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冬が終わりに近づいてきたその日、二人で飲み物の買い物を終え、休憩スペースの席に一緒に座った師匠のテンションがあまりに低かったので、少年が「何かあったん」と師匠に尋ねてきた。
「何かって?」
師匠は少年の方を向きながら、しかし眼の焦点を少年には合わせずぼんやり遠くを見ていた。
「なんか落ちこんどるやん」
「……」
師匠はその沈黙をたっぷり一分以上続けた。先週の土日にあったことが頭によぎっていた。
「あのな、俺と君の関係って、いわゆる師弟ってやつだよな」
「シテイ?」
「師匠と弟子」
「うん、そうやな」
「でももうなんていうか――友達みたいなところもあるよな」
「まあ、そう言われればそうやね」
そこで師匠は再び黙った。言ってしまおうかと思った。
「友達だったら、なんていうかその、お互い対等だから、俺の話を聞いてもらってもいいわけだよね? いつも君がしゃべることが多いけど」
少年は師匠に買ってもらった「カゴメ野菜生活100 200mlパック」をストローでじゅっとすすった。
「もちろんええよ。話って何?」
「うん……これはかなり情けない話になるんだけど。もし君が俺のこと師匠として憧れたりしてくれてるんだったら――」
「ああもうええて! 師匠は師匠やけど、別に何があってもゲンメツしたりせえへんから」
「そうか」
師匠はまた一拍置いて、
「俺、母親と長い間二人暮らししてるんだけど」
「うん」
「母親はちょっと、昔から病気があって一人では暮らせない状態で。だから俺、これまで何度か正社員にならないかって話があったんだけど、断ってきていたんだ」
いつものゆっくりしたしゃべり方だった。考え考え、着実に言葉をつむいでいく。少年は生意気に腕を組んでそこまで聞くと、小首をかしげた。
「なんでお母さんが病気やと正社員を断ることになるん?」
「ああ、説明不足だったな。社員登用先――社員にしてくれる職場――がここの店じゃなくて、『天上天下』の別の店舗での募集でね。ついていないことに毎回遠い店だったから、引越ししなきゃいけなかったんだ。そうしたら母親が、ずっと住んできた家を今さら離れるのが嫌だって言うんだ。そうしたら、俺だけ引越して母親を一人暮らしさせるわけにもいかないだろ? その、母には病気があるから。それで社員登用の話は断ってきていたんだ」
「ふーん。それで?」
「それで、最近、母親が軽い認知症にかかっていることが分かったんだ。夕飯の買い物しにスーパーへ行って、帰り道が分からなくなった。スーパーの出口でぼんやり突っ立っているところを、近所の方が見つけて一緒に帰って来てくれて、なんとか事なきを得た。病院へ検査に行ったら、若年性の認知症だった。俺は働いている間母の様子を見てあげられないから、その間に母がまた家を出て、迷子になったりするかも知れない。東京にいる兄と相談して、母を兄の家に預けることにした。その話合いを、こないだの土日に家族でしたんだ」
「そうなんや」
「それで、それでな」
そこまで話したところで、自分の声が若干うわずってくるのを師匠は感じた。向かいにいる少年がまさかという顔をした。師匠は既に左目から涙を一筋、無防備に流していた。
「俺、思ってしまったんだ。ああ、これで解放されたって。ようやく正社員の登用試験を受けられるって。そう、少しだけ思ってしまって」
声が詰まって、ぽろぽろと涙をこぼした。顔を少しうつむけ、涙を手で拭った。その顔にウェーブのかかった長い髪がかかった。
少年はあっけにとられたようだった。しばらくお互い無言でいた後、師匠が顔を上げて泣き笑いして、
「まったく情けない話だよな」
と言った。すると少年はふるふる首を振って、
「そんなことない。同じことになったら僕でもそう思ってしまうかも知れん」
と返した。
「そうかな」
「そうやで。人間やもの、仕方ないやん。全然かっこ悪くなんかないで、師匠」
師匠は正直、小学五年生に慰められれば慰められるほど、情けなさが増した。しかしその一方で、一生懸命自分を励まそうとしてくれる人が一人、ここにいるという事実に救われ、胸に温かみが湧いてくるのも感じていた。




