一幕 冒険
狭い世界を歩いた事はあったけれど、広い大地を旅するのはこれが初めてだ。
「はぁ……はぁ……」
ものの一時間で息を切らす自分に唖然とする。
私はこんなにも虚弱だったのか。
軽々運べると思っていた毛布と糧食と水筒の詰まった背嚢がズッシリと肩に重い。
いっそ倒れてしまえば、通りすがりの行商人が荷台に乗せてくれるんじゃないかと淡い期待を抱く。
しかし俯けば剥き出しの土道に轍はなく、馬車がよく通っているとは思えない。
「はぁ……はぁ……」
こめかみから顎に伝った汗を拭う。
登り降りする丘陵の稜線を、曲がりくねった細い街道がどこまでも続いていく。
地表を流れる雲が、青々と茂る草原に影を落としていた。
突風に赤毛がなぶられる。
「くそったれ……!」
私がこんな目に遭うのも全部、あいつらのせいだ。
女には無理だと笑った村の連中。絶対、目にもの見せてくれる。
*
「はぁ~……」
椅子にどっかと腰を下ろした途端、疲れが手足を痺れさせた。
もう一歩も動けそうにない。
燭台の灯りだけでポツポツと照らされた室内は薄暗い。
木造り特有の茶褐色に色付いた空間で、客達は静かに飲み食いし、時折さざめくような笑い声や、食器やグラスの鳴る甲高い音が響いていた。
「冒険者って大変ね……」
「へへっ……」
「おい聞いたか、冒険者だってよ……」
こめかみがヒクつく。
近くのテーブルに座ってる二人組の男達が、こっちには目を向けないまま嘲りを顔に浮かべていた。
そういう面構え、私はよく見知っている。
「おばちゃん、エールひとつね」
「は~い……っ」
他の卓で注文を窺っていたらしい女給さんが汗を飛ばしてこっちにも返事した。
彼女がバックヤードに下がり、間もなく運ばれてきたジョッキを私はひと息に呷る。
グビグビ……。
杯を机に叩き付けると、唖然としてこちらを見ていた男達が気まずそうに目を逸らした。
銅貨を残して店を出ると、暑い日差しが肌を焼く。
クリーム色の太ったぶち猫が一匹、通りを横切って路地裏に消えていった。
日に褪せた石畳をお気に入りのブーツで鳴らし、ゆっくりとした歩調で街の真ん中を目指す。
軒先に吊るされた看板を確認して、扉を押し開け中に滑り込む。
『冒険者ギルド』の文字上に、一羽の鳩が止まった。
*
朱い衣って目立つのかしらね。
疎らに並んでいた冒険者達が、こっちをチラチラ、或いはジロジロ見てくる。
いずれも好奇や嘲弄の目だ。
無視して掲示板を眺める。ピン留めされた無数の貼り紙。
依頼内容をひと通り吟味して、一枚剥がして列に並んだ。
どこからか潜めた笑い声が聞こえる。
私の番が来て、緑髪の受付嬢が困惑したように眉尻を落とした。
「ええと、初めての方でしょうか」
「そうよ」
「……で、では、こちらの書類に記入をお願いします」
カウンターに差し出された羊皮紙に、インク壷から引き抜いた羽ペンで文字を綴っていく。
『ベロニカ』
「ここは何を書くの?」
「パーティ戦闘に於けるご自身の適性クラスですね。ご存知なければこちらの兵法目録より引用下さい」
「……ありがと」
渡された冊子を左手で繰って、右手でインクを走らせた。
『騎士』
*
街は苦手。
雑踏と喧騒に満ちているから。
森は好き。神秘と静謐に満ちているから。
けれど。
どこからか鳥の鳴き声と羽音が響く。
蝉時雨が降り注ぐ。
耳元で蚊が騒いでいる。
「どうしてこの森はこう……」
手で虫を払いながら、茂みに分け入る形で歩を進めていく。
葉先が頬や腕を掠めて擦り傷を増やした。
いつかこんな風に探索するのが夢だった。
それがこんなにも不毛だったなんて、誰に想像できるだろう。
草いきれの漂う木立の中を、獲物を求めて這い回る。
惨めな仕事だ。
人の役に立っている実感もない。
『冒険者だってよ』
彼らが正しかったのかもしれない。
冒険者になんて、なるものじゃないのだと。
「……今さら……っ」
そんな事知ったところで、もう遅いのだ。
けど、ゴブリンなんて、どこにいるのよ。
*
何も見つけられないまま、気付けば夜になっていた。
梟がどこかで鳴いている。
街には帰れない。
もう宿代を払う路銀もないのだ。
硬い黒パンを齧り、皮袋の中で鳴る水で無理やり流し込む。
糧食が尽きるまでがタイムリミットだ。
人も動物で、食べなければ動けない。
森の中で動けなくなってしまえば、後は魔物の餌になるだけ。
いや、単に飢えて野垂れ死ぬだけか。
冒険者が度々分け入っているような街に程近い小さな森に、どうして討伐を依頼されるような危険な魔物が蔓延っているなんて思い込んでいたんだろう。
自分の愚かしさに、涙が滲んだ。
「誰かいるの?」
嗚咽を漏らしていると、人の声が聞こえた。
若い女の声だ。
「……っ」
咄嗟に身を起こし、その場を離れようと歩き出す。
恥ずかしかったから。
「待ってよ!」
手首をパシッと掴まれて、思わず立ち止まってしまった。
「……何?急いでるんだけど」
虚勢を張っても、涙声なので格好が付かない。
