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時には二人に解決できない難題が持ち上がることもあった。
長い冬が終わり春が訪れていた。この日は少年の方の機嫌がおかしく、元気が無かった。
師匠は珍しくだんまりを決めている少年に向かって、何かあったのか聞いた。
少年はなかなか答えなかった。しかし師匠が、自分だって先日少年に情けない話を聞いてもらったのだから、なんでも話して欲しいと強く言うと、ようやく少年は話しだした。
「僕スイミング辞めることにしてん」
少年はテーブル席に座り、尻の下に両手をすべり込ませ、椅子との間に挟んでいた。師匠は少年が市内のスイミングスクールに通っていることを以前から聞いていた。
「そう。なんで?」
師匠が尋ねると、少年はうつむいて脚をぷらぷらさせた。
「絶対誰にも言わんといてくれる? 特にお母さんに」
「うん。分かった」
「絶対やで? お母さんにも、僕の知らん師匠の友達とか知り合いにも言わんといて」
「いいよ」
「この間のスイミングの授業で、僕、プールサイドで周りの子たちの、その、水着姿を見ていたら、チンチンが大きなってしまって」
話し声の最後の方は小さくしぼんだ。そうして下から見上げるように師匠の反応を見てきた。
「そうか」
「やばいって思って慌てて前かがみになって両手でお腹の辺りを隠して、先生にお腹が痛くなりましたって言って、急いでトイレに行った。それでチンチンがおさまるのを待ってから更衣室に行って、バスが来るまでそのままそこで待った」
「そう……」
「同じことがあったらもう絶対嫌やから、お母さんに言ってスイミング辞めさせてもらうことにした」
師匠、どう思う? と少年がいかにも深刻そうに言うので、師匠は少し黙ってから、
「それはついてないというか、タイミングが悪かっただけで、そうなるのは全然悪いことじゃないんだよ。大人になったら男はみんなそういうことがあるんだ」
「師匠にもある?」
「あるよ、もちろん」
「相手が男子でもあった?」
「え?」
「僕のスイミングスクール、クラス男女別やねん。僕、女子の体じゃなくて、男子の体見て、チンチンが大きなってもうた」
「……」
重たい沈黙があった。師匠はたっぷりその沈黙にひたった後で、
「大阪にいた時、仲の良い友達のことを好きになっちゃったって前に打ち明けてくれたことあったよね? あれも、もしかして相手は男の子?」
「……そうや」
師匠はふうっ、と大きく鼻から息を吐き出すと、ふーむ、とうなった。
「こういうの性的マイノリティーって言うんやろ。お母さんのアイパッドで調べた。僕、ゲイや。普通やないんや」
「よく分からないけど、だんだんそういう人たちも普通の存在になりつつあるよ。色んな人がいるから」
少年はハッ、と哄笑した。
「そんなことネットにも書いてあったわ」
師匠はそれ以上何を言っていいか分からなかった。
「最悪や最悪。僕はシングルマザーの子供で、その上ゲイや。あるいはバイセクシャルや。こんなん死んだほうがマシや。このまま中学行っても水曜日には七百円渡されて、焼き鳥三本買って一人でアパートでご飯食べるんや。きっと今年の夏のプールの授業で、またチンチン大きくなってもうて皆から気持ち悪がられるんや」
「樹くん」
「なんでお父さん僕のこと捨ててもうたんやろ? なんかもう彼女おるらしいねん。きっと僕が邪魔やったんやね。僕がいたら再婚できへんから。お父さん大阪の保育園の園長やねん。おじいちゃんはその保育園を経営してる会社の社長やねん。お父さんの方に引き取られたら、僕お母さんとは離れ離れになってしまうけど、少なくともお金持ちの子供ではおれたのに」
「樹くん!」
とめどなくなってしまった弟子を、師匠が止めた。
「だいじょうぶだよ、俺は君のことを気持ち悪いなんて、そんなこと少しも思っていない。これからもずっと、気持ち悪いだなんて思わない」
「ホンマ?」
「ホンマ。それに、君は確かにこれまでの人生でついていなかった部分もあるかも知れないけれど、少なくとも二つ、ついていることがあると思う」
「……何?」
「一つはあんなに良いお母さんがいること。それからもう一つは、夢を持っていること。将来焼き鳥職人になるんだろ?」
少年は首を縦に振った。
「その二つがあれば、きっと人生を乗り越えていける」
少年はわずかに瞳に光を取り戻した――ように師匠には見えた。
(こんな程度のことしか言えなくて、本当師匠失格だな)
どこまでもどこまでも師匠は自分が情けなく、もどかしかった。




