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しかし、悪いことにこの日休憩スペースの席は客で埋まっており、二人は立って待たねばならなくなった。二人は休憩スペースと大きな通路との間に立って、とても団欒という雰囲気もなく、何を話すわけでもなく師匠を待った。
二人のいる位置からは焼き鳥店が小さく見えた。店の前で掃除を続けている、師匠の姿も豆つぶほどに見えた。彼は客たちが見つめるなか床にしゃがみ込んで、床を汚している焼き鳥のタレを黙々と雑巾で拭いていた。途中、若い男性客が何か師匠に話しかけ、師匠はそれに対して何か返答し、二回ペコペコと頭を下げた。
母親が横を見ると、由希姉は腕組みをして、冷たい表情でそんな師匠の様子を黙って見つめていた。付き合いの長い母親には、由希姉の機嫌が非常によろしくないことが見てとれた。だから母親からも何も話さなかった。
師匠が丁寧に床を拭き、バケツの水で汚れた雑巾をすすぎ始めたところで、由希姉が口を開いた。
「萌」
「何?」
「悪いけど私先帰るね」
「えっ?」
「帰る。見てらんない」
母親は改めて由希姉の顔を見た。厳しい表情に、前髪の間、額の真ん中に一本青筋をすっと浮かべているのが見えた。母親は慌てた。
「でも直己さんはどうするの? 由希姉とこの後会うつもりだと思うよ」
「ごめん。直己にも謝っといて。じゃあ、また今度ね」
そう言い捨てると美人の幼馴染はもうカツカツブーツを鳴らして歩き始めてしまっていた。
「由希姉! 車はいいの?」
「歩いて帰る」
彼女はそのまま買い物客の雑踏に紛れ、見えなくなった。
唖然として由希姉が消えて行った方を見つめていると、テーブル席が一つ空いたのでとにかくそこへ座った。
(なんなんだろう、この状況)
ものの十分もしない間に色々起こり、これから幼馴染の元恋人を一人で迎えなければならなくなったことに、母親はひどく混乱していた。電話を由希姉にかけて、戻ってくるよう頼んでみようかと考えたが、彼女のわがままを思うとさすがにそこまでするのは嫌だった。
少し経って師匠がこちらへ向かってくるのが見えた。母親は律儀に席から立ち上がった。
「あれ? 由希子さんは?」
青のダウンジャケットに黒の細身のチノパン、ショルダーバッグという私服に着替えた師匠は、不思議そうに母親に声を掛けた。
「ごめん、帰っちゃった」
「帰った?」
やはり不思議そうに師匠が呟くので、母親はいたたまれなくなった。
「あの、あのね、由希姉のお母さんの体調が悪くなっちゃったんだって。ちょうどさっき由希姉に電話がかかってきて。仕方なく由希姉帰ったんだ」
「お母さんの? だいじょうぶなの?」
「うん、別に命がどうこうとかそういうレベルじゃないんだけど、ほら、この時間でしょう? 由希姉が実家の夜ご飯作らなくちゃならなくなって、急遽」
「ああ、そうだったんだ」
言いながら、師匠は母親と向かいの椅子に腰を下ろした。
「それじゃあ、仕方ないな」
「ごめん」
「めぐちゃんが謝ることじゃないよ」
そう言いながらも師匠が明らかに気落ちしていたので、母親は自分も椅子に座り直しながら、彼の気分を慰めようと話題を変えた。
「大変だったね」
師匠はぽかんと口を開けた。
「え、何が?」
「何がって……」
何のことを言われているのか、本当に彼が分かっていなさそうだったので、
「さっきのクレームのおじさん。だいじょうぶ?」
と付け加えた。
「ああ。別に。それより由希子さんのお母さんの容態は――」
「別にって!」
母親は少し声を荒らげた。師匠は驚いて、黙った。
「気にしてないの? ひどかったじゃん」
「気にする? 何を」
「何をって」
思い出すと母親は気分が悪くすらなってきた。床に膝をついて、焼き鳥を一本一本拾っていた師匠の姿が思い出された。
「嫌じゃなかったの? あんなことされて、お客さんの前で掃除して」
師匠はようやく合点がいったようだった。
「ああ。うーん、正直あんまり気にしてないな」
「なんで!?」
この人は何かずれているんじゃないか。でなければパートタイマーを二十年続けるうちに、どこか鈍くなって、人として大切な感覚を失ってしまったのではないか。母親はそう思わざるを得なかった。
師匠はそのゆっくり、ゆっくりしたペースで考えながら答えた。
「だって、確かに会計時にミスはあったわけで、それはこちらが悪い。でもあんなことまでされるいわれは全然無い。俺たちは何も恥かしいことはしていない。だから落ち込むことはない。それにきっとあのお客は何か別のところで不満が、ストレスが溜まっていて、被害妄想的にうちの店に当たってきたんだろう。そう考えると、あのお客さんだって辛い思いをしてきていたんだと思うよ」
「……全然気にしてないの?」
「そりゃあ気分がいいもんじゃない。でもミスはどうしたってある。そして理不尽な人っていうのもどうしてもいる。俺が悪いわけじゃない。俺は誰にも恥かしい仕事はしていない。毎日ベストを尽くして焼き鳥を作って提供している。そう思っているから、だから気にしない」
「……」
母親は黙り込んでしまった。そうして、師匠のさっきの哀れな姿を見せつけられたことと、由希姉に振り回されたことから起きたささくれだった感情が、氷が解けるようにすっと胸のうちから消えていくのを感じた。
「直己さん少し時間ある? コーヒーでも飲まない?」
彼女は気分を思い切り変えてそう言ってみた。すると師匠はどういうわけか少しへどもどして、
「もち、もちろん」
とどもりながら返答した。私買ってくるね。母親は相手に有無を言わさずそう告げると勢い良く席を立った。