「ごめんなさい、引き止めて。間違ってたらまたごめんなさいなんだけど……」
女はそこで一旦言葉を区切り、それから躊躇いがちに言葉を発した。
「あなた、ひょっとして迷子なんじゃないかとおもって」
ふっ、と息が漏れた。
何を馬鹿な、こんな浅い森、流石に遭難したりしないわよ。
でも言い返せなかった。
「おい、どうしたー?」
「何か見つかったのかー」
遠くの方で男達の声もする。
「……やっぱりそうなのね。あの、もし良かったら、一緒に来ない?私達の仲間も、すぐそこにいて、もう帰るところだったの」
私は正しく迷子だった。
これから先、進むべき指針を見失っていた。
こくりと頷くと、彼女が微笑んだのが気配で分かる。
ゆっくり振り向くと、美しい銀髪の少女が優しい目を向けてくれていた。
「私、ソフィアよ。あなたは?」
「べ、ベロニカ、です……」
「敬語はいらないわよ、きっとそう年も変わらないでしょう?よろしくね、ベロニカ」
強く、凛々しい姿だ。
「…………うん」
それに比べて、ソフィアを直視できない私って、ほんと。
*
「なんだ、物見にしては早かったじゃないか……そいつ、どうしたんだ?」
「ロラン、声が大きい」
緑の短髪を揺らす長身の男が疑問の声を上げ、褐色肌に黒髪の軽装女が混ぜっ返す。
「この子、道に迷ってるみたいなの。同行させてもらってもいい?」
「勿論だ。君、運が良かったね」
紫髪のイケメンに笑いかけられ、目尻を赤く腫らした私は目を見開き、それから無言でこくこくっと首を縦に振った。
「しょうがねぇ奴だな。その年になって迷子とはよお」
「ロラン、言い方キツイよ?」
「すまんすまん、そっちの、気を悪くしたか?」
首を横に振る。
「ほら、怒ってないってよ」
「そんな聞き方されたら誰だって同じ反応するわよ。ほら、下らない事言ってる暇があるなら歩く」
「へいへいっと……」
このまま街に帰って、それでどうするんだろう。
そう思うと、自然と足が止まった。
「……あの」
「それにしても今日のエリオットは絶好調だったな。ユングバングの群れを鎧袖一触、これはギルドも特別報酬出してくれんじゃね?」
「たかが針鼠を何匹殺したって、それで街の為になる訳じゃないさ。寧ろ乱獲するなって大目玉じゃないか?」
エリオットが腰にぶら下げた針鼠の死体達を掴み上げると、ロランが大笑いする。
「……あ、あのっ!」
四人が一斉に振り返る。
名も知らぬ肌黒の女とロランはあからさまに面倒臭そうで、ソフィアもエリオットも怪訝そうにしている。
私は肩を振るわせ、縮こまってボソボソと喋った。
「私、宿代、無くて。だから、帰っても、意味な」
「んだよ文無しかよ。しゃあねぇ、今日は俺らの宿に来いよ」
顔を顰めて言い放ったロランの提案に、思わず目を丸くする。
「ぇっ……」
「ただし、明日から俺達と一緒に働いてもらう。役に立たなかったら承知しねぇぞ?」
「ロラン、言い方」
ソフィアが破顔して私に向き直った。
「でも、それはいい考えね。どう?あなたさえ良ければ、うちのパーティに入らない?」
呆然と立ち尽くす。
両目から溢れた涙が、つつと頬を伝った。
「で、でも私、足手纏いかもっ……」
「大丈夫、きっとベロニカは誰よりも強い戦士になるわ」
聖母のような笑顔で両手を包み込んでくれるソフィアに、私は下唇を浅く噛んで嗚咽を堪える事しかできない。
浅黒い肌の女が舌打ちしてそっぽを向く。
「決まりだな。ようこそ、“エールの風”へ」
*
「俺達ギルドに報告と、ついでに買い出し行ってくっから。悪いんだけどベロニカ、そいつと留守番しといてくれ」
ソフィア、エリオット、ロランの三人が連れ立って出ていくと、何も家具のない大部屋に私と浅黒肌の女が取り残された。
止める間もなかった。
ソフィアだけは心配そうな顔をしていたけれど、エリオットに背中を押されてドアの向こうへ消えてしまった。
女は石鋏でランプに火を入れる。
ガラス筒を台座に嵌めて床に背嚢を転がし、それを枕に寝そべって目を瞑った。
「突っ立ってないで、座れば?」
「あ、はい」
私がドタドタと座る間、彼女は舌打ちして寝返りを打ち、こちらに背を向ける。
「私、ディン」
「ディン、さん……」
「敬語止めな、鬱陶しい」
「は、いや、うん……」
私も荷物を置いて、毛布を被った。
もう寝てしまおう。
「これから晩飯だってのに、何寝てんの?」
「え?」
寝息を聞きつけたのか、ディンが鋭い声を投げかけてくる。
「……私は払えるものがもう無いので、皆さんだけでどうぞ」
「はぁ?……そういやあんた、一文無しって言ってたっけ」
しばらく無言でいると、ポンと何かが毛布の上に落ちてきた。
顔を上げると、どうやら硬貨の詰まった巾着らしい。
「それで当座はなんとかしな」
「……頂けません」
「あ?」
「……いえ。ありがと」
身を起こしてボソボソとお礼を言うと、彼女は鼻を鳴らして黙り込んだ。
お金に将来を託すものではないと思う。
でも今、握りしめた財布の中には、夢が詰まってる気がした。