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何度かノックをしたのだが返事が無かったので、少年は仕方なく、
「お母さん?」
と言いながら部屋のドアを開けた。
彼の母親が、部屋の左端にあるベッドの上で壁に向かって女座りをして、両手で枕を持ってそれに顔を埋め、激しくヘッドバンギングをしていた。
「お母さん」
少年は母に近づいていった。これまでにも一~二度見た光景だった。母は大きなヘッドフォンをしていて、彼女の座るベッドの左にアイフォンが置いてあった。彼女は薄いグリーンの枕に押し付けた顔を上下に振り、激しい曲調の音楽を枕に向かって歌っていた。
(またや)
少年は心の中でため息をついた。母は無類のロック音楽好きである。
「お母さん」
後ろでひとつ縛りに束ねた彼女のミディアムショートの黒髪の下に見えている、後れ毛の艶かしい首筋に近い肩の上の方を、とんとんと叩いた。
「――みだが、こぼれそうっ! でラブコール! あの娘にラブコォォォー……ひゃいっ!?」
母は予想以上のリアクションをして枕を手から落とし、勢いよくこちらを振り返ってきた。そこにいるのが息子だと理解すると、みるみる顔を赤くし、ヘッドフォンを耳から外して首にかけた。げっ歯目の小動物を思わせる童顔は、ノーメイクでも年齢を感じさせない。
母は一瞬息を詰まらせていたが、やがて、切れ長の一重まぶたの瞳をきらきら光らせて、「いっちゃん(少年の呼び名)、ノックしてって言ってるでしょ!」
と、恥じらいをごまかすかのように言った。
「ノックしたやん、何度も。反応ないから入ったんやん」
少年は多少うんざりしながら答えた。それでも母のその小ぎれいな顔と、生真面目そうな見た目に似合わずハードロック好きなところ、そしてアパートの近隣住民の迷惑にならないよういつも枕で消音して歌を歌うつつましさに、どうしようもない愛しさを覚えた。
「そう? で、何?」
母は耳まで赤く染めて言った。
「学校のプリント、渡し忘れてた。保護者面談のプリントやて。来週中に出してって先生言っとった」
少年は言いながら手に持っていた紙を渡した。
「分かった。早めに書いとく」
「うん。じゃあ、おやすみ」
少年が部屋から出ようとすると、
「ちょっといっちゃん!」
「何?」
「さっきも言ったけど、明日は私仕事休みだから、二人でイオンに行くんだからね」
「ああ、はい」
「五時過ぎにはその、『師匠』? さんに間違いなく会えるのね?」
「うん、多分。いつも平日は五時に仕事が終わって、パン屋の近くの、テーブルがいっぱいあるところあるやん? あそこの席で休むそうやから」
「じゃあ行くからね。一度ご挨拶しないと」
「いいよ僕は別に、お母さん行かへんでも」
「だめ。ジュースまでごちそうになってるんでしょう? ちゃんとご挨拶しないといけないよ、こういうことは」
「……分かった」
少年はそれ以上反論せず、素直に母にしたがって母の部屋を出た。