転んだ。
歩いていって、逆手に持った剣の切っ先を、残る一体の眼窩に埋める。
引き抜いた刃を伝う赤い雫を払えば、壁の残骸に斑が走った。
死体から一つずつ耳を削ぎ落して、巾着袋に納めていく。
外れた戸を踏んで入口から外に出ると、ロラン達は既に道端で待機していた。
「首尾はどうだ?」
「そっちは?」
「俺とソフィアで二匹だな。ディンは一匹」
後ろを振り返って、屋内に転がる三体の骸をぼんやり眺める。
「こっちは、いなかったみたい」
「そうか」
ロランが言葉少なに歩き出すと、ディンとソフィアも釣られるように追従した。
私も距離を空けて彼らの後を追い、そして立ち止まった。
「ねぇ」
声を掛けて、その場に留まってくれたのはソフィアだけだった。
「……何、ベロ」
私は落ち着きなく息を吸っては吐き、逡巡の果てにようやく口を開く。
「私、ここまでにするよ」
「……うん」
「“エールの風”は、良いパーティだった」
「……うん」
「また、どこかで会おう」
「……そうね」
身を翻すと、向かい風に赤毛が躍った。
何よ、撤回しろって言うワケ?
そんな事、もうできる訳ないじゃない。
十歩進んで、思った。
嗚呼、人との縁って、こんなに呆気なく切れるものなんだなぁ。
「ベロニカっ!」
すぐ後ろからの声に唖然として振り返ると、胸に銀髪の少女が飛び込んできた。
私の方が少し上背があるから、双丘に顔を埋めるソフィアを見下ろす恰好になる。
この子、こんなに小さかったのね。
「……ありがとうね」
「……何言ってるの」
その両肩を掴んで引き放す。
「それはこっちの台詞だよ」
眉を下げて微笑むと、彼女は俯き、向こうへ駆け出していった。
*
カウンター席にどっかと腰掛けた金髪の男が、無言で指を一本立てる。
マスターも心得たもので、ジントニックを注いだグラスをそっと差し出した。
彼はそれを見もせずに受け取り、ひと息に呷る。
「まじぃ」
「精進致します」
澄まし顔で答えるマスターをじろりと睨み、その男はカウンターテーブルに頬杖を突いた。